こわれたせかいのむこうがわ
陸道 烈夏/電撃文庫・電撃の新文芸
序章 閉じた世界
「いいか、夜になるまで絶対に動くな」
男の声が地平に響いた。
……地平。
乾いた赤い土。
緑が死んだこの地に、人間が十人。時が止まったかのように立っている。
大人の男が五人、大人の女が四人、そして少女が一人。
動かない十人はまるでボードゲームの駒のようだった。五メートルほどの間隔を空けて列をなし、彼らは大地に
その中の一人、少女の名はフウという。
フウは
西には
「あと一時間で日は落ちる。そうすればチアゲハは動きが鈍くなる」
先頭の男はこちらを振り返って激を飛ばした。
「絶対に動くな。
背の高い男だった。
彼は言葉を放った三秒後に死んだ。
それは、一瞬の出来事だった。彼の
「う、うああぁ!」
それは鳥のくちばしのように先細った口で、間からナイフのように鋭い牙が胸に突き刺さっているのが見える。口からはみ出た男の上半身が砂に引きずり込まれていく。
「いやだ、死にたくない!」
男は声を上ずらせながら砂の中に消えていった。しばらくして「こつ、こつ、こつ」と骨が
数秒後、そこから赤い砂が噴水のように吹き上がった。風に乗って
「え? 死んだの?」
フウの目の前にいた女性が小さく
「ねぇ、死んじゃったの!?」
女は声を荒げた。途端、フウは足元に微弱な振動を感じた。地中を何かが移動している。目の前で彼女の足元が二つに割れた。
「ぎ──」
短い悲鳴が上がったかと思うと、血が数滴フウの?にかかる。女の
一同の緊張は高くなる。
動いてはいけない。そして、恐らく音を発してもいけない。
砂漠には「チアゲハ」という凶暴な生き物が生息すると言い伝えられていた。だが、その姿を見たと言う者は
フウは、
フウは息を押し殺す。死ぬもんか、と己に言い聞かせ、折れそうになる心をなんとか平常に
もうすぐ、もうすぐ夜が来る。
その時、大きな風が吹いた。
フウは反射的に太ももの間に
「うぎゃああおぉぉぉ」
くぐもった悲鳴ごと砂の中に引きずり込まれていく。
チアゲハは、はためいた
「いやああああああぁ、ジン!」
女性の一人が奇声を上げた。その背後にいた別の女性が、
「落ち着いて! ユミ!」
「いや、いやあああぁ、ジン死なないで!」
その絶叫を断ったのはやはりチアゲハだった。砂が
フウとチアゲハが向かい合う。フウは息を止めた。チアゲハはじっとフウの方を向いている。
「だず、げ、て、しに、だ、く」
女は血まみれの腕をフウの方に伸ばす。チアゲハは振り返ると、ヘビのように
気が付けば残っていたのは二人。フウと茶色い
男は俊敏だった。
「おっと」
小柄な体を
人造人間。
この世界のどこかに潜伏していると
「感度良好、敵影多数」
赤い瞳が点滅したかと思うと、少年は関節の噴気孔から蒸気を噴射し、剣を構えなおす。その先には地上に飛び出してきた別のチアゲハがいる。チアゲハは口を開くと、その体を波打たせ少年に殺到する。少年は背中に開いた穴から炎を噴射させ劇的に加速。向かい来るチアゲハに斬りかかる。チアゲハと少年が交差し、そして動きが止まった。
激闘に生じた空白に風の
「損傷、過多」
少年の右手は刀剣ごと肩からもぎ取られていた。石油のような黒い液体が地面に
フウは目の前で起きた事実を少しずつ飲み込んでいく。少年の死がもたらした事実は二つ。この世に人造人間なるものが実在する事。もう一つは、その力をもってしてもチアゲハを討伐するのは至難であるということ。
状況を整理する。
王都チオウと自分の住む家を最短で移動するには砂漠を渡る必要がある。フウは危険を承知で「運び屋」に依頼して砂漠を車で渡る決心をした。が、砂漠を渡る「運び屋」とその哀れな顧客はフウを残して死んだ。フウの足元には
