【7】

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【7】


涼しい風が、通り抜けていく。

 ふわりと漂うのは、焚きしめられたお香のかおりだ。

 濡れ縁の欄干で、そばに置いた脇息にもたれた瀬名は、庭の砂利を踏む音に意識だけを向けた。

 ほうじ茶で炊いた利休粥を、木のさじで冷ましながら瀬名の口元に運んでいたかずらが察したように手を止める。


「俺にウソを言ったな。思い出せば元に戻れるなんて」


 宙に向かった言葉に、


「俺だって、おまえの正論で傷ついたんだ。お互い様だろ」 


 声が返ってくる。

 いつもの口調だ。投げつけるような無骨な言い方。

 それが懐かしい。


「喉がやられてるな」


「これでも良くなったんだよ」


 瀬名は自分の喉をさすった。

 記憶を取り戻す時の絶叫で痛めた喉は、半日かけて声を取り戻した。


「記憶、か」


 瀬名は脇息にもたれたまま息をついた。


「綱さまもお召しあがりになりますか?」


 かずらが微笑んだ。


「何? 利休粥か。もらうよ。漬物多めに持って来て」


「はい。承知しました」


 瀬名の粥を膳の上に戻し、濡れ縁の床に指を揃えたかずらは一礼してその場を離れた。

 綱は欄干に取り付けられた階段を登り、最上部に腰かけた。


「かなりキツかったらしいな。完全に切ってたのか」


「晴明が欠片を残す理由がわかったよ」


「無茶をするからだよ」


 綱が肩を揺すって笑う。


「で、どこにしまってたんだ」


「保昌さんに聞けばいい」


「言わないんだよな。竹生島ってことはわかってるんだけど。次は絶対におまえが行けって言われたよ。今回はよっぽどキツイ任務だったみたいだな」


「あの人じゃなきゃ無理だよ」


 瀬名の言い方が気に障るのか、むっとした表情で、


「どうせ、俺は実践向きですよ」 


 その場に寝っ転がった。


「そっちこそ、修業はどうだった」


「聞くな! 聞くな! 聞くな! あの腐れ天狗たち。人をなんだと思ってんだろうな。高尾のヤツらの爪を煎じて飲ませたいよ」


「高尾は属性が違うだろ」


「その属性が問題なんだよ。火は戦闘的なんて誰が決めたんだろうな」


「ものごとの本質は、生まれながらのもんや」


 瀬名ではない声が響いた。

 綱は上半身を起こし、瀬名は脇息から離れて庭を見た。

 足音ひとつ立てることなく、晴明がいつのまにか階段の下まで来ていた。


「あいかわらず、存在感がないな」


 綱がにやりと笑う。

 今日は長髪の美女の姿だ。

 枯葉色の柔らかな生地でできた着物は、細いからだの中で唯一張った腰のなだらかなラインを強調している。


「調子はどうや、瀬名」


「いいと思います。混乱もないですし」


 うまく融合したと言うべきなんだろうか。突然、多くのことを思い出して戸惑いはしたが、それがすべて自分の身の上に起こったことだと受け入れることはできた。


「正直、今までと違うみたいなんで、本当に戻ったというべきかどうか、よくわからないんですが」


 新しいお膳を手にしたかずらが戻ってくるのに気づいた瀬名は、ちらりとだけ向けた視線を晴明に戻した。

 かずらは少し離れた場所に座った。


「普通やったら、見えてるカケラのまわりを掘り出せばええだけや」


 晴明が言う。


「それを自分の中からすべて取り出したんやから、感覚が違うんは当然やろうな」


「それでも、いままでの記憶の戻り方も覚えてるだろ?」


 綱の言葉に、瀬名はうなずいた。


「覚えてるよ。ちゃんと」


「戻すときがキツいわけか」


「綱はやらん方がええな。まぁ、預かってくれる相手もおらんやろうけど」


「愛宕に頼めばいいよ」


「バッカ!」


 綱が吠える。


「あの天狗たちに渡したが最後。俺の記憶の隅々までいじくり回されるに決まってる!」


