15


 島が見える。

 さっきまではもやが横長に広がるだけだった景色の先に、緑に包まれた小島が浮かんでいた。


「あれが、竹生島」


「ちくぶ、じま」


 やっと見えたかと言いたげな保昌の言葉を瀬名は繰り返した。

 そして、自分の状態を把握した。


「わっ!」


 すがりつくように掴んでいた腕を放したが、振り払うような真似はできなかった。

 万が一にも落ちたくない。

 海原のように果てなくはないが、湖とは言え琵琶湖は大きい。ここで落ちたら、岸まで辿りつく自信は皆無だった。

 青空と険しく連なる向こう岸の山々を背景にした黒い島影は、近づくにつれて、こんもりとした緑に包まれた姿に変わっていく。

 張りのある針葉樹の固さが、左に低く、右に高い、まるでひょうたんを寝かせて半分沈めたような島の表面を覆い尽くしていた。

 島の頭上には、水鳥が飛び交っているのが見える。

 湖面に浮かぶ竹生島の美しい姿にしばし見とれていた瀬名は目をしばたかせた。景色がまたたく間に霧にかすんでいく。

 保昌が腕をはずし、身体を離したからだとすぐにわかった。


「これって」


「いま、力を分けていたんだ。別になにか術を使ったわけじゃない。前に、似たようなことがあっただろう」


 瀬名はしばらく考えた。

 ボートがじっくりと水を掻き分け、波を左右に流して進むのを眺める。


「おれの、家に入った時の」


 正解だった。

 うなずいた保昌に、腕を掴まれる。一人で立っているのが頼りなげだったのだろう。

 反射的に島へと視線を投げた。保昌に触れているのに、今度はもやが晴れない。


「見えないだろう。あれをはずすのは、力を分けるにしても、大変だよ。以前は、公時と綱が代わりに勾玉を生成して、君はうっかり酷い目に会った」


 おかしそうに笑い、


「残念だけど、今回は、そう簡単には行かないだろうな」


「もう一人、必要ってことですか」


「違うよ」


 あっさりと保昌が答えた。


「あのあたりは、琵琶湖の中でも底が深い場所だ。しかも島全体が神域と来てる。いつのまに繋ぎをつけたのか、記憶を取り戻したらきかせて欲しいものだね」


「何のことか、わからないんですけど」


「すぐにわかるさ」


 瀬名は不安を表情いっぱいに滲ませて、保昌の顔を見た。

 そうしている間にも、島は近づいてくる。

 今になって気付いたが、ボートのスピードが船体の大きさにそぐわない。かなりの距離をかなりのスピードで走っている。それなのに、この程度の揺れで済むものなのだろうか。


「そうだな」


 瀬名の腕を掴んだままの保昌が、島の方向を見据えながら、考え込むように小さく息をついた。


「腕でも組むか」


 見るからに冗談を口にする。

 ぽかんと口を開いた瀬名は、返す言葉をなくし、それでも真剣さを訴えようと息を吸い込んだ。

 次の言葉は、なめらかな美声に奪われた。


「それもよろしゅうございますが、そのお役目、わたくしが」


「かずら」


 保昌が呟いたおかげで、瀬名は彼女の名前を問う手間が省けた。

 いつのまに現れたのか、根元から美しいウェーブのかかった長い髪の女性が、瀬名の隣に沿うように立っていた。

 腕を掴んでいた保昌の手が離れると、後を継ぐように、彼女の細く長い指が瀬名のひじのあたりをそっと握る。

 言いようのない感覚に襲われて、瀬名は顔を上げた。

 かずらの顔をまじまじと見た。

 彼女も式神なのだろう。初めから乗っていたのか。彼女がボートの運転をしていたわけじゃない。そもそも誰が運転をしているのか、瀬名は知らない。

 胸の奥を突いたのは、そんなことじゃなかった。

 濡れたようにしなやかな髪が船のスピードで風になびいている。

 今まで出会った式神たちの中では、一番の年上だろう、成熟した大人の顔立ちは全体的に地味な造りだが、瞳だけが飛びぬけて美しく輝いている。身体もグラマラスだと、腕に当たる胸のふくらみでわかる。

