3

 きららの髪が揺れた。


「どうして答えてくれないの」


 柔らかそうなくちびるがゆっくりと繰り返し動く。


「瀬名、なぜ、口づけてくれなかったの」


 悲しげな表情がまっすぐ瀬名へと向けられた。

 髪を結んでいるリボンがほどけ、長い髪が逆巻いた。風なんて吹いていないのに、きららの足下でだけ砂塵がうずを巻く。

 小熊がうなり続けている。


「退がってください」


 いつのまにか駆け寄ってきた少年に腕を引かれた。


「離してくれ」


 乱暴に振り払ったが、相手も簡単には引かない。

 年齢にそぐわない豪力に引きずられた。

 きららの瞳から、涙がひとしずくこぼれ落ちて、やわらかな丸みの頬に、はかないラインを描いた。


「きらら」


 叫んだ声に、きららが顔を伏せる。

 強いつむじ風が彼女のまわりを激しく回り、どこからともなく白いモヤが湧き出す。

 あの、白い糸の固まりだ。

 きららの肩が揺れる。


「あぁ」


 小さな声が聞こえた。

 それが、きららから聞こえたと認識するのに、瀬名には数秒が必要だった。

 あまりにも低い声だったからだ。


「おのれ・・・・・・」


 暗い声だった。


「もうわずかの、ことであったものを」


 つぶれた喉が発しているような、ひび割れたうめきが聞こえて来る。

 うつむいたきららは、口元から白く濁ったモヤを、かすかな息のように断続的に吐き出す。


「あきらめまいぞ」


 きららが、指でくちびるをなぞり、素早く宙に伸ばした。きれいに整えられた爪の先から、きらりと何かが光った。


「ハツシモ!」

 瀬名を守りながら、少年が声をあげる。

 小熊は素早く、呼ばれるよりも先に動いていた。瀬名に向って飛んでくる何かを、食いちぎるようにして止めた。

 ほぼ同時に、今まで静観していた男が叫んだ。


「マメ! 貞光を守れ!」


「はい!」


 少年は声に応じ、綱が走り出す。

 きららはふわりと浮き上がり、綱を避けるために、二幅後ろへ下がった。

 急激に動いた白いモヤが、そのからだを覆いつくす。

 もう瀬名の目にはなにも見えなかった。

 白いモヤもやがて拡散して消えた。

 残ったのは、呆然と立ち尽くす自分自身と、綱と公時、そして小熊のハツシモ。三人と一匹だけ。


「きららは」


 息を吐き出すようにして口にした質問は、


「あの人は『人間』じゃありません」

 自分の元へと戻ってきた小熊のそばにしゃがみこんだ少年に拾われた。

 太い首に腕をまわして、ふかふかとした毛並みに指をうずめる。


「人間じゃ、ない?」


「あいつは『土蜘蛛』だよ。それもかなり育ってる」


 繰り返した瀬名に、綱はこともなげに言った。言葉を選んで話す公時とは正反対だ。


「まだ思い出せないのか」


「綱さん」


 公時が責めるような口調の綱を小さな声で押し留める。


「なにを、思い出せって言うんだよ」


「その忘れてることをだ」


「綱さん。ものには順序が」


 小熊の首を離して、公時が立ち上がった。


「瀬名さん、あなたの本当の名前は、碓井貞光と言います。今は忘れているかもしれないけど、僕らの仲間で、ずっと一緒に戦って来ました」


「それって、前世がどうとか言う? なんか、新手の宗教か何か?」


「……瀬名さん」


 公時が目を伏せる。


「敵は、『土蜘蛛』です。あなたの幼なじみの振りをして、つけ込む隙を探していたんでしょう」


 困惑した表情で続けた。


「さっき、キスしてたら、おまえはもう魂ごとあいつのものになってたかもな」

 公時の頭に手を置いて、ぐりぐりと乱暴に撫でまわしながら綱は鼻で笑った。


「きららは、きららだ」


「そう思いたい気持ちはわかります」


 綱の手を両手で掴んで外した公時は、乱れた髪を気にもしない。


「ずっと、だまされてたんだよ、貞光さだみつ。いや、瀬名か」


 歩み寄ってくる綱を、にらみつけた。


「きららは、そんなんじゃない。なにか、悪いものにとりつかれて」


「そうやって信じるのは勝手だけどな」


「あの土蜘蛛はもっと時間をかけるつもりだったんだと思います。あなたの家の周りに張り巡らされた結界は手の込んだものだったから。このままなら探し出せないところでした」


