23

「戻ってこい、きららぁぁぁッ!」


 叫んだ瞬間、反応を示したきららが奇声をあげた。

 口から直接吐き出される、きらめく細糸が寄り集まり、一本の槍になって瀬名を襲った。

 左肩を貫かれる。

 だが、もう、振りおろした太刀は止まらない。

 瀬名の気合いを受けて、刀身を青い炎のような清水で包んだ吠丸がきらめく。


 迷いはしない。

 この身が朽ちるまで、この国を護ると決めた。

 あの遠い日から。


 もう、何度も繰り返した逡巡を。

 いまさら、ここで感じたところで。


 なにも知らない、二人の子供として、過ごした日々が互いの願いだったのなら。


 いま一瞬に、迷いはしない。



「ああああぁぁぁぁぁっ!」

 


 空を切り、風を鳴らし、異形の土蜘蛛と化したきららを、袈裟掛けに斬りさいた。


「ぎゅわ、ぎゅぃわっっーー!」


 着地と同時に横転して、瀬名は断末魔の叫びを避けた。

 体液をまき散らして、きららがもがき苦しむ。


「瀬名!」


 綱が駆け寄ってくる。

 土の上に転がったまま、瀬名はまばたきさえも忘れた。


「だいじょうぶか!」


 燃えるように熱い左肩を、綱の大きな手が押さえ込んだ。


「なんてことない」


「そんなわけないだろ! 避けるとかしろよ!」


 怒鳴りつけられても、瀬名はきららから目を離せなかった。

 身体を割くときの鈍い手応えは確かにあった。傷口からは人のものではない体液が流れ出し、耳を覆いたくなる声を聞いた。


「きららは!」


 止血しようとする綱を振り払い、立ち上がろうとした瀬名はその場に膝をつく。

 腰が立たない。

 そして、両手で握りしめた柄が離れない。


「あぁっ!」


 言葉にはならなかった。

 吠丸から手を離そうと振り回すごとに、肩の傷からあふれ出る鮮血が腕を伝い落ちてくる。

 視界の端で、さっきまでもがき苦しんでいたきららが力尽きていく。

 もがく気力もなくし、気味の悪いうめきがのどで音になるだけだ。


「綱! 綱! 綱ぁ!」


 取り乱して叫んだ。


「取れないんだ! 取れない! 綱、綱。きららが、きららが!」


「落ち着け、落ち着けよ!」


 右肩を強い力で引かれた。

 振り返りざまに、大きな手のひらに頬を打たれる。吹っ飛ばなかったのは、もう片方の手が身体を支えたからだ。


「もう、無理だ。わかってるだろ」


 綱の指が、吠丸を握ったまま固まった指に触れる。

 冷たい指だ。

 紅の炎をまとう、あの剣を振るっていたとは思えない。


「あれは死んだ。土蜘蛛は死んだ。宿体は保たない」


「うそだ」


 まっすぐに、綱の瞳を見つめ返す。

 眼球に映る瀬名は泣き顔だ。

 剣を振りおろしたときにはもう、視界は歪んでいたのかもしれない。


「瀬名っ!」


 吠丸から手が離れた瞬間に、瀬名はもつれる足で走った。

 引き留めようとした綱の指が、肩に触れて離れていく。

 きららは、割かれた傷口から溢れ出る濁った緑色の体液の中に、なかば顔をつけるようにして倒れていた。

 間近まで近づいて、瀬名は崩れ落ちた。

 びくっ、びくっと、ときどき跳ねる身体が、死期の近さを暗示している。

 もう、なにの攻撃もできはしないだろう。


「きらら、きらら?」


 呼びかけの虚しさはわかっていた。

 それでも、呼ばずにはいられない。

 手を差し伸ばした。

 蜘蛛の紋章が浮かぶ頬に触れると、かつての愛らしい姿が脳裏によみがえる。

 太陽の光の中でまぶしいぐらいに甘い笑顔を浮かべていた。

 少しいたずらっぽく、とても楽しげに。


「目を、開けてくれよ。元に戻ったと、言ってくれよ!」


 顔を背けると、涙が溢れた。

 しずくが、きららの身体に落ちる。

 音もなく、肌が溶けた。

 もう一滴。

 また、肌が溶ける。

 緑の体液が流れ出し、きららの身体が跳ねる。


「瀬名、よせ。痛みを長引かせるだけだ」


 腕を掴んでくる綱を振り返りにらみつけて、


「嫌だ」 


 首を振った瀬名は、身体の動くままに手のひらから水を生み出す。

 涙と同じ。いまのきららにとっては、相入れることのない、清らかな水。


「瀬名!」


「魂を天に返す。理性を失っても、一度は心を通わせたんだ。できるはずだ」


 振り返った。

 涙が溢れて、瀬名には綱の姿が輪郭としか見えない。


「わかった」


 ため息が聞こえてくる。

 大きく肩を落としたのだろう。


「それでおまえが納得するなら、手伝うよ」

 

