二章 「お兄ちゃん♀」

 ラジオを何時間も聞いているとある問題が出てくる。それは視覚情報の問題だ。すなわち音声だけじゃ実物を見ることができない。胃や腸などと言われても形や色はいまいちピンとこない。他にも問題はある。大事だと思ったことを形として残しておけない。

 だが、フウはこれを自分の知恵で解決した。上級学校に通う、〈ドテン〉の学生が捨てた教科書とノート。これを再利用することで視覚情報の問題はクリアした。教科書は図が豊富で、フウにとっては宝のようだった。

 教育チャンネル〈タイラク教育学校〉のプログラムは日曜日に単語の復習プログラムやリスナーの気になった単元のハイライトなどがあるので、意識的に活用すれば学習の効率は高くなる。さらに、道中で気になった単語をメモし、それをノートに書きためていけばいつでも学習を振り返ることができる。

 初歩的な識字と算術を教えてくれた母にフウは感謝せざるを得ない。

 こうして一人の少女は小さな学校を携えて、何百回もチオウと第五管轄区の砂漠を往復した。教育はいつしか当たり前になり、フウはその自覚も無く枯れ果てた知識の泉に水を注いでいった。だが、フウはこうも考える。

 ──私が水で満たされるのは、私が空っぽだからでは。

 学習は楽しかったが、フウの人生は充実しているとは言えなかったのだ。


 その日はとりわけ暑かった。太陽から注ぐ「紫外線」の雨が、乾いた大地に降り注ぐ。大地は「かげろう」を吐き出し、西の地平線はゆらゆらと揺れている。フウはがいとうの下に肌を隠し、チオウへ至る岩場を歩いていた。

「ピッ」

 がいとうの下でサバクオオブンチョウの〈アサ〉が顔を出す。拳二つ分ほどの身体からだを純白の体毛が包んでいる。つぶらな瞳に黒い過眼線がいいアクセントになっていた。二年の歳月はよちよち歩きのひなを立派な成鳥へと変化させる。最近は昔ほど甘えてくれないので少し寂しいフウである。

「ピピピッ!」

 そのアサは緊張感のある声を発した。岩場のどこかから野犬の足音が聞こえてくる。

 フウは腰に差さったを抜き、スライドを引いて臨戦態勢に移った。

「グゥ」

 ひときわ体格の大きな犬だった。恐らく、チオウの闘犬が野生化したものだろう。黒い毛に覆われた肉体は筋肉で隆々としており、血走ったはフウの喉笛を見据えている。

 フウは冷静に犬を見下ろした。辺りに大人の男の気配はない。叫んでも誰も助けてくれないだろう。犬は長い四足をたたみ、姿勢を低くする。恐らく飛び掛かるための「運動エネルギー」をためている。野犬がフウに飛び掛かろうとしたその時だった。

 乾いた銃声が岩の間を飛び回る。やつきようが地面に落ちて「キン」と小さく鳴いた。フウが高々と掲げた半自動式拳銃がわずかな硝煙を昇らせている。

 野犬は銃声を聞くとフウとは反対方向に飛び上がり、文字通り尻尾を巻いて逃げ出した。フウは拳銃を腰のホルスターにしまう。そしてふところのオオブンチョウの頭をでつつチオウへ向かった。


 今日もチオウは雑居の裾を外壁まで広げている。労働者が狭い通りにひしめき、大通りのビルには手作りのネオンが毒々しく光っている。フウはシモガジョウの〈落雷通り〉に向かった。シモガジョウの落雷通りはよく整備された主要幹線で車の行きかいが激しい。この落雷通りはチオウの中心部へと一直線に延びている。道路を西に歩くと、バス停が見えてきた。バス停と言っても、路側帯に赤い「バス」と書かれた文字と壁にびた時刻表のプレートがかかっているだけである。

 しばらくそこで待つと時刻表の時間を二〇分ほど過ぎたところでバスが止まった。青の塗装は経年に?げ落ち、排気ガスはいかにも害のありそうな臭いを放つ。かなきりごえを上げて扉が開き、フウは中に乗り込んだ。緩衝材のはみ出た椅子はひどく座り心地が悪い。バスの中には箱詰めされた荷物が幾つか積まれている。公共のバス会社は物資の輸送サービスはしていないので、恐らくは運転手の小遣い稼ぎだろう。

 そんな荷物と共に揺られ、二時間かけて中央都市〈ドテン〉へ辿たどく。三〇〇オウチを支払い、フウはバスを降りた。

 ドテンは百メートル級の高層ビルがこれでもかと密集するチオウの心臓部で、「経済活動」の中心地でもある。

 ドテン北側にある〈フラク〉というビルにフウは足を運ぶ。道路にはゴミもなく、小ざっぱりとした街路樹が風に深緑の葉を揺らしている。歩道も車道もしっかりと舗装され、シモガジョウのように亀裂が入っていたり、潰れたゴミがへばりついていることもない。行きかう人々も小奇麗に整った洋服を着ている。がいとうに汗臭いシャツを着たフウの格好はかなり浮いていた。

「このあとどうする?」

「私は学校に戻って勉強するわ」

 落ち着いた女性の声に視線を向ける。通りを駆け抜ける乾いた風に紺のプリーツスカートが揺れた。黒地のシャツには白色のラインが入っている。それを身に着けていた三人の少女は全く同じ服装だった。セーラー服なる上等階級の学生が着る制服らしい。

 三人の少女は優雅な足取りでこちらに歩いてくる。そのすれ違いざまに、

「「「ごきげんよう」」」

 と笑顔で頭をさげた。フウもつられて頭を下げる。フウはその背中を少しだけ見てから前を向く。管轄区民に笑って唾を吐いてくる中流層の学生と違ってよく教育されている。

 フウは「フラクビル」に辿たどくとビルの外側にあるりの鉄階段を上って一〇階に行く。一〇階の壁には鉄の扉があって「ほうおう銀行」と書かれていた。扉を開けると、薄暗い照明の中に四つの窓口を並べたカウンターと正対した。薄暗いのは節電のためらしい。窓口の女性は小奇麗なスーツを着ていて控えめな笑みを浮かべている。

「お待ちしておりました。便利屋ぎようの調子はどうですか?」

 ぼちぼち、とフウは生返事をした。便利屋ぎようとはなんとなく聞こえが悪い。困ってる人を助けてお金をもらってる聖女を?つかまえてだな……とフウは心の中で愚痴を吐く。

 フウはポーチの財布から五枚の紙切れを取り出し、三番窓口に差し出した。長方形の薄い紙で、そこには第四管轄区と第三管轄区の区長の署名、そしてそれぞれ異なる口座番号があった。

ざいの承認ですね。恐れ入りますが、こちらの紙に楷書で署名をお願いします」

 ほうおう銀行のロゴが書かれた紙にサクマ・フウと署名をする。銀行員の女性は後ろの引き出しから区長の署名とフウの署名が書かれた別の紙を取り出し、それをセンサーで読み取って筆跡の承認をする。

「承認が完了しました。区の口座から出金するのでしばらくお待ちください」

 女性は10000と書かれた紙幣を五枚、窓口に差し出した。

「最近、野盗が多くてさいの需用も高まっています。ご実家に帰られるときはどうかご注意を」

 フウは軽く頭を下げ、銀行を後にした。

 さいサービスは「為替」の一種で、管轄区で仕事をした後その給料をチオウで引き落とすことが出来る。現金を持ち歩かなくてもいいため、野盗に襲われた時のリスクを減らせる。だが区民は為替の重要性を意識しておらず口座も持っていない。手持ちの現金を奪われでもしたら最悪明日からの生活に支障が出る。

 半年くらい前は野盗そのものが少なかった。だが、大きな干ばつの影響で食料と飲料水が高騰し、その余波で野盗は増えた。

「もう少し資産が増えたら投資などしてはいかがでしょうか。最近は王へのもつを仲介するビジネスへの投資が人気ですよ」

 投資。とは簡単に言えばもうかりそうなビジネスに金を突っ込んで利益を得ることだ。工場を建てたり、従業員を雇ったりするのも投資である。個人レベルだと資産運用の文脈で語られることも多い。フウにそこまでのビジョンはないので、軽く聞き流して銀行を出た。


 フウは五万オウチの金を握りしめ、ドテンの大通りを歩いて郊外の〈キンベイ〉に足を運ぶ。

 キンベイはドテンの南に隣接する区域で、ドテンで働く中流労働者の居住地になっていた。キンベイの東側には食品加工場がいくつか建ち、とある工場の壁にはせいかんな男のペイントがしてあって「あらひとがみ、ハロウレンをたたえよ」の文言が書かれていた。この大地は神が創造し、その神の化身がチオウの王、ハロウレンらしい。科学という別のを見つけたフウにとっては無縁の信仰だった。