フウの母は「砂漠には竜がいて危ないから絶対に入っては駄目」とよく言っていた。竜はいなかったが、危険であることは確かだった。それでも、フウはその危険を承知で運び屋に同行したのだが。
夜まで自分は生きていられるだろうか。フウの足元からはチアゲハが地中を進む音が聞こえていた。
フウは死を覚悟する。いや、覚悟、というのはおかしいかもしれない。それは確信だ。自分はもう助からないという確固たる思いがフウの脳内に浸潤していく。
だが、後悔はない。こうするしかないと、フウは本気で信じていた。これが、母を助ける最良の選択であり、自分は賭けに負けただけなのだと。
──ごめん。
フウはポケットの中の薬の入ったプラスチック容器を握りしめる。
フウのすぐ側には、少年に切り裂かれて
「ウゥー」
どこからともなく鳴き声のようなものが聞こえた。それは風の高鳴りに思えた。だが違う。鳴き声に遅れて、軽快な足音が聞こえてくる。一つじゃない。連なるその足音は群れを連想させる。フウは眼球を右に動かし、地平の
──竜。
思わず声が出そうになった。体高一メートルはあろうかという巨大な
大
チアゲハの肉を半分ほど食い散らかした大
竜はいたのか。この死地にあって妙な感動がフウの胸に生まれた。
死ぬ
いや、
待て。
冷静になると、ある疑問がフウの胸に浮かんだ。
──
あの大
そう言えば、地上に飛び出たチアゲハは他のチアゲハに襲われていない。
つまり、振動で相手の位置を、臭いで地表の生物を識別しているのか。筋は通っている。どこにも矛盾は生じてない。フウは食い散らかされたチアゲハの肉片に目をやった。フウのいる位置からは五メートルほど離れている。
──いけるか? いや、やるしかない。
フウは
猛烈な吐き気に顔をしかめながらもフウは後ろを振り返る。チアゲハに自身と同じ臭いを纏ったフウを襲う素振りはない。チアゲハは
フウの「仮説」は正しかった。フウは自分の仮説を、命を懸けて実証したのである。
これが生まれて初めての科学的な思考だった。
地平を南に下ると、地盤が硬くなり、岩石や石ころが地表に現れる。
その先に「第五管轄区」があった。土を固めて作ったピラミッド型の建物が点在し、地区の中央に
フウの家は集落のはずれにある。同じピラミッド型の建物で、鉄の
──母がいない。
意味が分からなかった。ここには病気で寝ている母がいたはずだ。
その時背後に誰かの気配があって振り返る。初老の男が立っていた。
「ようやく帰ったか」
男は血みどろのフウを見て顔をしかめ、袖口を鼻に当てた。
男が何か罵声を放つ前に「母はどこか」と、フウは聞いた。
「昼に近隣住民から異臭がするとの
死んだ? 誰が? 母? お母さんが? 死んだ?
「さっき火葬が終わって共同墓地に埋葬された。灰の回収はもう少し先になる。明日から補助金の発行は一人分になるからな」
「ちなみに死因は脱水症だ」
だ、脱水?
「人間の
塩と水? 自分が命を懸けて運んだ薬は? 必要なかったというのか?
フウは魂の抜け殻になって、たよりのない足取りで共同墓地に向かった。だがそこに母はいない。大きな穴に白骨や炭が密集しているだけだ。フウは穴の
乾いた風がフウの肌を
──寒い夜と
それは母親が好んでよく歌っていた歌だ。母親もどこで聞いたのか覚えてなくて、作曲者は分からない。歌詞は曖昧で、所々に鼻歌が混じった。歌の最後も分からない。
──手を伸ばして 感じろ
そのメロディをフウは小さく口ずさむ。
世界が閉ざされていく。
自分の?を流れているものを手で拭き取り、その手を
成程。
男の言った通り、塩の味がした。
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