20

 縁側に据えられた籐で編んだ椅子に、包まれるように深く身体を預けた頼光が、けだるげに髪をかきあげた。


「まさか姫神に預けていたとはな」


 あきれた口調で見上げられて、脇に控えていた瀬名はただただかしこまって頭を下げた。

 頼光の清潔な白装束。

 同じものを身につけているが、二人の間に目には見えない違いがあることを、瀬名はもう思い出していた。

 背負うものの重さだ。

 記憶を抱えながら転生する自分たちとは違って、頼光は常に一定の外見を維持し、人々に紛れてこの国の流れを見続けている。

 瀬名は息苦しさを覚えて、傷ひとつない肌の青白さから目をそらした。

 手に握った短刀に視線を落とす。

 青い石がひとつ付いている細やかな意匠の鞘に収まったそれは、つい今しがた、頼光の体内から抜き出した霊刀だ。

 携帯時には短刀の鞘に納め、臨戦状態では引き抜いて大太刀に変化させる。

 持てば力がみなぎるが、強力さゆえに長く持ち続けることも難しい。霊気が障気に変わってしまうからだ。

 反対に、頼光は霊具を引き抜かれると、体力の消耗が著しくなる。

 三振りの大太刀と一本の小刀、そして一対の弓を体内に持つ頼光は、彼自身が強大な霊力の集まりであり、武具の養い手だ。

 必要な時に取り出し、振り回せばいい瀬名たちとは違う。

 頼光は一度も口にしたことがないが、霊具を取り出させることも、取り込むことも、激しい苦痛を伴う。


「今回は晴明もさすがに手こずったみたいだな」


「隠し通せるとは思っていませんでした」


「おまえの気持ちはわからないではない。誰もがそう思っている」


 頼光は白い頬を手で支え、けだるげな声で庭へと目を向ける。


「誰もがこの世の地獄を見たと言った。私たちも同じだ。おまえを探しに行った先で見た惨状を忘れはしないだろう。この国が終わると、季武でさえ絶望したぐらいだ」


 瀬名の知らない話だった。


「すべてを忘れたいと思ったのではありません。ただ、耐えきれなかった」


 瀬名は、庭を眺める主人の肩先から、まだ日暮れには早い林の木々へと視線を移した。

 簡単に言ってしまえば逃げたのだ。

 その頃、霊力の鍛錬のために懇意にしていた宮島の姫神の手引きで、竹生島の姫神を頼って行った。宮島、竹生島、そして江の島の水を司る三姉妹のうち、淡水であり、なおかつ人々から古い信仰をひっそりと集め、水の底の御殿に身を隠していたのが竹生島の姫神だった。

 魂を素体としてのコンとハクに分解してもらい、コンは彼女の湖底の御殿に預け、そしてハクはかずらが持ち帰った。

 そのとき、瀬名は、いや、貞光は死んだのだ。もう何度目かの死だった。

 肉体を失えば、転生して成長するまで時間がかかる。だが、もう仕方がなかった。


「おまえの遺体は、かずらが荼毘にふした」


 頼光は懐かしげに声を和らげた。


「傷はなかったと聞いている」


「地下にいたんです。爆心地にいて助かったのは、私たちぐらいでしょう。その後、救助活動に当たっている間に体調を崩しました」


「あれがなんだったか、知っているか」


「少しだけは」


 あれがなんだったのか、その後どうなったのか。知っていることは、瀬名が学校で学んだ分だけの知識だ。


「国が滅びる疫病の発生だと思いました」


 瀬名は息を短く吐いて笑った。

 あのときは混乱していた。

 真昼が一瞬にして夜になり、町は一瞬にしてガレキの山に変わり、幾たびも経験した戦の中でもっとも陰惨な人の死に方を見た。

 おそらく、もう発狂していたのだ。 

 死んでいる人々の方が幸福だと思えるほどに、生きている人々の姿は衝撃だった。


「もっとひどいものを、今までにも見てきたはずなのに」


「忘れていくのさ」


「そうでありたいと思ったんです」


 何か大きな事件の後の転生で、記憶が欠落することはこれまでも何度もあったし、それを取り戻すことは普通の行為だった。


「身体は蝕まれていたし、どっちみち、あの時には役に立たなかったでしょう」


「そうだな」


「あれから五〇年以上経っているんですね」


「百年も近い」


「あの後のことは、かずらから聞きました」


「綱はずっと怒っていたよ」


「いつものことでしょう」


 激情のままに振る舞うのが、親友の長所だ。 


「おまえを失ったあとで、季武も体調を崩して。結局は三人で土蜘蛛を討った。散々だったよ」


「聞きました」


 すべて。

 公時は戦いで命を落とし、綱も保昌も瀕死の重傷で晴明の屋敷にかつぎ込まれ、道長は絞首刑で命を終えた。

 瀬名は大きく息を吸い込んだ。

 手にした短刀を強く握りしめる。

 記憶を取り戻した瞬間の苦痛。

 その後、何度か見た悪夢。

 今の自分として受け入れることができたのは、思い出すすべてが人づてに聞いたことのように現実感がないからだ。それはあまりにも遠い記憶で、瀬名の中では数日前に見た悲惨な映画ぐらいの意識でしかない。

