一章 天国のラジオ

 骨の髄まで冷える夜は、ゆっくりと時間をかけて皮膚を焼く昼へと変貌する。あの悪魔の象徴ともいえる太陽が東の山脈から顔を出す少し前にフウは目を覚ます。

 いつもより赤い目をこすり、持ち主のいないベッドを見下ろした。もう一度泣きたい衝動に駆られたが、そこまでの水分も「塩分」も身体からだに残っていないようだった。体調からいって、睡眠時間はおおよそ二時間くらいか、とぼんやり思った。

 どうやら、悲しみだけじゃ人は死なないし、死ぬ気にもならないようだ。胸の中に大きな穴を開けたまま、フウは再びせいの地平を歩き出す。穴の中を、後悔の風が吹き抜けていくのがたまらなく痛かったけど。

 フウは戸棚の乾いた干し肉と、プラスチックの容器に入った携帯流動食をポーチに入れ、ベルトにかかったさやにナイフを二つしまう。最後に赤子が入るほど大きなポリタンクをかついで家を出た。

 朝の六時、コンクリート造りの庁舎の前には十数人の人間が押し掛けていた。主に若い男や女で、フウはそれよりももう少し若い。庁舎の前には、四角い金属の機械がある。

「ママー、これなに?」

「ほじょきんはっこうきよ。こうやってこの黒い板に手を当てると」

 ──指紋を認証しました。世帯番号五二四。

 発行機から竜の横顔が描かれた紙幣が飛び出してくる。

「その日に使えるお金が出てくるの。これで今からマナちゃんの病気をなおすこーせーぶっしつを、買いに行くのよ」

 こーせーぶっしつ。意味は分からないが、その名を聞いたことはある。フウはポケットに手を入れる。水をケチって手に入れた「こーせーぶっしつ」を入れた容器が音を立てる。母親に必要なのは薬ではなく、水と塩だったのは皮肉にもならない。この命懸けで運んだこーせーぶっしつは必要ないのだ。

 そう、フウが持っていても意味はない。


 フウは「三人分」の補助金を大切にふところにしまい「第五管轄区」の出口に向かった。第五管轄区は有刺鉄線をロープにきつけ、それを丸木にくくりつけたバリケードに囲われており、東側に出口がある。警備兵と「おはよう」の挨拶を交わし、フウは管轄区を出た。

 第五管轄区から北に望む、平たい地平の向こう。そこに摩天楼の一群が、白んだ夜空に突出している。王都「チオウ」は今日も西側のハマキシマ工業地帯から排煙を天に昇らせていた。チオウと第五管轄区はその間に横たわる「西の砂漠」を歩けば三時間以内で移動できるだろう。だが、誰もそれをしない。西の砂漠を歩けばどうなるか、フウは昨日身を持って知った。

 そんなこんなで、出稼ぎ労働者や商人たちは東側の岩場を通るかいルートを選択せざるを得ない。一団の足並みはバラバラでだ。山岳地帯の「第四管轄区」に行く者や、野生動物を狩りに行く者、大型犬を連れてさっさと先に進む者。そしてフウのようにそもそも足が遅い者。

 一時間ほど歩くと、フウは一人になる。この名も無き岩場にあるのは岩とれきと、背の低い乾燥した植物である。東には高い山脈のりようせんが青空に波打ち、その山のてっぺんはどういうわけか白かった。フウはそれが塩だと確信していたが、管轄区の物知りいわく違うという。なんでもユキとかいう水の塊だとか。水はあんな色ではないので、フウは真に受けていなかった。

 とにかく、しばらくは砕け散った岩石の間をえっちらおっちら、足の痛みに耐えながら不毛の地平を少しずつ進んでいく。二時間ほど歩くと、風食が進んだ地域に出くわす。風に削られた岩場は迷路のようで、その中は影になっていて涼しい。ただし、足場が悪く、転びでもすればざらついた岩に皮膚をはぎ取られることもある。

 フウはある地点で足を止めた。耳を澄ませると、岩の間を吹き抜ける甲高い風の音に犬のうなり声が混じっているのが聞こえた。

「ウゥ、ウゥ」

 振り向けば背の低くやせ細った犬が、血眼でこちらをにらんでいる。

 ──王都から流れてきたいぬか。

 恐らく縄張り争いに負けここまで流れてきた口だろう。フウは左手にがいとうの裾を巻きつけ、右手で腰のナイフを抜いた。

 いぬは「死神」「闇の使い」などと呼ばれている。どういう理屈か分からないが、いぬまれた人間は光や水を恐れながら死んでいくからだ。その名を「きょーけんびょー」と呼ぶ者もいる。

 いぬはフウの身体からだきやしやだと見抜くなり大地を蹴って飛び掛かってきた。フウはとつに左手を差し出し、犬はがいとうの布の上に牙を突き立てる。すさまじいりよりよくでフウは岩壁にたたけられた。背中に鈍い痛みが走り、しびれが全身に拡散する。格闘の末フウは地面に押し倒され、犬がその上に馬乗りになった。腐臭をまとった牙ががいとうの布に食い込んでいく。荒いうなり声と、地獄からた悪魔のような目がフウを見下ろしていた。

 フウはナイフを犬の首に突き立てる。ナイフの先端は皮膚を食い破り、肉を裂いて骨まで達した。堅い骨の感覚が手に伝わってひどく気色が悪い。犬はそれでも全く力を落とすことなくフウの左手に牙を突き立てる。フウはナイフを引き抜くと、今度は鼻目がけてナイフを振り下ろす。銀色の刃が鼻をぎ落とし犬はひるんで飛びのいた。その隙にフウは犬の身体からだを蹴飛ばし、犬の顔面を思い切り踏みつけた。

