8.翅のある生き物とない生き物

 カフェラテ色の魔人は、大変に親切だった。

 そのおかげで、サチカは半泣きになっている。


「あわわ、わわ」


 ひしと卵の木の幹にしがみつき、震える膝に力を入れる。

 何の予備動作もなく予告もなく、地上十メートル程の高さまで一足飛びで彼女を運んだ魔人は、にこりと笑ってサチカから手を離した。


「それじゃ、頑張って」


 明るい激励を残して、魔人が姿を消す。

 どこに行ったのかと瞬いていると、肩の上の案内妖精が教えてくれた。


「向こうだ。ほら、地上」


 指し示された方向をうっかり見てしまって息を飲む。


 白い葉が眼下に広がる様は、雲海のよう。サワサワと揺れながら光を透かして風にそよげば、葉の重なりが陰影のグラデーションを広げる。

 文句なしに美しい。


 けれど、サチカはそれどころではなかった。


(た、高いーー!!)


 怖くてすぐに目を閉じてしまったが、葉の隙間から垣間見える視界の中、地上に降り立った魔人がだいぶ小さく見えた。

 同じく立てば見上げる程に長身の彼が、肩上の案内妖精よりもっと小さく見えたような気がする。

 震えるサチカがうっすらと目を開けて怖々と再確認すると、十メートル下の地上にいる魔人は視線に気付き朗らかに手を振ってきた。

 もちろんサチカの両手は木の幹を固く掴んでいるので、手を振り返すなんて命知らずなことはできない。


(わ、わたしって高所恐怖症だっけ?)


 速度には弱いが、高層ビルのエレベーターから外が見えても気になることはないので、その辺は鈍くできてると思っていたから、自分でも意外だった。けれどそれは、安全が確保されている環境だからこそだったのだろう。

 地上十メートルと言えば、建物で言えば三階くらい。その高さで、手すりなしの細い足場で堂々としていられる程の豪胆さと、即応できる運動能力は持っていないのだ。

 くらりとした目眩に慌てて目を閉じて、立派な幹にすがりへなへなとその場に腰を下ろす。


「サチカ」

 案内妖精が身軽な動作で手近な枝に止まり木を移すと、サチカに手を差し伸べた。

 小さな妖精は、白い木漏れ日を背にキラキラと輝いて見えた。

「なー君……!」

 天の助けとばかりに幹にすがる右手を引き剥がしてその小さな手を取ると、ナビィは無情にも美少年顔をしかめて首を振る。


「そうじゃない。籠が傾いてる。そのままだと中の卵がひっくり返って落ちるから、持っててやる」


 言われて見下ろせば持ち手を腕に掛けた女神特製の収穫籠が斜めに傾きかけていた。

 その拍子にうっかり地上を見てしまって、ヒィと声なく息を飲む。


「うぅ、ありがとう……でもなー君、ここで反対の手も幹から離すと、卵じゃなくてわたしが落ちると思う」

「落ちても、護りの魔法が稼働する」

「……?」

「一定時間に発動する透明な盾を作ったって言っただろ。どんな事故や攻撃でも怪我がないようにしてある」

「おお。すごいね、なー君。準備万端」

「だから気にせず試練を受けて来い」

「え、でも痛くなくても落ちるのは落ちるし、怖いんじゃ?」

「そんな高さじゃないだろ?」

「え、高いよ!?」

「え」

「ええ」


 ナビィにとっては、地上十メートルは大した高さではないらしく、本気で不思議そうにしている。

 サチカは種族間のカルチャーショックに驚いた。


「なー君は翅があるけど、わたしは翅とかないよ?」

「なるほど。でも、真っ直ぐ歩くだけだし、落ちることもないだろ」

「え、無理だと思う」

「え」

「ええ」


 この辺は種族差ばかりではなく、同じ年頃の女の子の中でも一際に鈍いサチカの個体差が関わってきていた。

 ナビィはこのくらいの試練なら余裕だと判断した基準を大きく下方修正するが、もう木の上のスタートラインに立ってしまったのだから今更である。やるしかない。


「まずこの右手を離せ、ほら」

「ひぁあわわ、待って待って!」

「落ち着いて左手で支えろ。ゆっくり離すぞ」

「待って、手を離さないでー!」

「……っ! 待てサチカ、待つのはお前の方……魔力流すな、今日はもうむり……ッ」


 ぽんっ!