 公時は一生懸命に説明を続ける。


「道長さまにお会いになったでしょう。八幡様で」


「え」


 瀬名の戸惑いは取り残される。


「あれで、掛かっていた呪が、呪いが、ほどけたんです」


「必死に取り繕おうとした結果が、今だ」


「土蜘蛛は結果を急いだんです」


「きららが、・・・・・・俺を、殺そうとしてたって言いたいのか?」


 瀬名は後ずさった。


「そんな話、どうして信じられる」


 その腕を、綱に掴まれた。


「死にたかったのか。そんなことで、魂が朽ちないとわかってるはずだろ」


 瀬名は言葉を失った。

 投げかけられる真実が胸に突き刺さる。

 信じたくない気持ちと、受け入れようとする無意識が、自分の中に混在していた。

 ずっと否定してきた『非日常』が、平凡じゃない何かが、現実の平和を壊そうとしている。


「こういうの、トンデモ話って言うんだよな。あのさ、オレは幸せに生きてきたんだ」


 絞り出した声がみっともなく震える。


「どうして邪魔するんだ」


 腕を放そうとしない綱が答えた。


「邪魔をしたいわけじゃない。失うわけにいかないからだ。大事な戦力を」


「勝手なことを言うな! おまえたちがきららをあんなふうにしたんだろう! きららを元に戻せよ!」


 表情を少しも動かさない綱を見ていると、瀬名の中に表現できない怒りが湧いてくる。


「やめてください。瀬名さん。僕たちじゃありません」


「やめろ、マメ」


 綱は静かな声で、少年を愛称で呼んだ。

 ゆっくりと首を左右に振る。


「わかるわけがない。こいつに貞光の記憶はないんだ。俺たちの何千年は存在してない」


「でも!」


「おまえたちさえ現れなければ!」


「うるさいんだよ!」


 もう片方の手で瀬名の胸ぐらを鷲掴みにした綱が気色ばんだ。


「つ、綱さん!」


 その腕に、公時が飛びついた。


「離せよ、マメ。一発、殴ってやんなきゃ、俺の気がすまねぇ! こっちが下手に出れば、幸せ幸せって繰り返しやがって! そんなヤツは貞光じゃねぇ!」


「覚えてないんですよ! 綱さん、自分で言ったばかりじゃないですか!」


「くそっ!」


 大声で叫んだ綱が、突き飛ばすように腕を離し、瀬名は勢い余って尻もちをついた。


「だいじょうぶですか」


 公時があわてて駆け寄って来る。

 腕組みをしてそっぽを向いた綱は、怒りを持て余しているのか、むすっとした目で遠くをにらみ据えていた。


「瀬名さん、あなたは今だけが幸せなんじゃないんですよ」


 公時に顔をのぞき込まれる。


「貞光さまの周りには幸福が集まってくるんです。そういう方なんです。・・・・・・あなたは。瀬名さん」


「集まってくる?」


 尻もちをついたまま綱をにらんでいた瀬名の声に、公時は子供の笑顔でうなずき、


「だから、僕らも失いたくないんです。戦力なんて、それだけじゃない」


「それ以上、言ってやる必要はねぇよ!」


 綱が苛立ちをぶつけるように怒鳴り、首をすくめた公時がちらりと舌を見せた。


「とにかく、現実を受け止めるところから始めてください。もう、どこにも行けないんですから」


 立ち上がるのに手を貸してくれた公時の言葉に、瀬名は細く長い息をついた。

 それは、こんなオカルト話を、他のどこにも持ち込めないと言うことなんだろうか。

 何が起こっているのか、現状を把握することも困難だ。幼なじみが化け物になって、自分は誰かの生まれ変わりで、化け物たちと戦う運命にある……?

 どこから道をはずれたんだろうか。

 ため息にも深呼吸にもならない息づかいで、瀬名はそれでも現実を受け止める。

 走って逃げたところで、この現実からは逃げ切れそうにない。自分の頬をつねってみても、きっと夢は醒めないだろう。

 もう巻き込まれているのだ。踏み外してしまった道を、自分の足で戻るにも様子を見なければどうしようもない。

 公時の言葉を、瀬名は頭の中で繰り返した。

 とにかく、現実を受け止めるところからだ。

 しかし、それよりも重要なのは後に続いた言葉だと、瀬名には理解できなかった。


「とりあえず、行き先を追うか」


 綱が言った。


「信じてない顔してんだな。まぁ、任せておけよ。パニックになるのはまだ早い」


 行くぞと声をかけられた公時が、反射的に瀬名へと顔を向ける。

 拒むことはできなかった。

 三人と一匹で駅まで向かう。移動は電車使用だった。

 特にそのことに対して触れなかったのは、瀬名の思考力が考えるということを放棄していたからだ。

 ハツシモは電車に乗る頃には姿を消し、目的の駅につくとどこからともなく現われて、しゅんとうなだれながらも瀬名の隣を歩く公時のそばに付き従っていた。

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