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 暗闇。

 真っ暗闇だ。

 右も左も、上も下も、前も後ろもわからない。ぐるりと周りを見渡してみた。

 それさえも確かではないが、首を動かしているという感覚はあった。

 ふわりと明かりが浮いていた。

 白っぽく淡い光だ。

 近づいていこうと、宙を掻いた。やけに柔らかな地面の感触に、からだが安定しない。

 足を使って動こうとするのをやめて、両手で闇をかき分けてみる。ついっと視線が前へと進んだ。

 灯りが近づいた。人影があった。

 赤、青、緑と色を変える光にほのかに照らし出され、近づくごとに輪郭がはっきりとしてくる。

 男だ。広い背中が見える。髪はきれいに撫でつけられ、上部でひとつに結ばれているらしい。毛先もまとめられていた。

 スタンドカラーに似た首もとの襟と袖の影で、和服を着ているのだとわかる。足元は折り目正しい幅広のひだがついた袴が覆っている。

 光は、ひとつの行灯だ。

 五十センチほどの高さで、四角い箱型に細い脚部がついている。箱には薄紙が張られ、色とりどりの影絵の馬が、現れては過ぎ去り、過ぎ去っては現れた。

 薄紙の上をくるくると回っている。

 素朴な走馬燈だ。

 淡く優しい、ほのかな光の色は、あぐらをかいている男の頬のラインから首筋を、柔らかく照らして移り変わる。

 そこへ、声がした。


「また、綱を怒らせたな」


 男の斜め前方、走馬燈の向こうから聞こえた。おっとりと流れるように響く声は笑みを含んだ若い男のものだ。

 走馬燈の前に座る男が答えた。


「公時には悪いことをいたしました」


 投げかけられた声と若々しさは変わらないが、かしこまった口調には折り目の正しさがある。 


「綱の気も知らず・・・・・・」


 声が笑う。


「記憶はそっくり沈めてあるのです。今度ばかりは」


「いつものことではないか」

 

 声がふわりと浮き上がった。走馬燈の向こうから着流しの裾が見え、声の主は男の前に片膝を折る。


「戻ってきたこと、嬉しく思う」


 走馬燈のあかりにほのかに照らし出される顔は、春に咲く白い桜の花よりも美しい。


「いつもとは、違うのですよ」


 懐かしい美貌に、弱い笑みを返して目を伏せた。



 開いたまぶたの暗闇の向こうに、そっくりそのままの涼しげな美貌が、現実感を伴って浮かんでいた。しかも、息がかかるほど近い。

 思わず肩をひきつらせて仰天の表情をした瀬名の、真ん丸な瞳に、


「人を化け物のように見るな」


 夢の中と同じ、おっとりとした口調で言ってからだが離れる。

 両腕が顔のそばから遠のいていくのを見て、瀬名は初めて自分が布団の上に寝かされていると気づいた。

 布団の脇に立って、横たわっている瀬名に一瞥を投げた男は、着物の袂をひるがえしてそのまま部屋を出て行ってしまう。

 瀬名は呆然とした。

 開けられた障子はそのままで、衣擦れの音が遠ざかっていく。

 部屋に残された。

 ぽかんと開いた口を閉じもせず、小さな息を吐いた。

 あの方ときたら。

 そう思った自分に違和感を覚える。

 あの方?