 それが、記憶を隠しておく意味だったのだろう。どこかにかけらを埋めたまま、成長するには、あまりにせつない記憶だから。


「あれは土蜘蛛よりもひどいと、道長さまもおっしゃった。戦況の不利は誰もが理解していた。中央の誰もがだろう」


「海の向こうでは、土蜘蛛は悪魔と呼ばれるんだろうな」


「異端の者、ですか」


「そうだ。そいつらが、あの人に、あんな屈辱を与えた」 


 瀬名たちが集うたびに、先陣を切って内政に関わる職に付き、いろいろな便宜を図るのが道長だった。

 瀬名はこれまでも長く、道長の配下についた頼光に仕えてきた。

 その頼光が、従うべき相手として道長に寄せている信頼と畏敬を瀬名は知っている。

 だから、かずらは道長の最後を語ろうとしなかった。公時や綱や季武のことをどれほど詳しく話してもだ。

 業を煮やして、説明を晴明に求めると、彼はこともなく答えた。


「おまえのせいじゃないよ」


 頼光が立ち上がった。

 ぐらりと揺れるからだに、あわてて手を差し伸べる。


「まだ休んでいないと」


「池の鯉を見ないか。大きな錦鯉だ。水を良くしてくれ」


 どこからか現れ、手を貸そうとする小夜鳥を指先で押しとどめ、


「いいよ。瀬名に手を借りる」


 瀬名の腕に掴まりながら、草履を履いて庭へと出た。


「おまえのことだ。気に病むだろうと思っていた」


 返す言葉が見つからない。


「過ぎたことを悔やむな」


 瀬名に寄りかかりながら池のそばに立った頼光は、独特の拍子で手を打った。

 ほどなくして、白いからだに美しい赤の文様の入った大きな鯉が泳ぎ出た。

 池の水は澄んではいないが、濁るほどに汚れているわけでもない。底は見えないが、どこにでもある庭園の家だ。


「今までだって大きな失敗がなかったわけじゃない。おまえだけではない。道長様にもそれはあった。だからこそ、あの時、刑に服すると決断されたんだ」


「もしも」


「もしもは好まない。そんなものは存在しないだろう」


「ですが」


「瀬名」


 頼光の指に力がこもった。

 いつの時も変わらない、性別を越えた美しさを持つ主の鋭い眼差しが、瀬名の、貞光の、心の奥底を見つめてくる。


「それならば、私は、あの時、おまえを行かせた自分の決断を詰るだろう」


 本気の言葉だった。

 けだるげな口調が一瞬だけ身を潜め、すぐに元へと戻る。


「もう口にするな」


「はい」


 瀬名は頭を下げ、小夜鳥に頼光の身体を預けて池のそばにしゃがんだ。

 人の成長は遅い。

 忘れて生きるからだろうか。

 もう何回も人生をやり直し、気が遠くなるような時を生きているのに、同じことを何度も繰り返す。後悔して、振り切って、そしてまた別の何かで後悔する。

 池の水に、そっと指先を浸す。もう片方の手で、着物のたもとを掴んだ。

 じわりと痛みに似た痺れが走り、やがて引いていく。

 風に揺らぐように水面が動き、水はあっという間に湧き水のように澄み渡る。

 瀬名は立ち上がって、水の澄んだ池を見渡した。さっきまでは水の淀みに隠れていた他の鯉たちが今は数えられるほどはっきりと見えた。  


「見事だな」


 頼光が満足げに首を振る。


「合流するたびに池掃除をやらされているような気がしますが」 


「そういうことも忘れることだ」


 ふっと笑って受け流された。

 瀬名は肩をすくめて、困った振りをしたが、本心は胸をなで下ろしたくなるような安堵感でいっぱいだった。

 瀬名が指先で水を浄化するように、頼光はけだるげなその声と言葉で、瀬名の心の中の澱を取り除く。

 何かにつまずく度に、一番多くの許しをくれたのは、きっと他の誰でもない、この人だっただろう。

 忘れてしまったことも、たくさんあるけれど。

 小夜鳥が縁側を指さし、瀬名を呼びに公時が来たことを教えてくれる。


「それじゃあ、行ってきます」


 頼光はなにも言わず、手だけをおっくうそうにあげて応えた。

 ぺこりと頭を下げてきびすを返した瀬名は、数歩して呼び止められ、上半身だけで振り向いた。


「あの土蜘蛛は、あの時の子なんだろう?」


「きららです」


 そう答える。


「そう。きららだ」


 頼光が言った。

 瀬名は、ただ黙って聞いた。


「雲母坂で初めておまえが見つけた、はぐれ土蜘蛛」


「討てないと、思いますか」


 声が震える。


「おまえの大丈夫は信用ならないからな。いいさ。そのために綱がついていくんだ」


 こともなげに言う頼光の表情を、瀬名は凝視した。

 いつだって、初めての時は手が震えた。

 だけど。

 どんなに好きでも、決別しなければいけない朝はある。

 きらら。ずっと一緒に育ってきた、兄弟のような、家族のような、大事な幼なじみ。

 大事な、大事な。

 大事な、大事な。

 今日終わってしまう、俺の初恋。

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