「キャン」

 昔、管轄区にいた子犬がフラッシュバックして、フウの目から罪悪の涙がこぼれた。それでも、自分は生きなくてはならない。

 ──ごめんなさい。

 だから犬を踏みつけ、内臓に刃を突き立て、完全に動かなくなるまで攻撃を止めなかった。

 自分は生きなくてはならないから。

 生きなくてはならない。

 誰のために。


 出発から五時間。太陽は真南に移動し、死の烈日が大地を焼く。がいとうの上からも熱を感じる。素肌を数分さらせば夜は日焼けで皮膚が?がれ落ちるだろう。

 しやくねつの地獄と化したれきの原野をフウは一歩、また一歩と踏みしめる。

 左手の小指が痛い。折れたか、はたまた骨折だけはまぬがれたか。背中の辺りは皮膚が?けて出血し、歩く度に服とこすれて痛みが広がる。水の運搬で痛めた腰が犬との戦いで大きく悲鳴を上げていた。岩石に近い硬さの地盤も実につらい。

 歩くという拷問に顔をしかめながらも、フウはようやくチオウに辿たどいた。

 フウはフードの下から、鉄でできた巨大な門を見上げた。チオウは巨大な鉄の外壁に囲われている。外壁の根元には幾つもの穴が掘られ、そこからボロボロの衣服を着た人間が時折顔を見せる。それは都市の生存競争に敗れ、家を無くした人々のすみである。昼は自分で掘った穴に籠もっているが、夜になれば外に出て食べ物や小銭を調達しに行く。

 検問所の前には、防具付きの軍服を着た男が銃を携えて立っていた。

「君か。どうしたんだ、野犬にでも襲われたのか?」

 黒いヘルメットの中から若い男の声が聞こえてくる。フウは心配無用とだけ告げた。

 フウが門の外にある黒いボードに手をかざすと赤い光線がてのひらを走査する。数秒後、ボードが青く発光した。

『認証完了。第五直轄地区。第一六世帯』

「よし、通っていいぞ」

 巨大な鉄のもんはそのまま、隣の小さなドアが開けられる。チオウのよどんだ風がフウの鼻をついた。


 チオウ、それは砂漠にそびえる孤高の都市。第五管轄区が何千個も入るほど広いらしく、フウも東側のごく一部の地域しか知らない。中央部は〈ドテン〉という名の都心で、密集したビルが山のように天を衝いている。実際、かすみの向こうに遠く見るドテンはけんしゆんな山に見えた。東側には〈シモガジョウ〉というスラムがあり、出稼ぎ労働者の宿泊施設や貧困層の居住地など雑然とした街並みが外壁まで広がっている。家とは名ばかりの廃材を集めたバラックや、路上生活者、汚れた道路の脇に群がる露店など独特の風景を形成している。犯罪を起こせば軍の銃弾が飛んでくるので表立った犯罪はないが、それでも暴力カルテルや革命派のねぐらが至る所に存在し、えた悪臭とともにどこかけん?のんな空気が漂っていた。

 シモガジョウの大通りには浄化された水の売り場がある。その前にはがいとうまとった人間が長蛇の列を作っていた。フウもそこに並び、時間をかけてポリタンクに水を入れる。

 これでフウの用事は終わりである。片道五時間もの道のりを歩いて来た彼女のすべきことはここで終わる。

 フウを初めとする管轄区の人間には、水と食料を買う分の補助金しか与えられていない。都市に住む子供たちは普段何をしているのかフウは疑問に思った事がある。なんでも、死んだ母親いわく「ガッコウ」というものに行って時間を潰しているらしい。生きるための知識をたくさんそこで得られるのだそうだ。

 ──もしガッコウに行っていたら母は死なずに済んだのだろうか。

 フウは首を振った。無いものねだりをしたって仕方ない。

 自分にはガッコウに行く金がない。水を買う以外の金はないのだ。

 ──いや、今日は違う。

 フウはポケットをまさぐった。そこには二人分の補助金がまだ残っている。

 余った金の使い道、なんてのは一つくらいしかない。

 ガッコウ? ばかいえ。

 肉だ。

 雨季に入るとたまに金が浮くときがある。その時は肉を食うと相場が決まっていた。

 貴重なたんぱくげん。アンド、焼いたときの美味さ。配給の干し肉や携帯流動食とは訳が違う。

 フウの口からよだれしたたった。

 それを慌てて手で拭う。

 シモガジョウの大通りは今日も雑踏がけたたましい。精肉店は大通りの端、つまり出口の付近にある。フウは一人分の水をかついで肉屋を目指す。

 にぎわう人々の声がフウの耳を素通りしていく。

「おい、また野盗がしょっぴかれたそうだぞ」

「あー、暑ぃ」

「俺も拳銃買おうかなぁ」

「サイレッカって普段何してんの?」

「寒い夜とたわむれ」

 フウは後ろ襟を?つかまれたように素早く後ろを振り返る。雑踏の中からかすかに聞こえたその歌。

 ……今の歌、間違いない。

 メロディも、リズムも、母が口ずさんでいた歌だ。

 フウの鼓動がかつてないほど高鳴った。フウは水の入ったポリタンクを投げ出し、もと来た道を引き返す。人混みをかき分け、古びた糸のようにか細い音のしるべ辿たどっていく。

しやくねつと踊れ 血潮のような ゆうに向かい」

 それは母が覚えてなかった部分もしっかりと詩を口ずさんでいる。

 人の壁をかき分けていくとその歌はより鮮明にハッキリと聞き取れる。それは雑踏の中では小さな音だったが、フウにとってはとてつもなく大きな音に聞こえた。フウは大通り沿いの店の前に立ち止まっては聞き耳を立てる。

「月と明日へ渡れ」

 それは男性の声だ。一度聴いたら忘れられないはかなく優しい歌声。

なきがら越えて」

 フウはある建物の前に立っていた。塗装の?げ落ちたコンクリートでできた二階建ての建物。

「手を伸ばして 感じろ」

 フウは何も考えず中に入った。かべぎわの棚には銃のパーツやスコップ、ねじ、ボルト、フォークなど統一感のないものが雑然と陳列されている。

 奥のカウンターにいたのは、髪が白くなり、腰が曲がった老人だ。

 ……え、このじいさんが歌っていたの?

