5.卵の木と収穫の籠

 サチカを映す金緑の瞳はとろりと緩んでいて、ナビィのキリリとした普段の雰囲気とは異なり、未だ魔力酔いから醒めてない危うさを孕んだ色合いだった。

 緩慢な動作で節目がちに眉を寄せる案内妖精の表情は、転がり打った後頭部の衝撃によるものだったとしても目を逸らしたくなるほど色めいていて、サチカは狭い座席の半分に身を縮こまらせて息を詰める。


 ナビィが眠っていた僅かな時間で、動かないよう指示されていた体勢は大分変わっていた。

 下敷きで潰れていたサチカの上半身は自由を取り戻し、腰を捻って横向きになっている。両足はナビィの長い足に阻まれてまだ動かないが、座面に付いた左腕で身体を浮かせ、具合の悪そうな案内妖精に指一本分でも場所を譲ろうと距離を置いていた。

 ナビィの方も座席のリクライニングで姿勢が崩れ、サチカと向き合うように横になっている。


「……」

「……」


 ふたり、目を合わせたまま。

 音も振動もなく快適に走るキッチンカーの車内に、緊迫の時が落ちた。



(どうしよう……死んだふりをしてやり過ごすか、突き飛ばして記憶喪失を狙うか……どうしよう!?)



 叱られ噛まれる前に取れる行動は二択。二択しかないが、こんな時に豊富な選択肢を思い付くくらいなら、十八歳になるまで鈍いと言われ続けていない。むしろ咄嗟に二つも捻り出しただけ、サチカにしては素早い方である。

 けれど、考えを行動に移すまでにタイムラグがあるのがサチカなので、動いたのはナビィの方が早かった。


「……俺の言ったこと、忘れたな?」

「ふわ、ぁぅぷ」


 ナビィの腕が伸びて、サチカの背中に回る。ぐいと引かれて上半身の隙間がゼロになるのと、太腿の上に乗っていた重石から解放されたのは同時だった。

 身体をずらして、サチカを避けるように座席の隙間に移動したナビィが、良い位置に寄せた焦げ茶色の頭に唇を落とそうとして。


「……!」


 そんなタイミングで顔を上げたサチカが、齧られる予感にぎゅうと目を閉じる。

 ふ、と笑った気配の後、身体を強張らせて怯えるサチカの額に温もりが触れた。


 それは真綿のように柔らかで、ふわりと優しいものだった。

 温かさが額から指先へじんわりと広がっていく。


 サチカが瞬き見上げると、ナビィはもう一度しっかりサチカを腕の中に引き寄せた。

 甘いジャスミンと爽やかな柑橘系の香りに包まれる。

 頬に触れる温もりは、ナビィの胸だった。


「護りの高位魔法を移したから、これで少しはマシになるとーーあぁ、溶けたな」


 耳元で聞こえていた声が、ふいに遠くなる。

 溶けた、と評した時には、身体を包む香りと頬に当たる熱がなくなった。

 広くなった背もたれを、小さな案内妖精が滑り落ちる。


 ぽふり、と座面にたどり着いたナビィが目隠しするように手のひらを顔に当てて背もたれに沈み込む。

 体長四十センチの元の姿に戻った案内妖精を見下ろして、サチカはほっと胸を撫で下ろした。


 大きな案内妖精は、何というか、とても心臓に悪い。

 思い出すと胸がそわそわして頬が熱くなるようで、サチカは頭を振って、脳裏に残るとろりとした金緑の瞳に蓋をした。


「なー君、大きさ変わっても服はそのままなんだ……」

「……魔法掛けてあるからな」

「そっか、魔法……すごい便利だねえ。さっき言ってた護りの何とかっていうのも、すごいやつなの?」


 尋ねると、ナビィは手のひらをずらしてサチカの顔を見上げた。

 その瞳に魔力酔いをする前と同じ強い意志の光が宿っているのを見て、サチカはほっと息を吐く。

 この案内妖精がサチカの命綱だし、何よりも親切な妖精の体調不良が心配事だったのだ。

 苦しい思いをするのなら助けてあげたいけれど、魔力譲渡とかいう謎の仕組みで背中をさする手当てが禁じられていて、サチカにできるとこは本当に少ない。


「過剰になった魔力と俺の力を合わせて、しばらくは自動で結界を張るようにしてある。おかげで外殻に出ていた進化形態は解除されたが、その反動で魔力がほぼ空になっている。新しく魔法を使うことはできないが、その護りの効果が切れる前には回復する想定だから……」

