第七章 死闘

 二〇一二年

 佐治ケ江優 十八歳



     1

 またこっちを見ている……


 ピッチに立ち試合開始の笛を待っているゆうは、ベンチに座っているむらの視線が気になっていた。


 首を振り、自分の弱気を振り払う。

 先ほどから、その繰り返しだ。


 早く試合が始まって欲しかった。

 優のいるがわ女子大学は、新日本大学フットサル大会の第一回戦を突破し、これから第二回戦を行うのであるが、対戦相手はやはり木村梨乃のいるしゆうめいいん大学であった。


 心の準備はしていたはずなのに、いざこうして対戦の時を迎えてみると、足の震えがとまらない。

 逃げ場を求めて中から肋骨を押し退けようとする心臓の鼓動が、一向におさまらない。


 当たり前だ。それでいいんだ。

 そう思う自分と、この苦しさから早く逃れたい自分が葛藤していた。


 木村梨乃と戦うにあたって何故このような心理状態になってしまうのか、推定要因があまりにもありすぎて優は原因特定に労力を割くことをとっくにやめている。


 やめてはいるが、だからといって梨乃との対戦が怖くないはずがなかった。

 でも、この試合さえ乗り切れれば、優勝も夢ではないかも知れない。

 一回戦目の相手もそうであったが、弱小であるじよのことはあまり研究していないようだし。


 この試合にしたって、梨乃先輩がいるからわたしが勝手に恐れているだけで、習明院大学の他の選手たちはこちらを研究などしていないかも知れない。そう、梨乃先輩が必死に対策を訴えるものの、監督だか主将だかに突っぱねられている、そんな可能性だってあるではないか。