『はい、というわけで』

 右の棚から声がした。だがそっちを見ても誰もいない。

『お聞きいただ──のは、欠け──でした』

 だが、棚から声がする。フウはゆっくりと、声のする方に視線をずらしていく。びた車輪と砂に塗れた人形に挟まれる形で、それはいた。

 ──これが声の主?

 プラスチックでできた直方体の物体だった。色は銀色だが所々が?げている。てのひらに収まるほどの大きさで、表面には小さな穴がたくさん。上の方には摘まみが二つ、銀色の細長い棒が折りたたんである。右の側面にはスイッチが、左の側面には「FM」「AM」と見慣れない文字が描かれていた。

 その物体は、天窓からした日の光に鈍く輝いている。雑音がせ、世界には銀色の物体とフウだけが存在していた。聞こえるのは、その銀色の物体が放つ音だけだ。

 フウは深く息を吸い込んだ。

『午後のユー──の後──ザザッ───は』

 どうやら音は無数に開いた穴から聞こえてくるようだ。

 肝心の曲名と最後のフレーズを聞きそびれてしまった。

「おー、釣れたかぁ」

 店主とおぼしきじいさんがカウンターから出て歩み寄って来る。

「客寄せにと思ってかけてみたんだがこりゃ効果てきめんだわい」

 じいさんの視線は開け放たれた扉の向こうのけんそうに投げかけられる。

「このやかましさじゃ、意味ないと思ってたんだがな」

 この珍妙な物体は一体なんだ、と恐る恐るじいさんに聞いてみる。

「こりゃラジオ、だったかな。なんかそういう名前の代物だ」

 ラ……ジオ?

「そう。この銀色の棒で、でんぱ? つーのをとっ?つかまえて音を出すんだと」

 フウは「むー」と腕を組んで考えた後、と言うことは「でんぱ」を出す人がいるのかと聞いてみた。

「そりゃぁな。どっかのもの好きが流してんだよ」

 と言うことは、さっきの歌を歌っていた人がこのチオウにいるということじゃないか。

 フウは、さっきの歌手はどこにいるのだ、と詰め寄った。じいさんはそんなフウに少し圧倒された後、何かを見透かして微笑する。

「ちと聞けば分かるが、このラジオが話すのは俺らの知らないことばかりだ。まるで、どっか別の世界のことを語るようにな」

 フウは言葉の意図が見えずに首をかしげた。じいさんは少し得意げになってじようぜつに語り始める。

「昔はこの国の他にいろんな国がたっくさんあったんだよ」

 たしか、チオウ以外の国は神の怒りに触れて滅び去った、という話だ。第五管轄区でもごくまれに、壮麗な服を着たオッサンが現れて「この国がどうしてできたか」を演説しにくる。

「だけどな、本当はでけえ戦争があったんだ」

 せんそう?

「ヤクザのいのデカいやつ。大勢の人間と人間の殺し合いだな。ともかく、それで沢山の国が滅びた。でっけえ火の玉が降ってきて人がバンバン焼け死ぬのよ。その、戦争で唯一生き残ったのがこの国ってわけさ」

 じいさんは棚に陳列された品を指差した。

「この中の幾つかは、その戦争で滅びた国のもんだ。恐らく、そのラジオもな」

 ということは、このラジオから聞こえてくる曲は、

「何十年、下手すりゃ何百年も前のもんだ。おんせいでーた、つうのがあって、それをどっかのもの好きがでんぱに乗せて流してるのよ」

 ということはこのラジオから聞こえてくるひとたちはもう、

「この世にはいないだろうな。いても、百歳を超えたジジババだ」

 そうなのか。というか、王の出自を否定する様な話をして大丈夫なのだろうか。他の国は神の怒りによって滅びた、というのがこのチオウのだ。じいさんは笑いながら、

「こんな寂れたジャンク屋に聞き耳立てる物好きなんぞいやしねえよ」

 フウはあいわらいをしてじいさんの語る過去に同調するのはやめておいた。

「で、お前さん、そのラジオに並々ならぬ興味があると見える」

 う、とフウは口をへの字にした。

「そうだな、どうせ誰も買ってかねえし、一〇〇〇オウチってとこでどうだ」

 フウはわずかに戦慄し、ポケットの一枚しかない一〇〇〇オウチ札を握りしめる。そのリアクションでフウはじいさんにふところ具合を見抜かれた。そのしわだらけの顔が片笑む。

 このじいさん、できる。

「お嬢ちゃん、今だけだぜ」

 馬鹿を言ってはいけない。こんな音の鳴る箱ごときで貴重な「肉」を失ってたまるか。

「ずっと長く聞いていれば、またいつかどこかで同じ曲が聞けるかもなぁ」

 フウは一度明後日あさつてに向けた視線を、「ラジオ」に戻す。そしてもう一回目を背ける。そしてまた、ラジオに視線を戻した。一文字に結ばれた口が決意と共に波打った。


 日が傾き始め、乾いた大地は血のように赤く染まっている。夜は大型のちゆうるいは活動しない。代わりにフウの敵は寒さになるのだが、この季節は命をおびやかすほど気温が下がることはなかった。今日は満月なので闇におびえる必要もない。

 フウは途中まで足を速めていたが、帰りを待つ人はいないと気付いて速度を落とした。例の岩場に差し掛かる。そこにはハゲタカに食い荒らされたであろう犬のなきがらが転がっている。

 適当な大岩を見つけ、そこに上った。フウの生活はいわゆるサバイバルではなく、計画的な旅である。補助金の余りで買った乾燥燃料にライターで火をつけ、そこに乾燥した木材をくべて火を起こす。フウは犬からはぎ取った肉を焼き、その肉と干した果実を食べる。肉と野菜を食べないと病気になることくらいは知っていた。

