16

 長い時間を置いて、瀬名の鼓動がもうひとつ鳴った。

 静寂を縫って遠くまで響く、小鼓の小気味のいい音だ。


「保昌殿」


 若い、男の声がした。


「この先、かずらは連れて行けぬ。式の身だ。手を貸してくれ」


 ヘドロのようにぬめぬめと気味悪く、身体や指の先や、呼吸のたびにのどの奥にまで絡みついてくる空気を、凛とした声はたわいもなく切り裂いた。


「おぼえて、いろよ」


 保昌の悪態をつく声が聞こえた。こんな物言いをするのは綱ばかりだと思っていた瀬名には意外だった。

 やわらかく身体を抱き締めていた女の指の感触が、力強く骨ばった男の腕に変わる。

 上半身を抱えるようにして運ばれながら、まだ死なないですみそうだと、それだけをぼんやり考えた瀬名は、


「このためだけか、俺は」


 いまいましげにつぶやく保昌に同情した。


「それほどの力と見込んでのことだ」


 こともなげに、悪びれもしない青年の声は瀬名の喉から出ていた。

 瀬名の意識は、まだどろりとした重苦しい感覚に包まれたままだ。身体中が倦怠感に包まれていて、意識が朦朧としている。

 目は閉じているつもりなのに、真白いもやが少しづつ晴れていく。

 視覚とその他の感覚が断絶されているかのようだった。

 いつのまにか、保昌も隣にはおらず、瀬名は自分の足で立って歩いているらしい。足元には無数の陶器が散らばっている。

 素焼の平べったい小皿のようなものだ。それが何重にも積み重なった場所に、石造りの鳥居が建てられている。

 その先には、小さな祠の屋根が見えた。

 瀬名は陶器を踏んでいるはずなのに、音がしない。進んでいるとわかるのは、視界が前へ進むからだ。

 まるで脱力しながら、3Dの眼鏡をかけてテレビを見ているようだ。リアルと虚構の差がはっきりしない。

 瀬名の目が、自分の手を見た。

 鳥居に向い、大きく手を打ちならす。続けて、もう一回。

 柏手を打つ手の感覚も瀬名にはない。

 それなのに、からだは前へ進み、声は喉から聞こえてくる。

 自分のからだを、自分ではない誰かが乗っ取っているのだ。

 それを嫌がる気力さえ、もう瀬名には残されていない。ここで生贄にされたとしても、痛くなければいいと思う程度だ。

 瀬名は鳥居を抜けた。

 その瞬間、湖が凪いだ。


「わがうじは、碓井。わが名は、貞光」


 朗々とした声が、すべてが停止した世界に響き渡った。

 曇天の暗さを映し、ひたひたと岸壁に打ち寄せていた波が、ぴたりと止まり、視線の先から水泡がひとつふたつ湧いて来る。

 かと思うと、それは小さな渦になった。

 湖面がまっすぐ平らなまま止まっているのに、一部分の水だけが巻いている。

 見ている間に、渦に光が差した。曇天を突き破るようにして、光の筋が落ちてきたのだ。

 一筋の光は、天女の羽衣があるなら、こんな風に神々しくたなびくだろうと思うような姿で渦に落ち、吸い込んだ渦はいっそう大きく回転した。

 中心が沈んでいく。

 渦が水面下へと引き込まれていくのだ。


「瑠璃の花園、珊瑚の宮よ。黄金の波に預けし、我が魂を、比良の風に返したもう」


 渦の端が、波を弾いた。

 無音のまま、渦の回転は高速になり、中心に差し込んだ太陽光がさらに白く輝いた瞬間。

 凪いでいた湖面がいっせいに波打ち、雲の隙間と言う隙間からこぼれ陽が差し込んだ。

 黄金の波が視界のすべてにきらめいた。

 どこからかゆったりとした音楽が聞こえ初め、渦の中心から、キラキラと輝く小さな鳥が飛び出す。一羽、二羽、三羽。

 しかし、その飛び方は風を掴む鳥の飛び方ではなく、蝶のようにひらひらと舞っている。翅が動くたびに宝石に光が反射するようにまたたく。

 音は、その鳥のようでいて蝶のようなものが奏でているらしい。

 雅楽の音の運びに似ているが、もっと優雅で、もっと繊細で、もっと複雑に絡み合う音階だ。

 やがて、天から差し込み、落ちくぼんだ渦の中から、大きな光の玉が浮き出した。

 キラキラ輝く小さな鳥のような宝石の群れに囲まれて、黄金の波をすべるように瀬名へと近づいてくる。岸壁で波は大きく持ち上がり、近づくたびに直径が小さくなっていた光はやがて瀬名の前に止まった。

 周りでキラキラと輝いているのは、鳥も蝶でもなくそれぞれが羽を同じ輝きを持つ腰布を身につけた小さな人だった。女性もいれば、男性もいる。あるものは、笛を吹き、あるものは鼓を持ち、あるものは琵琶を弾いている。


