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 湖面に映る秋空が揺れて、瀬名は顔をあげた。日暮れはもう、すぐそこだ。

 三本の帆柱がそびえる、赤と白の派手な海賊船が前方を横切っていくのを、瀬名は浅瀬に建立された鳥居の下、湖へと突き出た桟橋に腰掛けて眺めた。

 湖周遊の遊覧船だ。

 木製の桟橋に両手をつけて、瀬名は大きく息を吸い込んでのけぞるように胸を開いた。

 全員の顔合わせからすぐに、卜部は書類を手にやって来た。そこには瀬名の現状をかんがみての、綿密な覚醒推進プログラムが組まれていた。

 この数日、卜部の指導の元にプログラムに従って、写経から始まり、祝詞奏上、読経、精神集中のための座禅と、宗教入り乱れの特訓を受けたが。

 なにも起こらなかった。

 夢にさえも見ない。


「ほんっとに、その人なのかなぁ」


 瀬名の不安はそこに尽きる。

 ありえるものを取り戻そうとしているなら努力のしがいはあるが、そうでないならどうにもならない。

 青く澄んだ空には、風に流された薄雲がちぎれ、朱塗りの鳥居が視界を真横に遮っていた。瀬名の背後には、道路を挟んで神社へと続く石段が、うっそうとした木々に守られながら延びている。

 片手を顔の前に広げた。指の間から鳥居の赤い色がこぼれる。そこへ影が差した。


「金太!」


 後ろからのぞき込んで来た公時に驚いて振り返ると、


「からだが、冷えませんか」


 足元に初霜を従えた少年はにこりといつもの笑みで隣を指さした。


「いいですか。自転車で、ここまで来たんですね」


 瀬名の許可を待ってから、隣に腰掛ける。初霜は背中に寄り添うように丸く伏せた。


「行きは早いから」


 瀬名が運び込まれて、そのまま記憶を取り戻すための特訓を受けている屋敷は、箱根の山中にあった。

 芦ノ湖までは自転車を使って十五分ほどの場所だ。往路はほとんどが下り坂だから、日頃のストレスを晴らすにもちょうどいい。 


「どうして、ここなんですか」


「え?」


「他にも場所ならあるのに」


「箱根と言えば、芦ノ湖だろ。地獄谷は自転車じゃ無理があるし」


 なにを聞かれているのかわからずに答えると、公時は少しさびしそうに表情を曇らせて


「そうですよね」


 素直に肯定する。


「思い出したのかと思ったんです」


「記憶を?」


「貞光さまは、水辺が好きだったんです」


 そういうつもりがあったわけじゃない瀬名は申し訳ない気持ちで眉をしかめた。


「ごめん。全然ダメで」


 公時が振り向いた。

 純粋な子供の目が見つめてくる。

 自分のことは金太と呼び捨ててくれと言った公時は、すぐにでも瀬名がかつての男に戻ると思っていたのかもしれない。

 できるなら早く記憶を取り戻して喜ばせてやりたかった。

 年上ばかりの人間の中で、唯一年下の公時がなついてくれて、いろいろと話しかけてくれることが瀬名には嬉しかったのだ。

 自分が、碓井貞光という男で、その記憶を本当に持っているなら、思い出したい。

 今までの暮らしを取り戻すためにも、方法がそれしかないのなら。

 逃げることなど考えもしなかったのは、きららの笑顔をもう一度見たいと思うからだ。助け出したい。そして、ずっと言えなかった一言を伝えたい。


「卜部さんにも迷惑をかけてるし」


 できる限り考えないようにしている、きららのことを今日も思考の端へと追いやる。


「迷惑なんて。今度はたまたま瀬名さんが記憶をなくしていただけなのに」


「そういうもんなの?」


 日々の特訓にテストがあるわけじゃない。卜部はいつも決まった時間、根気よくプログラムに沿って講義をし、祝詞を一緒に読みあげ、教典の解説をしてくれる。


「そうですよ」


 公時はあっけらかんと言った。


「でも、あの人って、夜遅くまで書類と向き合ってるだろ。本当はすごく忙しいんじゃないかと思うと」


「あぁ、あれは」


 言いかけた公時は、光の加減で緑色に輝く瞳を細めた。


「あの人は会計役なんです。僕らの活動資金は道長さまが援助してくれてるんですけど、名目としては保昌さまを通しての、NPO団体への寄付と言う形になっているみたいで。帳簿が必要なんですよね。体面上」