 星と月を眺め、フウはそっと目を閉じて風を感じた。まだ心には痛みがある。というよりこの痛みは一生消えないのだろう。

 フウはあることを思い出し、ポーチを開けた。取り出したのは、プラスチックでできた直方体の物体だった。色は銀色。てのひらに収まるほどの大きさで、表面には小さな穴がたくさん開いている。上の方には摘まみが二つ、銀色の細長い棒が折り畳んであった。右の側面にはスイッチが、左の側面には「FM」「AM」と見慣れない文字が描かれている。

 ラジオである。

 フウはラジオへ土下座するように手と膝をついてうなれる。

 やってしまった。

 楽しみにしていたお肉が、こんな訳の分からないこつとうひんに変貌してしまった。

 ジャンク屋の口車に乗せられてこんなものを買ってしまうとは。

 電源を入れると「ザザザ」と砂をかき交ぜたような音が聞こえた。銀色の棒を立てて、摘まみを回していく。

『ザザッ、ザザッ、ザザッ、の時、ザザッ』

 フウはハッと目を見開いた。今、人の声が。慎重に摘まみを戻す。

『──ですね。つまり、それがキンダイ的なケーザイの始まりなわけです』

 男の声が聞こえる。

『簡単にいってしまえば自分のを稼ぐだけで精いっぱいなんですね。でも、もっと効率的に農作物を生産できるようになると、資金的にも時間的にも余裕がでてくる。これが、カヘイケーザイがセイリツするドジョウになるわけです』

 穏やかな声だった。不思議と耳を傾けたくなるような。フウはラジオに顔を近づける。

『今日はショーヒンサクモツとケーザイのハナシをお届けしました。次回は明後日あさつて木曜日の六時から。テーマはカヘイのセイリツです。キンダイテキなカヘイケイザイがどのように成立したのかを考えていきます。解説はタイラクテンダイガクキョウジュ、ナカタトシロウさん、進行はドージョー・シンイチアナウンサーがお送りしました。ナカタサン、本日はどうもありがとうございました』

『ありがとうございました』

 小気味のいい音楽が流れ、何かしら一つの区切りがついたことをフウは知る。言っている単語のほとんどの意味は分からないが、商売についての話をしていたことは見当がついた。しばらくすると今度は女性の声が、「ラジオ」の穴から聞こえてくる。

 フウは強い力でラジオの穴に耳を押し当てた。フウの耳にはもうラジオの音しか入っていない。

『八時になりました。〈夜のユートピア〉の時間です』

 八時と言われてフウはハッとした。早く帰らないと。フウは火を消し、ラジオは電源を切ってからポーチに入れて家路につく。風の音が少し、いつもよりも物悲しく聞こえた。

 あ、

 フウは気付いた。ポーチに入れたラジオの電源を再び入れる。

『次にお送りする曲は出会い、です』

 別に歩きながら聞いてもいいんだ。

 穴から音楽が流れてくる。ラジオから聞こえてくる音はフウにとって衝撃だった。どうやって出しているのかも分からない幻想的な音色が極めて高い調和を保って耳に流れ込んでくる。それは不思議と、濃紺の空を走る流れ星の音に思えた。星と音楽と共に歩む家路。真珠色の水滴が悠久の輝きを放つ空の中、フウは面を上げ、そっと目を閉じる。

 ……悪くない。

 美しく繊細な男性の声で、四季の移ろいと出会いと別れ、そして自分の居場所について歌っている。その歌詞は傷ついたフウの心にみていった。

『さぁ、続いては』

 女性の声を聴きつつ、フウは妙なせきりようにかられる。この女性は、母と同じところにいるらしい。これは、百年前の音声をどこかのもの好きが流し続けているのをラジオが拾っているから聞こえるらしい。

 戦乱によって滅びた世界。その荒廃した世界に、チオウは孤独を極めてたたずんでいる。

 このラジオから聞こえる音声は、死ぬ前の、どこかの世界の誰かが残した愉快な遺言なのだ。


 ジャンク屋の親爺おやじが言う所には、戦前は他にもいくつかのでんぱがあったそうだ。ラジオという文化が無いチオウにラジオキョクなるものは無く、どこかの物好きが発信している大昔の教育チャンネルだけをこのラジオは受信する。

 その物好きは器用にも番組を当時のタイムスケジュールそのままに流していた。

 番組が始まるのは昼の十二時で、全ての構成が終わるのは夜の十二時。そこからは、その日の番組をもう一度昼の十二時まで再放送する。

 どうやら時間ごとにテーマが決まっていて、長さは一つの番組につき一時間から二時間。そして番組は曜日ごとに変わり、同じ曜日は毎週同じ構成になる。フウはこの時初めて「週」という概念に意味があることを知った。

 ラジオがフウにとってありがたかったのは、ほぼ無意味に過ぎ去っていた往復十時間もの時間を有効に活用できたことである。いくつかの番組は子どもにも分かるように作られていた。なので、フウのようなガッコウに通ってない少女でも、何日かつと聞くのにも慣れてきて少しずつ知識が付き始めた。

 今日もフウはひものついたラジオをたすき掛けにして水を買いに行った。

 地平の果てまで続く青。降り注ぐ死の太陽光線から逃げるように岩場に入ると、周りに猛獣がいないのを確認して腰を落ち着ける。ラジオのボリュームを上げ、フウはラジオの「スピーカー」を耳に当てる。こうすれば風音の中でも聞き逃すことはない。

