9
公時の褐色の肌から血の気が引いていく。
それはあきらかな肯定だった。
「貞光さんが、そんなこと」
「思い出さなければ、戦力にはならない」
綱の目が、鋭く瀬名をにらみ、そしてふっとあきらめの色を浮かべた。
「そうだろう。瀬名。思い出さなければ、貞光に戻らずに済む」
「オレが、」
瀬名は立ち上がった。
「わざと思い出さないようにしているって言うんですか」
「そうは言ってない」
「言ってるだろ!」
かっとなった。
「オレだって必死なんだよ。父さんと母さんの命がかかってる。きららだって」
「あの女は元からの土蜘蛛だ」
「そんなことない!」
瀬名の怒鳴り声に驚いたのか、初霜がしずしずと公時の影に引いた。
直接に向かい合って、瀬名はくちびるを引き結んだ。
きらら。
大きな瞳と甘い声を思い出すたびに泣けてくる。守りたかった。ずっと、ずっと。もしも、あんな目にあっているのが自分のせいなら、一生悔やんでも悔やみきれない。
一番触れられたくないところに土足で踏み込んでくる綱に、瀬名の我慢も限界に近かった。
「やるのか」
肩のあたりで一振りした綱の手から炎が散った。
「綱さん!」
公時が叫んだが、夕暮れどきで人気も少なく、見られて困る心配はない。
瀬名は一歩前に出た。
綱の炎が、一般の人間に見えるのかどうかは知らないが、いつかは決着をつける必要のあることだ。
遅かれ早かれ、彼とは一対一の争いになる気がしていた。卜部は、綱と貞光は親友だと言ったが、そんなこと信じられない。
少なくとも、桐野瀬名としての自分は、綱にとって気に食わない存在だ。
「あんたが、オレを嫌がっても、オレが貞光なら、あきらめてもらうしかないよ。イヤでも」
「口だけは一人前だな」
振った指先から、炎が糸になって飛んだ。
頬をかすめ、髪の焦げる匂いがする。
ハッと身をすくめた。
瀬名は立っていることに精一杯だ。逃げることさえできない。
ふるえる膝を意地で伸ばして、苦み走った顔立ちに嘲笑を浮かべる綱を怒鳴りつけた。
「ずるいだろ! 腕力で勝負しろよ!」
「どっちにしたって、おまえが俺に勝てるか」
「二人とも、今はそんなときじゃ」
「黙ってろ、金太」
瀬名は振り返らずに声を押し殺した。
「これは俺と綱の問題だよ。決着をつける」
太陽が山かげに落ち、茜色の空に夜の群青が広がり始める。
「瀬名・・・・・・」
力の抜けた少年の声が意味するところを察する余裕が瀬名にはなかった。
湖に背を向けて立ち、一発殴ってやろうと両手の拳に力を込める。
「瀬名!」
気づかなかった。
握りしめた拳から、水滴が一粒、二粒、伝い落ちて桟橋へと溶ける。
「来いよ! やってやる」
盛大にタンカを切って手を斜めに降りおろした瀬名は、自分の目の前を飛び散った雫越しに綱をにらんだ。
「瀬名! 力が!」
叫びながら公時が飛びついてくるのと、
「みんな揃って、ここにいたのか」
今まさに決闘が始まろうとしていることなど知りもしない卜部が割って入ってきたのは、ほぼ同時だった。
綱の肩に手を乗せた卜部は、一呼吸を置くようにメガネを指先で押し上げ、瀬名の両手をまじまじと見つめた。
「綱」
とがめるような声は、瀬名の縮れた髪に気づいたからだろう。
「力づくは厳禁だと、保昌殿がおっしゃっていただろう」
「これは、俺と瀬名の問題だ」
「記憶が戻るまでは、そんなことを言っている場合じゃ」
「これって」
瀬名は両手を凝視した。信じられない。
両手からじわじわと染み出すように溢れていた水が引いていく。
「オレの力って」
答えを求める瀬名の目に、腕へと飛びついたままの格好で公時が笑顔を輝かせた。
「うん。水の性だよ」
綱は、火。
公時は、鋼。
「オレは、水。でも、なにも思い出してなんて」
よけいな期待をさせまいと、焦って口にした瀬名に、