「ほんまに、綱はあっちと仲がええなぁ」 


 晴明がわざとらしく笑い、綱がますます気色ばむ。


「いいことあるか!」


 頼光四天王きっての武闘派で鳴らしてきただけに、記憶を取り戻してからの修業は貞光や卜部のそれとはあまりに違う。


「綱」


 微笑んだ晴明に呼ばれて、綱がおもしろくないと書いてあるような表情を向ける。


「貞光の水の性が落ち着いてへんの、わかるか。このままやと身体が疲れる一方やから、調整してやってくれるか」


「そう思って来たんだよ。この屋敷中、水っぽくて溺れ死にそう」

 綱が膝で這いながら、


「そうかな?」


 首を傾げる瀬名に近づいた。


「自分じゃ気づかないもんだ。やり方は覚えてるか」


「なんとなく」


「記憶を戻してから、使ってないんだよな」


 右手の指の一本一本をわきわきと動かして、綱は楽しそうににやりと笑った。


「愛宕帰りで俺も溜まってんだよ。ちょっと派手に発散させようぜ」


「派手にねぇ」


 瀬名はため息をつくように繰り返した。

 綱の性格はわかっている。この男は、こういうヤツだ。

 ずっと、前からそうだった。

 まっすぐで、情に厚くて、涙もろくて、口が悪くて、負けず嫌いで派手好きで、闘う時は一番に走り出す、向こう見ず。

 止めてやらなきゃ、ケガだらけで大変なことになる。

 向けられた綱の手のひらに、瀬名は自分の手のひらを近づけた。

 冷たい。湧水に手をひたしているみたいに、じんと痺れる。

 指先と指先、指と指、そしてお互いの手のひらと手のひらを軽く触れ合わせた。

 その瞬間、焼けるような熱さを感じて、瀬名は眉をひそめた。

 痛みはない。ただ、水の中に焼けた石を入れられたみたいで驚いただけだ。

 ゆっくりと引き離す手のひらの間に、細い無数の糸が伸びた。

 糸は光っている。

 眩しい赤と、静かな青。

 複雑に絡み合ったそれはやがて、手のひらの間で具現化して宙に昇りはじめる。

 ふたつの姿は、龍だ。

 炎をまとった火龍と輝く雫をまとった水龍。

 しっぽの先まで形を取ると、二人の手から伸びた糸も消えた。

 小さな二匹の龍は、しばらく二人の間で火の玉を吐き、水の玉を吹いていたが、やがてもつれあうように空へと舞い上がって消えた。


「小さいなぁ。今度はもっとでかいのやろうぜ」


 久しぶりに力を使う瀬名の負担を考えて手加減したのだろう綱が、火龍と水龍を見送りながら笑った。


「しばらくしたらね」


 瀬名は笑って答えながら、思い出していた。

 昔、人の一生から言えば、大昔。

 綱が一人で出した巨大な龍が、山をひと巻きしたせいで大火事を引き起こしたことがあった。卜部と頼光から盛大に叱られた綱は、それから一人で大きな火龍を出すことを禁じられているのだ。

 水龍が並走して飛べば、火龍が火事を起こすこともない。 


「落ち着いたみたいやな。あとはたくさん食べて、養生して。両親をはよう助けに行くことやな」


「無事でしょうか」


 勢いよく膝を立てたせいで、脇息が大きな音を立てて倒れた。

 忘れていたわけではない。

 きららの、ことも。


「むこうの目的は、おまえであって、両親やない」


 何もかも見透かした長いまつげの瞳を向けられて、瀬名はたじろいだ。

 もうわかっている。

 きららの正体が何で、それがどんなことを意味するのか。

 もう言い訳なんて、自分にさえ通じない。

 それでも心の中にある迷いを、晴明は感じ取っているようだ。

 けれど、彼の視線は責めるでも咎めるでもない。瀬名の感情を面白がって眺めているだけのそっけなさで肩を翻した。

 去っていくときも、足音ひとつ聞こえない。

 瀬名は自問を繰り返した。

 誰の無事を知りたいのだろう。

 自分が討たなければ、仲間が彼女を討つだろう。そうしなければ、また繰り返すことになる。

 あの地獄を、もう二度とこの国に広げたくはない。



 