『さぁ、〈我が大地〉の時間がやってまいりました。解説はいつものように、コウトウダイガク教授、フクモトシュウゾウさん。進行は先日結婚しましたアリタユタカです』

〈我が大地〉 火曜日と木曜日の十二時から二時間かけて、地質学の基礎やそこに生息する生物や植物について勉強する番組である。

『よろしく』

 フクモトはあいに短く返事をした。フクモトは「リケイ」というジャンルの先生らしい。

『今日も相変わらずあいが悪いですね。フクモトさん!』

 アリタアナウンサーはフクモトとは対照的に明るくてノリが軽い。

『君が陽気すぎるのだよ。全く、真昼間から鬱陶しいことこの上ない』

『相変わらずのフクモト節ですねぇ』

 とこういった雑談は五分ほどで終わる。かれにとってはかなりのハードスケジュールらしく、〈我が大地〉が終わるとそこから十分の休憩を挟んで〈クオンノダイチ〉という番組が全く同じめんで二時間始まる。かれは合計四時間もの間授業を続けるのだから大変な仕事だ。

『今日のテーマは砂漠です。砂漠というと一面に砂が広がる風景を思い浮かべますが』

『それはすな砂漠だ。砂砂漠など地球上のごく一部にしか存在しない。本来砂漠とは限られた植物しか生えない地域を指すのだよ』

『成程、砂の有無ではなく植物の有無なんですね。あれ、ちょっと待ってください? じゃあわたしたちが住む都市も限られた植物しか自生しませんよね?』

『一応は都市も砂漠だ。まぁ、ここでは自然の砂漠を扱っていくのだよ』

 フウは腰を上げ、周辺への注意を切らさないようにラジオを聞きながら歩いた。

『砂漠は限られた水分しかない。大きな山を越える時、人は体力を使う。雨雲も同じだ。山を越える頃には雲は体力を使いすぎて雨を降らせる力が残ってないのだよ。だから大陸の山に囲まれた盆地には砂漠ができやすい』

 チオウにも雨はあるが一年に一度あるかどうかだ。フウは歩きながら東の方の山脈に目をやった。たしかに雲のようなものが山頂にかかっている。あの雨雲が山を越えられないからここは雨が少ないのか。管轄区の物知りが言っていた通り、山の頂上の白い部分は水の塊なのかもしれない。

『他にも家畜が原因で砂漠化することもあるのだよ』

『家畜、ですか?』

『家畜を放し過ぎると若い草が食べられたり、地面が踏まれて硬くなったりしてその土地が劣化していく』

 フウは人が歩いて硬くなった地面を触ってみる。たしかにこれじゃ植物の種は地中に入れないかもしれない。

『畑を耕すのと全く逆のことをしているわけですね』

『……少々ゴヘイがあるかも知れないが、そういう理解でいいのだよ』

〈我が大地〉が終わり、同じメンバーで〈クオンノダイチ〉が始まる。こちらは少々学習内容が高度になっており、フウにはかなり難しい内容だった。それが終わると今度は〈午後のユートピア〉を挟んで、歴史上の人物にスポットを当てた〈イジンデンシン〉が始まる。歴史上の偉い人の半生を物語調でつづる番組で、これもフウにとっては刺激的だった。今日は病気がちなテツガクシャの話。その哲学者は病弱故に毎日規則正しい生活を送っていたという。なんでも、町の住人は彼の姿を見て時間を確認していたという逸話もあるほどだ。

『そんな彼の名著、ジュンスイリセイ──』

 そこで突如音が途絶えた。水を買って帰りの道を歩いている途中である。訳も分からず、フウはラジオを凝視する。たたいても、アンテナを伸ばしても、ラジオはウンともスンとも言わない。

 ──死んだのか?

 母親と同じように。

 その日の夜は、ひどく静かだった。いつもはもう寝る時間なのに、フウはとんに入っても中々眠ることができない。たまらず目を開け、とんけて棚に置いてあったラジオのところまで歩いて行く。上から見下ろしてみたり、下から見上げてみたり、横からのぞき込んでみたり、摘まみを回したり、なんやかんやと色々してもラジオが音を発することはなかった。その後、とんに戻るのだが諦めきれずにまたとんから出てラジオをいじくり回す。

 結局その日はラジオを抱いて寝ることになった。

 翌朝、また五時間かけて水を買いに行った際、シモガジョウのジャンク屋に足を運ぶ。ジャンク屋の扉の前に立ったフウは違和感を抱いた。

 ……人の気配がしない?

 恐る恐る扉を開けて中に入る。カウンターにじいさんの姿はない。天窓から射した日差しの中でほこりが舞っているだけだ。カウンターの上でひときわ違和感を放つものがあった。

 それは白くて小さな一輪の花。

 雨季に時折花が咲くことはあるが、乾季にはほとんど見ない。チオウの中央にいけば売っているという話は聞くが……

 はなびらの数は四つ。上部に不自然な空白があるので、もともとはなびらは五つだったのだろう。

 欠けた花をなんとなく見つめると妙な薄気味の悪さを覚える。フウは足早にジャンク屋を立ち去った。

 フウにはまだ行く当てが残っていた。同じ通りにある「電気屋」だ。電気屋はジャンク屋とほぼ同じ大きさの建物で、劣化したコンクリートという点で見た目もほとんど同じだ。それらしい「ぴかぴか光る文字の看板」が目印だった。扉を開けると、目の前にはカウンターがある。その奥で、物々交換の価格予測紙を読んでいる若い女性と目が合った。

