4

 三人が降りた駅は、瀬名の自宅への最寄駅。

 目的地はきららの家だろうと瀬名は考えた。

 公時は落ち込んだ表情で歩いている。

 移動の間に落ち着いてきた瀬名は、言い過ぎたと罪悪感を覚えた。

 善と悪を見極めるほどの力量も情報も持ち合わせない自分が、責めるだけ責めてしまった。自分よりも幼い彼を。

 後ろから遅れてついてくる綱はともかくも、年少者にとる態度ではなかったと思う。


「その熊は、出したり消したりできるんだね」


 何を話しかけていいのかわからず、瀬名は一番に目につくものを話題にした。

 ハツシモは大きなおしりを右へ左へと振りながら、二人の前を歩いている。


「初霜は、僕のゴホウです」


 瀬名を見上げた公時は、話しかけられたことがよほどうれしいのか、イキイキと声を弾ませた。表情も一瞬にして明るくなった。


「今日のような場合は重宝するんです」


「ゴホウ? って、なに」


「護法です。法を護ると書きます。まもるは、ゴンベンの。簡単に言えば、教典などを守護するもののことで、それを学ぶことによって操る力を得られるんです」


「へぇ、すごいんだな」


 思わず声をあげると、


「僕の、ちょっとした特技みたいなものです。綱さんも使えませんし」


 公時は照れくさそうに笑ってにうつむいた。


「いつも、同じように褒めてくれるんだから……」


 小さなつぶやきは、瀬名までは届かない。

 なんて言ったのか、たずねようとしたところで公時が視線をあげた。


「初霜は人の体現できないスピードで動くことができるし、妖気をすばやく感知できます」


「ふぅん。いわゆる式神ってやつ?」


「その知識はあるんですね」


「マンガで読んだだけだよ」


「式と護法は、大元になる信仰に違いがあるだけなので、仕組みとしては変わりありません」


「で。どうして、小熊なの」


 前を行く初霜の揺れるオシリは大きくて愛嬌がある。


「それは」


 公時がくちごもった。


「キンタだからだよ」


 答えたのは、後ろを歩く綱だ。


「足柄山で一番強いのは熊だからな」


「護法も式も、使う者の意識が反映します。僕の場合は、小熊が一番記憶にあったので」


「小熊が記憶にあったって。それって、動物園で一番好きだったってこと? じゃあ、オレなら」


「瀬名。マメ。気楽に話してるのはかまわないが、状況は理解しているんだろうな」


 話の腰を折られて、むっとした瀬名は肩越しに振り返った。高い位置から見下ろしてくる視線で冷たくあしらわれる。


「わかってるよ」


 素直に答えた公時が、瀬名を見た。


「考えないようにしているのもわかってますから。でも、覚悟してください。彼女はもう元には戻りません」


 ぎくりとした。それが顔に出たのを見て、公時の表情に苦さが浮かぶ。


「彼女に土蜘蛛に操られているんじゃなくて、彼女自身が土蜘蛛なんです」


 公時の言葉に合わせるように、初霜の足が止まった。