「う、うん……」

「……盾、はわかるか?」

「うん!」

「透明な盾をお前の周囲に作ったから、安全に卵を採れる」

「そっか、すごいね。なー君ありがとう!」


 にこにこと笑って素直な称賛を向けるサチカに、ナビィは息を吐いて、そのまま小さく笑った。


「でも油断は禁物な。それからその気の抜ける呼び方も禁止」

「あっ」

「気付いてなかったのか……」

「うん、なー君は心の中で呼ぶつもりだったの。ごめんね?」

「いや、心の中で呼んでたら、お前は口に出るだろ」

「うん、そうかも。なー君すごいねぇ」

「だからな?」

「あっ」


 話をしているうちに、目的地に近づいたらしい。

 ナビィに言われて座席のリクライニングを起こすと、フロントガラス越しにはお伽話のような可愛らしい森の道が広がっていた。

 新緑の葉を茂らせた白樺に似た木立を繋ぐように垂れ下がる青い蔦が華やかで、足元を覆うこんもりとした下草には小さな白い花が咲いている。

 チリリ、と鳴き声に目をやれば、木の幹の巣穴から、リスのようなふかふかの尻尾が垣間見えた。

 緩やかに曲がる道幅はちょうどキッチンカーと同じくらいで、苔むし欠けて不揃いになった灰色の石畳が敷かれている。


「もうすぐ、白い大きな木が見えるぜ」


 魔力が枯渇して飛べない案内妖精は、サチカの肩に座って前方を指し示す。

 今度は道があるためか、周囲の木を避けさせることなく走るキッチンカーは、石畳の上を揺れもせず滑るように進み、その大きな木の前でピタリと停車した。



「ふわぁ……白い!」



 正面には、サチカが両手を広げても間に合わないくらいの白い木肌の幹に、透き通るような白い葉を広げる大木があった。

 木漏れ日も乳白色に染まるようで、木の周りは淡く粉砂糖を振るったような色合いになっている。


 白い木と言われ、先程の白樺に似た木を思い浮かべていたサチカは、まさか葉っぱまでもが同じ色だとは思わず、目を丸くして驚いていた。


「なー君、外に出ても良い?」

「だから、呼び方……。外に出るなら、採取用の籠を持って行けよ」

「うん、っと、これかな?」


 座席と調理スペースの間にある荷物置きから、薄い桃色をした編み籠を取り出す。

 ピクニックに持って行くようなバスケットは、持ち手に緑の蔦が絡まり、裾に小さな蕾をつけていた。

 案内妖精の説明によると、この採取用の籠は創世の女神仕様の逸品で、一定数を採取した後には、その収穫物を無限に手に入れることができると言う。

 便利過ぎる機能だが、色々な不思議に遭遇し過ぎていて、ちょっと飽和状態だ。


「……すごい、ね?」

「まぁな、世に出れば争いの種になるだろうな」

「うええ、やっぱりそんな貴重なもの!」

「そう。だから、その籠に俺を入れようとするなよ? 俺は収穫物じゃないからな」


 可愛らしい籠に美少年な妖精を合わせたらさぞや素敵だろうと思って、籠とナビィを見比べていたのがばれていたらしく、冷静な口調で釘を刺されてしまう。


「言っとくけど、案内妖精は増えないから試すなよ」

「……うん。あの、なー君、テレパシーとか、心の声が聞こえたりする?」

「呼び方。それはないけど、お前は顔に出過ぎるからな、当たってただろ?」

「うん、ナビィ君」

「余計なこと考えてると、足元が疎かになって転ぶぞ」

「うん、なー君すごいね、わたしがよく転ぶっていうのも知って……っわわあ!」

「……ッ、気を付けろって!」


 わさわさしつつも、ひとまずは目的の卵を手に入れようと、ふたりはキッチンカーを降りて卵の木に歩み寄った。

 白くけぶるような木漏れ日の下で、重く垂れ下がった枝に、白磁の卵が鈴なりに実っている。

 卵なのに実っているというのは頭が混乱しそうだが、クレープのためには卵が不可欠なので、とにかく収穫することにした。


「えぇと、それでは収穫します!」

「落とすなよ」


 手の届く範囲の卵は十個ほど。

 サチカが手を添えるだけでふつりと枝から離れて手のひらに落ちてくる。

 どこからか林檎のような甘酸っぱい香りがするので、見えない場所に花が咲いているのかもしれなかった。

 少しだけひんやりした表面は艶があり、サチカがよく知る卵というよりも、乳白色に染めた硝子の器に見えた。

 落とさないようにそっと大事に籠へ納めれば、ちょうど十個目で持ち手に巻き付いた蔦の蕾がリンと鳴って花開いた。


「わぁ、なー君お花が咲いたよ!?」

「呼び方。卵の収穫が充足したって合図か……? いや、それにしては」


 目の高さに持ち上げた籠に咲いたのは一重咲きの薔薇の花で、瑞々しい淡い菫色の花弁の一枚がふやけたように皺になっている。

 本来ならば五枚の花弁がぱりっと開くのだと聞いて、収穫のやり方が悪かったのかなとナビィと一緒に首を傾げた時だった。



「ひとつ、違うものが混じっているからじゃないかなー?」



 それは知らない声だったが、耳心地の良い低い音で、サチカはすんなりと言葉を受け入れていた。


(どれかひとつ、卵じゃなかったってこと? みんな同じに見えるけど、どれだろう。…………ていうか、誰?)


 まるで気配を感じさせずにそこにいたのは、とても背の高いカフェオレ色をした男性だった。

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