「名は」


 光が音を発した。

 それは声ではない。瀬名の脳に直接に響く。まるで空耳のような聞こえ方だ。かつて誰かが口にした言葉を、その人の声で思い出そうとする感覚。

 聞こえていないのに、聞こえてくる。


「瀬名だ」


 答える声は、実音。


「われの与えた名よのう」


 瀬名は、子供の頃に聞いた、水琴窟の音を思い出した。地中深くさかさまに埋めた壺へ水の粒を落として、その響きを楽しむ風流な仕掛けだ。

 あの、透明で澄んだ音に、その無音の声は似ていた。

 光はまた弱まり、中から浮き出て来た実体は女性の姿になる。

 柔らかく結いあげた黒髪には珊瑚と真珠の飾り、そして頭の先から足もとまで、場所を問わずにキラキラとこぼれ落ちるダイヤモンドの輝きは水の雫。

 絶えず流れる水の衣を身にまとっているが、清らかに澄んだ流れの下にちらちらと素肌が透けて見える。


「貞光。良い退屈しのぎであった」


 麗しい口元が動く。長いまつげが瞬きをして、黒々と濡れた瞳が見つめてくる。パーツごとの美しさは認識できるのに、どうしても全体を掴むことができない。


「長く、ご迷惑をおかけしました」


 瀬名が頭をさげると、女はこんなに愛らしくて澄んだ笑い声があるだろうかと聞き惚れる声で笑う。


「われには短きこと。返すには惜しいがの」


 柔らかく言って、両手に包んでいた大きな藍色の珠を差し出した。


「相入れて、決した後に、また宮へも参られい」


「迷っておりましたら、どうぞお導きを」


「愛らしいことを」


 楽しげに笑う女は、瀬名が差し出した両手に珠を転がすようにして渡した。

 水の清々しい匂いが、身体を取り巻いた。

 瀬名の意識に絡みついていた重苦しさが、はがれ落ちるように消えていく。

 最後に女の長く華奢な指が瀬名の頬に触れた。真綿のような柔らかさが去った後、頬はしっとりと水に濡れた。




 「生きて、るんですよね」


 瀬名はおそるおそる声を出した。視界の隅に見えている保昌が顔を向けてきた。

 横からのぞき込まれて、自分が横たわっているのだと気づいた。しかも、頭は保昌の膝の上にあるらしい。


「あぁ、動くな」


 額を手のひらで押さえつけられ、微笑みながら覗き込まれる。


「よく耐えたな。しばらく目を覚まさないかと思っていたが、意外に強いんだな」


 移動している車の後部座席だ。瀬名は膝を曲げた片足をシートに乗せ、もう片方はシートの下におろして寝ていた。

 運転はかずらがしているのだろうか。

 さすがの保昌も、もうそんな気力もないのだろう。隠せない疲労を浮かべた顔も凛々しい。


「かずらは先に戻った。さすがの晴明の式も姿を保っていられなかったらしい」


 瀬名の疑問をすかさず拾い上げて苦笑する。


「大丈夫だ。君ほどじゃない。運転は別のものがしているから、心配するな」


「おれはどうしちゃったんですか」


「どうもしていないよ。君は初めから、瀬名であり、貞光だ。覚醒なら初めからしている。ただ同化すべき記憶だけが、あの場所に隠されていたんだろう」


「あれは、夢じゃなかったんですね」


 絵にも描けないような美女。

 いま思い出しても、美しい瞳とくちびると鼻筋の印象はバラバラで、一人の人間の顔として思い出せない。


「夢のような、風景だったけれどな」


 保昌も、うっとりするような息を吐いた。


「あれは、誰だったんですか。おれが、あのタマを受け取ったんですよね。あの、青い」


「そう、たくさん話すな。息が切れるぞ。おちついて」


 子供にするように頭をなでられ、急に気恥ずかしさを覚えた。瀬名が黙ると、保昌は満足したように目を細め、


「確かにおまえは自分の記憶を取り戻したらしい。いまはかずらが抱えて眠っている。屋敷に戻れば、晴明が対処するだろう」


 そこで一息つき、


「そうすれば、推測など聞かなくてもわかることだが」


 いま、気になって仕方ない瀬名のために、あえて推測しようと言いたげな口調で言った。


「おそらくは竹子姫。竹生島に棲んでいる姫神だろう」


「カミサマ」


 瀬名は小さな声で反芻した。

 それなら、納得がいく。

 車はひたすら進み続けていた。

 窓の外の空は青く、高く、澄み切っている。涼やかな秋の空だ。


「記憶が戻ったら、おれはいなくなるんですか」


「バカだな、瀬名」


 指で眉間を強く押されて、瀬名は顔をしかめた。


「おまえはおまえだ。じきにわかる。何も変わりはしないよ」

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