黒蝶と小さな花飾り

一粒の角砂糖

黒蝶と小さな花飾り~Flutter Night~

「ねぇ……私は貴方を愛せれたかな……。」


ニ人で多くの星々に見下ろされ、五分ほどした頃だろうか。

勢いのない風が自分と彼女の髪を揺らしたように感じた。

そして横からは普段なら耳をすませなければ聞こえないほどの蝶の羽音のようなかすれ気味のか弱いのに大きな声が聞こえる。

隣はみたくない、彼女の顔は見たくないのだ。

弱りきった彼女の、死ぬ間際の顔なんて。


「……うん。」


だからこうしてひとつ返事しかできない。

自分は既に壊れかけている。

そして日常も壊れようとしている。

「そっか」という安堵の声が確かに耳に入る。

その時、勇気を振り絞って横目で見た彼女は笑顔だった。

それと同時に少しだけ今の風と違う暖かな風が横から柔らかく吹いた気がした。

これが彼女の吐息なのか、風なのかは正直分からなかった。


「こっち……向いて。私……あなたの顔が見たい。」


それを言われても自分は彼女に背を向けた。

が、目の前が暗くなる。

月明かりが遮られたのだ。

明かりをさえぎった物の正体は彼女の手だ。

包まれてしまいそうなほど大きいのに。

ボロボロで細く、弱々しい。

力を失ったように。

それを見る自分の心は壊れそうになる。

見たくなかった。

確かにその手は目の前にあるのに、力なさそうにゆらゆらと揺れ、いつもよりある手の隙間から月明かりがチラチラと見えて眩しい。

さすがに見るに耐えなかった。


「……とりあえず手をおろせよ。」


「……わかった。」


落ちていた影が動いていく。

今にも風が吹けば吹き飛んでしまいそうな彼女の一部は、元気がなさそうにドスッと自分たち以外いない草原に置かれた。

手は墜ちたのだ。

それは黒い巨大な何かが力つきたようにも感じられた。

そして今、さっきよりも弱い風が吹いた。

手が置かれたことによる風だろうか、それとも「ふぅ」という彼女のため息混じりの声の物による風だったのだろうか、はたまたただの風か。今は少なくともただの風だと思いたいものだ。