 そのハロウレンのペイントにトマトを投げつけている男が一人いた。

「何が王だ! このペテン師め!」

 酔っぱらっているのか、反政府の人間か、どのみち関わらない方がいいと思ってフウは見て見ぬふりをする。

 そこから少し離れた場所にある工場と工場の間に、小さなコンテナが挟まるように置かれている。そのコンテナの扉にかかったなんきんじように鍵を突っ込んで扉を開ける。中は椅子や机が置かれ、机の上の本立てには拾ってきた教科書が並んでいた。簡易照明のスイッチを入れると、白熱灯のオレンジ色の光が室内に満ちた。フウは木の椅子に腰かけ、一つ大きく息をついた。

 壁のコルクボードには区から受けた依頼表がピンでとめられていた。「区長の飼い犬の世話」と、「白昼の労働者の護衛」に赤い線を引いた。

『需要は金になる』の可能性をフウなりに広げていった結果、困っている人を助けて金をもらうフリーの便利屋に落ち着いた。最初は仲介業者を通していたが、中抜きに不満を持って今は自営業である。

 フウは一時居住許可書を持っていない。だから、二日以上第五管轄区の自宅を空けると罰金を支払う必要があった。管轄区民は「税金」を払わなければチオウに居住することができない。だが、管轄区に家族を残せば特例としてチオウでの労働滞在が許される。いわゆる出稼ぎというやつだ。

 そういった事情で家族もおらず税金を納めていないフウは七日の内一日だけ、このコンテナに宿泊することが許されていた。

 フウはしばらく仮眠を取ると、北のゴミ捨て場へジャンク品をあさりに出かけた。フウはイヤホンのプラグをラジオに差し込み、電源を入れた。誰にもラジオを見られないよう、ポーチの中にすっぽりと隠す。番組の内容はチオウの神話に反していることもあるため、警察に見つかれば罰金、いや、ラジオを取り上げられることもあるかもしれない。

 夜の七時は〈明日への案内所〉の時間だ。社会系の番組で歴史を経済、政治、思想とからめて学ぶ。

『つまりそれまでの戦争では食料は略奪によって賄うのが基本だったんですね。我々の想定する補給というのは、成熟した国家、制度、技術がないと成立しないんです』

 この一ヵ月は戦争にフォーカスを当てている。六時以降の番組はかなり応用的な内容になる。〈童心科学?〉や〈我が大地〉などの番組をあらかじめ聞いていると、地理や科学の基本的な知識がきて内容もスッと入ってくる。

 いつ放送のストックが無くなるかとフウは気が気じゃないが、今の所二年保っている。かれのラジオ放送局の上に「ミサイル」が落ちてくるまで、彼らは番組を作り続けていた。番組のストックが無くなる日がいつ来るのかは分からない。だが、今の有志による放送はどこかでループするはずだ。

『──近代社会の生産力が──を可能──』

 ラジオにノイズが入ってフウは不機嫌になった。チオウはいろんな電波が乱れ飛んでいるからか、電波の受信にムラっ気がある。ぶったたいてやろうかとも思ったが、壊したくはないのでぐっと堪えた。ラジオはフウの命であり全てだ。

 ならフウには何もないから。

 母のために水を運ぶのが、フウの人生の全てだった。母がいなくなったフウには目的があるようでない。昨日より賢くなる。それだけが、今のフウの全てだ。

 都市の乾いた風がいつもより冷たく感じられた。

 フウはジャンクの山を見上げて一つため息をつく。気を取り直してそこから、扇風機や車のダイナモなど金目のものを目ざとく見つけて麻の袋に入れた。袋がいっぱいになると、フウは近くの公園を通って帰る。キンベイの公園は小奇麗で、木々が夜風にささやき、街灯の青白く冷たい光がどこか幻想的で好きだった。

 フウはイヤホンをはずし、風の音に耳を澄ませながら冷たい光の中を歩いた。世界に自分しかいないような、静かな夜だった。

 音が無くなると、胸の空洞が痛む気がする。静夜というものはどうやら、人のトラウマを思い起こさせるような作用があるらしい。フウは胸を押さえた。気を紛らわせるために何かをしようとポケットに入ったチョコレートバーを取り出した。チョコの層に挟まれたクッキーがあまあまサクサクで実にい。フウはその食感を楽しみながら街灯の冷たい光の中を歩く。せいひつな夜の公園に菓子を食べる音が不自然なまでに響いていた。

 フウは足を止めた。道の真ん中にサソリがいる。「ドクトウゲ」という壁を登れるサソリで管轄区からチオウの住宅街で広く見かける。死ぬほどの毒ではないが刺されれば一週間は激痛が続くのでフウはコイツが大嫌いだった。

 フウがサソリを避けようとしたその矢先だった。


「一撃、ひっさああああああああああああああああ!」


 どこからともなく少女の声がとどろいた。突如、街路樹から少女が降って来たかと思うと手刀のいつせんでサソリの尾をたたき斬る。黒地に白のラインが入ったセーラー服。それは、上級学校の制服だ。だが、少女を見る限り上級学校生のような品のある感じは無い。髪はショートカットで、顔は……まぁ、わいい方だった。ちようを思わせる黒いリボンが風圧で、ぴょん、と揺れる。

「たんぱくゲットー!」

 少女は暴れるサソリをわし?づかみにすると大きく口を開いた。まさか──

 中々えげつないしやく音をひとしきり出した後、少女はフウを振り向いた。口からはみ出たサソリのハサミを?くだき、サソリの体液でテカった唇を右手で拭う。少女はフウの持っているものを見るなり「にへらぁ」と妖怪のように笑った。

「ちょ、チョコレートだ」

 少女のだらしなく開いた口からあり得ない量のよだれが、でれえぇ、とあふれていた。そのうつろな目といい、ちゆうはんな笑顔といい、まるで薬物中毒者のようだ。フウは反射的にチョコレートを隠す。

「あぁ、」

 少女の眉尻がしゅんと下がった。これはちょっと幼い子供っぽい。

「おなかが減りました」

 そうですか。無言で距離を取る。

「おなかが減りました!」

 強く言われたところで……

 すると少女は、今度は泣きそうな顔で

「おなかが減りましたぁ……」

 流石さすがに極悪人ではないようだが、面倒くさそうなやつではある。少女はおなかをさすって、ぐすんとうつむいている。そういえば、昔はこうやって駄々をこねると母親が配給の干し肉を分けてくれたっけ、と思い出す。やめときゃいいのに、と自分で思いながら食べさしのチョコレートバーを差し出していた。

「はえ?」

 もう一度チョコレートバーを突きつける。

「いいの?」

 フウは首を縦に振った。

「ありがとう、お兄ちゃん!」

 お、お兄ちゃん?

 呼称はともかく、ありがとうと言われるのは悪くない気がした。緩んだ笑顔を引き締め直す。もしゃもしゃと子犬のようにチョコレートバーを食べる少女の脇を通り抜け、コンテナへと急いだ。

 もしゃもしゃ。というしやくおんがずっと背中に張り付いている。フウは振り返った。指に付着したスナックをめ取ってる少女がいる。

 ついてきている、と問う。

「あわよくば泊めてくれないかとおもいまして」

 泊めるわけねえだろ。言葉の通じる相手ではないと判断し、きびすかえして走り出した。

 フウはそれなりに足が速い。その辺の少女の足では追いつけまい。快足を飛ばし、閑静な住宅街を縫いながら複雑な帰路を描いてコンテナまでたどり着いた。

 背後に追ってくる気配はない。フウは扉を開けてコンテナに入った。ちょっと休んだら銭湯に行って早く寝よう。私は何も見なかった。椅子に腰を下ろし、ボトルの水を飲む。

「狭い部屋だねー」

 ブッ。フウは水を吹き出した。貴様がここにいる! 危うく拳銃に手を伸ばすところだった。さっさと家に帰って寝ろ。そう言うと少女はコクリとうなずいた。そしてベッドの中にもぞもぞと潜り込む。起きろ。フウは毛布をけた。

「もう朝?」

 出ていけ。扉の外を指し示す。少女がしゅんとするので、少し胸を押さえた。

「今夜だけでも」

 出ていけ。より強く出口を指差した。フウがマジだと分かったらしく、少女はしょんぼりと肩を落として入口から出ていった。その体が暗闇に溶ける寸前、捨てられた子犬のようにフウを振り返る。そのかなし気な視線を遮るように扉を閉めた。

