鬼退治が前世なんて、そんなの嘘です。
高月紅葉
【1】
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晴れ渡る青空は、水色。
そして、雲一つない。
大きな湖をさかさまにして張り付けたみたいだと、桐野瀬名は思った。
季節のせいか、いつもより空は高い。
「あれ? 瀬名、おまえって今日当番だっけ」
後ろから駆けてきた二人組が、追い越しざまに声を投げてくる。第二体育館に向かってぶらぶら歩いていた瀬名は、空から視線を戻して軽く手をあげた。
「代理、代理」
「そりゃ、ご愁傷様」
「先に行ってるからな。うわ、なんだ? 押すなって」
肩をぶつけてふざけ合い、笑い声をあげて飛び跳ねながら、先を急ぐ同級生の後ろ姿に、
「バッカだなぁ」
心からの呟きをこぼして、瀬名はその先にある体育倉庫を見た。
重い息を吐いて、歩調を緩める。
空を見上げた。澄んだ空はきれいだ。視界はクリアで良好。
行く先にある第二体育館とは大きな違いだった。
授業の準備当番を代わってくれと頼まれて軽い気持ちで応えたのは、今日の授業場所が第二体育館だとは知らなかったからだ。
別教科の教師に呼ばれていた本人は、「それじゃあヨロシク!」と、何事もないように教室を飛び出して行ったが。
無理にでも引きとめれば良かった。
瀬名にとっては、よろしくで済むほど簡単なことではない。
気が重い。ずっしり重い。
どこの学校にだって七不思議はあるはずだ。
校庭を銅像が駆け回るとか、人とは思えない速さで無音のまま泳ぐ真夜中の水泳部員だとか。
七つを埋めるのは、冗談めかしたものからシリアスなものまで取りそろえられているのがセオリーだ。
この学校に伝わっている七不思議も、お笑い系からシリアス系まできっちり網羅しているが、第二体育館倉庫と言えば誰もが認めるシリアス担当のトップクラスだ。
自殺した学生がいるとか、いないとか。
自殺した教師がいるとか、いないとか。
ホラー小説でさえ取り扱ってもらえないようなありきたりな怪談だが、いまの瀬名にとっては限りなくリアルだ。
さっきから、その体育館がよく見えていない。
空は青く、澄んでいて、飛んで行く鳥もよく見える。
だが、視線を下げると、途端に視界がかすんでしまう。眼球のピントがずれたように、そこにあるものが集中して見られない。
一週間ほど前から始まった症状は、数日の間に一気に悪化して、視界にモヤがかかり、激しい頭痛に襲われるまでになった。
両親に連れて行かれた大学病院の検査の結果は、『思春期によくあるストレスが原因じゃないか』。
じゃないか、ってどうだよ、と瀬名は医者を目の前にして、心の中で悪態をついた。
まるで若さゆえの欲求不満でおかしくなってると決めつけられたみたいで、そりゃ、彼女もいませんけど、と不満だらけだ。だから、本当のところを口にしなかった。
白いモヤがかかる場所が、いわゆる『心霊スポット』だってこと。
言ったが最後、精神科へ回されるのじゃないかと不安になったのも、口を閉ざした一因だった。そうでなくても、心療内科を勧められて辟易したのだ。
どうにもたまらなく、倉庫に近づきたくない瀬名は、
「マジかよ」
ぼそりとつぶやいた。
ますます磨きがかかっている自分のオカルト体質へのぼやきだ。
これは、やはり、霊感が目覚めたと思うべきなのだろうか。いやいや、それは認められない。
何度も繰り返した自問自答を打ち消した。
まだ、『おばけ』と言われるものには遭遇していない。だから、これは霊感ではない。
思い切って倉庫まで駆け寄り、開け放ったままの扉の中をのぞく。
予想通りに白いモヤで、視界は薄く覆われた。頭痛がしないのは、陽気なクラスメートの笑い声が響いているからだろう。
にぎやかな明るさには、陰気な空気を緩和させる力がある。なんてことも、インターネットで得た知識だ。今まで自覚しなかったものが目覚めることもあると書かれていたのも、同じネットの掲示板。
「瀬名ぁ、だいじょうぶか。気分悪い?」
クラスメートの声で我に返る。
揺らいだからだに気づいて、とっさに手を伸ばして扉に捕まる。マシだと思った直後の急激なめまいだった。
目元を片手で覆い、揺らぐモヤを遮断した。見ていると酔いそうになる。
「いや、ちょっと」
立ちくらみがしただけだと答える。
「無理すんなよ」
「準備なら俺らでできるし」
心配そうな声の理由は、一週間前に行った鶴岡八幡宮への校外学習のせいだ。こちらは身に覚えがありすぎる。たまたま出くわした官房長官と握手した途端、瀬名は卒倒した。文字通り、ひっくり返ったのだ。
おかげですっかり、病弱キャラになってしまった。しかも官房長官が、奥様方に人気の白髪のナイスシニアだったものだから、瀬名はぶっ倒れるほどおじ様好きなのではないかと妙なキャラ付けになっていたりする。
迷惑な話だが、倒れたのは自分なのだから、文句をつける相手もいない。噂は毎日一人歩きだ。
「平気、平気。今日、跳び箱だったよな」
瀬名は扉から離れた。
倉庫の中では、中央あたりのモヤが一番深い。渦を巻くように集まり、視力の悪い友人の眼鏡を借りた時のように、視界が歪んでいる。どこか息苦しい。
もしも噂が本当なら、現場はその上にあるハリなのかも知れない。