 出場校が決まってからの限られた時間の中、強豪への対策を優先することは、ある意味正しいのだから。


 そうだ。

 試合は始まってみなくては分からない。


 全力でぶつかるだけだ。

 やりもしないで、いつまでもおどおどと心配ばかりしていてどうする。

 最低な結果ばかりを考えていてどうする。

 美奈ちゃんだって、喜ばない。

 そうだ。

 約束、したじゃないか。

 必ず優勝して、美奈ちゃんにこれを渡すんだって。


 優は、そっと手を伸ばし、自分の額のヘアバンドを指先で撫でた。


 不思議なことに、心臓の鼓動が落ち着いてきた。

 木村梨乃しか見えていなかった周囲を、落ち着いて見回せるようになっていた。


「優、信頼しとるからね」


 主将のぐらふみがこちらを見ていた。


「はい」


 優はゆっくりと、はっきりと、頷いた。


 審判が笛を手に取った。

 間もなく試合開始である。

 優の全身に、ぴりりと電流が走った。


 ごくり、と唾を飲んだ。


 審判が笛の先をくわえた。


 笛の音が鳴った。

 第二回戦、瀬野川女子大学対習明院大学のキックオフだ。


     2

 実力は、習明院大学の方が遥かに上だといわれている。

 その習明院大学のスターティングメンバーは、みな三年生。リーグ戦で優勝を勝ち取った、主力中の主力だ。

 強豪揃いの関東リーグで優勝を果たしたその実力と自信からくる勢いで、開始早々から前掛かりになって、瀬野川女子を飲み込まんと襲い掛かろうとした。

 組織の熟練を感じさせる、小気味よい習明院のパス。


 名倉文子は必死に走り、習明院のパスの起動上に滑り込んでなんとかタッチに逃れた。

 いや、ボールはぎりぎり残っていた。

 起き上がりながらそれに気付いた彼女は、素早く駆け寄り前へと強く蹴っていた。


 前へ蹴るので精一杯で、簡単に習明院の選手に渡ってしまったかに見えたが、佐治ケ江優が上手くその前に身体を入れて、ボールを受け取っていた。


 と、次の瞬間には、既に優は踵を返し、背後に密着する習明院の選手を振り切り、相手ゴール前へと迫っていた。


 習明院大学のフィクソが詰め寄るが、スローモーションにしなければ分からないような素早く細かなボールタッチで優は一瞬にしてかわし、抜き去っていた。


 ゴール前へ。


 ゴレイロにまさかという表情が浮かんだその瞬間には、既に習明院大学のゴールネットが揺れていた。


 前半開始七秒。

 こうして佐治ケ江優のゴールによって、瀬野川女子が待望の先制点をあげたのである。


     3

 まさか関東の強豪相手にこんなに早くゴールを奪えると思っていなかったのか、瀬野川女子の選手たちは大はしゃぎで喜んでいる。


「優、ナイスゴール!」

「この調子で頼むよ! あたしらの運命は、すべて優にかかってんだから」


 ぐらふみいまさきが、優に抱き着いた。


「はい」


 ゴールを決めた本人である優は、ぼそりと返しただけで、その固い表情は相変わらずであった。

 まだ試合が終わっていないから、というわけではない。優は生まれてこのかた、笑顔というものを一度も作ったことがないのだ。


 だけど、心の中ではほっとしていた。

 もちろん守り切らなければという不安はあるけれど、関東の強豪相手に自分たちのフットサルが通じることが分かったのは大きい。

 あとはとにかく、じっくり守りながら追加点を狙うだけだ。


 習明院大学は、いきなりの先制パンチに面食らいはしたものの、変わらず前掛かりで攻め続けた。弱小校相手に不運な失点を喫してしまったと考えているのか。

 いずれにしても習明院大学としては、先制されたからには多少のリスクを承知で追いかけなければならないわけであるが。


 しかし、さすがは強豪揃いの関東リーグを制覇した習明院大学である。

 先制されこそしたが、選手個々の能力もチーム力も実に素晴らしく、まさに阿吽の呼吸といったプレーの連続で瀬野川女子の選手を翻弄し、次々とゴール前へと切り込んで、シュートを放っていく。


 瀬野川女子は、序盤の序盤は折あらば攻め上がりたいといった様子を見せていたものの、すぐに引き気味になって防戦一方に甘んじることになった。


 だがこれは、瀬野川女子にとって最初からの作戦の通りであった。

 全員でとにかく守り、少ない好機には佐治ケ江優の個人技を利用して確実に得点する、という。

 まさか開始七秒で先制点が取れるとは、彼女たちの誰も思いもしなかったであろうが。


 じっと耐えて追加点を狙う瀬野川女子であるが、そのチャンスはすぐに訪れた。

 つい攻め残ってしまったところを習明院大学に一気にボールを運ばれ、なんとかゴレイロのくすあけがキャッチして事なきを得たのであるが、習明院の電光石火の早業にまだ瀬野川女子の選手が前線に残っており、つまりは結果的に大ピンチが一転して大チャンスになったのである。


「フミ先輩!」


 楠田朱美は助走を付けて、前方へとボールを放り投げた。

 名倉文子はサイドで受けると、すぐさま中央にいる佐治ケ江優へと送った。


 優がボールを受けた瞬間、習明院大学の選手が二人、挟み込むように寄せてきた。


 どこまで研究をしているのかは分からないが、佐治ケ江優が徹底マークすべき相手であるという認識は持っているようであった。

 だが優の能力は、その認識を遥かに上回っていた。魔法で壁をすり抜けたかのように、二人に囲まれながらもするりと抜け出していた。

 観客席から、どっと喚声が起きた。


 サイドにいた名倉文子が斜めに切り込んで、優へのフォローに回る。と見せた次の瞬間、ボールはピヴォの今崎奈穂に渡っていた。名倉の動き自体が、囮であったのだ。


 今崎奈穂は突進してくる習明院のフィクソをかわすと、思い切り右足を振り抜いた。

 習明院大学側の、ゴールネットが揺れた。ゴレイロは、なにも反応が出来なかった。

 だがこの得点は認められなかった。

 今崎奈穂の足元に、相手のフィクソが倒れている。倒してしまったというファールの判定を取られたのだ。


「わたし、押してないし、そもそも触れてもいません! 勝手に転んだだけです! あっちこそ演技でカードじゃないんですか?」


 今崎奈穂は審判に抗議したが、判定が覆ることはなかった。

 追加点こそ奪えなかったが、これでゲームの流れが若干変わった。


 瀬野川女子の恐ろしさをその身に体感したか、これまで前掛かりになって怒涛の攻めを見せていた習明院大学が、あまり前に出ず、深入りせず、様子を見るようにボールを回すようになったのである。


