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【6】


 車は滑るように静かに、何の変哲もない、ごくふつうの木塀の前でエンジンを止めた。

 市内に入った頃から起きあがっていた瀬名は、夕闇のコンクリートの上で、両手を広げて背筋を大きく伸ばした。

 安部晴明の屋敷は、京都の市内、御所の脇に位置している。


「少しは休めたか」


 木塀の中に見えている小さな家屋を眺めていた瀬名が肩越しに振り返ると、けだるげに開いたドアにからだを預けた保昌は髪をかきあげた。


「意外と元気です」


 と、答えて、瀬名は腕をおろした。


「もしかしなくても、おれにチカラみたいなもの、分けてくれてました?」


 車内で額に添えられて手が心地よかったのは、体温のためだけではなかったらしいと、ようやく気がついた。


「すみません」


 どうやら、保昌は体力のほとんどを注ぎ込んだらしく、立っているのもやっとと言わんばかりに車へもたれかかっている。


「それを言うなら、ありがとう」


 それでも笑ってみせるのは伊達男の意地だろうか。


「ありがとうございます」


「瀬名が倒れるには、まだ早いからな」


 ドライバーを務めていた女性が二人のそばに近づいた。彼女もやはり式神だ。

 きりりと髪を結い上げ、細身のパンツスーツに赤いふちの眼鏡をかけていた。

 保昌に手を貸そうとするのを、本人が軽く手をあげて断った。


「そこまで弱ってはないよ」


 ドアから手を離して笑顔を向ける。


「参りましょう」


 式神は視線で保昌を気遣いながら言った。

 瀬名は木塀に目を向け直した。屋敷と呼ぶほどには大きくない。ごく普通の幅だ。

 おそらく、二軒先の寺院のほうが門も敷地も広いだろう。

 奥行きがあるのだろうと抱いた期待はあっさりと打ち消された。

 昭和の匂いがする木造二階建ての建物が木塀の上から見えているし、その後ろには大きなビルが隣接しているからだ。


「がっかり、って顔に書いてあるぞ」


「書いてませんよ。掲示板じゃないんですから」


「その似合わない悪態が、証拠だ」


「手を貸しましょうか」


 差し出した手をぱちんと叩き払われる。保昌は不遜げに鼻で笑った。

 ドライバーの式神はクールだ。二人のやりとりを視界の端に捕らえながらも、笑み一つこぼさずに格子戸をがらりと開いた。

 一瞬、わけもなく躊躇した瀬名は、後に続く保昌に肩を押されて足を踏み出した。

 格子戸をくぐり抜けたと同時に、ぐにゃりとした感覚が走った。それは気のせいかと思えるような、瞬時のことだったが、木塀の狭さや家屋の古さや、隣接するビルが示した敷地の狭さと同じぐらいに、確信が持てる事実だった。

 感覚の後、世界が変わったからだ。

 言葉の通り。

 瀬名は、前を行く式神と、後ろについて来る保昌と一緒に、まったくの別世界にいた。

 花が咲いている。

 それは淡いピンクの秋桜で、けなげに揺れる野菊で、あざやかな赤の彼岸花だ。

 草は茂り、すすきも揺れている。

 誰も訪れない廃墟の周辺に似ていたが、地面を覆う草花と、木々に囲まれて建つ家は、木塀の中で見たものとは全く違う平屋の大きな、本当に大きな屋敷だった。

 白い壁に、瓦が敷き詰められた屋根。

 背後にそびえているはずのビルもなく、夕焼けに染まった空が薄い雲を流して広がるばかりだ。


「期待通りか」


 胸の前で腕を組んだ保昌がもたれ掛かってくる。


「それ以上ですよ」


「晴明は結界の中で暮らしている。外から見ていたのは仮の姿だ」


 保昌は深い息をついた。

 人の手は借りたくないが、立っているのもつらいのだろう。からかう振りをしてもたれているのだ。

 あえて何も言わずにいると、屋敷の中から人が姿を見せた。

 時代劇で見るような玄関だ。靴ひとつ置かれていない土間に、横長の石が置かれ、段があり、さらにひとつ昇った板の間には繊細な花の絵の衝立が置かれていた。


「お帰りなさいませ。お待ち申し上げておりました」


 あたりを見回していた視線をあわてて戻した。先に帰っていた、かずらだ。


「もう、からだは大丈夫?」


 瀬名の問いかけににこりと笑う。


「ありがとうございます。おかげさまでこの通り。私よりも保昌さまが大変なようですね」


「車の中で。ずっと力を分けていらっしゃったのよ」


 ドライバー役の式神が答えた。

 かずらは驚いたように引き上げた眉をゆるませ、


「では、あなたは保昌さまにお休みいただいて」


「ええ」


 うなずいた式神は保昌を振り返り、


「保昌さま。ご案内いたします」


 抑揚を押さえた、でも優しい口調で促した。


「じゃあな、瀬名」


 離れていく間際、保昌に腕をぎゅっと握られた。


「忘れていることを思い出すだけだ。なにもこわくはない」


 強い口調で諭すように言い残して、ふらりふらりと歩き出す。

 瀬名はしばらく見送ってから、かずらを振り返った。


「廊下も広いね」


「寝殿造りを模しています。いろいろと、晴明さまのご趣味で改築なさっている場所もありますが」


「保昌さんは大丈夫かな。おれはこんなに元気になっちゃったのに」 


「瀬名さまのことをお考えになってのことですわ。疲労されたままでしたら、一日は休養を置かなければならなかったでしょうし、そうすればまた一日、思い出されるまで時間がかかりますから」