 右手の先で鳴った軽い破裂音に、サチカの顔が青ざめる。

 手の先の案内妖精は忙しく翅を瞬かせながらサチカの手の甲に身体を預けてきた。


「な、何の音!? 破裂したの? なー君、しっかり! なー君!!」


 もうほとんど泣き出しながら、サチカは案内妖精を両手の上に横たえて、くったりした彼の身体に外傷がないことを確かめた。

 白いシャツもパリッと綺麗なままで、煤けたところも焼け焦げたところもないので、さっきの破裂音は爆破的なものではなかったようだった。

 後から聞いたところによると、魔力酔の更に上を行く過剰供給で生じる魔力飽和的なものだったらしいが、この時のサチカにわかるはずもなく、被害者かつ説明係の案内妖精は前後不覚に陥っているので、場は混乱するしかない。


「……っ、なー君……」


 それでも、サチカの涙声に応えて、案内妖精が背の翅を震わせる。

 目元に影を落とす長い睫毛の隙間から、とろりと潤む金緑の瞳が覗いた。


「ぐす、なー君……生き、てる?」


 あえやかに目元を染めたナビィはサチカを見とめてこくりと頷くと、身体に燻る魔力を逃すように熱い息を吐いた。


「……生きてる、から」


 やや掠れた声を聞き漏らすまいとサチカが顔を寄せると、小さな手が彼女の耳朶をくいと引っ張る。

 触れた手の熱にびっくりしたが、下手に身動きして小さな案内妖精を振り落としてしまっては大惨事なので息を飲むだけでぐっと堪えた。


「だから、泣くな」

「……うん」


 サチカの返事に満足し、ナビィは少し寝ると言い残して目を閉じる。小さな額をサチカの手のひらに伏せてくたりと横たわり、そのまま深い休眠に入った。

 熱に浮かされ喘ぐようだった息が落ち着いて、規則正しい緩やかな吐息に変わる。

 しゃくり上げるように喉を鳴らして、サチカが安堵の息を吐く。その拍子に頬から滑り落ちた涙が、ぽつりと一粒白い枝に染み込んだ。


 けれど、ここで一息ついてる場合ではない。


 泣くなと言われたからじゃなく、泣いてるだけじゃだめだと唇を噛んで、涙の跡を拭う。

 何だかよくわからないけど、サチカによる自爆的な要素で唯一の味方を損なったことは理解できた。しかも、この事故はキッチンカー の中で起きたばかりの二回目だ。

 これは飲食店ならば異物混入くらいの由々しき事故で、頻度の高さを鑑みて保健所から指導を受けて謝罪会見だ。しっかりと原因を究明して、再発防止に努めなければならない。


(なー君が目覚めたら、なんでこうなるのか教えてもらって、ごめんなさいって言わなくちゃ。それから……クレープを作ろう)


 サチカが一人前にできるのはクレープ作りくらいだ。美味しいクレープなら必ずできるから、それをナビィにも食べて貰いたい。

 ごめんなさいとありがとうと、これからもよろしくのクレープだ。

 そのために、今やるべきことがあった。

 サチカは小さな案内妖精を片腕に抱くと、震える足を叱咤し、勇気を振り絞って腰を上げる。



「なー君、わたし頑張るよ」



 卵の試練を乗り越える。

 そして、クレープ生地を手に入れる。


 白い葉がさわさわと音を立てて風に波打っていた。

 巨樹にまで育った真白い卵の木はしっかりと迷宮に根差し、小さな風には揺らぎもしない。そんな事に今になって気がついた。


 少し傾斜をつけて緩やかに空を目指す枝の長さは、五メートルと少し。

 枝の先に、白い卵の実が成っていて、あれを手にすれば合格。途中で落ちれば不合格と言う、単純な試練だ。

 足場となる枝は、サチカの肩幅よりは狭いが、両足を揃えて真っ直ぐ立てるくらいはある。


(大丈夫。平均台よりは、広いもの)


 器械体操で使う平均台よりは遥かに高い場所だし、そもそも高さ百二十センチ程の平均台だって、トロイノロイのサチカには難所だった。授業で合格を貰ったことはない。


 けれど、今は自分を信じて力を発揮する時。


 右腕の案内妖精、左腕に掛けた収穫籠をしっかりと抱え直す。

 顔を上げ、きりりと決意の目で前を見据えた。

 もう足元は見ない。

 目の前だけ、目的地だけをしっかり見て、慎重に一歩を踏み出して、



「ふぎやわあっ!?」



 ずるりと滑って落っこちたのだった。

 ばさばさと葉擦れの音が耳元で巻き起こった。

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