「こりゃ珍しい。管轄区民じゃないか」

 女性は白いタンクトップ姿で、額にゴーグルをつけている。女性はフウの持っていたラジオを見ると好奇心に笑顔を浮かべた。

「へえ、もっと珍しいもん持ってるね」

 電気屋の店主はラジオの摘まみをひねったり、アンテナを立てたり、電源を入れなおしたりした。ラジオを一旦置き、一言。

「こりゃデンチ切れだな」

 デンチの意味が分からずフウは首をかしげた。

「まぁ機械にとっての食いもんみたいなもんさ」

 言うとラジオのお尻の方をパカっと開け、光沢のある円柱の金属を取り出した。

「ほれ、これと同じ大きさのやつだ」

 店主はフウにデンチを投げ寄越す。フウはデンチを観察してから店主をじっと見た。

「その型のデンチはほとんど流通してないよ。ウチにはあるけど」

 フウはなおも店主をじっと見る。

「……しゃあないな。ちょっと待ってな」

 店主が店の奥へと姿を消すと、店の奥から箱をひっくり返したり棚から物が落ちる音が聞こえてくる。しばらくして髪にほこりを付けた店主が姿を現した。

「あったあった。ほれ」

 店主はサラのデンチをカウンターの上に置く。

「二五〇〇オウチだ」

 フウの顔が引きつった。フウの一日当たりの補助金が五〇〇オウチ。うち水が四〇〇オウチで食費が五〇オウチ。余った五〇オウチも配給で満たされない分の食料や生活必需品等の出費に持っていかれることがほとんどだ。よって、そんな大金を用意するなどフウには不可能である。

「そんな顔するな。結構シイレカカクが馬鹿にならなかったんだ。お嬢ちゃんの内臓を売れば一〇〇〇〇オウチくらいにはなるぜ」

 フウは顔をしかめて店主を見やった。

「嫌だよな。ま、品切れにはならんから金が用意できりゃまた来いや」

 フウはため息をつきながら、重いポリタンクをかついで家路についた。

 耳がひもじい。

 何年も聞いてきた風の音がひどくつまらないものに聞こえた。丁度この時間は〈オカネノハナシ〉の時間だ。「経済」の仕組みを分かりやすく解説したもので、フウにもかろうじて理解できる内容だった。フウは今まで習ったことを頭のノートに複写している。

 経済、とは皆が幸福になるように資源を分配させたり、ものを作ったり、使ったりすること。例えば二人のリンゴをほつする人がいて、二つのリンゴがあれば二人は幸福になる。でも、世界は複雑で、皆がいろんなものをほつし、それに合わせて色んなものが売られている。だから、皆に必要なものがいきわたって、誰もが幸福になるのは難しい。

 たくさんの人が欲しいと思えば思うほど、その物には大きな値段がつく。水がこれほど高いのも、それだけのお金を出してでも買いたい人がいるからだ。

 フウは、星空の下で歩みを止める。

 ……人が欲しがるものであれば、それは金になる。

 フウは自分が普段何をほつしているかを、考えてみた。丁度その時、おなかが「くう」と情けない声を上げた。


『アイデアってのはそれだけでお金を払う価値があるわ。なら、独創的な発想はぶんたちだけが得をするから。自分だけが利益を得る。商売人にとって、これ以上の殺し文句はないわね』

 それは〈社会代謝機構〉という番組で聞いた話だ。

〈社会代謝機構〉日曜以外の夜十時に放送される帯番組で、その名の通り社会のあらゆる事がテーマになる。講師はフウの好きなマユミ先生だ。

 チオウの東端、出稼ぎ労働者の町シモガジョウには旅人やスカベンジャー用の精肉加工店がある。精肉加工店は鳥や犬など、様々な肉を販売している。中には何の肉か分からない物体も陳列されていた。その裏の小さな加工場からは血と臓物の臭いが流れて来る。その精肉店の裏口に、フウは姿を現した。ゴムのエプロンを付けた大男がいぶかし気にフウを見下ろしている。

「ガキ、ここは売り場じゃねぇぞ」

 フウの傷だらけの顔を見て、男は眉を微動させる。

 フウは何も言わず、麻袋を地面に置いた。男が麻袋をさかさまにすると、野生化した犬や砂漠コヨーテの死骸がその場に落ちた。男はフウを見る。

「成程、今まで訪ねてきた中で一番小さな狩人かりゆうどだ」

 男の目つきが職人のソレに変わった。

「……三〇〇オウチってとこだな」

 そんなものか、とフウは首を垂れる。男は犬の首にナイフを当て、スッと刃を引いた。ドロ、とドス黒い血が地面に流れ落ちる。

「血抜きと内臓処理をしてればもっといい値で買ってやる」

 ほらよ、とフウは一〇〇と書かれた銅貨を三枚手渡された。フウは三枚の硬貨を握りしめその場を立ち去った。

 これではデンチを買うのはいつの日になるのか分からない。

 帰宅途中、岩場のキャンプでフウは腕を組む。正直、「呪い」を持っている犬とそう何度も戦えたものではない。今回のコヨーテとの戦いも死を覚悟した。動物を殺すのもいい気分ではない。この三〇〇オウチでもっと効率よくお金を稼げないだろうか。

 そう言えば、〈明日への案内書〉という歴史教育番組の中でボーエキの話が出てきた。いんどのしようはよーろっぱで高値で売れる……とかそんな内容だった。その場所で中々手に入らないものは、しようですら宝石を超える高値で売れるらしい。

 フウは第五管轄区に帰って住民を観察した。

「ねぇ、お母さん、のど渇いた」

「今日はもう水が無いの。今度は少し多めに買うからね?」

 かれの家は普通に出稼ぎ労働者の父親がいる。父親が死んだフウの家と違って、水を買っても余るお金がある。大体十日ほどの間隔で軍用のヘリコプターが管轄区南の発着場に降りることがあって、彼らはその輸送便を使って水を買っていた。無論輸送の手間がある分、水の値段はチオウで買うものよりも高く、補助金だけで生活するフウにはなかなか手が出せない。一週間分の水を買いだめしている彼らは、長い時間をかけて水を買いに行かなくてもいい。が、気候次第で水が足りなくなることがある。そういう時は次の輸送便が来る日まで少ない水でやりくりしなくてはならない。

