6
ここにいる以上、両親ときららを救い出すためにも、郷に入っては郷に従えの精神で行くしかない。
瀬名でさえ信じられないぐらいの現実離れした現状。警察に行ったって、鼻で笑われて追い返されるに違いない。
「わかりました。下着をつけたら、声をかけます」
「えぇ、隣の間に控えておりますので、どうぞお声をおかけくださいませ」
ひなぎくは微笑むと軽く一礼して、入って来た扉とは違う戸を開けて出て行った。
藤のかごは3つある。手前には見るからに柔らかそうなタオルの山。二つめは何も入っておらず、一番奥が着替えの着物だろうか。
瀬名は服を脱いで、二つめのかごに入れた。下着を脱ぐ手前でふいに思い出して、三つ目のかごを探った。
白い布地の上に、下着らしきものが置かれていた。
ボクサーパンツのようなつくりに安心して、着ていたものをすべて脱いでカゴに入れ、脱衣所から風呂場へと入る。
もしも、ふんどししかなかったらどうしようかと、真剣に不安だったのだ。生まれてこの方、つけたことがない。
そうなれば、きっと、同じ下着をつけることなんて、ひなぎくは許してくれただろうか。
「こわっ、」
思わず身震いして、湯気とヒノキの匂いが立ち込める風呂場にしゃがみ込んだ。
床に木製の腰かけと手桶が置いてある。
シャワーは設置されていなかった。水道の蛇口もない。湯は壁から突き出た樋から、浴槽に向かって直接、静かに流れ込んでいる。
すでに溜まりきって、ヒノキの浴槽を伝って溢れていた。
浴槽の湯を使って、頭もからだも洗ってすっきりする。それから瀬名は浴槽にあご先まで浸かって目を閉じた。
思った以上に、平常心だ。
もちろんわからないことはたくさんある。
でも、目の前にあるすべてを否定して、抗おうという気持ちは起こらなかった。
目覚める前に見た夢のせいかもしれない。
走馬灯の前に座る男と瀬名は同化していた。あれは瀬名であり、知らない男だった。でも確かに近づいてきたもう一人と会話をした時、瀬名はそれを自分の感覚として受け止めていた。
親しげだった。立場は明らかに上下関係だったが、お互いに相手を信頼している気安さがあった。
洗脳されているのかもしれない。ここに来てから目覚めるまでの間になにかされて、そう信じ込むようにされてしまったのかもしれない。
綱と公時のような不思議な力は持っていないし、二人が言うような土蜘蛛なんてものに命を狙われる覚えもない。
「おぼえ」
声に出してみた。のどの痛みは引いていた。
まだがらがらにかすれてはいたが、いがらっぽささえ治まったらすぐに元に戻りそうだ。
「きおく」
覚え。記憶。
流れていた走馬灯の絵が脳裏に浮かぶ。
今は、言われる通りにするしかない。自分一人では家に近づくこともできないのだ。それが現実。思い出せと言われればその努力をして、両親は無事だと言われれば、それを信じるほかに道はない。
閉じたまぶたの裏が猛烈に熱くなって、瀬名は手のひらにすくった湯で顔を洗う。
涙がこぼれるのをひたすらに流した。
胸にこみあげる不安も流し去ろうとするように、しばらく繰り返してから風呂場を出た。
身体を拭き、新しい下着をつけて、その下にあった白い襦袢に袖を通す。
用意された着替えはそれだけで、カゴはすぐに空になった。
「あの、すみません」
出て行った戸に向って声をかけると、すぐにするすると開いて、薄い黄色の着物を着直した姿でひなぎくが入って来た。
「こちらへどうぞ。すべてはそのままに」
手のひらで案内されて中に入ると、ひなぎくが戸を閉める。
脱衣所と同じ広さの板の間だが、一部分にのみ、ふち飾りのついたゴザが敷かれ、全身を写す鏡と脇に黒塗りの平たい箱が置いてある。
その中が着物だろう。
「そちらにお立ちください」
言われるままに、ゴザの中央に立つ。
部屋には背もたれのない椅子と、小さなタンスのような小物入れも置かれている。
さっきまでひとつに結んでいた髪をほどいて肩に垂らしたひなぎくは、手際よく着付けを開始した。まずは瀬名が合わせを押さえている襦袢を開かずに整え、もう一枚、色のついた襦袢を肩にかけた。
初めに襦袢と思っていたものが肌着にすぎなかったことに気づいた瀬名は、次々に着せられていく着物に妙な違和感を覚えた。