 フウはしばらく扉の前に立っていたが、呼吸が落ち着くとらしたタオルで身体からだの汚れをふき取ってからとんの中に潜った。

 その日の静寂は特に気に入らなかった。

『それでは今日もトラッシュトークバッドアスで締めとまいりましょう!』

 フウはいつもより大きなボリュームでラジオをかけて眠りにつく。下品でキレのあるジョークがその日の子守歌になった。


 翌朝、王の絵にトマトをぶつける男の「このくそ野郎!」という罵声で目が覚めた。

 今日もやってるのか。フウは少しあきれながら身支度を整えた。準備を済ませたフウは散歩がてら周囲を散策する。王に「くそ野郎」という男がいる一方で、中流層の学校の運動場では生徒が整列して王への感謝の言葉を大声で叫んでいた。

「今日も神のたまを授かりし王の聖なる精神を冒すことなく清く正しく生きていきます!」

 少年の声に教師が腕組みをして「うんうん、それこそ清く正しい少年の在り方だ」と言わんがばかりにうなずいている。チオウの臣民はかみの肉体と魂の一部を授かっているので、王への忠誠は正義ではなく摂理のようなものと理解され、逆に忠誠を示さぬものは王の神聖から外れて迫害の対象となる。フウはそういう神秘主義からは脱していたが、王への疑問を口に出せばどうなるか理解していたので表面上は良き臣民を演じていた。とはいえ、税を納めていない管轄区民は「王への忠誠が足りていない」と中流階級から露骨に蔑視されるのだが。

 グランドに集った子供の何人かがフウを指差し軽蔑するように笑ったので、フウは居心地の悪さを覚えてそこを立ち去った。

 その足でジャンクの山や公園をぶらぶらと散歩する。の姿はない。

 アサに尋ねてみても「ピピピいないよ」と返ってくる。フウはキンベイを出る時に何度か後ろを振り返った。

 自分は夢を見ていたのではないだろうか、とフウは不思議な気分になった。考えれば考えるほど変なやつだったな、とフウはジャンクの代わりに手に入れた硬貨をポケットで転がしながらチオウを出た。

 チオウに宿泊する目的はいくつかある。ほうおう銀行で資産管理の説明を受けたり、仕事で知り合ったクライアントとの情報交換、等。だが、一番素敵なのは余裕を持って家に帰れるということだ。昼の内にチオウを出れば、夕方には帰れる。夜飯を食って明日の身支度をして、九時に歴史ドラマを聞きながら余裕をぶっこいて寝るまでが完璧な流れだ。

 最近は野盗がかなり出没しており、管轄区が出す外出警戒指数は五段階の四となっている。銃を手に入れる前は、そういう日は水を買いに行くことすらできなかった。母が死んだ遠因もそれだったりする。フウは警戒をしながら、あの乾いた岩場を通り、そして片道五時間かけてようやく自宅に戻った。

 実家の入口をくぐると疲れがどっと押し寄せてベッドのシーツにダイブしたくなる。でも、寝具は小さい頃からずっと同じものを使い続けているのであまり手荒に扱いたくない。がいとうを壁にかけ、肌着だけになる。身体からだを洗いたいが、ここのところは雨が降っていなくて雨水をためておくバケツは空っぽだ。明日の昼にキンベイの公衆浴場で身体からだを洗うので今日はそのまま寝ることにした。フウは銃の手入れや弾丸の確認、ナイフの研磨、保存食の残り等もろもろの装備のチェックを済ませてとんに入る。

 フウは一度入口の方を確認してから、目を閉じる。疲れていたからか、ラジオドラマを聞きながらすぐに眠ってしまった。


 フウは白い砂漠に立っていた。ここに来るのは初めてじゃない。母を失って以来、ごくまれにここが夢に出て来る。砂漠の中央にはベッドがある。聞こえてくるのは母親が鼻歌でかなでる「あの歌」だ。フウは「またか、」と思いつつベッドに近づいて行った。どうせこの夢の結末はいつも同じだ。母親の死体がそこに横たわっているのだろう。その母親の死を確認しないと、この夢は覚めない。フウは恐る恐るベッドをのぞき見た。


 目の前には天井があった。身体からだが朝の到来を告げている。フウは嫌な予感がして恐る恐る、母親が使っていたベッドに歩み寄る。

「すー」

 と安らかな吐息を立てて眠る者がいた。そのセーラー服は見覚えがある。約一日ぶりの御対面だ。フウはじとっとした目つきで少女を見下ろすとベッドの脚を蹴った。

「んあ、もう朝ごはん?」

 寝ぼけて馬鹿なことを言う少女とは対照的に、フウは顔を引きつらせた。まさか、後を付けてきたのか? 「アサ」に気付かれることなく。

「お兄ちゃん、おなか減った」

 なぜここにいる。とフウは問う。

、がダメでしたので日をあらためました」

 馬鹿なのか? それとも馬鹿にしているのか? が駄目なら次の日も駄目に決まっているだろ。

「それよりおなかが減りました」

 少女は無邪気なものだった。事実、この少女によこしまな気持ちがあるのなら金か命のどちらかは奪われているだろう。だから、この少女は恐らくフウにとって無害だ。

 フウは首を左右に振った。そして出口を指し示す。

 出ていけ。二度と私の前に現れるな。少女は以前よりも悲しい顔をした。

「もしかして、私の事が嫌い?」

 嫌いだ。と、ハッキリと言った。胸の衣服を右手で強く握りしめながら。

 少女はそれがよほど堪えたらしく、目に涙を浮かべた。そして、振り返ることなくとぼとぼと部屋から出ていく。少女のいたベッドに視線を移す。ずっと、意味もなく敷き続けていたシーツ。母が死んでから、ずっと平たいままだったシーツ。そこにしわが生まれていた。そのしわに手を当てると、まだぬくもりが残っていた。シーツの取り換えはフウが母親から教わった家事の一つだ。母が朝食を用意する間、しわぬくもりに塗れたシーツを取り換えるのが日課だった。母が死んでも、フウはそれをめることができなかった。

 いつか、母が帰って来るような気がして──

 この胸にやって来るもどかしさはなんだ。あんな素性の知れない人間など放っておけばいい、と理解しているはずなのに、心のどこかが「追え」と叫んでいる。あの、泣きそうな少女の顔がフウの頭にこびりついて離れない。

 フウは自分の髪の毛を?きむしった。それを見ていたアサが「ピピっ」と鳴いた。本当に自分は何も成長していないと、アサを見て自虐する。

 家を出ると、りようせんと空の隙間から朝日が漏れていた。やがてそれは管轄区に降り注いで幾つもの長い影を作る。

 少女は西に延びた長い影を引きずって管轄区を出ようとしていた。

 フウは少女を呼び止める。

 少女は肩を一瞬すくめて、捨てられた犬コロのように振り返った。

 問うた。お前は、何が目的なのかと。

「一人がいやだった」

 少女の視線には、軟弱と言うよりはむしろ芯を感じさせる力強さがあった。この少女の発言に?うそはない。そうフウに信じさせるような不思議な力がある。

「父さんや母さん、お兄ちゃんみたいな存在が、欲しかった」

 しばらく沈黙を挟む。空がゆっくりと青くなっていく。

「ただ、誰かと一緒に喜んだり悲しんだりしたかっただけ」


「私だって、」


 それは何かを懇願するような、弱々しい語調だった。少女との距離は近く、されどフウの視線は遠く。西へ追いやられていく夜を見つめるかのような、遠い視線。

 少女は目を見開いた。

 フウは我に返って視線を少女に向けた。

 あの日以来閉ざされていた心の扉に僅かな隙間が空いている。

「あんたは、どうして私がいいの?」

 少女は首をかしげて少し考える仕草をした。それを見ていたフウが、

「お菓子をあげたから?」

「それもあるけど、」

 少女は少し自信なさげな感じになった。

「多分、お兄ちゃんが私を求めているように感じたから」

 流石さすがにそれを言ってしまうのははばかられるのだろう。少女は視線を一度らした。

「うまく言えないけど、お兄ちゃんは私と同じで寂しそうだったから」

 二人の影が延びていく。山から昇った朝日が二人の横顔を照らした。

「一人でいるのがつらそうだった。私の事を受け入れてくれそうだった。だから、ちょっと無理した」

「もういい」

 フウはそれ以上何かを語らせないために話を遮った。頭を?いて、少女を見つめる。

「名前は」

「……カザクラ」

「カザクラは行く場所が無いの?」

 カザクラは首を縦に振る。

「じゃあ、次の行く場所が決まるまでだけ私が面倒見てあげる」

 カザクラはしばらくきょとんとした後、パッと表情を明るくした。

「いいの?」

「勘違いしないで。次の行く場所が決まるまでだけよ!」

 ずっと、フウは心の中に誰も入れないようにしていた。誰もその扉を開けようとはしなかった。そして、その扉がこれほどもろいとは今の今まで気が付かなかった。

 願わくば、この出会いと次の別れがさいな出来事で終わってくれと、心のどこかがそう祈る。

 このぬくもりよ永久であれと、心の別のどこかがあんする。

 頭に浮かんだのは、ラジオが流した言葉のいつぺんだ。


『精神はまだ確かな記述方法が見つかっていません。だから、その世界は一見すると矛盾にあふれています』〈応用科学?〉より。


 太陽が南に昇るにつれて日差しは急速に攻撃力を上げてくる。フウは風食地帯の影を利用し、うまく日差しを避けてチオウを目指す。足音とラジオの音と時折鳥の鳴き声と、そして足音がもう一つ。