 身体のラインに沿ったワンピースは、青く見えるほど白く、上半身のシンプルさとは反対に、腰下からは何枚もの布地が重なり合うデザインだ。丈はくるぶしを隠すほどに長く、一枚一枚が風に舞い踊っていた。


「晴明の言う通りだな」


 保昌の吐息に答えるように、瀬名から視線をはずしたかずらが微笑んだ。


「ずいぶん、お苦しみのようでした」


「君にシンクロしたのか」


「いかように隠れていても、あの方の詮索からは逃げられませんから」


「てっきり、天河のほうだと思っていたが」


「こちらのお方が、お預かりになるとおっしゃいましたので」


 瀬名は、二人の会話に耳を澄ませた。こちらのお方、というのは、どうやら自分ではないらしいと、かずらの言葉のニュアンスからは伝わってくる。

 でも、ここにいる、誰かだ。

 その誰かに、貞光は、記憶を『預けている』。


「貞光さま」


 ふいにかずらが振り返った。


「いえ、瀬名さま」


「おれ・・・・・・、気のせいかな」


 瀬名は言い淀んだ。

 空が、曇りはじめている。あれほどの快晴がいつのまにか曇天の空模様だ。湖も沈んだ色に変っていた。

 ボートの速度があきらかに遅くなる。


「どうした」


 気遣うような保昌の声に、顔をあげた。


「かずら、のことは知っている気がする」


「初めてじゃないか。そんなデジャブを言い出すのは」


 ほとんど時間を一緒に過ごしていない保昌に言われるのは違和感があったが、言葉は間違いなかった。

 公時や綱と話をしていても、卜部からさまざまな手ほどきを受けても、何もいまひとつピンと来なかった。それなのに、かずらを見た瞬間に、不思議な感覚が瀬名を襲ったのだ。

 いつか、どこかで見た。

 似ている誰かと混同しているのかもしれない。そう思えるほどあやふやではあったが、少しでもひっかかりを覚えたのは、これが初めてだった。


「装置ですのよ。瀬名さま」


「装置」


「装置?」


 かずらの言葉をオウム返しに口にした瀬名の声に、保昌の疑問符が重なった。

 かずらはまた微笑んだ。


「とても複雑な仕掛けです。貞光さまがご自分のために、言いかえれば、あなたのためにお仕掛けになった術です」 


「おれが、自分で自分のためにやったってこと? どうして、そんなに面倒なこと」


「理由がございます」


 かずらが言葉を選んだのが、瀬名にもわかった。保昌もわかっただろう。

 かずらは、この場に、保昌がいるからこそ、名言を避けた。


「深くは聞くまいよ。かずら」


「お心づかい、痛み入ります」


 船の速度はだんだんと下がり、ついにはエンジンの音だけが響く状態になった。船体が波に揺られ、スピードに乗っていた時の安定感が失われる。


「船は旧参道につけるんだな」


「ええ」


 瀬名には何も見えなかった。

 現参道がどんなものかさえわからない。

 それどころか、瀬名の頭がきりきりと痛み始めた。浮遊感に揺すられたせいか、もやの瘴気のようなものにあてられたからか。

 大きく息を吸い込んだが、良くはならなかった。


「瀬名さま、しっかりなさって」


 かずらの腕が肩に回り、ぎゅっと抱き寄せられる。ホテルのロビーに流れる琴の音色のような、美しいかずらの声が耳に流れ込むと、心の奥が落ち着き、瀬名の痛みは瞬間だけ解きほぐれる。