 家まであと数メートル。

 きららの家ではなく、瀬名の実家だ。

 立ち止まったのと、ほぼ同時に瀬名はきつく目を閉じた。激しいめまいに加えて、こみ上げる吐き気が止まらない。

 なんとか立ってはいられるが、誰かと一緒でも、ここから先へ進む気にはなれなかった。

 住み慣れた我が家が、まるで別の空間に飲みこまれてしまったように、静かすぎる佇まいで建っている。


「マメ」


 綱が呼んだ。うなずき返した公時は身体ごと向き直った。二人は道の端で向かい合う。

 日の暮れた住宅街の片隅で、瀬名のいる空間だけが非現実的だ。静かなのは、瀬名の自宅だけではなかった。どの家も静まり返り、人の気配さえない。

 いつもなら、この時間は帰宅を急ぐ近所の家族が何人か通っているはずなのに。

 今日は誰も通りかからない。

 視線を合わせるためか、片膝をコンクリートについた綱が握った手指を下にして拳を差し出す。

 吐き気をこらえるために口元を手で覆っていた瀬名は、目の前で起こった信じがたい光景に思わず両腕をだらりと下げた。

 開いた口がふさがらない。

 公時に向かって差し出した拳を、ゆっくりと反転させながら、指をもみ込むしぐさで開いた綱の手のひらから小さな炎が燃えている。

 まるで手品だ。

 タネも仕掛けもない、手品だ。

 手のひらサイズの炎は、揺らめき立ち上り小さくはぜている。

 その上へと、公時が手をかざした。

 ゆったりと風を起こすように振った手から、今度は銀に輝く砂のようなものがちらちらとこぼれ落ちる。

 二人の手のひらの間で、炎が激しくまたたき、赤い色が青に変わり、瞬間の発光が起こった。

 音もなく、花火は散った。

 降り注ぐ銀砂と、燃え尽きない青い炎の中に、小さな塊が浮かんでいる。

 綱がそれをもう片方の手で取った。二人の繋がりが解けた。

 砂と炎は消え、後には何も残っていない。

 手に載せた塊を公時に見せ、うなずくのを確かめてから、綱は大股に近づいて来た。。


「これを口に入れてろ」


「って、なに。それっ」


「見ての通り。なにの変哲もない勾玉だ」


「見ての通りって! いま、おまえら、なにを!」


 綱が指でつまんでいるのは、たしかに勾玉だった。瀬名が社会科の便覧で見たことのある写真と同じ形をしている。

 だけど、こんなに玉虫色に光っているなんてどこにも書いていなかったはずだ。瀬名は不信感をあらわにして綱を見上げた。

 少なくとも、本物の勾玉は石を削ったり研磨したりして作られるもので、人が手のひらから火を出したり、砂銀をかけたりして生み出すものじゃない。


「いちいち説明するのも面倒なんだよ。ったく。毎回、世話がやける!」


 ぐっと襟首をつかまれ、もがこうとするよりも早く鍛えられた腕に抱き込まれた。

 抵抗なんて、考える方がおろかだと言わんばかりの力強さが、腕から、胸板から、容赦なく暴力的なまでに伝わって来たが、いっそう男しての抵抗心を刺激されて、瀬名はばたつく。

