【2】
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足にひじをついた手で、両目を覆った瀬名は、おそるおそる指を開いた。
冷たく湿った秋の川風は、枯草を揺らして、鈍色の空の下、河川敷を吹き抜ける。
きららを待っていた。
高校から駅とは反対に進んだ先にあるせいか、秋の夕暮れで肌寒いせいか、人気のない公園のベンチに座っているのは瀬名だけで、さっきまで二匹の犬を散歩させていた老年の女性もいなくなった。
見下ろした靴のそばまで、もやが這うように近づいている。瀬名の周囲十五センチを除いて、公園は白いモヤで埋め尽くされていた。
視界がきかないのは、地面だけだ。今までにはなかったパターンにも驚かない。
それほど、もやは頻繁に現れるようになっていたからだ。
間近で見るそれは粘り気を持っていて、なのにまるで波のように揺れている。
怯えるように一息引いては、勢いをつけて二息押し寄せ、靴に触れたかと思うとゆっくり制服のズボンに絡まりながら昇ってくる。
今まで見えなかったものを、感じるようになってしまった事実を、静かに考えた。
それどころじゃない現実のことは、考えの端にも浮かばない。
瀬名が考えたのは、もやと小熊と少年と青年のことだ。瀬名を知らない名前で呼び、戻って来いと命令した。
あの男が言っていた。その言葉を考えている。
否定すればするほど、毎日を明るく過ごせば過ごすほど、切り捨てることができない。
『見えるものを見ないようにしている』
そんなつもりはなかった。
霊感なんて瀬名にはない。今まで、不思議なものを見たことも感じたこともないし、怪談やホラー映画も人並みの楽しみ方しかして来なかった。
だからこそ、ある日突然に目覚めてしまったなんて、とてもじゃないが考えられない。特別なんて望んでいないし、平凡なのが平和で一番いいと瀬名は思っていた。
だけど。
現実は瀬名を裏切り続けている。
もやはいつしか、瀬名が一人でいると発生するようになった。呼び寄せられるようにどこからともなく押し寄せてくる。公園に人気がなくなったのを見計らったかのように、もやがまとわりついてくる今のような状態だ。
気のせいで済む段階を超えてしまったと、足もとに絡みついたもやを見下ろしながら瀬名は思った。
まるで蜘蛛の糸に絡められた小さな虫のようだ。
動こうとすると、もやはきつく締まる。
瀬名は両目をふさいだ。
もう全身を包まれている。心なしか、息が苦しくなる。
あの夜と同じだ。二人と一匹に会った夜。
あの日から、現象は悪化した。
逃げなければ危険だと心臓はさっきから警告の鼓動を早鐘のように打っているのに、からだが裏腹に言うことを聞かない。
瀬名は思った。
ぼんやりと。
これは、学園ドラマや恋愛ドラマの筋書きじゃない。
瀬名が一番に求めていた、平凡で幸せな日常にも分類されていない。
そもそも、どうしてこんなことになったのか、それを考えようとする度に思考がストップする。
いよいよ喉元が苦しくなってきた。
短い息を繰り返し、瀬名はからだを前倒しに小さく丸めた。無数の細い糸のようなモヤがぐっと締まる。
意識が遠のいた。
視野がモザイクのように割れて欠けていく。
苦しさにもがくほど、糸はからだを拘束して、瀬名は抜け落ちた視界の暗闇の中に人の姿を見た。
肩に滑るやわらかくつややかな髪。
白い頬に凛と涼やかな瞳。
無意識に呼びかけようとした瀬名の声は、細糸にのどを絞めあげられて呻きにしかならなかった。
どこかで見た、それがいつだったか。
思いだそうとする端から、記憶はあの二人の姿に変わる。
いったい、自分をどうしたいのか。