「よいしょっ……と。」


仕方なく体を彼女の方に向ける。

こちらを見つめて寝転がっている彼女。

自分がプレゼントした小さな花飾りと、雑に着ているワンピースは研究者が用意したなんの細工も無い布と大差ないものを身につけていた。

そんな服とも言い難いものを着ている少女は不幸にも、この世の不条理に殺されかけている。

痛々しい傷の数々を背負い。

必死に生きてきた。

今の彼女はもう見えている部分全てがほとんど骨格で形成されていると思えるほど肉は落ち、痩せ細り、気力も体温も感じることが出来ない。

羽の模様は削れて消えてた。


「……やっとこっちみてくれた。久しぶり。」


「にひひ」と言わんばかりに明るく歯を見せて笑った。

「にっしっし」という方が正しいのだろうか。

ああ。心が痛い。

その笑顔の下には何があるのか。

一口に捕食されてしまいそうな大きな闇があるのか。

自分に想像する権利があったとしてもそれを想像する勇気が無い。

きっと想像したところで分かってやれないのは明白だ。

そして器の小さい自分では遥かに知り得ない。

でもきっとそれは怖くて辛くて、寂しくて。

今笑顔の彼女にもっと笑えという方がきっと死ねと言うより酷なのだろう。

羽の削れた蝶を蹴り飛ばす程酷いことはしない。

蹴り飛ばされるのが壊れかけた自分ならまだしも、きっと彼女はもうとっくに壊れているのだから。

互いに既にボロボロになりながら言葉の通り久しぶりに顔を合わせた。


「そうだな。」


決して自分だけでも涙は流さまいとぐっとこらえる。

それが今自分が出来る最善の選択だった。

しかしどうしてもやせ細った彼女の顔、体が見えてしまう。

蝶の触角ように細かった。

視界が一瞬滲んだ。

出そうになった水分を必死に吸収しようとしていた。


「私研究室から抜け出すの大変だったんだよ〜?」


「そっか……。」


相変わらず笑顔で気楽そうに言うが、自分にそれを笑顔で返す元気は残っていなかった。


彼女は研究所で隔離されていた。

森で生まれ育った彼女にとってそこがなんと窮屈だったことか。

彼女はとても大きい。

通常の人間と何ら変わりない構造をしているのにもかかわらず、ただそれだけ。

それだけの話で、森から引きずり出され、閉じ込められていた。

それが今自分に会いに来ている。

死すら覚悟して。


「見つかってしまったのは自分のせいなのに。」


こんなことすら本来自分に呟く権利すらない。

ただ一人孤独だった自分が彼女を見つけ、森から連れ出した。

それにより、存在がバレてしまった彼女は隔離されてしまった。

そう。自分のせいだった。

あんなに元気そうな彼女をこんなにさせたのも。

閉じ込めたのも。

泣かせたのも。

辛くさせたのも。

孤独というものの寂しさを教えたのも。

考えただけで気が狂いそうになるほど自己嫌悪してしまう。

吐き気がする。

とてもじゃないが、元気な表情なんてできるわけが無い。


「そんな、悲しそうにしないで……。」


目の前が滲んで、何重にも見えた自分に毛布のように暖かな声色が、氷のように冷たい彼女の指が被さった。

その毛布はどこがゴワゴワしていて、震えていた。

その氷はどこか溶けかかっていて、湿っていた。

自分は向き合わなきゃいけない。

愛してくれたこの子の為に言わなければならない。


「ごめん……。今日はありがとう。」


緊張と恥ずかしさから思いのほか小さい声でそんなことを言ってしまったが思いのほか、聞こえていた。

少し目を細めたのが見えた。

微かに羽が動くように。


「んーん……。いいよ。こちらこそありがとう。」


「でもどうしてここに。こんな所に。」


シンプルな疑問をぶつけた。

こんな貧相な何も無い草原になぜ。

この質問の返事は思いのほかすぐに帰ってきた。


「あなたが、好きだから。」


少しだけ声のボリュームが下がって、ごにょごにょとなっていた。

下がったと言っても自分からしたら全て丸聞こえなのだが。

彼女なりの恥じらいとともに少しだけ強い風が吹いた気がした。

彼女の息が荒くなったのか、はたまた強い風が吹いたのか。

やっぱりそれは分からない。

分からなくてもいい。

ただ自分が一つだけわかっていることを言いたかった。


「俺も。好きだ。」


「知ってるよ。」


笑顔が自分の心を安堵させると同時に抉るような痛みを与えてくる。

だってもうすぐ彼女は……


「「死ぬ。」」


心を読まれたのかのように、ポツリと出た一言を被らされた。

まだ飛べる。そんな蝶の強がりにも見えた。

してやったり、という表情をする彼女が愛らしい。

そしてそう思う自分が憎らしい。

死ぬ。

そんなのは本当はドッキリでこれからもニ人でやって行けるのでは、と希望すらもてるほどの優しい表情だっただった。


「……私は、もうすぐ死ぬ。」


だが直ぐに、彼女自身からその希望は踏み潰された。

その巨体に似合う行為かもしれない。

巨大だからという理由で特殊研究室でひたすら観察されていた彼女は、研究が終わるとコストと危険性から食事を抜かれ、そのまま殺処分されるところだった。

だからこそ、わかっているからこそこの少女は痩せ細り、死にそうになりながらもここに来た。

そんなことはわかっているはずなのに希望を抱いた自分を殴ってしまいたくなる。

ぐっと拳を握り手を顔面に思いっきり振りあげようとした時。


「けど……私、あなたに会えた。」


と聞こえたと思えば目の前が暗くなった。

空一面にあった星が見当たらない。

冷たいなにかに包まれていた。

氷のような、さっきまで湿っていたはずの冷たさのなにかが優しく包んでいた。

僅かに残った羽が自分を包んだのだろうか。

自分は何も、声を上げることも出来なかった。

かれこれ、十分ほど抱きしめられてからだろうか。

この十分彼女が何を考えていたのかは全くわからなかった。

そして自分の意識が飛びそうになった時に


「ああ。もう……暖かくないんだ。私。」


と、先程までとは違う小さく掠れた独り言が聞こえた。

彼女がなりたかった普通の人の声のように聞こえた。

固くなった自身の指を悲しそうに見つめながら。

もう飛べないと分かった蝶は、飛ぶのを諦めた。

自分はすぐさま彼女の体に目をやった、先程より体は小刻みに震え、顔色はより青く、息は明らかに不規則になっていた。

もう止められない。

そう思った。

小さな自分が彼女の暖など取れるはずもない。

愛らしい彼女のことを抱きしめたってもう意味なんてなかった。

いつもなら抱きしめられればグシャグシャに潰れてしまいそうなのは自分なのに。

今、自分が抱きしめたらそれこそグシャグシャに潰れてしまいそうな彼女。

怖い。嫌だ。認めたくない。

罪悪感と責任感で押しつぶされそうになり、背を向けて走ろうとした、その時だった。


「行かないで……。これ以上もう居なくならないで……。」


腕を優しく掴まれた。

箸で豆を摘むように。

蝶が花の蜜を吸うように。

美しいと思えるほどだったろう。

そして彼女は泣いていた。

水たまりができそうなくらい目から涙を必死に流しながら、泣く体力も無いくらいなのに必死に訴えかけてきた。

落ちた涙の破片が冷たく背中をつついてくる。


「最後くらいは、私の。目を見てほしい。」


「……わかった。」


そしてしばらくしたあと、ゴホッゴホッと咳き込み始めた

もう長くない。

目は潤んでいた。

視界が滲んでよく見えない。

気づけば自分も咳き込んでいた。

指に触れる。

さっきよりも冷たかった。

抱きついた。

意味の無いハグでも彼女は笑ってくれた。



抱き返してくれた。




目の前が暗くなった。






やがて咳き込みは消えた。







そして自分を包んでいたものの力が抜けた。








「ありがとう。」








最後にそう聞こえた気がした。

一人草原に立つと、あらゆる緑が周りを囲んでいた。

巨大な黒蝶を撫でる草木の揺れが納まった後。


「愛してくれてありがとう。」


ここの草原にあった唯一の花。

その大輪の頭に着いていたエーデルワイスの花飾りにそう言ってキスをした。

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