14
「急な旅で疲れただろう」
保昌に声をかけられたが、瀬名は女から目をそらせなかった。
赤い口紅がまぶしい。潤んだ瞳がふっと微笑みを浮かべると、恥ずかしさを感じて、ようやくうつむいて視線をはずした。
「乗ってるだけだった、し」
「ひなぎくの運転は乱暴だからな」
保昌が笑う。
「まぁ、ひどい! 一番に運転を覚えたのは私でしてよ」
仲間の中で運転のエキスパートである自負があるのだろう。ひなぎくは珍しく甘えるように頬を膨らませて言い返した。
「確かに、山道を登るのも下るのも、速くて確実なのはひなぎくだけだな」
「そうですわ。お忘れにならないで」
「忘れてはいないよ。今回もご苦労だったな」
「いいえ、それは平気ですの。大事なお役目ですもの」
まるで兄に甘えるような口調で答えたひなぎくは、微笑む美女へと向き直り、桜のじゅうたんの上にひざを折った。
「ご機嫌うるわしゅう存じます。晴明さま」
瀬名はハッと目を見張った。
「ご苦労。あとは保昌に任せて、しばらく屋敷でお休み」
晴明と呼ばれた美女は、琴の音のように澄んだ声で穏やかな関西の訛りを話した。優しさの中に威厳があり、瀬名は知らず知らずのうちに背中を緊張させていた。
「晴明だよ。瀬名」
打って変わって、微塵も緊張の色を感じさせない綱が、どこか抜けた声で言い、
「晴明、彼が桐野瀬名だ」
深みのある保昌の声で紹介される。
「確かに」
瀬名が挨拶をするよりも早く、桜の精のようにつかみ所のない雰囲気の美女が微笑んだ。
「貞光だ。ほんまに、見間違いようがないなぁ」
「は、初めまして」
「どうぞ、よろしく」
意味ありげに微笑んだ晴明は長い髪をかきあげる。
はじめまして、という挨拶を自分は何度しただろう。晴明の返事にお辞儀の姿勢で頭を下げていた瀬名は、ふと脳裏をよぎった疑問に首をひねった。
伺うような視線がのぞき込んでくる。
切れ長の、うっとりするほど潤んだ瞳。
「女の人だったんですね」
歴史上は男だと言われているし、死んだ後の魂は女性の姿ってことだろうか。
考えるほどに混乱してくる。眉をしかめた瀬名を見て笑った晴明の後ろで、桜が舞い散って視界がかすむ。
瀬名は目を見開いた。
本物の桜だ。造花でないことにいまさら驚いたのではない。
あまりにも季節がはずれていることに気がついたのだ。夏が終わって、ようやく秋めいてきた今に、満開の桜なんて。
「思い出せば、すべてがわかるやろ」
なにもかもを含んだ言葉だった。
桜はいっそう激しく舞い落ちる。
強い風は花だけを散らしていた。晴明の長い髪はなびきもせず、居並ぶだれもが風を感じていない。
瀬名の頬もだ。
見えないガラスケースの中にだけ、風が巻いている。
「どうすれば、思い出せるんですか」
真剣な面持ちで、瀬名は尋ねた。
自分の記憶。
でも、その記憶を持っていた記憶もない。それでも、テスト勉強のために詰め込んだ単語や年式が、覚えたはずなのに出てこない感覚がどこかにある。
あの数式は覚えたのか。
それとも、おぼえていなかったのか。
根本的なことさえ思い出せない、はがゆい感覚だ。
「取りに行っておいで」
「え」
「おまえの中には、あらへんのや。自分で封じ込めて、他の誰にもわからんとこへ、そぉっと隠しておいたんやな。私にもわからへんで、えらい難儀したわ」
「それはお手数でした」
保昌が頭を下げる。
「ええんや。それは私のすべきことやし。それにしても、貞光は上手に隠して。なぁ」
恨めしそうに目を細めた。
「綱は、保昌の言いつけを破ったみたいやな」
突然、矛先が綱に向く。
「そんなつもりはないんですが」
しれっと言ってのける。
「頼光はえらい怒っとったけどな」
「あいすみません」
悪びれず頭を下げる。
大きな嘆息をついたのは、保昌だった。
「この乱暴ものが。見境のないのは悪い癖だ」
「まぁ、保昌。背に腹が変えられんということもあるやろ」
晴明が理解を見せ、綱の味方についた。
保昌は苦々しく顔をゆがめたが、それ以上はなにも言わず、綱へと視線を向けてあきらめるように片方の肩を上下させた。
「貞光の力が発動せんかったら、こっちでまた、ややこしいことせなあかんからな」
「こいつがトロいんですよ」
さらりと言われて、瀬名は飛びあがらんばかりの勢いで振り返った。
「どうして!」
「そうだろ。さっさと思い出せばいいのに、手間ばっかりかけさせやがって」
「そんなこと言われたって、知らないよ。俺は違うってダダをこねなかっただけ、えらいと思ってんだけど」
「えらくないだろ。そんなもの」
「うわー」
その上からの台詞はどうなんだと言ってやりたかったが、口から思わず出たのは、そんな叫びで。
「あいかわらず仲がいいんやな」
「そんなことないです!」
ちからいっぱい、否定する。
力が発動してからこっち、綱の態度が軟化して、険悪ではなくなったけれど、大の仲良しにはほど遠い。
「そういうことにしておこうか」
晴明は保昌に視線を流した。
「打ち合わせの通り、あとはおまえに任せる」
