9.審判の一族とゴンドラ
耳元で荒れる葉音にミチミチと枝の軋む音が重なり、どこからかホルンのような柔らかな音がふぉんと混ざった。
足を滑らせてからのほんの数拍が、サチカには数十秒にも感じられ、ぎゅっと目をつぶって大事なものを胸に抱える。
(せめて、なー君は守りたい……!)
地上十メートルから落下する速度は、物理の授業で習ったことがあるような気がするけど、公式は一切思い浮かばなかった。
命の危機に、そういえば走馬灯って都市伝説なのか、それとも本質が鈍いとそういうのも遅れてやって来るのかもしれないとまで考えて、サチカは顔を上げる。
さすがに時間がかかりすぎではないだろうか。
「……あれ、痛くない?」
というか、地面に激突した衝撃もない。
それもそのはず、気付けばサチカは、白い枝葉で作られた椅子に膝を抱えて座り込んでいた。
外にはみ出ていた左足を椅子の上に引き込むと、小豆色のスニーカーが片方だけ脱げてしまっていた。椅子の中には転がっていないので、靴は地面に落としてしまったのだろう。
蔦のように絡み合った細い枝はサチカを丸く囲っていて、万が一にも落ちないように安全バーまで付いている。こんな時でもなければ、蜂蜜を垂らしたミルクティーを片手にゆっくり読書をしたくなるようなラタン風のボールチェアだった。
抱えた案内妖精と収穫籠が無事なことを確かめてほっと息を吐いてから、おそるおそる外に顔を出して見れば、高さは地上十メートルのまま、先程立っていた試練の平均台的な枝に、白い卵型のボールチェアが観覧車のゴンドラのようにぶら下がっている。
「さあ、神託の乙女よ。試練に挑むが良い」「!?」
慈愛に満ちた声がどこからか聴こえて、サチカはキョロキョロと辺りを見渡すが、白い枝と白い葉があるばかりで、妙齢の女性だろう声の主の姿は見当たらなかった。
「あの、あなたが助けてくれたんですか?」
空に向けた問い掛けに、ふぉふぉふぉんと音が答える。
「いいえ、妾は試練を課すもの」
先程より近くなった声に足元を見ると、卵型の椅子の縁、サチカの左足の傍に卵の実がひとつあった。
収穫の籠から転がり落ちたのかと思って拾い上げれば、丸い青い瞳と出会う。
「……卵さん」
手に持った卵と目が合うという人生初めての場面に、サチカは取り敢えずこんにちはと頭を下げた。
ふぉふぉふぉんとまた音が鳴る。
ホルンのような音はどうやらその卵から出ていて、さらによく観察すると、卵の全面はふかふかの起毛で覆われていた。柔らかな毛並みの向こうから、小動物のような高めの体温が伝わってくる。
「いいえ、妾は卵の木の眷属たるミミタマ族の長」
ちんまりとした卵型の生き物は、ふぉふぉふぉんと音を鳴らしながらサチカの手の上で身体を揺すった。
ミミタマ族は、一見すると熟し過ぎて白カビを纏った危険な卵のようだが、実態はそんな危険物ではなく、卵型の身体に小さな耳がついたふかふかの生き物だった。
柔らかな毛に隠れてしまっているが、小さな手足もある。
単色のビー玉みたいな目の色は個体によって異なり、毛色は白に黒、縞模様、ぶちや三毛、毛足の長さも短毛長毛、中毛などバリエーションに富んでいるらしい。
ミミタマ族の名前の由来たる耳は基本的に獣耳な範囲で様々で、ちなみにミミタマ族の族長はふかふかの毛に埋もれがちな小さなクマ耳をしていて、サチカはその可愛らしさにトキメキを隠せなかった。
後に地元情報に詳しいカフェオレ色の魔人から聞いたところによると、ミミタマ族はこの迷宮グランシャリオ第一層だけに生息する固有魔獣だという。
願いの魔法を蓄えた白い卵の実から生まれ、卵の木の上で集団で暮らしている個体がおよそ百匹程いて、その希少性は幻とされるS級。その中で更に進化を経た数個体は魔人と称される域にまで達していた。
魔人のミミタマ族は人型になることもできるが、卵の木の上で暮らすには魔獣姿の方が便利なのでそのままで過ごしていることが多いらしい。
彼らの役割は、願いの魔法の試練の審判役。
なので、落下するサチカに椅子を授けたのはこのミミタマ族の族長で間違いないが、それは試練への手助けではなく彼らにとっては試練の延長になるようだった。采配に偏りがある気もするが、審判役が言うのだから、きっとそれで問題ないのだろう。
「さあ、早よう。試練を超えて願うがよい」
ミミタマ族の族長は、ふるふると卵型の身体を揺すってふぉふぉふぉんと笑う。
このホルンにも似た柔らかな音は、ミミタマ族の族長の笑い声だった。
サチカは神妙に頷くと、白い枝の椅子から顔を出して平均台のような枝を見上げる。
(まずはあの枝に戻らないと……椅子を登る? 登れるかな?)