この現象から救おうというのか、それとも、すべてはあの二人が発端なのか。
瀬名は苦しさの中で、糸をほどく努力を放棄した。
自分にはわからない。なぜ、こんなことになるのか、理解できない。
「瀬名!」
白いもや。
髪の一本よりも細い糸。
絡まる。絡まる。絡まる。
「瀬名! 瀬名! しっかりしてっ!」
傾いだ身体を支えられた。
細い二の腕、やわらかなバストの弾力。
聞き慣れた、きららの甘い声が叫んでいる。
ベンチからすべり落ちた瀬名は、土の上に膝をついた。
「がはッ!」
急激に解放された呼吸器へと一気に空気が流れ込んできて、瀬名は大きくむせ返った。
同時に、欠けていた視野が回復して色も戻る。
「しっかりして、瀬名」
のぞきこんできたきららの瞳に、うっすらと涙が浮かんでいた。
「死んじゃうんじゃないかと思ったよ」
声が弱々しく震えている。
「平気、だよ」
片手できららの手に掴まり、大きく息を吸い込んだ。
もやは晴れていた。
いつもの通り、きららがいれば、もやは近づいて来られないのだ。
「なにか、思い出したの」
自分に特殊な能力があると気づいていないきららがささやいた。やさしく気づかってくれる声に、瀬名はふと笑顔を浮かべた。
彼女といれば、もうモヤに苦しむこともなくなる。そう思った瞬間、瀬名は首を傾げるようにして幼なじみを振り返った。
「どうしたの」
「いや・・・・・・。思い出すって?」
きららの問いかけには脈絡がなかった。何をと、さらに問い返そうとした瀬名の言葉は、きららの微笑みの穏やかさに奪われた。
「そう、それならいいの」
爪がさくら貝のように小さな指に、そっと頬を撫でられる。
「心配したんだよ」
いつになく甘い響きに、瀬名は緊張した。
涙でうるんだ瞳に映る自分の顔が揺れている。
「瀬名」
そっと閉じていくまぶた。
長いまつげが二度ほどふるえた。
やわらかなきららの頬に、てのひらをあてる。ひんやりとしているのは川風のせいだろうか。
いまの自分を救ってくれるのは、信じていられるのは、きららだけだと思えた。
そばにいて欲しい。
ずっと、そう思ってきた。
一瞬、ぐらりと揺れた視界に軽くかぶりを振って、瀬名は少しだけ首を傾けた。
くちびるが、重なる。
と、思ったときだった。
激しく吠える犬の声に瀬名はびくりと背筋を正した。きららから、からだを離して、勢いよく振り向いた。そこには。
犬と言うには、やはりずんぐりとして、毛並みがワイルドすぎる姿。
短い手足を土の上にこれでもかと踏ん張って吠えているのは、小熊。
名前は、確か、ハツシモ。
「どうしたの」
急に離れた瀬名を不審がるきららは、大きな瞳をパチパチさせている。
「え、だって」
あからさまに異質な河川敷公園に現れた小熊と、間近でひざまづいてキスを待っていた美少女を見比べた瀬名は焦った。
「見えて、ないのか?」
「どうしたの、だいじょうぶ?」
きららには見えていない。
あの時、小熊をつれた少年もそんなことを言っていた。普通の人間には見えない小熊だから、見える瀬名にはチカラがあるんだと。
思い出した瀬名の頬が、ぴくぴくと引きつった。
「瀬名さんっ!」
呼びかけながら、こちらへ向かって駆けて来るのは、小熊の飼い主の、あの少年。
袖を掴んでいる、きららの指に力が入った。瀬名はきららを背中にかばった。
少年のことは見えている。だとしたら、その後ろから悠々と大股で近づいてくる男も見えているはずだ。
大学生ぐらいの若い男で、肩幅が広くて足が長い。彫りの深い顔は目鼻立ちがはっきりしていて、あごに短いひげを生やしているのがワイルドでふてぶてしい雰囲気に拍車をかける。
「野暮は言いたくないんだけどな」