「お父さんいつ帰ってくるのー?」

「もうちょっと待ちなさい」

 フウの中で眠っていた何かが目を覚ます。ただ生きるだけなら使わない、脳の機能。それの名前が「ひらめき」だと知るのはもう少し後だった。


 フウはいつもより体感一時間早く起き、チオウへ向かった。再び第五管轄区に帰ってきたのは大地が夕暮れに染まる頃だ。

 フウは第五管轄区の中を歩いた。すると、昨日とは別の親子を見かけた。昨日の親子の様に子供が何かをねだっている。

「ねぇお母さん、お水」

「今度の輸送便が来るまで我慢しなさい」

 少女と母親の二人に歩み寄り、母親の肩をたたいた。

「え、水を売ってくれるの? このボトル一つで一〇〇オウチ……」

 値段を聞いた母親の顔はサソリの尾でも食べたような渋い顔つきになる。拾ったガラス瓶に入った水は、チオウで買えば五〇オウチほどで買えるだろう。

「お母さん、お水! お水!」

「その水飲んでも大丈夫なの?」

 フウはガラス瓶を太陽で殺菌したむねを説明した。


『ばい菌を抹殺する正義の剣! その名を紫外線! ギンギラギンの炎天下にとんや食器を出しとけばあら不思議! 身体からだに悪い病気のもとは漏れなく紫外線が抹殺してくれる!』


 と〈童心科学?〉のアナウンサーが声高々に叫んでいた。その後講師がディーエヌエーがどうのこうの言っていたが、そのあたりは難しいので自分なりに?くだいて理解していた。フウはその?くだいた内容を女性に説明する。

 水が安全だと分かると、母親はため息をつく。ボトルを三つ受け取る代わりに三枚の硬貨を出した。

「はいこれ」

 フウは微笑しながら硬貨をポケットに入れる。

「ありがとうお姉ちゃん!」

 女の子は晴れやかな笑顔を浮かべていた。フウの顔が少し熱を持つ。フウの空白の胸で、何かが鼓動をかなでるのが分かった。

「行こ、お母さん」

 晴れやかな女の子の顔を見た母親の顔が自然とほころんだ。

「そうね。ご飯にしましょう」

 そう言うと、二人は手を?つないで遠ざかっていく。フウはその背中が見えなくなるまでそこに立ち尽くしていた。あの女の子の手はどれだけ温かいのだろうか。母親が歌っていた曲を口ずさみ、フウは右手を優しく握りしめる。てのひらに返ってきたのは冷たい硬貨の感触だった。

 その日の夜、家のベッドで横になりながら金のことを考えた。この世の中は金になるものばかりだ。そして入手困難なものほど金になる。

 フウはまた一つ、かねもうけの方法を考えついた。

 だが、これは少し危険な方法になる。


『カップ?よりはるかにいトリュフがもてはやされるのには理由があるの』

〈社会代謝機構〉のマユミ先生が言っていた。要するに手に入りにくいものは高く売れるということだ。

 フウは次の日、水を買い出しに行く道中から少し脇道にれ、第三管轄区付近の山岳地帯に足を運んだ。周辺は足場が悪く、整地された道路以外は険しい岩肌が行く手をはばむ。フウはその岩場を、比較的傾斜の緩い所を選んで登っていた。その中のとりわけけんしゆんな岩の足元まで苦労して辿たどく。その大岩の頂上付近には、枝やハンガーを集めて作られた鳥の巣があった。〈サバクオオブンチョウ〉という鳥の巣で、卵は非常に美味で高く売れる。フウはその岩に手をかけ、急な傾斜を登っていく。素手で?つかむと、鋭利な岩肌に皮膚が裂け、岩の表面を血が伝った。それでもあきらめず足がかかる場所を見つけて、なんとか岩肌をがっていく。

 三〇分ほどかけて巣に辿たどくと、目いっぱい手を伸ばし、卵の一つを?み取る。ギリギリ手に収まらないくらいの大きさで、殻は硬い。それを慎重にポーチに入れる。それだけでポーチはパンパンに膨れ上がった。

 持てるのはたった一つか、とフウは心で文句を言い、今度は岩を降りていく。これがまた難儀だった。登る時は目で足場を確認できるが、下る時はそうもいかない。靴の先で足場の感触を確かめながら降りていくことになる。もし落下して後頭部に岩がぶち当たれば命はない。

 ……たとえ生きていたとしても、後遺症を抱えて生きていけるほど第五管轄区の生活は甘くない。傷を放っておくと呪い……いや、「感染症」にかかって死ぬかも知れないのだ。

 フウは地上まで一メートルの所に来た。よし、ここまでくれば──

 フウの足をかけた岩が崩れ去り、フウの身体からだは重力に抱かれて落ちていく。フウは背中を地面に打ち付けた。尻が痛い。だけど、尻が痛いだけで済んだ。これがもし、もう一メートル高い所から転落していたら……。フウの顔から血の気が引いていった。

 なにはともあれ、目当ての卵は手に入れた。

 さぁ帰ろうかという矢先だった。少し離れた所に何か大きな獣の気配を感じた。小さな岩がいくつも斜面を転がっていく。ひときわ大きな岩の陰からぬっと現れたのは、とがった口と、芋虫のようなぜんどうする身体からだ。頭を覆うほうはつのような触手。

 ──オカアゲハだ。

 オカアゲハはチアゲハが陸上での生活に適応した種と言われている。見たところ身体からだはチアゲハより一回り小さく、個体数も少なく自ら人里には降りてこない。ここはそんなオカアゲハの縄張りだったらしい。

「ウゥ──」

 重苦しい鳴き声を上げ、口の周りの触手を目まぐるしくうごめかせる。

 フウが距離を取ろうとする度に、触手が音に反応する。フウが逃げようとすればするほど、オカアゲハはフウの居場所を詳細に特定していくようだった。チアゲハと違ってオカアゲハは能動的に自ら餌を探す動物と聞く。黙って突っ立っていてもいずれは捕食される。

 フウは一か八かの賭けに出た。急斜面を下ったところに、第三管轄区がある。フウはそこ目がけて岩場を飛ぶように走った。オカアゲハも反応し、岩の間を蛇のようにすすんでくる。フウは何度も転びそうになりながらも、大きな岩の上を飛び跳ね、駆け下りる。