「あんたさ、いくつか聞きたいことがあるんだけど」

 フウは歩きながら背後のカザクラに問いかける。カザクラが身にまとっているのは彼女の身体からだよりも少し大き目のがいとうだ。

「なに?」

「家族はどうしたの?」

「うーん、いたようないないような」

 カザクラは難しい顔をする。どうやら本当に記憶が曖昧なようだ。

「お兄ちゃんは、一人なの?」

 フウはまぶたを細めた。薄らと、母親と手を?つないでいた時の情景が脳裏によみがえる。

「そうよ」

 風に溶けそうな声だった。

「じゃあ、お兄ちゃんは私と一緒だね」

 フウはたまりかねて後ろを振り返った。

「あのね、そのお兄ちゃんって呼び方めてくれない? 私にはフウっていう名前があるの」

「分かった。でさ、お兄ちゃ──」

「やんわりぶちのめすぞ。アタシのどこがお兄ちゃんなの」

 フウはわざとらしくフードを取って、アップスタイルにまとめた髪を見せつける。

 カザクラは「はえ」と口を半開きにしながらその身形みなりを観察する。色気のない服装。使い込んだがいとう。化粧気のない顔。そして最後にかがみ込んで下からフウの胸元をのぞむ。

「これはお兄ちゃん!」

 しばく。フウは腕まくりをした。その時だ。

「ピピピピッ」

 オオブンチョウのアサが鳴き声を上げた。フウはとつにホルスターの銃把に手をかけた。カザクラの手を引いて見晴らしのいい広場まで引き返す。

「どしたの?」

「悪いやつが来たの。アサ、何人?」

「ピ ピ ピ ピ ピ」

「五人も。取りあえずアサは巻き添えにならないよう上空で待機」

「ピピッ」

 アサは短く返事をして再び飛び立った。

「言葉が分かるなんて賢いね」

 とカザクラはあまり緊張感が無い。

「カザクラ、私から離れないで」

「りょーのかい」

 耳を澄ますと、男と女の話し声が聞こえてくる。

流石さすがに街道近くで追いはぎはヤバイんじゃねぇか? 下手すりゃ花びらむしられるぞ」

「今更臆病風に吹かれてどうするのよ。どうせ今の警察にこの辺を監視する予算は無いわ」

「それもそうだ。そうと分かればさっさと身ぐるみはいでとんずらだ」

「殺しても大丈夫かな?」

「抵抗するなら殺しても大丈夫だろ。山奥に投げ捨てときゃオカアゲハが死体を食ってくれるからな」

 かなり近くまで接近を許している。かつだった、とフウは自分を戒める。警戒はしていたが、野盗が活発になったのはここ最近のことでフウもあまり襲撃には慣れてはいない。

 フウは拳銃を構えた。頭の中のデータベースに検索をかけ、〈空想格闘技電道場〉の講義内容をすぐに思い出す。

『相手がどういう人間かでこちらの取る手は変わってきます。話の通じない相手なら戦うことも選択肢に入れましょう。話の通じる相手なら交渉をします。大事なのは』

「──それを見抜く洞察力」

 ここからは経験の勝負。

 野盗は合理的で臆病だ。相手に「?みつけば?みついてくる」と分からせれば、後は交渉で手を引いてくれる可能性が高い。

「だいじょうぶ?」

「相手だって銃で撃たれるのは嫌なはず」

〈六時の撃鉄〉より、武器を持つ者は抑止力も自在に扱えなければならない。

 岩の陰から、女が二人、男が三人姿を現した。いずれも統一感のない服装でやさぐれた目をしている。得物は男が棒に針金を巻きつけたもの。女はナイフだ。銃はもっていない。

「あれで全員か。いきなり全員で襲ってくるってことは、襲撃し慣れていないのかも」

 フウは銃口を上に向けて引き金を引いた。耳をつんざく銃声が乾いた空気を切り裂いた。

「なんだ!?」「こいつチヤカもってやがる!」

「止まって!」

 などと言いつつ、〈空想格闘技電道場〉での言葉を脳内で再生する。

『護身術の鉄則。まずは相手を説得し、不用な戦闘は極力避ける』

 ──先生、力を貸して。

「こっちは二人。どっちも銃を持ってる」

 とフウは絶妙な?うそで戦力を水増しした。

「どうするよ」「俺が話す」

 一人の男が歩み寄ってきた。

「まだガキじゃねぇか。管轄区民か」

 無精ひげの?せた男だった。身体からだつきから察するに生活は相当困窮しているように見える。やはり、自動小銃の類は持っていない。

「その銃、どこで買った」

「その質問に答える義務は無い」

 フウは努めて冷静に答えた。こういう相手は、獲物が下だと見れば大胆な行動に出る可能性がある。これはラジオではなくフウが経験から学び取ったことだ。

「なぁ、おれたちだって生活が苦しい。撃たれる覚悟は持っている」

 フウは野盗のほうに銃口を向け、もう一度引き金を引いた。せんこうと銃声がさくれつする。遅れて火薬の臭いがほのかに鼻をつく。銃弾はどこに行ったか分からない。だが、当たってはいないようだ。

「て、てめぇ!」

 男の声からは動揺が感じられた。これで撃たれる覚悟うんぬん?うそであることが濃厚になる。

「私は撃つよ。初めに襲い掛かってきたやつは必ず殺す」

 主導権はフウの手中にあった。

おれたちに退けってのか」

「そうよ」

 金を渡して引いてもらうということはしたくない。「こいつは金を出す」などと依存されたらたまったものではない。「こいつを襲うくらいなら他のやつを襲う」と、相手に分からせるのが最上である。

 二人はしばらく黙って互いに見つめ合っていた。相手の目にはおびえがある。人一人と管轄区民の持ち金では採算が合わない。彼に損得勘定ができる頭があれば引いてくれるはずだ。面子メンツが第一のヤクザや不良とはこの点が決定的に違う。もし彼の決断を鈍らせるものがあれば、性的な欲求か大人のプライドだろう。だが、理性が絶滅するまで退廃しているようには見えない。

「分かった。退こう」

「助かるわ」

 男は周りに合図をする。

「退くぞ」

「おい正気か! あんなガキ数人でかかればイチコロだろ」

「じゃあお前が銃弾の盾になってくれるのか?」

「くっ……、こっちも銃がありゃ……」

「所詮は管轄区民とあなどったおれたちのミスだ。今日は諦めろ」

 野盗たちしばらめた後、ゆっくりと遠ざかっていく。

 フウは銃を構えたまま警戒を解かない。〈空想格闘技電道場〉の講師いわく『決着がついたと思った時が、一番隙ができる』からだ。

 数分つとオオブンチョウのアサが肩に舞い降りてくる。

「もういない?」

「ピピッ」

 野盗が完全に退いたのを確認した。フウは拳銃をホルスターにはしまわず左手に握りしめたままにする。

「行くよ。カザクラ」

「闘わないの?」

「なに馬鹿なこと言ってんの。闘うわけないでしょ」

「闘えばよかったのに」

「下手に危害を加えたら向こうの恨みを買うわ。相手がどういう連中か分からないのにそういう冒険は駄目」

「二度とおそってこないよう、ぶちのめしませう」

 頭のネジが何本吹き飛べばこんなことを言えるのか。フウはあきれてため息をつく。

「あのね、仮にアンタが銃の達人でも多勢に無勢じゃ勝てないわよ。武器や格闘技の達人は一般人より死にやすい。なら、闘わなくていい時にも闘うから」

「そんなうぞーむぞーとカザクラはじげんが違う」

 フウはカザクラとの会話に疲れて大きくため息をついた。

「あんた顔に似合わず好戦的よね」

「えへへ」

「褒めてねぇよ」


 検問所が近づくと奇妙なことが起こった。

「そういえば、市民が外出する時って指紋認証はどうなるんだっけ?」

 とフウが振り返るとそこには誰もいない。カザクラが消えた?