「何事も、きっかけがある。頼光様がみんなをお呼びだ」
卜部がレンズの奥の瞳を細めて言った。
川面を渡る冷たい風が湖畔の木々をざわめかせ、綱が誰よりも先に桟橋を抜けて行った。
屋敷に戻った一同が集められたのは、くつろぐための居間ではなく、正式に顔合わせをした広間だった。
生まれて初めての狩衣姿で、瀬名はあの日、仲間だという男たちと対面した。誰もが自分を知っていて、自分だけが誰のことも知らなかった。
それでも、あるはずの記憶を思い出そうと、こんなに懸命に過ごしている。
襖を開く卜部の後ろで、瀬名は自分の掌をじっと見つめた。水に触れてもいないのに、確かに濡れていた指先。
滴り落ちたものは、確かに水だったんだろうか。
まるで夢のようだと思う。儚いまぼろしは、幻想だ。
「よぅ」
すでに上座に腰を据えた着流し姿の頼光が、片膝を立てたまま、手にした湯呑みをかかげた。
淡く繊細な美貌とは裏腹に、いつ会っても口調は軽薄そのものだ。
そばに控えていた黒髪の少女が、差し出した盆に湯呑みを受け取った。
濡れたような黒い髪は肩についたあたりでやわらかく内側に巻き、つぶらな瞳は漆黒に潤んでいる。小夜鳥は、頼光の身の回りの世話をしている、彼専用の式神だ。
その声は名前が示すとおり、高く澄んで響く。
ひなぎくも、小夜鳥も、『式神』と呼ばれるからには人間ではない。どこから見ても、瀬名たちと変っているようには見えないのに、その本性は別のものだ。
頼光の前に半円を描いて置かれた四つの座布団の、右から二番目に迷わず座った綱はあぐらをかいた。
「御用の向きは?」
腰から背筋がぴんと伸びる。
その声に顔をあげた瀬名は、卜部に促されて綱の横に座った。その隣には公時。
湯呑みの乗った盆を手に、小夜鳥が次の間にいますと退室の言葉を告げるのを待つように、卜部が最後の席についた。
「保昌さんは?」
公時に耳打ちすると、
「あいつは野暮用に出てる。あれ以来か」
頼光から答えが返ってきた。
「あ。はい」
「忙しいのも困りものだな」
「あなたがお命じになっているんですよ」
「道長さまの人使いが荒いのさ」
静かな卜部の突っ込みを笑い飛ばし、頼光はなおも覗きこむように瀬名を眺めた。
「綱ぁ。実力行使は控えろと、わたしは保昌に言づけたと思ったがな」
視線を留めたまま、綱へ言葉を放つ。
振り向く瀬名の視線を受けて、
「時間がないのは、俺じゃないんですよ」
主人からの叱責をかわした。
「おまえはそれでいいだろうさ。でもな、無意識の発動の煽りを食うのは、いつだってこっちだってこと、忘れてくれるなよ。少なくとも、わたしを主人と決めているうちはな」
ちくりと刺す投げやりな口調は頼光のクセだ。慣れない瀬名は二人のやりとりにヒヤヒヤしたが、表情を引き締めた綱は両の拳を足に乗せて頭を軽く下げた。
それで、この話は終わりだ。
「瀬名。何か、思い出したか」
わかっていて聞いているのだろう。美人画のように線の細い頼光の顔に、皮肉な笑みが浮かぶ。それもまた、どこかしら色香が匂う。
「いえ、何も」
男相手にどきりとするのは、何度目だろうか。頼光の前に立つと、相手が男なのか女なのか、正体の認識があやふやになってしまう。
瀬名は小さく息を吐いた。
「すみません。自分が、ふがいないと、思います」
「季武の指導はよっぽどきついらしいな。公時、どう思う」
「マインドコントロールはプログラムに入ってませんよ。それはぼくも確認してます。瀬名さんの気質でしょう」
「瀬名のなぁ」
「人を悪徳宗教家のように言わないでもらえますか」
卜部がメガネのズレを直す。
「そうじゃなかったか」
「そうじゃないんですかぁ?」
「金太まで」
卜部が片手で額を押さえて肩を落とした。
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