 無理矢理に押しつけられた勾玉の感触は、つるんと磨かれた石のそれとよく似ていて、意外にもイヤな感じはしなかった。

 固いものをぐいぐい押しつけられる痛さに、思わず開いた口びるの間へとさらにぐりぐり押し込まれ、逆らいきれずに受け入れた。


「手間、かけさせやがって」


 瀬名と同じぐらいに息を乱して、疲労困憊を絵に描いたような姿で綱は前髪をかきあげた。


「気分は?」


 聞かれて、瀬名は勾玉を口に含んだまま、自分の胸をなで下ろした。

 さっきまでの気持ち悪さが遠のいていた。嘘みたいに。

 それどころか。


「あれ、初霜は?」


 あたりを見回した。

 公時のそばにいたはずだ。たしか。

 おとなしく後ろ足を折って、ついさっきまでちょこんと座っていた姿が見えない。


「効いたね、綱さん」


 公時がにっこりと笑う。


「それで、力のコントロールができないおまえを押さえてる。おまえが思うところの『元の状態』だよ。中には入れるだろう」


 おもしろくなさそうに投げやりな口調で言った綱は、両手を腰にあてた。

 鋭く物事の真実を見つめようとする彼の視線は、瀬名が暮らし慣れた、住宅街の中のどこにでもありそうな一軒家に向けられていた。

 先に動いたのは公時だ。

 おそらく、その前には見えなくなった初霜が進んでいるのだろう。促されて後についた。

 自分の家なのに、人の後から入るなんて不思議な感覚だと、瀬名は思った。

 綱はまた遅れて後に続いて歩いている。

 見えていたものが見えなくなった代わりに、口に含んだ勾玉は氷のように冷たくなったり、熱湯に浸したように熱くなる。

 そのたびに驚いてからだを震わせたが、口の中の皮膚を傷つけるほどの激しい変化はない。

 家の中はいつものままだった。たったひとつ、不自然な静けさを除いては。

 誰もいないのかもしれない。

 でも、こんな無音はありえない。

 普通、人間の耳には常に何かの音が聞こえているはずだ。

 それは風の音だったり、電気製品が放つ音波の揺らぎだったり、自分のからだの中を流れる血液の音だったりする。

 それが、なにもない。

 まったくの静寂。

 作られた、偽物の空間。

 言葉が脳裏にひらめいた。

 だから瀬名は、靴を脱がずに家へとあがる公時を止めず、自分もそうした。

 ここは自分の知っている家の形を取った、まったく別の空間だ。

 何度も、目の前の公時の背中を確かめた。

 気がおかしくなりそうだ。できるなら触れていたい。自分がどこにいるのか、なにをしようとしているのか、わからなくなりそうな怖さが静寂の中に淀んでいる。

 それなのに、迷わずリビングへ向かう公時の小さな背中には、閉塞感に動じるそぶりもない。ぴんと伸びた背筋を、瀬名はただただ追いかける。

 リビングの扉は、待ちかまえるように開かれていた。

 中をうかがいながら一歩を踏み入れた公時が急に立ち止まり、瀬名はその背中にぶつかった。頭越しに、リビングが見えた。

 そっくりそのまま、いつものままだ。

 テーブルに置かれた父親の新聞。

 ソファのクッション。

 母親の飾った花。

 朝に見た景色と、違うところをひとつ見つけた。

 太陽のように開いていたガーベラが、花びらを落としもせずに枯れている。

 そして。

 部屋のささやかなシャンデリアと同じように、両親が天井から下がっていた。

 瀬名の目には、宙に浮いているように見えた。両手を両脇にぴったりと付け、足もぴったりと閉じて、二人のからだ背中合わせに斜めになって浮いている。

 息を飲み込まなかったのは、口の中に勾玉があったからだ。瀬名は舌先で、その温度の変化を確かめた。

 いま、平常心を約束してくれるのは、音のない世界で唯一の変化をくれる、この小さな、石のようななにかだけ。

 ふるえるような深呼吸を繰り返した瀬名は、両親の足下に立つ少女に気づいた。

 いつから、そこに立っていただろうか。

 部屋に入ったときから、そこにいただろうか。

 ほどけた髪もそのままに、両胸へと長いウェーブを垂らしたきららは、破けた制服のスカートから細い脚をあらわにしていた。

 視線が合った。

 ふっと細められるまなざし。

 あどけなさの残る頬。

 長いまつげが影を落とす微笑み。


「きらら!」


 いつものきららだった。

 じゅうたんを蹴るようにして走り出した瀬名を引き止めようとした綱の手が肩をかすめた。


「戻れ!」


 叫びの届くわけもない。


「だいじょうぶか、きらら」


 両肩を掴んで、顔をのぞき込んだ。

 いつもの微笑みだ。

 大好きな幼なじみの甘い笑顔。

 俺がいるから大丈夫だと、口にしかけた瀬名は黙った。

 勾玉が泡のように弾ける。


「!」


 きららの後ろに、白いもやが立ちこめた。

 それは部屋中に張りめぐらされた無数の細い糸だった。両親を絡め、壁や天井から複雑な文様を描いて延びている蜘蛛の巣。


「行けッ、初霜!」


 公時の声が耳の奥に響いた。

 意識が黒く塗りつぶされていく。


「きら、ら・・・・・・」


 微笑みはいつものままだ。けれど、確かな現実がそこにある。

 受け入れがたい、非現実的な真実。

 透明感のあるバラ色の頬に、点滅するように黒と黄色の縞模様が浮かぶ。

 まるで、あざやかな、女郎グモの背中だった。     

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