 探すにもどこを探していいか分からず、フウは流れで検問所に差し掛かった。いつもの兵士がフウに声をかける。

「最近、上から手配書が流れてきた」

「手配書、ですか」

「あれ?」

「どうかしたんですか」

「なんか雰囲気変わった? 久しぶりに声を聞いた気がする」

「そうですか? いつもここ通る時会ってるじゃないですか」

「いやそうなんだけど」

 兵士はヘルメットの上から頭を?いた。

「取りあえず情報を送ればお金がもらえるらしいよ。人相書きはまだだけど女の子らしい」

 フウは手配書を受け取る。身長一五〇センチ、一五歳くらいの少女。と書かれている。少ない情報だが、カザクラの容姿とは一致する。

「まさか、ね」

 フウの表情は少し不安げになった。それを検問所の兵士は笑った。

「心配しなくても大丈夫だよ。間違いなく君じゃないから」

「どういう意味ですか?」

「よほど目が悪くないと君の事を女の子だなんて思わないよ」

 フウは一瞬その洗濯板よろしくの胸板に手をあてた。フウは飢えたコヨーテのように鋭い視線でホルスターのチャカに手をかける。

「暴力反対!」

 兵士は何度も頭を下げる。

「……ったく、昔はもうちょっとわいげあったのになぁ」

「あ?」

「何でもない!」

 サイレッカの兵士を脅す管轄区民とか聞いた事ねえよ。と兵士はしばらく愚痴っていた。

 サイレッカ。正式名称は「第一行動神隊サイレッカ」。チオウの軍隊組織で警察機構を超える武力を誇る。が、対外戦争の可能性が絶無の今はほとんど税金泥棒と化していた。本気を出せば航空兵器だの装甲車だのが出動すると言われているがフウは見たことがない。少なくともこの検問所の青年からそういう軍事的な威厳は感じない。

 チオウの中に入って数分待ち、誰も来ないのを確認してフウは歩き出した。自分はからかわれていたのだろうか、と今になって思いなおす。「面倒事を抱えていそうだったので、いなくなった方が気楽だ」と自分に言い聞かせた。

 フウはコンテナの近くまで来る。トマトで汚れていた王の顔はれいに清掃されていた。

「一日でこんなにれいにできるもんかね」

 フウは絵の近くまで歩み寄って足を止めた。

「……花」

 トマトで汚れた王の絵の前に、一輪の白い花が落ちている。五つのはなびらは下の二つが欠けていた。以前どこかでこれを見たことがあるが、フウはなかなか思い出せない。

「お兄ちゃん」

「わぁ」

 フウは小さく悲鳴を上げて振り返る。そこにはほこりと砂まみれになったカザクラがいた。

「どこ行ってたのアンタ」

「別のとこから入ってきた」

 チオウの外壁には幾つか抜け道がある。もともと都市の拡大と砂の流入を防ぐ意味合いのほうが強いので抜けようと思えばいくらでも抜けられるだろう。無論、警察に見つかれば補助金は一年間停止され、武器を携行していればろう行きだ。〈もう一つの警察〉に見つかれば拷問の副菜もついてくるだろう。

「普通に入ってくればいいでしょ」

「えっと、その……」

 カザクラは目を泳がせる。

「なんでそこで曖昧な態度になるのよ」

 黙っていたカザクラのの色が変わった気がした。


 ──言語に翼を。思考を空へ。


「あんた、突然どうしたの?」

「……臣民IDの引き継ぎの手続きがくいかなかったんです」

「急にはきはきとした口調になったわね」

 心なしか顔つきもしくなっている気がする。

「両親が死んだことで臣民IDが更新されず、再取得の期限が切れてしまい、資産も没収されて」

 フウは一瞬言葉を無くした。この子も、お父さんとお母さんが……

 頭をぼりぼり?き、わざとあいな表情を作った。

「……もういいわ。大体事情は把握したから。居場所が見つかるまで面倒見てあげる」

「本当? ありがとう、お兄ちゃん!」

 と、カザクラは抱き付いてくる。

「あぁもう、暑苦しい!」

 などと言いつつもフウはカザクラを押しのけようとはしない。空っぽだった心が、少しずつ何かで満たされていくのをフウは自覚していた。


 取りあえず、ほこり塗れのカザクラをこのままにはしておけないのでキンベイの公衆浴場に連れていく。

「お兄ちゃんも結構汚れてるね」

「昨日に行けなかったからね。どっかの誰かのせいで」

 キンベイの公衆浴場は一番安いところで入浴料金は二〇〇オウチ。

「きたない……」

「我がまま言わないの」

 脱衣所は一面コンクリートで、所々ヒビが入っていた。そして、その壁にはロッカーが並んでいる。ロッカーはび、扉が壊れているものも多い。

「ごーにいりては、ごーにしたがえ」

 カザクラは渋々服を脱ぎ、リボンを解き後ろで髪を結ぶ。フウはその背後をなんとなく見ていた。小さな胸から肢体へ身体からだのラインがれいに流れている。肘や膝裏の関節部分など身体からだの至る所に鉛筆で書いたような細いラインが入っていた。首筋の所には【HE超19─4】という入れ墨がある。この入れ墨はなんだろう。

 まぁいいか、とフウは自分も衣服を脱いだ。フウの肘や肩は服とこすれて皮が厚くなっていた。てのひらの皮も一六歳の少女にしてはかなり分厚い。

 中は湯気が立ち込めていて、タイル張りの浴槽に浅く湯がまっているだけである。

「人いない」

「キンベイの人は家におあるからね。ここは出稼ぎに来てるシモガジョウの労働者くらいしか使わない」

「え?」

「分かんないならいい」

 今日の浴槽はまだキレイだ。女性の労働者はあまりいないので女湯は汚れが少ない。男湯の方は想像すらしたくない。

「あぁ、気持ちいい」

 とカザクラは湯につかるととろけたような笑顔を浮かべた。フウも湯船に肩からつかる。

「うぁあぁ、」

 フウは目を優しく閉じて天を仰いだ。ぬくもりが総身に広がり、その後力が抜けていく。その日の疲れが湯船に流れていくような感覚だ。

「いやぁ、ごくらく」

 カザクラは目をとろんとさせて、右に左に頭を揺らしていた。フウはそんなカザクラを見ていてあることに気が付いた。

「おい、ちょっと立て」

「ん?」

「いいから立て」

 カザクラは立ち上がり、フウも立ち上がった。フウの視線はカザクラの胸元に向かっている。そのぺったんこと呼んで差し支えない胸に。

「てめえも大概小さいじゃねえか!」

「……ですなぁ」

「感慨深げに言うな! よくアタシのことお兄ちゃん呼ばわりできたな」

「でも、お兄ちゃんの胸がちいさいことは間違ってないよね」

 カザクラは冷静に切り返す。うっ、とフウは言葉に窮した。たしかに、カザクラの胸の小ささを指摘したところで自分の胸が大きくなりはしない。フウは言い返すことができず口をとがらせて座った。

「ぐう……」

 フウがやっと出せたのはそんな言葉だった。


 その日も夜が空を覆い尽くす。今日は新月で、濃紺のてのひらからほしくずこぼおんの輝きが空一面に広がっていた。

 その夜は運よく何事もなく家に帰ることができた。フウとカザクラは、管轄区の端っこの、ひとのないベンチで夜空を見上げてラジオを聞いていた。

『つまり酸素のドウイタイも当時の気候を知る手掛かりになるのだよ』

『化石だけじゃないんですね』

『そうだ。過去の気候を知る手がかりは一つじゃない。湖の沈殿物や生物の痕跡、地層、人間の記録などを考慮すればより詳細に当時の気候が知れるのだよ』

『今週はかなり難しい単語が出ましたね』

『週末に各自自習することが望ましい』

『そうですね。日曜日十二時からの今週のオコトバでは、その週に出た難しい用語を再解説します。今週は我らがフクモトさんとマユミさんが解説をします。今日は事情により、〈社会代謝機構〉はお休みして〈おんの大地〉エクストラをお送りしています。さて次は──』