 それは今の男のことだ。

 でも、見たことも、会ったことも、ない。

 部屋はだだっ広い和室だった。二方を襖、もう二方を障子が囲んでいる。天井は高く、欄間は美しい彫り物が施されていた。

 見たことは、ある。

 あの男、見たことはあった。

 銀杏の木の下だ。

 鶴岡八幡宮で見た不思議な男。

 着流しに、長い髪が美しい、白い頬をした、この世のものと思えない美青年だ。

 あの日、官房長官の一條と握手をして昏倒した。それから、瀬名の目は普通ではなくなった。

 生活は少しづつ崩れて行き、そして。

 思い出したとき、開いたままの障子に影が差した。

 スラックスの足元が見え、アイロンのきちっとかけられたシャツを着た男が入ってくる。

 タイはなく、一番上のボタンも留めていないのに、くだけた印象はまったくない。

 細いフチの眼鏡をかけた神経質そうな顔のせいだ。


「私は卜部うらべだ。と、言ってもわからないんだな」


 からだを起こせるかと問いながらそばに座った男は、にこりともせずに枕元に置かれた盆を引き寄せた。

 瀬名はひじをついてからだを起こした。


「これを飲みなさい。滋養の薬だ」


 手渡されたのは、きれいに開いて折り目をつけた薄紙。中に粉薬が乗っていた。

 同時に水の入ったコップを握らされ、瀬名はおずおずと粉をのどの奥に流し込んだ。

 本当はどんな薬なのか、わかったものじゃないが、断りきれるほどの勇気もなかった。

 それ以上に、さっきの青年のインパクトに毒気を抜かれてしまった。

 水を飲み込んだだけで、のどの奥が痛み、それが薬の苦さよりも辛くて瀬名は肩をすぼめてやり過ごす。


「無茶なことをするから」


 卜部が息をついた。

 あきれ声の中に混じっているのは、どうしようもない弟を案じる兄の苦笑いだ。

 兄弟のいない瀬名も、弟を持った友人たちを見て知っている。

 急に、神経質で気むずかしそうな卜部の印象が変わって、妙に身近に感じられてしまうから不思議だ。


「・・・・・・」


 両親はどうなったのか、尋ねようとした瀬名は声が出ないことに気づいた。

 のどの痛みの激しさは、溶けた勾玉のせいかもしれない。


「今は声を出せる状態じゃないよ。今の薬がうまく効けば、しばらくして話せるようになる。安心するといい」


 瀬名はうなずいて応えた。

 ここがどこなのかも聞きたいが、ジェスチャーでは限界があるし、伝えられるとも思えない。

 瀬名は早々にあきらめて、コップを持ったまま、障子の向こうに垣間見える緑を眺めた。

 日本庭園のような庭がある。その向こうには木々が立ち並んでいた。

 かなり広い敷地だ。

 かすかに足音が聞こえ、どんどんと近づいてきて、健康的な少年が顔だけをひょっこりと見せた。


「クスリ、飲めた?」


「いま飲ませたところだ」


 卜部が答える。


「気分はどう?」


 中へ入って来た公時は卜部の隣に座って、人なつっこい笑顔を向けてくる。

 瀬名は指で丸を作って見せた。


「良かった。丸二日、意識がなかったんだよ」


「ぶっ、げほっ」


 驚きのあまり声をあげかけたのが、のどの痛みのせいで「ふつか」と言えず「ぶ」になった上に咳込んだ。


「学校には届けを出してあるし、心配することはない。ご両親は、かわらず土蜘蛛に捕らわれてはいるが、おそらく命を取られることはないだろう」


 瀬名の視線を受けて、


「おそらく、だよ」


 少し申し訳なさそうに卜部は繰り返す。

 嘘のつけない、正直な人だ。


「土蜘蛛が求めているのは、瀬名さん自身だから」


 公時が言う。


「人質として、命をすぐに取ることはないと、僕らは考えています」


「慰めにもならないかもしれないが、ご両親にも身を守るための術はかかっているはずだから。これも記憶があれば心配することじゃないんだが、とにかくも、今は記憶を取り戻すことが重要だ」


 また、「記憶」だ。

 眉をひそめた瀬名をわざと無視したのか、公時はぽんっと手を鳴らした。


「そうだった。ライコウさまがお呼びです」


「それを、先に」


 卜部が静かに顔を向け、公時は子供らしく舌先を見せておどけ、


「すみません。なので、瀬名さん」


 にこりと笑った。


「湯浴みと、お召し替えを」



 六畳はゆうにあるだろう脱衣室で、逃げ回った瀬名はついに部屋の隅まで追い込まれた。指の先が木の壁に触れ、背中があたる。

 もう、それ以上は下がれなかった。


「困りますわ、お手伝いをさせていただかないと」


 追い詰めて来るのは、白い着物を着た若い女だ。長いワンレングスの見事な黒髪を肩に流し、耳の下で一つに結わえている。

 上に着ていた着物を脱いだ下は薄手の長襦袢で、腰に結んだ幅広のひもがベルトのように身体のラインをいっそうはっきりとさせていた。

 目のやり場に困った瀬名は、対角線上の天井の隅を見ながら首をぶんぶんと左右に振った。


「まるで私が、あなたを取って食べてしまいそうな拒み方をなさって。傷つきますわ」


 グラマラスなからだには少しアンバランスに、顔はどこか幼さを残している。

 そこが妙に色っぽくて、瀬名は真っ赤な顔でくちびるを引き結んだ。

 いがらっぽいのどを鳴らして、ガラガラの声をなんとか絞り出した。


「そういうつもりじゃ」


「でしたら、湯浴みのお手伝いをさせてくださいませ」


「いや、それはぁ」


 困りきって首をかしげる。


「わかりましたわ」


 瀬名が寝かされていた部屋までやってきたとき、ひなぎくと名乗った女は柔らかな吐息をついた。時間の制約が、ようやく彼女の決意を翻させるに至ったらしい。

 あからさまにほっと胸をなでおろす瀬名へちらりと視線を送り、


「お着物はご自分でお召しになれますか」


 部屋に置かれた藤のかごを、丁寧に揃えた指で示した。


「え、着物、なんですか」


「はい。久方ぶりのご面会でございますから、本日はこちらをお召しください」


「オレの、服は」


 意識不明に陥っている間に、服はパジャマに着替えさせられていたのだ。


「ございます。ただ、本日は」


 同じことを繰り返す声は有無を言わせない響きだ。

 ライコウさまに会うためには、それなりの格好をしなければならないのだろうと瀬名はあきらめた。

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