見ないようにすればするほど視線がそこへ流れて行く。自分の好奇心なのか、それとも別の何かか。
「あれー、瀬名じゃん」
そこへ、当番のもう一人が顔を見せた。
二クラス合同の体育授業だから、男子二名づつが当番になる。
「代理だって」
「そっか、あいつ、呼び出されてたもんな」
「さっさと準備済ませようぜ」
二人ずつ組んで取りかかった。
跳び箱を3セット出したところで、ちらほらと他の生徒も体育館に集まり始める。
女子数人が騒がしくやってきて、マットを持ち出して行く。
「もう授業に参加するの?」
倉庫の中の三人が一斉に振り返る。瀬名は遅れて振り返った。
四人とも、柔らかな声の主をわかっていた。
扉に掴まって、ひょっこりと顔を見せたのは、『学校一の美少女』と、生徒だけでなく教師までもが認める、松山きららだ。
隣の同級生の表情がわかりやすくにやけた。
残る二人も、高い位置でポニーテールにしたきららの、ジャージ姿に鼻の下が伸びている。
生脚のブルマ姿ではないが、白い体操服はあやうい。
下着が透けて見える無防備な女子もいるが、きららはもう一枚シャツを着て、透けを回避している。しかし、胸のでっぱりに合わせて押し出されたジャージ生地が、やわらかな曲線に沿っておりていく。目で見ても、ふっくらとした柔らかいライン。
思春期という名の想像力が放って置くはずもない。
というか、すでに、妄想力。
「あぁ、なんともないから」
平然を取り繕って答える瀬名だって例外ではなかった。
目のかすみを思春期のせいにされたくはないが、そこのところは立派に男子高校生だ。
体操服で腕組みなんてされると、大きくなくても、ちゃんと自己主張しているバストが強調されて目のやり場に困る。
「平気なの?」
きららが体育倉庫の中に入ってきた。
男どもは無意味に大きく息を吸い込み、踏み込み台を抱えた瀬名はあきれて息をつく。
きららからシャンプーの匂いと、淡いコロンの香りがすることは、瀬名も良く知っている。
もう何年も一緒にいる、きららは幼なじみだ。
ただのクラスメートというだけでも、他のクラスの男子たちから羨望の眼差しを受けるぐらい、熱狂的なアイドルぶりを発揮しているきららと、物心ついたときから幼なじみをやってきている瀬名は、やっかみをぶつけられるどころか、妙な具合に英雄扱いされている。松山きららを呼び捨てにできるだけで尊いのだそうだ。よっぽど高嶺の花に設定されている。
「平気だ、よ」
体育倉庫に薄い渦を巻いていたモヤが、消え入りそうに揺らいでいた。
言葉を途切れさせた瀬名は、思わずあたりを見回した。息がこころなしか楽になる。
もしも友人たちにも、モヤが見えていたなら、みんな同じ行動をしただろう。
しかし、ほかの誰にも見えない。
例外は、あの二人だけだ。
あの二人。
思い出した瀬名は表情を曇らせた。
ネットの掲示板を読み漁ったのも、理不尽な言葉を投げてきたヤツらのせいだ。
「けど、さっきは立ちくらみしてたんだよな」
「え? あれは」
良かれと思って口にしたクラスメートをにらむのはやめた。それよりも先に、きららが口を開いたからだ。
「ほんとなの? 瀬名。まだ見学してた方がいいんじゃないの」
女の幼なじみというものは、二人目の母親みたいだ。
心配という名の口うるささは、大きな瞳のきららだって例外ではない。
「いや、体調は悪くないから」
咎めるような視線を避けながら答えた瀬名は別のことを考えている。
きららがいると、モヤが晴れる。
青年と少年の二人に会った夜もそうだった。
きららを自宅へ送る途中の道だ。二人で通ったときには晴れたモヤが、少年と青年が現れる前に激しくなって。
「戻れ」と、言われた。
今が幸せなのをわかっていながら、戻ってもらうと言いたげな口ぶりだった。
そばにいた少年は、犬にしてはずんぐりとした、小熊のような動物を引き連れ、申し訳なさそうな表情をしながら瀬名を知らない名前で呼んだ。
戻るというのは、元々そこにいた人間に対して使う言葉だ。瀬名には覚えはない。
生まれてから所属したのは桐野家と小・中・高校だけ。
両親が宗教にかぶれていた気配を感じたこともない。妙な霊能団体につけ回されるような理由が見つからなかった。
「でも瀬名って、すぐに大丈夫とか平気って言うんだもん」
思考を遮るきららの声に顔を向け、
「平気で大丈夫なものは、そう答えるしかない」
踏み込み台を持ったまま、きららの脇を抜けて倉庫を出た。
授業開始のチャイムが鳴る。
同じく踏み込み台を持った一人が追いかけて来た。
「松山にあぁまで言わせやがって。やけるね、このイロ男」
おもいきり肩をぶつけられた。
「あっぶないなぁ!」
笑いながら瀬名は思い出す。彼はきららが好きなのだと、誰かが言っていた。
だからって、人の恋路に手を貸すわけもないし、きららを譲るわけもない。
小さい頃の約束を密かに有効だと思っている瀬名だ。
同級生に追い越されながら、倉庫を振り返る。
きららも外へ出た暗闇からは、薄いモヤがのっそりと這い出し、瀬名の背中を凍えさせた。
何かが少しずつ、自分の中で剥がれて行くような、痛みに似た干渉を覚える。
だから、脳裏に浮かぶ、すべてを否定した。
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