 カザクラはラジオを不思議そうに見つめていた。

「この中に人がいるの?」

「あんた、ラジオ知らないの?」

「知らない」

 たしかにラジオは高級品でもなければ生活必需品でもない、旧文明が残したジャンクだ。フウもジャンク屋を除いて、ラジオを持っている人を見た事がない。知らなくても無理はないだろう。

「これで何してるの?」

「勉強よ勉強。ラジオの向こうにいる人がいろんな事を教えてくれるの」

「なんかよくわかんないけど、先生ってこと?」

「そういうこと」

い人?」

い人かどうかは分かんないけど、尊敬はしてるわ」

「どの先生が一番好き?」

 フウは頭をひねらせた。ラジオパーソナリティーはアナウンサーを含めて二十人近くいる。

「うーん、理科担当のフクモトさんかな。話分かりやすいけどちょっとあいが悪い所が逆に」

 尊敬、というよりは若干アイドル崇拝的な憧れを含んでいるかもしれない。と、フウは思った。理科担当は他にも何人かいるが、地学に詳しいフクモトさんの講義が一番ためになる。

「後は社会担当のマユミさん。アナウンサーはイシモトケイスケさんが好き」

「へぇ。その人の話を聞いたら私も賢くなれる?」

「なれるんじゃない? はじめは難しいと思うけどね。私も二年くらい聞き続けてようやく応用編に付いていけるようになったし」

 それが早いのか遅いのかは分からなかった。だが、再放送も含めて一日十五時間は聞いて、ありったけの好奇心を差し向け、二年でようやく全ての番組を理解できるようになった、と思えば少々遅い気もする。チオウの教育課程が臣民学校は五年、上級学校は最高で十五年なのを考えたら早い気もする。

「先生が優秀だから、時間をかければ大丈夫よ」

「先生、よろしくおねがいします」

 とカザクラはラジオに向かってお辞儀をした。

『さて読者からのお便りコーナーです。今日はタイラクテンにお住まいのアサクラシン君からのお便りです』

「アサクラだって! 私と似てる名前!」

 カザクラはラジオを指差しその手をブンブン振った。

『フクモトさんは、どうして勉強をするようになったのですか』

『単純に興味が湧いたものに没頭していただけなのだよ』

 と相変わらずフクモトさんはあいに応対する。

「ねえねえ、お兄ちゃん、これ何してるの?」

「お便りコーナーよ。この番組を聞いている人が手紙を出して、運が良ければパーソナリティーにそれを読んでもらえるの」

「私もお手紙出したいな」

「無理よ」

 フウは「へ?」と首をかしげる。

「その人たちはもう手の届かないところにいる」

「……届かない所?」

 フウの心に少し冷たい風が吹いた。フウの顔は自然と空を向いていた。

「お母さんと同じところ」

 カザクラはそんなフウを不思議そうに眺めていた。

 その夜はいつになくにぎやかだった。カザクラは母親のベッドの上から、ラジオを聞きながら質問を飛ばす。その都度、フウは質問に答えた。カザクラにとってはフウが一番身近な先生である。

「お兄ちゃんは物知りさんだね」

 カザクラにそう言われ、フウはどうしていいか分からず黙ってしまった。この感じはどこかなつかしい気がした。遠くの昔に自分が忘れていたものが、冷たい泉を温めていく。

「べ、別に物知りなんかじゃないわよ」

 フウは顔を赤くしてなんとか言葉を絞り出す。

「お兄ちゃんの知識はとても分厚いと思うよ」

 フウは一層?を紅潮させて視線をらす。少し間をおいて、

「知識ってどういうこと?」

「おやすみなさい」

「寝るな!」

 カザクラはバタンとベッドに身体からだを横たえた。恐る恐る近寄ってみる。カザクラはすうすうとわざとらしく寝息を立てていた。

「お前、起きてるだろ」

 カザクラは「すうすう」と寝息を立てる。

「起きたらチョコレートバーあげるよ」

 カザクラはバッと身体からだを起こす。ゴチ、とフウは頭をぶつけてその場にうずくまる。

「いったああああぁ!」

 経験はないが、ハンマーで頭を強打されたかのようだ。視界がぐわんぐわん回っている。目尻からは涙がこぼれていた。

「お兄ちゃん、チョコレート」

「起きてるじゃねえか!」

 フウは涙目になりながら叫んだ。

「チョコレート!」

「無いわよ!」

 カザクラはうるうると目に涙を浮かべた。

「いやー」

 と子供のような駄々をこねる。

「ないもんはない。寝なさい!」

「いやあああぁ」

 カザクラはついに泣き出してしまった。フウは疑わし気な目を飛ばし、

「寝たら明日買ってあげる」

 カザクラはすぐんでとんに入った。

「お前な……」

 赤くなった額をさすりながら、またフウはカザクラを見下ろした。色々声をかけたが反応はない。カザクラは本当に眠ったらしい。安らかな寝顔だったが、それを見たフウの胸には僅かな不安がよぎった。

 カザクラの身体からだに薄いとんをかけてあげ、そのベッドの側で胡坐あぐらをかいた。しかし、面倒なことになった。この少女について分かっていることは、自分に敵意が無いということくらい。

「あー、なんで私ってこういう面倒事抱え込んじゃうんだろう」

 頭を抱えつつも、母のベッドで眠るカザクラを見て、そこはかとなく心が安らぐフウだった。


「カザクラ、起きて、カザクラ」

 朝の五時、フウはカザクラの身体からだをゆすって起こそうとする。だがカザクラは全く反応しない。溶接されたようにまぶたは硬く、呼吸も聞こえない程に浅い。しかも、カザクラが眠っているのはあのベッドである。

「カザクラ! おい! カザクラ!」

 不思議とフウは叫ぶような口調になった。フウは心臓がのたうつように高鳴るのを感じた。

「ん……」

 カザクラはまぶたを少し持ち上げた。

「もう朝?」

 カザクラは重そうに身体からだを起こす。フウの肩の力が急激に抜けていく。

「……朝だよ」

 カザクラは目を細くしたままフウを向いた。

「すごい汗。おばけでも見たの?」

「そんなところね」

「おばけ怖いから起きる」

「ご飯食べたら出発するよ」

 眠っているカザクラの姿と死ぬぎわの母親の姿がフウの中で重なっていた。、死にかけていた母とカザクラの姿が重なるのか、フウは深く考えるのをめた。


 その日もチオウでとある企業の社員の依頼が入っていた。金を持っていても結局片道数時間のライフスタイルはあまり変わらない。

 カザクラは頭を右に左に揺らしながら、のろのろと歩いていた。太陽が昇り始めるとようやく足取りに力が戻る。

 岩場は風が長年かけて岩をえぐってできた広大な風食地帯で、フウは幾つか自分の休憩場所を持っている。今日はいつもキャンプ場に使う大岩の影で休んでいた。

 フウが岩の影で休憩している間、カザクラは近くに遊びに行っていた。

「お兄ちゃーん!」

 どこからともなくカザクラの声が聞こえてくる。

「なに」

「面白いもの見つけたー!」

 カザクラの右手には、白くて硬い、うねうねとねじ曲がった謎の物体が握られている。何かの骨だろうか。フウはそのキショい物体をしばらく見つめ、

「……なにこれ?」

 カザクラも「うーん」と眉間にしわを寄せた。しばらく考えて、

「あくとくべんごしの性根?」

 こんな形をしていたのか。

「そりゃ涼しい顔で金持ち逃げするわけだわ」

 会話をしている分にはカザクラの体調にどこもおかしいところは見られない。「カザクラは朝が弱いのだろうか」とフウはその時はさして気にも止めなかった。

 ラジオというものは万人の好奇心をくすぐるらしい。岩場の影で休憩中、カザクラは見聞きした〈童心科学?〉の内容についてフウに色々と尋ねてきた。

「なんでなんで? なんでサンソーにはスイソーが二つくっつくのー?」

「つまりね、」

 とフウはメモ帳に図を書いて説明する。説明をあらかた聞き終わったカザクラが、

「……てことはー、サンソーは両手を使いたいけど、鉄は片手しか使いたくないんだね」

「うーん」

 本当に分かってるのか? と頭をひねるフウ。でもフウはカザクラに教えてる間、顔は自然とほころんでいた。人に教えるという初めての経験に喜びを隠し切れない。だけど、人に教えるにはまだまだ知識不足だと痛感もする。