「あの、これって」
自分の知っている和服とはどこか違う。
袴はわかる。でも、こんなに裾がだぼついていただろうか。
「はじめてご覧になりますか。狩衣でございます」
「って、あの、平安時代の? 貴族が着るやつ?」
「狩衣は民間の者も着用しておりましたよ。貞光さまの好まれました露草の合わせですが、瀬名さまはお気に召しまして?」
「お気に召すも」
なにも。
狩衣なんてコスプレ衣装、着るのも初めてなら、本物を見るのもこれが初めてだ。
青紫のグラデーションの発色が絶妙にきれいなことは確かだが、これが『露草』の色合わせだなんて生まれて初めて知った。
「みんな、これを着て来るんですか」
自分だけ担がれているような気がして、急に不安になってくる。
ひなぎくは手を止めて、にこりと笑った。
「もちろんですわ。ただ・・・・・・、頼光さまはどうでしょうか」
ふふっと笑って、また手を動かし始める。
「それから、公時さまは狩衣ではなく、水干をお召しと存じます」
「水管?」
「すいかん、でございます。水を干すと書きます。菊綴と呼ばれる房飾りがついたものを、おそらくはお召しになりましょう。髪も『みずら』か、『あげまき』にされておいででしょうね」
「みずら?」
「昔の少年の髪型の種類です」
「へぇ。ここじゃ、それが正装なんだ」
「本当に、覚えておいでではないんですね」
どう答えたらいいのか迷う瀬名の足もとにひざをつき、衣服のしわを丁寧に伸ばす。
「これも、何度目でございましょう。何度も同じことをお伝えしてまいりました。覚えておられないことは、悪いことではございませんわ。そういう宿命を背負っておいでなのです」
布から手を離し、少し下がった場所から瀬名の頭のてっぺんから足の先までをゆっくりと眺め、
「よろしゅうございます。昔はおぐしも結いあげて、烏帽子をおかぶりになっておられたんですよ。そのお姿でもしっくりとなさるのは、時代でございますね」
優しい口調で微笑んだ。
両手を揃え、膝の前につき、ひなぎくは頭をさげた。
「ようこそお戻りになられました。
言葉を言い切ってから、さらに深く礼をした。
慣れない狩衣姿が妙に気恥ずかしく、もぞもぞしながら案内された先は、見るからに広間だった。
通って来た廊下から八畳以上はある一室を抜けた先の部屋は、奥に床の間と棚があり、広いスペースが一段上がっている。テレビで見た時代劇を思い出す。将軍がお目見えする部屋とそっくりだ。
手前には、もうすでに見知った顔が二手に分かれて並んでいた。
左手奥に、渡辺綱、手前が一人分開いて、坂田公時。
右手奥はまず一席開いて、手前に卜部が座っている。
みんながいっせいに振り返って、瀬名は息を飲んで緊張したが、前髪を左右に撫でつけ、付け毛だろう輪にした髪を左右に足した公時がにこりといつもの満面の笑みを向けてきたので気がほぐれた。
確かに、みんな同じ格好だ。
公時だけは髪を付け、子供の衣装なのか、飾りのついた形が違う服を着ている。薄緑色が爽やかだ。
瀬名に一瞥を投げて、ぷいと不機嫌そうに顔を背けた綱は赤を基調とした狩衣。
卜部は明るい灰色が基調だった。
視線があった瞬間、ふと表情を和らげ、自分の前の空いている一席を指し示した。
「君の席はそこだ」
瀬名は言われるままに、綱と公時の間に移動した。
畳の上にはふかふかの座布団が置かれていて、
「足は崩していいんだよ」
悩んでいるのを素早く察知した公時が教えてくれる。
「この座り位置って確定?」
案内をしてくれたひなぎくが部屋の隅に座っているのを視界の端で確かめて、こっそり耳打ちすると、
「うん。ずっと昔から」
答えは即座に戻ってくる。
いわゆる上座は、奥だから。
と、瀬名は考えた。そうなると、自分は四番目だ。
綱の前にはもうひとつ、座布団が置かれている。
一段上がったスペースにもひとつ。そこは間違いなく、ライコウと呼ばれる男が座る場所だろう。
「おいでになります」
ひなぎくの声が静かに部屋の中に響き、瀬名も公時も黙って、ふすまが開くのを見守った。
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