 しかたがないと言いたげな声にうなずいて、瀬名はこぶしで涙を拭った。

 その手で触れるだけで、きららは小さくくぐもった悲鳴をあげる。

 瀬名は顔を歪ませながら、水を滴らせた手を、きららの傷口の奥へと差し込んだ。

 痙攣を繰り返す体を押さえつける。

 その場所からも、きららは溶けていく。

 ゆっくりと、でも、確実に。

 存在さえしなかったかのように、きららの、変わり果てた土蜘蛛のからだが失われていく。

 貞光の浄化の水に溶けきった土蜘蛛の体液溜まりに、瀬名は胸ポケットから取り出した勾玉をひとつ落とした。

 水晶の透き通った美しい石はまるで細胞の核のようだ。

 瀬名の隣にひざまついた綱が、指先に灯した炎を揺らめかせながら近づけると、体液溜まりはオイルのように発火した。

 赤く、青く、黒く。

 熱さのない炎があがる。

 二人はそれを黙って見つめた。

 燃えきるまでの短い時間だった。

 綱が、息を飲んだ。

 はっと、短い息づかいが聞こえ、目の前の光景が自分の願望が見せる夢でないことに、瀬名は息を吐く。

 燃えつきた体液の後に残されたのは、白い肌の一人の少女だ。

 肩から胸にかけて、袈裟掛けのケロイドを持つ裸体は、そのほかには傷ひとつない。

 眠るような頬は青白いが、まがまがしい模様はひとつも残っていない。

 色を失ったくちびるがわずかに開いている。その隙間から、小さな蛇が二匹這い出した。

 よくよく見ると、体には手足があり、背中には一筋にたてがみがはえ、頭にはツノ、そして細い髭が二本。

 青白く輝く水龍と、赤い光を放つ火龍だ。

 二人は顔を見合わせた。

 ゆらりと、一人の少女の幻体が現れる。

 横たわる裸体と同じ顔をしているが、肩に傷はない。

 二匹の龍に護られるように、ゆっくりと浮き上がった。


「きらら。忘れるな。それがおまえの名前だ。おれがつけた、名前だ。必ず戻ってこい。ずっと待ってるから」


 話すことはできないのだろう。

 瀬名の言葉にうなずき、にこりと子供のような無垢な笑顔を浮かべたきららは、やがて水龍と火龍に連れられるように空へと消えていった。


「おまえ、方法を知ってたのか」


 力尽きたように、両手を地面についた綱が、肩をふるわせる。


「晴明は知ってた。なにもかも」


 きららの消えた空を見上げながら、瀬名は微笑んだ。


「賭けだったんだ」


 あの二匹の龍が、彼女を京都の屋敷まで連れていくだろう。晴明の力で癒されたら、また会える。きっと。


「おつかれさまでした」


 穏やかな声と共に、柔らかな布地が広がり、きららの裸体を隠す。かずらだった。


「お怪我をなさったんですね」


「たいしたことないよ」


「血が出てるじゃありませんか。たいしたことです」


「かずら、おまえ、本当にこれでいいのか」


 綱が脱力したまま顔をあげた。


「なにがです?」


 不審げな表情をしたかずらは、かいがいしく瀬名の服を脱がせながら息をついた。


「もうじき、車が到着します。すぐに病院へ参りましょう。ご両親もお連れしなくては」


「あぁ、そうだ。いつまでも吊っておくわけにもいかないよな」


 軽いフットワークで立ち上がった綱は、思い出したようにもう一度しゃがみこんで、布地でからだを覆われたきららの顔をのぞき込んだ。


「半世紀かけた恋、か」


 つぶやく声に、


「慕う心は、年月で計るものじゃありません」


 かずらが答えた。


「それなら、負けてないよな」


「綱さま。お働きください」


「多くを望まないか。俺なら惚れてるけどなぁ。朴念仁相手じゃな」


「ねぇ、なにの話?」 


 自分の肩の傷が、意外にひどかったことを自覚して、今更ながら感じはじめた痛みに顔をゆがめながら、口を挟んだ瀬名に、


「綱さまお得意のよた話ですわ。瀬名さまのことではありませんから、お気になさらず。痛みますか?」


「あぁ、うん。意外に」


「痛いに決まってんだろ、突き抜けてんぞ」


「え、ほんとに!?」


 瀬名の顔から血の気が下がる。


「綱さま! 大丈夫ですわ、瀬名さま。すぐに血も止まりますから」


「あ。出てんだ・・・・・・」


 ふっと身体が揺れて、気が遠くなる。


「おぃ! いまさら落ちんな! さっきから出てるだろうがよ」


 焦る綱の声で、意識がなくなった。


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