 子供の口から難しい言葉が出てくるのは不思議だ。


「へぇ」


「今の社会、昔のように使途不明の裏金では通らないんで」


「そっかー。いま、なんだよな。金太には記憶があるんだよな。忘れたことってないの」


 瀬名はごろりとその場に転がった。覆い被さった初霜のお尻を通り抜ける。

 からだに重なられて居心地の悪い初霜が場所を移動する。


「ごめん」


 謝ると、初霜はくるりと向きを変えて、鼻先を瀬名の腕に近づけて伏せた。


「僕は、両親というものを知りません」


 急速に傾いた太陽が、湖面に茜色の帯を流す。


「いつも、僕は生まれたときから、坂田公時なんです。だから記憶を失ったことはないし、他のみんなが現代の名前を持つようには、僕の魂は転生しないみたいですよ」


「どうして」


「どうして、かな。それが魂の造りだと教えられました。綱さんや卜部さんは両親の元に生まれるけど、早々に天涯孤独になったり、片親を亡くしたりすることが多いし、知らないで良い悲しみもあると言われます」


 瀬名は片ひじをついて、からだを起こした。初霜が反応して、片目を開ける。


「瀬名さん。貞光さんは違うんですよ」


 沈んだ雰囲気を振り切るように、公時はことさらに明るい声を出した。


「あなたはいつも両親がいて、兄弟がいることもありました。でも、誰もなくすことはなかった。今まで、一度も」


「一度も」


 瀬名は繰り返した。


「それが、碓井貞光という人間の魂の形を作るんです。あなたが両親をなくすことがあれば、それはあなたが土蜘蛛に負けてしまう時だけです」


「オレは、いままでも家族を守ってきたのか」


 問いかけに公時はうなずいた。


「正確には、ぼくらみんなで守ります。結界を敷いて、時には式や護法を配します。もちろん、他の仲間の残された家族もそうして保護するんです」


 理路整然と説明する公時の横顔は大人びていて、彼が外見の年齢とは全く違う、長い時を過ごしてきた人間なのだと瀬名を納得した。

 一世紀を生きた老人だって、こんな表情を浮かべはしない。

 慈愛とあきらめと、そして強い希望。


「瀬名さん、僕らにはあなたが必要なんです。忘れないでくださいね。いまの僕らが必要としているのは、桐野瀬名として生きてきたあなたの、その幸福さなんです。僕はなにも持たずに生まれるし、綱さんや卜部さんは失いながら成長するから、幸福の本当の強さを知っているあなたが希望なんです。僕らは、もう何度もそうして癒されて」


 初霜が急に立ち上がり、公時は言葉をそこで切った。


「そいつはフヌケになったんだよ」


 冷たく言い放ったのは、綱の声だ。

 ゆとりのあるミリタリーパンツに、柔らかな素材の深いVネックのセーター。

 手にしたキーホルダーをポケットに滑り込ませて近づいてくる。

 瀬名に対して好意的に接してくれる屋敷の住人たちの中で、冷淡な態度を取り続けている唯一の存在だ。


「幸福が、貞光を蝕んだんだ。そこにいるのは、もう貞光じゃない」


「綱さん。いくらなんでも、そんな言い方は」


「瀬名が貞光であることは疑いようもない。でも、こうやって仲間を失うことは、ないとは言えないことだ。そうじゃないのか」

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