18
声がくちびるからこぼれ落ちた。
「どうして、おれじゃなくちゃいけなくて、おれの両親なんだって」
かずらは黙って聞いている。
「何もかも、まだ嘘みたいだ。だから悲しくても現実感が薄いし、怒りも長続きしない。今だって、逃げたいと思ってる。こんな不安は、もうイヤだ」
どうすればいいのか、本当にわからない。
「瀬名さま」
かずらが微笑んだ。肩に両手を乗せてくる。
「瀬名さまは、幼い頃のことを覚えていらっしゃいますか」
何を言いたいのかわからず、瀬名は聞かれたことにただ答えるためにうなずいた。
「では、自分が何を好きだったか、何が得意だったか、覚えていらっしゃいますか」
「えっと」
両親との旅行先や幼稚園のこと小学校の校舎や教室は思い出せたが、自分がどんな子供だったかと問われると難しい。
「たとえば、いまここに、その頃の写真があったら、瀬名さまはきっと、こうお考えになるのではないでしょうか。あぁ、自分はこんな子供だったんだ、と」
かずらが微笑んだ。
「自分の見た景色はなんとなく覚えてるけど、自分のこととなると難しいな。誰と遊んでたかも、ちょっとあやしい」
ずっと一緒にいたきららの記憶はたくさんあるが、それも長い年月の毎日が複雑に絡み合って、何歳のことだったかと聞かれたら答えられないことも多いだろう。
「同じなんですよ。瀬名さまは昔の記憶をごっそり忘れてしまっているだけなんです。遠い昔のことですから」
「じゃあ、記憶が戻っても、俺がいなくなるってことじゃないの?」
「そうです。ただ、昔のことを思い出すだけです。そうすれば、きっと、何故と問いかける答えもおのずとわかるでしょう」
「かずら」
瀬名は息をひとつこぼして、拳を握った。
「はい」
その拳に、かずらは視線を向けた。
「思い出せないから、逃げたいだけ?」
この感情は。
「自分では意識せずに他人に優しくして、その人から好かれたとき、何故自分だろうと悩むことはありませんか? 同じことです。思い出してください。そうすれば、もう何もこわくありません」
「やさしい例えだね。反対にも言えるのに」
「仮定でも悪いことを言うなと、私は教わりましたので」
「誰に?」
かずらは、さぁ、と首を傾げてとぼけた。
その後はもう話している時間もなく、瀬名の目の前に広く開けた庭が見えた。
ここにも草花が生い茂っている。秋の夕暮れが終わるのは早い。もう夜の闇へ落ちかけている庭の奥には、池があるのか、廊下の釣り灯籠の灯りを映している。
かずらと瀬名に反応したかのように、庭に置かれた一対の篝火がくすぶり始めた。
ちりちりと小さな火花が見えたかと思うと、勢いよく薪が燃え出し、あたりを闇に浮かび上がらせた。
草の上には、一枚のござが敷かれていた。
「来たか」
男の声がした。
かずらが身をかがめながら瀬名の後ろにさがると、庭へ降りる階段に腰掛けていた男がちょうど立ち上がり、姿を見せるところだった。
真っ白な上着に、裾のもったりとした濃紫の袴。瀬名も身につけた覚えのある狩衣だ。
きりりと結いあげた髪は、後頭部の高い位置でまとめられている。
これで烏帽子を被れば、完全に平安時代の装束になるだろう。
「お待たせいたしました、晴明さま」
かずらが二人の沈黙を気遣うように声を出した。
あぁ、これが晴明か、と納得しかけた瀬名は、
「えっ?」
思わず声をあげて、目の前の男とかずらを見比べるようにせわしなく視線を動かした。
今朝はじめて会った晴明は、妖艶でグラマラスな美女だった。衣装で身体のラインが隠れるとは言え、目の前にいるのはまぎれもなく男だ。
切れ長の瞳に細く弧を描く眉。小さめの鼻に、男にしては小さく紅いくちびる。女と言われれば、女に見えなくはないが、頬からあごにかけての輪郭の鋭さは、やはり男のものだろう。
「えらい苦労をしたようやな」
瀬名が竹生島で手渡された濃紺の球体を、男は衣の胸元から取り出した。
「最後にもう少しだけ、気張ってもらわなあかんかもしれへんな。おいで、瀬名」
「晴明さん、なんですか」
「そうや」
階段を降りた晴明は、珠を手にしながら、もう片方の手でござを指差した。