「あとは、どうやって?」


 瀬名の質問に、答える用意があるとばかりにかずらがうなずいた。


「まずは身を清めていただきます。その後、晴明さまがご記憶をお戻しになります」


「記憶って、やっぱり、あの中に?」


 湖を割って現れた姫神から渡された、深い青の球体。


「ええ、そうです。私が先に持ち帰りまして、晴明さまにご検分いただきました」


「そうか。取りに行けばそれでいいってことじゃないんだな」

 にわかに緊張を覚えて、ため息がこぼれた。


「もうしばらくのご辛抱です。さぁ、こちらに」


「あ、あの」


 促しながら歩き出したかずらを追いかける。


「おれ、風呂なら一人で入るから」


「いけませんわ」


 勢いよく振り返ったかずらが、今までとは打って変わった強い口調で言った。


「いけません」


「いや、でも、恥ずかしいから」


「いけません」


「でも、前も、ひなぎくには」


 瀬名の言葉を耳にして、かずらの肩がぴくりと動いた。

 足を止めて、振り向いた。


「ひなぎくならば当然です。でも、私ならお手伝いさせていただくことこそ、当然です」


「あー、でもー」


 また薄手の白い和服姿で、からだのラインもあらわにされたら、お清めどころじゃなく、不浄そのものになりそうだ。

 かたくなな表情のかずらに、なんとか遠回しにわかってもらおうと、説明の言葉を脳内フル回転で考えていた瀬名に、


「わかりましたわ」


 かずらは小さな吐息をこぼした。


「まだ、瀬名さまのご記憶しかお持ちでないのですから、ここで押し問答はよしましょう。ですが、瀬名さま」


「は、はい」


 ずいっと顔を寄せられて、瀬名の声が裏返った。かずらの美貌が近づいて、驚いたせいだ。


「ご記憶を取り戻した暁には、あやまっていただきますから」


「な、なにを」


「それはご自分の胸にお聞きになってください」 


 と、言われても、覚えはなにもない。

 ヒントは、ひなぎくのことだろうか。

 かずらはふたたび庭に面した広い廊下を歩き出し、瀬名は、彼女の長い髪が揺れるのを眺めながら、また後を追った。




「綱は、まだ?」


 湯に浸かった後、揃えられていた真っ白な浴衣を適当に着て脱衣所から出ると、白いワンピースのかずらはそこで待ちかまえていた。

 顔を合わせるなり、くすくすと笑い、


「戻ってください、瀬名さま」


「え!」


「合わせがさかさまですわ。それでは死人です」


「シビト」


「亡くなった方」


 くるりと体を反転させられ、出てきたばかりの脱衣所に押し込まれる。


「うまく着れたと思ったんだけどなぁ」


「お気になさらず」


 腰に巻いた帯を解かれ、その下のひもも解かれた。


「綱さまは、明日お戻りになります」


「どこに行ってるんだったかな」


 かずらは真っ白な浴衣を左右に開くことなく、手早く前後を入れ替えた。


「愛宕山ですわ。火伏せの神として知られている場所です。関東ならば、秋葉の神と同様ですわね」


 ひもが腰骨のあたりできゅっと締められる。


「あ、そうか。その位置だった。いいね、着物って。苦しいのかと思ってたけど、気持ちが引き締まる」


 膝をついているかずらが顔をあげて笑った。


「なに?」


「いいえ。なんでも」


 とそっけなく答えるわりには、うれしそうに笑っている。

 今日はじめて出会ったのに、気安く話せるのは、かずらが親しげに接してくれるからだろうか。自分の中に、少しでも貞光の記憶があって、それが思い出させるのだろうかと瀬名は思った。

 かずらの瀬名を見つめる瞳は、ひなぎくや花槻の視線と違っている。

 懐かしさの奥にあるのは、親しみと、そして。


「反対を向いてください」


 ひもの上から帯を巻き付けたかずらの指示に、瀬名は考えを中断させて後ろを向いた。


「さぁ、できました」


 立ち上がったかずらは脱衣所の戸を開けて、瀬名を先に廊下へ出してから戸を丁寧に閉めた。そして先導に立つ。



「瀬名さま。あまり緊張をなさらないで」


「あ、うん」


 不安と緊張が、どうしても表情に出てしまう。覚悟なら何度も決めたのに、そのたびに新しい感情が湧きだして、たまらない気持ちになるのだ。

 自分が自分でなくなってしまうかもしれない。それがこわくないはずがない。

 瀬名は落ち着かずに縁側の廊下を歩きながら、草花がにぎやかな庭を眺めた。

 花の数を無意識に数えている。

 何か話をしていたいのに、話題が見つからなかった。

 まるで、人生最後の話題を探すようだ。

 いつか両親と車で行った、軽井沢までの道を思い出す。峠を越える途中で、森の中に残されたようにたたずむ、レンガ造りの橋を見た。昔はその上に列車が走っていたと、父親が教えてくれた。

 軽井沢ではきららの家族とも合流して、夏休み後半の、夏が去っていく気配を追いかけるようにして遊んだ。

 きらら。

 心の中で呼んでみた。

 何もかもを思い出したとき、こうして彼女をせつないほどに愛しく思う気持ちは、どうなってしまうのだろう。

 恋をして、いられるのだろうか。

 瀬名は今でも逃げ出したかった。誰かが代わりになってくれるなら、すべてを任せてしまいたい。

 両親やきららのことを、仕方のないこととあきらめてしまえたら。


「瀬名さま?」


 いつのまにか、足を止めていた。

 心配そうな顔でのぞき込まれ、瀬名は弱々しく笑って返した。虚勢も張れない。


「どうして、おれなんだろうって、何度も考えたんだ」

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