 一足先に帰っていたひなぎくの代わりに、帰路の運転を任されたのはかずらだ。

 驚異の暴走ハイテクニックから一変、かずらの運転は上品でおだやかなものだった。

 後部座席に瀬名と並んで乗りこんだ綱は、ひなぎくが聞けば両頬をめいっぱい膨らまして拗ねそうな安堵のため息をついて、愛宕山の天狗の悪口をずっと話していた。

 瀬名の記憶がない間はずっと無口を決め込んでいたのに、話が通じるとわかると驚くほど饒舌だ。

 こういう男だったよなと思い出し、瀬名はバックミラー越しに目が合ったかずらと苦笑を交わした。

 高速道路を降りた車は街を抜けて、箱根の山へ入る道を登る。しばらくして屋敷を取り囲む塀が見えてきた。

 門の前に、背の高い男性と背の低い少年が並んで立っている。少年の足もとには、いつものように小熊がお利口に伏せっていた。

 車が近づくと顔をひょこりとあげて、少年を見上げる。


「瀬名! 瀬名!」


 止まった車から降りると、少年と小熊が一目散に駆けてきた。

 記憶が戻ったことは、もうとっくに連絡が回っているのだろう。

 ドアを閉めたのとほぼ同時に飛びついてくる小さい身体を全身で抱きとめた。初霜が足にすり寄る。


「瀬名?」


 背中を強く抱くと、公時はほんのわずかに肩を震わせた。


「貞光さま」


 瀬名の首に回った腕に力がこもる。


「貞光さま」


 もう一度呼ばれて、瀬名は公時のからだを地面に降ろし、いつのときも変わらない幼さの残る顔を覗き込んだ。


「悪かったな」


「いつものことじゃないですか」


 そのたびに、必ず生まれながらに記憶を持っている彼は傷ついてきた。それも今は覚えている。

 瀬名はそうだなと答えて、公時のうなじに手をあてて笑った。

 公時もはにかむように笑う。


「ただいま戻りました」


 二人のやりとりを眺めていた卜部のそばまで近づいて、瀬名は頭を下げた。


「俺の特訓も、少しは役に立っただろう。どこにしまっていたか、おおまかなことは保昌殿に聞いている。改めて詳しく聞かせてもらいたいな」


「時間ができたら」


 その答えに、卜部が自分の眼鏡を指先で押し上げて微笑んだ。


「記憶が戻って不孫な顔つきになったな」


「え?」


 一瞬とまどったが、卜部がそう思っていないことは表情を見ればわかる。

 からかわれているのだと気づいた。


「まさか、綱じゃないんだから」


 公時を相手に、また愛宕山の天狗をこき下ろしている綱をあごで示すと、卜部は肩をすくめた。


「京都に行くたびにあれじゃあ、天狗たちの方もうんざりだろうな」


 通用門を通って敷地の中に入る。


「あそこの天狗は高尾あたりと違って気が荒いからなぁ」


「高尾はひどい目に合わされてるから、もうコリゴリなんだと思うよ」 


「そりゃ言えてる」


 笑った卜部が、ふいに黙って振り返った。


「だいじょうぶか?」


「だいじょうぶだよ」


 瀬名は答えた。


「おまえがだいじょうぶと答えるときは一番、信用ならないんだけど。まぁ、いいか」


「土蜘蛛の居場所は?」


「わかってる。これから禊を済ませてくれ。頼光さまの準備は整っている」


 庭先に植えられた萩が、いつのまにか満開の花をつけている。


「逃れられると、思ったのかな。俺は」


 足を止めて呟いた。

 数歩先を歩く、卜部の革靴も止まった。


「しばらく何もかもを忘れてみたかっただけだ。もしも俺が貞光でも、同じことをしただろう」


 瀬名は顔をあげなかった。


「おまえが、あの時の記憶を持たずに、その歳まで成長できたことは良かったんだ」


 だけど。と、心の中で反論する。

 あの時、もしも俺がとどめを刺せていたら、あの爆弾はあの街の人々を蒸発させたりはしなかっただろう。

 卜部はもう何も言わなかった。

 きれいに磨きあげられた靴が歩き出す。

 瀬名は目をそらしてしばらく萩の花だけを見つめた。

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