「この前のさんそがスピンするっていう話は?」

「そんなのもっと後だよ。学問に王道なし、っていつも先生たちは言ってる」

 フウも最近ようやく「共有結合」の単元に挑戦できるようになった。

「オードー?」

「近道をしたら思わぬ落とし穴があるってことよ」

 などと言いつつ人ごとのような気がしないフウである。

「岩場を通って遠回りするのもオードー?」

「うーん。危機管理? かな」

「たまには冒険してもうちょっと西歩きたい。というか近道したい」

「それは冒険じゃなくて自殺行為っていうのよ」

 どうもカザクラは命知らずな所があって危なっかしい。

「あ、今度は十人くらいいる」

 カザクラが突拍子もない事を言い出した。特に表情に変化はなくひようひようとしている。

「え?」

 カザクラの水晶のような瞳にフウが映る。

「えっとね、昨日の人が十人に増えた」

 遅れてアサが「クルルルルル」と警戒音を発した。岩の合間からこちらをうかがう人影。

「まさか、またアイツらが」

 フウはすかさず拳銃を抜いてスライドを引いた。フウは素早く大岩によじ登って、声を張り上げる。

「またあんた等か。こんな真昼間でこの大所帯。軍にばれたらどうなるか分かってる?」

「事情が変わったんだ」

「変わった?」

「サイレッカの手配書を手に入れた。文字だけだが、そこに書かれてる女の特徴と貴様の隣にいる女の特徴が似ている」

 フウはカザクラをいちべつした。カザクラは能天気に「ほえ」と空を見上げている。

「人相書きも無いのに? 少々博打ばくちが過ぎるんじゃない?」

「もうこの辺りの獣は狩りつくした。そろそろ一獲千金のリスクを冒さないとがヤバイんでな。それに、その女を引き渡せばどっちも無傷で済む。どうした、悪い取引じゃないだろう?」

 それを聞いたカザクラが不安そうにフウの袖を引っ張った。

「私、連れていかれるの?」

「黙ってて。手配書には身長一五〇、一五歳くらいの少女としか書いてない。つまり、こいつ等は私が手配書の女かもしれないとも思ってるはずよ」

「どういうこと?」

「あんたを引き渡した後で隙を見て私も捕まえるつもり」

「どしよ。ぶちのめす?」

「なんであんたはまず暴力に頼ろうとするの。見なさい」

 大岩の上から遠くに見える男を顎で指す。男は長い銃を持っている。

「アイツら、今度は銃を持ってる。前みたいに脅す方法は無理」

 相手が自分より強い場合は口でどうにかするか、逃げるしかない。相手は大人十人だ。走っても追いつかれる可能性が高い。

 まずい。この前とは比べ物にならないくらい、まずい。フウの顔から汗の粒が流れた。胸に手を当てると胸板を挟んで心臓が暴れているのが分かった。

 力は頼りにならない。頼るのは、知恵だ。

 交渉のコツは〈空想格闘技電道場〉を始め、フクモトさんやマユミさんも言及している。フウはラジオを胸にギュッと当てる。

 ──天国の先生、私の全力を見ていてください。

 フウは吹っ切れたように前を向く。算段は整った。

「取りあえず、引き渡しの有無じゃ交渉にならない。まずは交渉の前提を変える必要がある」

 そう言うとフウは男の方に向かって声を張り上げた。

「王室が本当に報酬を支払うと思ってるの!?」

「王は我々臣民には善良であると信じている」

「純真が許されるのは子供だけだね。そんなんだから路頭に迷うんだよ」

 とフウは小さな声で毒突いた。

「言っちゃなんだけど、あんたたちもう臣民じゃないよ!」

「どういう意味だ」

 チオウの民は皆「神の使いである王の手足」ということになっている。だが──

「チオウの法律じゃ一度犯罪に手を染めた人間はけがれた者として臣民の権利をはく奪される。しんちよく裁判所で定められたみそぎをして初めて臣民に復帰するの」

 神の手足たる臣民にけがれは許されない。それがこの国の「しんじつ」だ。

「その話を信じろと」

「信じるも何も、アンタの周りの、しょっぴかれた連中がどうなったか考えてみなさいよ」

 男は長い沈黙を挟んだ。

「では賞金はどうなる」

 かかった。フウは心の中でほくそ笑む。

「ないわよ。労働とその報酬は王が臣民に授けた権利。犯罪者はその権利すらもはく奪されるわ。あなたたちは軍に体よく利用されてろうにぶち込まれるのがオチよ」

「ならばおれたちはどうすればいい!」

 アタシに聞くんだそれ。とフウは顔を引きつらせる。

「とにかくこんな大所帯で追いはぎやってたらそのうち軍か警察がやってくる。今は損得で言ったら損が一秒ごとに増えてる状態。無かったことにして退くのがお互いの利益ってもんよ」

 野盗たちはフウに聞き取れないほどの声で話し合った。その会話は五分にも及ぶ。フウはその間、緊張に耐え続けた。

「分かった。ここはひとずお前の言う通りにしよう」

「助かるわ」

 フウは警戒を保ちながら、野盗の動向をうかがった。野盗たちはフウの思惑通り、武器を降ろして去ろうとしている。フウの交渉は成功したかにみえた。

 だが、脅威が去ったわけではなかった。いや、むしろそれは新たな脅威の前菜に過ぎない。

「ピピピ」

 オオブンチョウのアサが警戒音を発する。それもかなり大きな声だ。次いでカザクラが顔を上げた。

「あ、ヤバいのがくる」

 ことの始まりは男の絶叫だった。

「ぎゃあああああああああぁ」

 フウは岩から身を乗り出し、目をすがめて声のしたほうを見る。岩の陰にのたうつ巨大な異獣。

「オカアゲハ……」

 オカアゲハのくちばしのような口から、さっきまでフウと交渉していた男の腕がはみ出ている。銃声が鳴った。野盗たちが小銃をオカアゲハに向けて発砲したのだ。無数の弾丸が表皮に突き刺さる。だがオカアゲハの皮膚は硬く、表皮にわずかな出血が見られるだけだ。オカアゲハは身体からだを波打たせて飛び跳ねると、野盗の一人を踏みつぶす。そのかたわらにいた野盗の身体からだの上で、8の字に蜷局とぐろを巻き、男の骨という骨を圧潰させてから頭から?み込んで?くだく。オカアゲハのくちから血がしたたちた。

「なんでこんなところにオカアゲハがいやがる!」

 野盗の一人が絶叫した。先生いわく、猛獣が人里に降りて来る一番の理由は、人が生息域の生き物を狩りつくした時だ。増えすぎた野盗が山岳地帯の生き物を狩りつくし、オカアゲハがそれによって飢えたのだろう。

「ピピィ」

 アサが鳴いた途端、オカアゲハの注意がこっちに向いた。オオブンチョウの鳴き声に反応するのは捕食者たるオカアゲハの本能なのかもしれない。オカアゲハは身体からだを波打たせて大岩をよじ登り、フウに迫りくる。