男は小熊の後ろで、長い脚の動きを止めた。
キャンバス地のスニーカーから顔へと、瀬名は男を見上げた。
「わかってて、その女とキスするつもりか」
「よけいな、お世話」
声がのどでもつれてかすれた。
言われた内容よりも見られていたことが恥ずかしくて、ハツシモの鳴き声に驚いた動悸の激しさに加えて、首もとが熱くなる。
「瀬名、誰なの?」
背中に隠れるようにしながら、きららが聞いてくる。すっかり怯えて、少し震えているみたいだ。袖を掴む指に手を重ねると、男は両手を腰にあてて顔をしかめた。
「俺が
不遜げに、きららへ向かって言った。
「これだけの結界を張るんだ。そいつの力を吸い取るぐらいの実力はあるんだろ」
「あの人、なにを言ってるの」
きららは怯えきった声ですがって来る。
背中でかばいながら、瀬名はゆっくりと立ち上がった。きららも従って、ゆっくりとひざを地面から離した。
「そっちは?」
瀬名は問いかけた。
「坂田、
小学生にも見える少年は悲しげな目をした。
日に焼けた肌と赤茶けた髪に似合わない暗い表情だ。
「・・・・・・ご自分で、気づいて欲しかった」
子供らしくない物言いで、胸の前にゆっくりと腕を差し伸ばした。
足もとに従った小熊が土に伏せ、うなり声をあげた。
「瀬名、とめてッ!」
きららが悲鳴を上げた。
少年が差し伸ばした手を、自分の肩へと引き寄せる。
「やめろ!」
とっさに瀬名は叫んだ。
少年が引き寄せた手で宙を切った直後、吠えた小熊が土を蹴って飛びかかって来た。
狙いはきららだと直感した。
背中にかばったまま、瀬名は腕で顔を覆った。
小熊とは言え、鋭い爪はじゅぶんな恐怖に値する。
「いやぁ!」
きららの悲鳴。
なにが起こったのか、理解できないまま、瀬名は振り返った。
スカートの裾を引き裂かれたきららと、瀬名に向かって突進していたはずの小熊が対峙している。
きららは瀬名の真後ろにいた。
小熊はかばって立つ瀬名の身体をすり抜け、きららへ攻撃したのだ。
「瀬名!」
小熊を見つめたままの姿勢で、恐怖で表情を失ったきららが叫んだ。それは悲痛な声だった。
引き裂かれたスカートから見えるふとももがハッとするほど白い。
「どうして迷うの」
きららが言った。
小熊は瀬名を守るように背中を向け、きららへ飛びかかる体勢を崩さない。
「迷ってなんて」
答えかけた瀬名は、きららと小熊の間に割って入れない自分に気づいていた。
心臓は早鐘のように鳴り、恐怖でてのひらが汗ばんでいる。
きらの言葉の通り、迷っていた。
それは、事実だ。
「きらら、いつから見えてたんだ」
その、小熊が。
瀬名は混乱しながら口を開いた。
「見えていないふりをしたのか」
そんなはずはない。
きららは見えていなかった。
今も見えていない。
きららは怯えている。なにも知らない、かよわい少女だ。
自分へと言い聞かせれば聞かせるほど、湧き出す疑念が瀬名をがんじがらめにしていく。どうして、こんなに、自分に言い聞かせているのか。
「瀬名。私より、そんな人たちを信じるの」
きららの声が遠く聞こえた。
息苦しさと、迷いと、疑念が、瀬名の正常な意識を狂わせていく。
「信じる?」
こめかみに走る痛みを押さえて、瀬名は繰り返した。どうして、話がわからないのだろう。
綱と名乗った男の言葉の意味も、きららの話す内容も、瀬名だけが理解できていないようだ。
二人には通じているのだろうものが、なぜ、自分にだけわからないのか。
なぜ、いま、なにも答えたくないと、思うのだろう。
またすべてを否定しようとする自分に、瀬名は気がついていた。
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