「その上へ、座って。結跏趺坐は知ってるやろ」
裸足で庭に下りた瀬名は、ござの上であぐらを組んだ。卜部の特訓で教えられた通り、膝の上に足首を乗せる。
晴明の袴の下から裸足が見えた。
「あの」
「話は後や。瀬名。今、聞かんでも、すぐにわかることばかりや。私は説明しとうない」
「は、はぁ」
「それに、おまえの謎を解くのに三日も寝込んだ上に、今度は宝珠の戻し方を探るのに、えらい根詰めたんや。さっさと終わらせて、休ませてもらいたい」
おっとりとした口調だが、これ以上、一言も口を開くなと言いたげな威圧感がひしひしと伝わって来て、瀬名はおとなしくくちびるを引き結んだ。
「さぁ、はじめようか」
目の前に膝をついた晴明はにこりともせず、瀬名の両手の上に珠を置いた。固い感触は、まるで石のようだ。
「目を閉じて、気持ちを集中させて」
瀬名は大きく深呼吸した。思わず探った晴明の瞳の色は深い黒で、闇の色で、瀬名の振りきれない不安をいっそう大きくした。
「内なる自分を見ることや。私がしてやれることは手助けでしかない」
晴明の指が、頬をなぞった。
「いつになく、世話がやけるなぁ、瀬名。記憶が戻っても、そのままならええんやけどな」
細めた瞳が、朝に出会った美女と同じ妖艶さを持っている。
立ち上がった晴明が背後に回る。気配を感じながら、瀬名は階段下に座っているかずらへ視線を向けた。
ここまで来て怯えても何にもならない。
瀬名はまぶたをおろした。闇が、目の前に広がる。
雑多なことをすべて胸の奥深くにしまい込んで、腹式の呼吸だけを繰り返す。
これも、卜部から教わった精神集中の方法だった。
しばらく呼吸をつづけていると、ふいに、とんっ、と腰のあたりに違和感を感じた。晴明が指先で突いたようだ。
間を置かずに、首筋にも一点、とんっ、とリズムよく突かれた。
爪をたてるような感覚は続き、闇の中に晴明の声が低く響いた。体中を締め付けるような緊張感のある唱え方だ。
耳を澄ました瀬名は、それが真言だと気がついた。
卜部に指導されて、何度も繰り返して読み上げた。時には二人で、時には一人で。
次第に、感覚が深いトランス状態へと導かれた。
晴明の声がまるで風の音のように聞こえてきた。
耳を澄まして、ようやく聞こえるほどに遠い。
両手で包んだ球体が、じっとりと濡れ始めた。汗ではない。石のように硬かった珠は、やわやわと弾力を持ち、まるで水を入れた風船を持っているようだ。
でも、水を包んでいるものは何もない。石の球が、水の玉に変わったのだ。
そして、液体はじわりじわりと、急速に瀬名の指や手のひらに染み込んでいく。
規則正しい呼吸をしながら、瀬名は心地よさにまどろんだ。真夏の暑い日に、ほどよく冷えた水を一気に飲んだ時の心地よさだ。乾いた土が水を吸うように、瀬名の心にも水が満ちて行く。
もう、両手の中には、何も残っていなかった。すべて入りきった。
次の瞬間。全てが瓦解した。
記憶を取り戻すと決めたことを、後悔する理性さえ残されないままに、瀬名は、両手をござの上についた。
冷汗が身体中の毛穴から噴き出した。
腕ががくがくと震えた。
現在の記憶と、過去の記憶が、激しいフラッシュのように瞬きながら交錯していく。気が狂いそうな衝撃だった。
精神的な痛みは、肉体的な苦痛も引き起こしていた。
もしも、声を出す余裕があったなら、瀬名は間違いなく世の中を呪う言葉を吐いただろう。
卒倒できれば、いっそ楽だった。
それすらできない。
瀬名は奥歯を噛みしめて耐える。そうするしかないと、今の自分にはわかっている。
自分には、それしかできないのではない。
自分は、それをしなければいけないのだ。
それが、理解できる。
ござを握りしめて、瀬名は腹のそこから声を絞り出して叫んだ。
言葉ではない。ただの咆哮だ。
何十年。何百年の記憶。
繰り返す生死。出会い、別れ、愛情。
責務、戦い、慈愛。
後悔、幸福、苦悩。
祈願、選択、希望。
瀬名は絶叫した。
意識は最後まで、失わなかった。
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