「まずい、逃げるよ!」

 フウはカザクラの手を引いた。急ぐあまり、フウは岩から足を踏み外し、背中から地面に落下した。

「痛った、ドジ踏んだ」

 身をよじって空を見上げた時、フウは死を覚悟した。オカアゲハが血で赤くれた口を目いっぱい開けて、フウに飛び掛かってくる。

 視界が矢のように流れた時、フウは悟った。死んだ、と。

「あれ?」

 ……だが、意識はまだある。しかもフウは大岩の上にいた。カザクラに抱きかかえられて。

「だいじょうぶ?」

 カザクラはあっけらかんとしてフウの顔をのぞいている。オカアゲハは頭を地面に激突させてもんどりうっていた。

「だいじょうぶ、って、あんた、何をしたの?」

「お兄ちゃんが食べられそうだったからね、かついでね、ぴょーんと飛び跳ねたんだよ」

「飛び跳ねたってあんた、人一人かついでこんな高く跳べるわけないでしょ」

「うまくいえないけどね、そういうすごい力があるんだよ。うまくいえないから、ちょっと起動するね」

「起動?」

 ──言語に翼を。思考を空へ。

「補助人工知能、エイチを起動しました。ただいまより、常時よりも円滑な意思疎通が可能となります」

 カザクラはまるで別人のようにりんとした表情と声になり、そこに大人びた笑顔が浮かんだ。

「あんた、一体何者なの」

「型番HE超19。いわゆる人造人間です」

「じ、人造人間!?」

 ?うそだ、とは断じられない。フウは一度人造人間を目撃している。食われははしたが、あれは間違いなく普通の人間ではなかった。

「話は後にしましょう。ひとずマスターの安全を確保することが最優先です」

 岩の側面をすさまじい勢いでオカアゲハが登ってくる。

「あんたアレに勝てるの?」

「脊椎動物、ちゆうこうゆうりんもく、オオトカゲもく、オオアシナシトカゲ科オカアゲハ種と断定。健康状態は劣悪。現在の武装で問題なく撃退できると結論します」

「こんな時になんだけど、そういう細かい事いちいち言う必要あるの?」

「人造人間は高い殺傷能力を持つため、自身の行動を逐一マスターに口頭で伝達するようプログラムされてます」

 オカアゲハはカザクラのただならぬ空気を察してか、かなり警戒をして襲うのをためらっていた。

 ヴォンと、カザクラの右手前腕部分に「邪馬梅」といういかつい表意文字が浮かんだ。

「第七武闘解釈、邪馬梅ヤマンバを起動します。マスター、私から一〇〇メートル以上の距離を取るよう警告します」

 フウは岩から降りながら、

「……死なないでね」

「善処します」

「善処じゃなくて、最優先」

 人造人間の顔に以前のカザクラを思わせる笑みがよぎったような気がした。

「分かりました、マスター」

「よし」

 フウは大岩を駆け下り、野盗たちがいた所まで距離を取る。野盗たちはすでにとんずらした後だった。

 カザクラは腰を落とし、重心を低くする。重心を低くするのは初動の速度と飛距離を重視する拳闘の構え──

 先に動いたのはオカアゲハだった。おぞましい鳴き声一つを大空に突き上げ、地面を滑るように疾走する。カザクラは左に大きく飛びのいた。直角にステップを踏み、身体からだを矢のように突進させてオカアゲハの側面に鉄拳をたたき込む。頭部と身体からだの境目だった。

「出力漸増。痛覚神経系まで残り参、弐、壱……突貫!」

 拳が皮膚を深くえぐると、オカアゲハは痛みにもんぜつしてのたうち回る。

 カザクラは高々と跳躍──

「対生命体人工毒物を噴射します。目標物の半径五〇メートルから避難を推奨します」

 腕の下から砲身を伸ばし、透明の液体を射出。液体はオカアゲハのくちばしの根元、人間でいう鼻に当たる感覚器官に命中させた。

 これが効果抜群だった。

 オカアゲハは頭を斬られた蛇のように目まぐるしく暴れた。カザクラは手を抜かない。カザクラは再びオカアゲハの側面に接近した。

「捨てられた、老婆の爪は、肉をも裂いて、ぞうへと至らん!」

 オカアゲハの腹部に弾丸がごときストライキングをねじ込み、

「放電!」

 あまつさえ身体からだを青紫に発光させて強烈な電気を流し込む。オカアゲハはこの世のものとは思えぬ絶叫を上げた。

 勝負あり。オカアゲハは完全に勝ち目のなさを悟って脇目も振らず逃走した。

「敵、無力化を確認。なんぴとたりともマスターを傷つけることは許可できません」

 カザクラは大岩から軽やかに飛び降り、整然とした足取りでフウに歩み寄る。

「あんた、大丈夫なの?」

「物理的な損傷はゼロ。排熱の必要もありません」

「大丈夫ってことね。ほんと良く勝てたもんだわ」

「第七武闘解釈──邪馬梅ヤマンバ。伝統派カラテの攻撃哲学を応用しつつ相手の感覚器官を集中的に攻撃する特殊格闘技です。獣のほとんどは単一の優れた感覚器官に頼っており、そこを攻撃すればパフォーマンスを著しくぐことが可能です。対人であれば急所を誤認させたりと、もう少し駆け引きが複雑になります。ですが、対生物では邪馬梅ヤマンバのような簡略な格闘アルゴリズムの方が最適です」

「その状況に合わせた格闘プログラムを使ったってわけだ」

「私の人工知能モジュールには複数の格闘アルゴリズムが搭載されています。その選別は主脳で行いますが、今回は適切な選択ができたと考えています」

 カザクラは真顔でじっとフウを見つめていた。何か特定の言葉を話すのを待っているかのようだ。

「じゃあ、先を急ぐよ」

 その袖をカザクラの右手が引っ張った。フウは前につんのめった後、

「どうしたの?」

「おなかが、減りました」

 察しのいフウはカザクラの言わんとしてることを理解した。

「ごほうが欲しいの?」

 カザクラは黙ったまま?を少し赤らめる。

 こういう時、母親はどうしていたかな、とフウは少し考えた。

「お菓子もってないから、チオウに着くまではこれで我慢して」

 頭を軽くでてやる。カザクラは顔を真っ赤にした。

「その、昨晩の約束と合わせて二人分のスナック菓子を頂けるということでしょうか」

「……抜け目ない性格してるわね」

「恐縮です」

 カザクラは大人びた笑顔になった。

「一つハッキリさせときたいんだけど、あんたは前のカザクラなの?」

「現在は人工知能モジュールによって言語能力を一時的に向上させているにすぎません。人格と記憶は補助人工知能の起動前後で一貫しています」

「語彙力や表現力を上げているだけってことか。でも、なんでそれを常時起動させておかないの?」

「能力拡張型の人工知能モジュールは使用者の各能力を飛躍的に向上させますが、同時に極めて高い依存性を発揮します。常時起動した場合、不意な人工知能モジュールの停止による人格のカイリ現象、主体性の損失、判断力の低下、等の副作用が引き起こされます」

 やや難しい単語が羅列されたので、フウは深呼吸をして言葉をしやくしていく。

「人工知能がメインの脳の一部になっちゃって、それが切れた時に心が大変なことになるってこと?」

「そう考えていただいて差し支えありません。間もなく、推奨起動時間の限界が迫っています」

「あ、その前に幾つか聞かせて」

「どうぞ」

「指名手配されてる少女ってのはアンタなの?」

 カザクラの表情に人間的なしゆんじゆんよぎる。それはゼロコンマ数秒の沈黙となった。

「……その通りです。私は今、サイレッカに追われています」

 サイレッカ。チオウの軍事組織に追われている、というのは今のフウにとってなかなか理解しがたい状況だ。

「追われてるって、あんた、何やったの」

「サイレッカの兵器研究機関から逃走しました」

「逃走?」

「運動パフォーマンスの計測中にラボを抜け出しました」

「研究機関で製造されたのに、反抗心を抱いた。そういうこと?」

「状況証拠だけ見ればその判断は妥当と考えます」

「実際は違うの?」

「私の記憶には著しい欠落があります。その記憶には、断片的ですが研究機関で製造される以前のものが存在しているのです」

「王の研究機関で極秘裏に造られていたであろう人造人間。だけど、その記憶には人造人間として生まれる前のものがある」

 年齢不相応の言語能力は、社会経験が未熟であることと、知能に意図的な操作がされた、両方の可能性を示唆しているように思える。政府がわざわざ指名手配まで出していることを考えると、この少女の背景には何かきな臭いものを感じて仕方がない。

「あんたはそれを知りたいと思う?」

 カザクラは不安げに視線を伏せる。

「分かりません。ただ、逃げるのに必死だったから」

「ハッキリしているのはもう研究所には戻りたくない、って事くらいかしら」

 フウもチオウ政府にいいイメージなど持っていないため、その考えは自然と受け入れることが出来た。カザクラが家出気分で研究所を逃げ出したのではないことは明らかだ。

「私からも、一つだけ確認してもよろしいでしょうか」

「何?」

「マスターは私を政府に引き渡すつもりですか?」

「まぁ、そういう事もあるかもね。わ、私だってお金に困ってるわけだし?」

 フウがそう言うとカザクラは静々と笑った。

「な、なにがおかしいのよ! 私本気よ?」

「ありがとうございます。やはり、貴方あなたに付いて行って正解だった」

 本心を見透かされたような気がしてフウは?を紅潮させる。

「勝手に変な解釈するなよ!」

 カザクラは黙って笑っている。

「わ、私はあんたの思ってるような善人じゃないし!」

 フウは思わず声を張り上げる。カザクラはだらしのない笑みを浮かべて首を傾ける。

「えへへ、お兄ちゃん、ありがとう」

「あーもう! い!」

「お兄ちゃんは優しいね!」

「優しくない!」

「優しいですよー!」

「優しくない!」

 カザクラは照れてきりきり舞いになるフウを見ていて楽しいらしい。それが分かっててもフウの顔はますます赤くなる。

「やっぱりお兄ちゃんは優しい人だよ」

「ああもう! 黙れしやべるな口とじろ!」

 資産を増やすだけでは決して満たされなかった心の空洞。以前は母という大きな存在がいた。今は、たった一人の少女が胡坐あぐらをかいて座っている。

 少女と接することで揺り動かされる感情。

 フウは今、生きていた。

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