 ボートが揺れて動いた。

 もやが近くなり、瀬名は身構えた。

 保昌が何かを話しているのに、それが声になって聞こえてこない。

 頭の中で、ぼわんぼわんと、自分の鼓動が反響するのを瀬名は感じた。

 ボートは、保昌の言う『旧参道』に近づいているのだろう。足もとが揺れるたびに、瀬名はめまいと吐き気に襲われる。

 船酔いによく似ていたが、違うとわかる。もう、目を開けていることさえつらかったが、


「さぁ、瀬名さま」


 そうかずらに呼びかけられて、うっすらとまぶたを押し開いて見た。

 複数色の絵の具を、水に垂らした時にできるマーブルのようになった視界の中に、赤い色が見えた。

 息を吸い込んだ瞬間、それが鳥居だと認識した。

 参道の入り口らしかった。

 かずらに片手で腕を掴まれ、背中から回したもう一方の手で脇の下を支えられ、瀬名はなんとか歩いた。

 どうやってボートから島に渡ったのかは、もうわからない。かずらの動きに合わせて足を前に踏み出し、吐き気をこらえ、気を失うまいとするのに必死だった。

 それでも、島に入った瞬間はわかった。

 片足をついた瞬間、今まで経験したことのないような静電気そのものの衝撃に襲われたからだ。

 足先に弾け、電気は一気に体中を駆け巡った。

 瀬名は事実、一瞬、気を失った。

 かずらに抱きかかえられ、


「しっかりしろ」


 余裕のない保昌の声を聞いて、頬への衝撃と熱が、頬を打たれたせいだと気がついた。

 責める気にもならなかったのは、


「持って行かれるぞ」


 保昌の叱責と同じことが脳裏に閃いたからだった。

 しっかりしなければ、ここで死ぬ。

 意識を失えば、それが最後だ。

 瀬名はまた歩み出した。一歩。また一歩。

 足もとも先も見えない、ぬかるみのような道を、重い足取りでたどる。

 式神であるはずの、かずらの息が上がっているのが、次第に荒くなる息遣いで伝わってくる。


「もしもの時は引け。俺が変わる」


 おぼろげに聞こえてくるかずらへ向けた保昌の声も苦しげだ。

 自分一人が苦しいのではないと、瀬名は奥歯を噛みしめながら思った。いつしか流れはじめた苦痛の涙を拭いもせず、白い闇の中を進んでいく。


「もうすぐ、もうすぐでございます。瀬名さま、瀬名さま」


 もう、何度繰り返しただろう。自分にも言い聞かせるようなかずらの声が耳元に響く。

 瀬名は、からだが高熱を発するように、熱く重だるくなるのを急に感じて歩みを止めた。

 もう、先へ進めない。

 足が、少しも持ち上がらないのだ。

 それでもかずらは、前へ行こうとし、瀬名は引きずられるままに進もうとするのだが、足が言うことをきかなかった。


「瀬名さま、しっかり、なさって。瀬名さま」


 かずらが息も絶え絶えに励ましてくる。

 もう何百キロも歩いたような気がした。瀬名を引くかずらの身体もまっすぐ進めず、左右へ揺れ始めた。

 それでも、二人は全身で泥の中をもがくように歩いた。


「あぁ」


 もうこらえきらないとばかりに、かずらが耳元で声をあげた。それは嘆きの叫びだった。


「貞光さま、貞光さま」


 前へ、前へ、両手で抱き締めた瀬名を運ぼうと身をよじりながら、かずらが苦しげな声をかすれさせる。


「もういけません、貞光さま。もう、これ以上は。瀬名さまが、瀬名さまが」


 かずらが泣いている。

 目を開いても、視力はないも当然の景色でしかないのに、瀬名には声を聞くだけでわかった。

 泣きながら、かずらはなおも自分の主人に懇願する。


「もちません、貞光さま」


 瀬名は妙な諦観を覚えた。

 そうか、と思う。

 頭の痛みと呼応するように響いていた自分の鼓動の音が、いつしか遠くなっていた。こめかみをきりきりと締め付ける痛みはそのままに、鼓動だけがゆっくりと間隔を広げていく。

 保昌はどうなったのか、きれぎれになる意識の中でわずかに考えたが、それもすぐにちぎれて消える。まとまった思考をする能力は失われていた。

 かずらの悲痛な叫びだけが、音としてだけ耳に届く。

 それを悲しいと、瀬名は思った。

 泣かないでほしい、そんなふうに。

 せつなく泣かないでほしい。

 自分で選んだことだ。誰に強いられたのでもない。

 理由があって、記憶を閉ざすだけのことだ。もう二度と会えないということもない。

 瀬名は、ただただ、自分の心臓が、ひとつ、脈を打つ長い時間を待った。次はもう、打たないかもしれない。


「貞光さま。瀬名、さま、を。ごじ、しんを」


 貞光さま。ご自身をお捨てにならないで。どうか、どうか。こんな無体な封印をなさらないで。

 瀬名の両肩を抱いたまま、かずらの身体から力が抜けていく。

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