「はい」
「待てよ!俺は」
綱が二人の間に割って入った。
「おまえをこっちに呼ぶのに、理由はひとつしかあらへんやろ」
妖艶な流し目にくらりと来たわけでは、ないだろう。綱はウッと小さく呻いて、後ずさりした。
その背中をひなぎくが両手で押しとどめる。我慢した笑いが、くすくすと柔らかなくちびるから洩れた。
「知ってたな、ひなぎく」
「晴明さまのおっしゃる通り。あなたさまがこちらにいらっしゃるご用はひとつ。いまは、特に。お送りいたしますわ」
「いや、いい。ひとりで行ける」
「いけませんわ。綱さま。目的地をうっかり間違いでもしたら大変」
「ひなぎく、おまえ」
「ふふふ」
少女のように笑う。
「と言うわけやから、綱は愛宕へ行くように」
「言うなぁー!」
頭を抱えた綱が取り乱して叫んだ。
よっぽどイヤな場所らしい。
が、他人事だから、瀬名はついつい笑ってしまう。
「瀬名。あとは万事、保昌に言いつけてある。京都の市外やから、私は行かれへんけど、あんじょうやりや」
「は、はぁ」
「どこに行くんか、聞かへんのか」
「あ。どこに行くんですか」
「この近くに南禅寺ゆう寺がある。そこに昔の疎水があるやろ。その先や」
「南禅寺? ソスイ?」
京都の地理が不明なばかりか、言葉の意味がわからない。
「あぁ! そうか!」
ナゾナゾを解いたのは、綱だ。
「近江やな」
「オウミって?」
「おまえ、本当に高校生か」
「一応」
「滋賀県。疎水は琵琶湖から水を引いたんだよ」
「琵琶湖。って、日本列島の真ん中の」
肯定のやさしいうなずきをくれたのは、保昌だ。
「いまから、さっそくドライブに出かけよう。綱も、せいぜい、お山を楽しんでこいよ」
「楽しめるか!」
綱はまた吠えた。
仲間をからかって楽しそうな保昌に促された瀬名は、桜と同化して消え入りそうな晴明を振り返った。
「あ、あの!」
桜の雨は降り続けている。
「記憶を取り戻したら、きららを、助けられますか」
声が、広場にこだました。
一同がしんと静まりかえる。
くちびるの両端を静かに引き上げて笑んだ晴明は、
「自分に、聞いてみることやな」
謳うように言った。
琵琶湖は、意外なほど広い。
遠凪の海のようだが、中頃が狭まったひょうたん型の形のために、潮流に似た二つの渦が巻いている。
ウォータースポーツが盛んな琵琶湖で、ボートやヨットでの水難事故が起こるのも、素人では対処できない流れの速さがあるから。
瀬名と保昌を乗せた中型のボートは、淡水の海のきらめく水面を切り裂き、白い波を左右に残しながら進んでいた。
穏やかな波頭が太陽の光を受けて輝き、湖を取り巻く山脈は遠くそびえ立っている。
長浜から出たボートは、陸地に一定の距離を置きながら一直線に走り続けていた。
右側の岸は町と浜の境に植えられた樹木も目視できる距離だが、その反対、左側はまるで見えない。遙かに比叡山の稜線が、すいっと伸びた水平線から突き出て、晴れた空に浮かび上がるだけだ。
「あれが目的の島だ。見えるか?」
湖上の風を避ける船室から出た保昌が、進行方向を指さした。
冷たい風に激しく頬を打たれた瀬名は、船から転げ落ちないように足を踏ん張って目を細める。見た目は波が凪いでいるようでも、中型のボートの大きさではときどき風と波に揺れる。
保昌の指の先に、白いもやが遠くうっすらと見えた。
それは、しばらく忘れていた景色だった。
「あの先にあるってことですよね?」
表情を曇らせながら答えると、保昌は瀬名の顔から視線を島の方向へと向け、眉根を寄せた。
「見えない?」
「すみません」
「謝ることじゃないよ」
保昌は肩を上げるようにして笑った。
都会的に洗練された魅力のある保昌は、どこか無気質な表情が多く、ふと見せる静かな笑みが穏やかな雰囲気を作っている。
「あの島にも、土蜘蛛がいるんですか」
直視が続けられずに、瀬名は目元を手のひらで覆った。
「あれですよね。こういう展開だと、バトルの後で宝箱が」
「残念だけど。それはないと思うな」
「そうなんですか」
「戦ってみたかった?」
「いえ、それは全然ないんですけど」
できれば、遠慮したい。
もう、永遠にでも。
「でも、おれに見えないってことは、土蜘蛛のテリトリーってことですよね。術って言うか」
「あぁ、そうか」
保昌の顔に笑みが浮かんだ。
甘く優しい笑顔は、オンナノコなら一瞬で恋に落ちたかも知れない。
男の瀬名でさえ、目を奪われた。
「これなら、見えるだろう」
「へ?」
くちびるから素っ頓狂な声が出たのは、ふいを突くように保昌の腕が肩を抱き寄せたからだ。
「なっ、はっ」
声にならない声が裏返る。
「暴れると、落ちるよ」
「うわ、うわ、うわ」
言われた瞬間、ボートが小波を越えて、ぐらりと身体が傾いだ。いっそう抱きしめられた瀬名は、あわてて保昌の腕にしがみついた。
ホッと一息。上げた視線の先に。
「あ、島だ」
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