幸いなことに枝葉の重なりで作られた椅子の表面には編み目があって、ボルダリングのホールドのように掴んだり足をかけたりすることができそうだった。
そのためには両手を自由にすることが不可欠なので、まずは手のひらに温かふわふわの幸せを施しているミミタマ族の族長と収穫籠を下ろし、腕に抱えていた案内妖精も丁寧に椅子の上へ横たえる。
身体を椅子の縁に寄せると、加重の偏りでゆらんと振り子のように揺れたが、落下防止にちょうど良い位地に張られた安全バー的な枝にしがみついてやり過ごした。
「い、いきます……!」
「うむ、出発じゃ!」
サチカの意思を受け取り、ミミタマ族の族長がぴょんと跳ねる。
その拍子にまた椅子が揺れてしがみつくと、ゆらんゆらんと前後に揺れるのに合わせて椅子が進み出した。
「えっ……?」
椅子はゆらゆらと揺れながら、枝先に向かって進んでいる。
「あの、試練?」
「うむ、歩み、あの枝先に至るのが試練」
「わたし、一歩目で滑り落ちてますけど歩いたことになるのかな……あっ、足踏みします、いま、ここで!」
「ふぉ、ふぉふぉふぉん」
椅子の上でパタパタと足首を動かしてみるが、それは要らぬとミミタマ族の族長が笑う。
開始位置から一歩でも足を出せば、その後の方法は問わないらしい。
空を飛んでも、魔法で転移をしても、卵の木の椅子で移送されても、地面に足さえつかなければかまわないのが第一層の白い卵の木が課す試練だった。サチカは一度滑り落ちてはいるものの枝葉に受け止められているので、失格には至らない。ゆるゆるの采配な気もするが、審判役が言うのだから、きっとそれで問題ないのだろう。
そんな試練の道行きを支える椅子は、機械の駆動音の代わりに枝が擦れて軋む音を立てて進むゴンドラリフトのようだった。その速度は歩くよりもややゆっくりな程度で、ゆらりゆるりと進んでいる。
始めは枝が折れてしまうのではとハラハラしていたが、揺れはロッキングチェアに似て心地良く、優しい乳白色に染まった木漏れ日が白い葉を煌めかせる景色に見惚れるうちに観光客の気分にもなってきた。
「あ、花が咲いてる……可愛い!」
小さな花が枝先に丸く密生して咲く様子は、桜の花手毬のようだ。甘酸っぱい林檎の香りがあり、サチカは知らず微笑みを浮かべる。
自慢の住処に送られる賞賛の眼差しに気を良くしたのか、ミミタマ族の族長がふぉふぉんと笑い声をあげた。
「美しかろ。気に入ったのなら、花が咲く一枝を土産にするかえ?」
「ありがとうございます、でも、卵を収穫させて貰きたくて来てるのに、お花まで貰ったら欲張りすぎだと思うんです」
「求める卵も、女神への捧げる品というし、神託の乙女は無欲じゃの。しかし、迷宮の魔物は左に非らず」
「……神託て、クレープのことでしょうか?」
「うむ。創世の女神の御心までは計り知れぬが、そなたの持つ願いのカケラは願い魔法とともに暮らす妾たちに近しいゆえ」
神託の内容までは分からないが、魔法の系統似ているので気配がわかるという。しかし、異世界慣れしていないサチカが、それをすぐに飲み込むことは難しく、曖昧に肯くしかできなかった。こんな時のための案内妖精はサチカの手による魔力酔いで昏倒しているので、自業自得の四文字を噛み締める。
神託の乙女だなんて大仰な呼び名はどうしたら良いかわからないので名前を名乗りたいが、カフェラテ色の魔人が現れた時にそれを禁止されているのを考えると自粛するしかないのがもどかしかった。
(とりあえず、悪いことではなさそう……? 覚えておいて、あとでなー君に教えてもらおう)
サチカは頭の中でやることメモを整理しながらじっと試練の到達地を見据える。
ゴンドラな椅子は順調に進み、五メートル近い試練の枝も、残すところ僅かになってきた。
樹木としては当たり前のことだが、幹から遠くなる程枝は細く、サチカの足幅より狭くなっていて、実際に歩いていたらと思うと内心の冷や汗が止まらない。
カフェラテ色の魔人も含め皆から当たり前にできる簡単な試練と示されたが、その辺の認識も案内妖精と擦り合わせが必要だった。
ミミタマ族の族長が小さな手でついとスカートの裾を引く。
「時に神託の乙女よ、願い魔法の試練を終えたら、ひとつ妾の願いを叶えてくれぬかえ?」
ビー玉のような丸く青い目が、懇願を込めてサチカを見上げていた。
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