 背後を振り返るとオカアゲハのくちばしがフウの目の前で開かれた。フウは地面を強く蹴り、岩から跳び降りて一髪の差で口撃をかわす。そんな命のぎわを感じる駆け引きが何度もあった。五分にも及ぶ死のレースだった。

 オカアゲハの巨体は長時間活動することに不向きらしい。それが幸いした。フウが転がるように山道に辿たどくと、オカアゲハは追走を諦め、自ら山の方へと帰っていった。

 フウは袖で汗を拭い、大きく息を吐き出した。

 助かった。

 もう一度やれと言われても二度とできない。いつぞやは頭で窮地を切り抜けたが、今回は運と体力で乗り切った。

 フウのてのひらは血まみれで、岩に幾度とぶつかった太ももやすねも青い斑点が大量にできていた。足首もひどく痛む。そうまでして手に入れた卵は無事だろうかと、ポーチのファスナーに手をかける。

 びく。と、ポーチが動く。

「ピピッ」

 何かの鳴き声がした。嫌な予感がする。恐る恐るポーチのファスナーを開けると、閉じたまぶたをこちらに向ける何かがいた。

「ピー」

 そいつはフウの気配を感じ取って高く鳴いた。もぞもぞと身体からだを動かし、卵の殻を体に張りつけたまま自力でポーチから顔を出す。サバクオオブンチョウのひなである。毛は茶色でまだ湿っていて、身体からだは健康そうだ。

 命懸けで手に入れた卵が、肉の無い鳥に……

 それでも唐揚げ用に買ってくれるかも知れない。フウは鳥の身体からだをつまんでひなを殻の外に出す。ひなは「ピー」と一鳴きしてフウの手に甘え、次にくちばしで?をつついてきた。サバクオオブンチョウはかなり賢い動物と聞くが、そのひなも既に社会性のほうが見て取れる。ひなは甘え上手で、フウのがいとうに顔を突っ込むと身体からだを押し入れ、フウの胸の中ですやすやと眠ってしまった。

 フウは自分に語り掛けた。私、心を鬼にするんだ! フウは目をつぶって天を仰いだ。

 間の悪いことに母親の笑顔がまぶたの裏に浮かんだ。

 ──あなたが生まれた時、私も父さんもとても喜んだのよ。新しい家族ができたんだって。

 くぅ、と葛藤の吐息が食いしばった歯の間から漏れた。

 フウは大きなため息をついて肩を落とす。ふところで眠る鳥の頭を薬指でそっとでた。

 金銭欲が、ささやかな生命さんに屈した瞬間だった。

 結局手に入れたお金はゼロ。成程、本来人が手を出さないものを手に入れるには相応のリスクがある。その授業料は身体からだに作った無数の傷と小鳥一羽の餌代だった。


 こうした教訓を経て、フウは時間がかかっても地道に稼ぐ方法を選んだ。極度の乾季で水の「」が高くなっていたことも幸いした。ラジオが無い間はひなどりへの挿餌が主な暇つぶしになった。

 水の転売を始めて一ヵ月。ようやく「電池」を手に入れた。

 電池を手に入れたその晩、フウは例の大岩の上にいた。心を躍らせながらフウはラジオのカバーを外し、電気屋で買った単三電池を電池ケースにいれた。緊張した面持ちでラジオの電源を入れる。

『ザッ──ザッ──とういことで、日曜日の今日はマニア必見、親御さんから非難殺到、近代兵器を紹介していく〈六時の撃鉄〉のお時間です』

 ラジオから聞こえる、ノイズが混じった独特の声。

 フウの身体からだを興奮が駆けめぐった。ああ、これでまた私は昨日の私よりも賢くなれる。再び知識で満たされる喜びに全身が震えていたのだ。フウは身を持って知った。知識は命にもなり金にもなると。

 フウはラジオに耳を当てて目を閉じる。少しだけ、ほんの少しだけ、らんと化した胸の中で鼓動が波打っている。

『まずはテンミニッツワンブリットのコーナーです』

 土曜日と日曜日は彼らにとっては特別な日だったらしく、いつもと違うスタッフが集い、少し色合いの違う番組が並ぶ。

 この〈六時の撃鉄〉は講師とアナウンサーが好きな武器を教えていく、マニア色の強い番組だ。そして冒頭の十分は拳銃の撃ち方講座から始まる。

『さて、今回もオートマチック式拳銃の扱い方について学んでいきます。……私の好きなリボルバーはまだですか?』

『もう少し待ってください。てゆうか、イシモトさんはリボルバー好きですね』

『根っからの西部劇オタクなもので。戦場でリボルバー二つで暴れまわるって素敵じゃないですか』

『いやぁ、自動小銃が一般化してる昨今に拳銃ダブル持ちで暴れるやつがいたらそいつは異常者かバケモンですよ』

 講師の人は低く落ち着いた声で笑う。

『さて、ここまでのおさらいです。拳銃というのは意外と面倒な代物でして、発砲の手順はもちろんですが、保管方法や手入れの仕方など、引き金を引く前に覚えなきゃいけない事がたくさんあります』

『私はいつ銃を撃てるようになるのでしょう』

『さぁ。でも、ちゃんと扱えるようになるにはそれなりの年月が必要です』

『気の遠くなる話ですね』

『頑張りましょう』

 銃か。

 フウは左手の人差し指と親指を九〇度に伸ばし、てっぽうの形にして空へと向ける。

 拳銃があれば、猛獣や、時たま現れる犯罪者に運悪く襲われても生き延びる確率が増えるだろう。だけど、拳銃を買って、それを扱えるようになるには時間がかかる。

 自分はそれまで生きていられるだろうか。

 もっと言えば、そうなれるまでに生きようとする力が続くのかと、フウは自分に問いかけてみた。母親がいなくなった心には、たった一つのラジオがあるだけで、その「スピーカー」からは小さな音が出続けているだけだった。

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