 そのため瀬野川女子にとって相手の怖さはやや半減したが、それでもやることはなにも変わらなかった。徹底的な守備である。


 例外は佐治ケ江優であり、彼女だけは個人技を生かして隙あらば前へ進んでいく。


 なるほど、と見る者に思わせる瀬野川女子の戦術であった。

 基本、並の選手ばかりであるが、佐治ケ江優だけは別格で、とにかくボールキープ能力や判断能力が並外れて優れており、彼女を攻撃に置いて残りは守備というのは理にかなっていた。


 実際、彼女の素晴らしい個人技からゴールをあげているし、習明院大学の誰一人として彼女をまともに止めることは出来なかった。


 相手を畏縮させることに成功した瀬野川女子は、様子をうかがいななら、序盤の序盤のようにまた攻勢を強めていった。

 攻撃は優に任せて、守備的な陣形を敷くというのは変わらずであったが、全体的に前掛かりになり、全員が優を中心としてコンパクトにまとまっていた。


 ボールを奪うと、すかさず優へ。

 優は個人技を生かして突破をはかり、かと思えば優にマークが集中している状態を利用して他の選手がするりと抜け出して習明院ゴールを脅かす。


 佐治ケ江優という個の力によって、瀬野川女子の全員が躍動していた。


     4

 やはり、あまり研究はされていないようだ。

 ゆうはボールをキープしながら、相手の攻めや守備を分析していた。


 ターンの瞬間、ちらりと目に入ったむらの姿。なにやら自チームの主将らしき人物と、口論しているようであった。


 そして、優は我が目を疑うような光景を見た。


 激論に熱くなった部員の一人が梨乃を殴ろうとして、主将と思われる人物がそれを手のひらで受け止めたのだが、直後、なんと主将自身が梨乃の顔面に拳をぶち込んだのだ。

 梨乃の身体は吹っ飛び、転がった。


 一体なにをしとるんじゃ、梨乃先輩は……


 もしかしたら、必死にわたしの対策を先輩たちに訴えていたのかも知れない。それで、つい言葉がきつくなって殴られたのかも。


 それだけじゃない。

 梨乃先輩は、きっと説得に成功したんだ。


 優がどうしてそう思ったかというと、しゆうめいいん大学の主将は部員たちにこのように叫んだのである。


「みんな聞け! これから梨乃が主将だから! いうことに文句いわず従うように!」


 と。

 これぞまさに、対策を進言した結果、指揮権そのものを譲り受けたということではないか。


「えーーーっ」

「何いってんですかあ!」


 習明院大学の選手たちから、一斉に反対の声が上がった。


 梨乃先輩がどれだけ凄いか知らないから、そんなことをいっていられるんだ。


 優の顔は青ざめていた。

 絶望感。

 心の中にあるのは、ただそれだけだった。


 自分をよく知る木村梨乃だ。勝つために、自分を潰そうと非情に徹してくるだろう。

 でもいったい、どんな方法で……


「ミキエ先輩、どんどん上がっちゃって!」


 梨乃が叫んだ。

 その指示に、習明院大学のゴレイロが前へ飛び出した。

 パワープレーだ。


 何故……

 優にはその意図が理解出来なかった。


 向こうはリードされているのだから点を取りたいのは分かるけど、でもまだ試合が始まったばかり。ゴールに蹴り込まれたら終わりというリスクを背負ってまで攻める場合ではない。


 梨乃先輩のことだ、きっと別の意味があるんだ。


 それは、なんだ。

 なにをしようとしている。


 優はたまらなく不安な気持ちに全身を支配されていた。


     5

「お前はアホか! まだ前半で、一点差だぞ!」


 そんな怒鳴りが聞こえてきた。

 ちらりと声の方を見ると、しゆうめいいんの選手がむらの脇腹を肘で小突いている。


 急に主将代行になったもんやけ、梨乃先輩の思惑をチームに浸透させる時間がないんだ。


 優はそう判断していた。


「で、どうすりゃいいんだ?」


 ミキエ先輩、と呼ばれていた習明院大学のゴレイロが、梨乃に尋ねた。


「はい、5番(佐治ケ江優)を徹底的にマークして下さい! 身体を張って、絶対にシュートを打たせないこと。まともに打たせたら遠くからでも針の穴を通すような百発百中の精度を持ってますから、全神経を集中させて! あと、サオトメ先輩か、バン先輩、臨機応変にどちらかがミキエ先輩のフォローをして、なるべく二人がかりで5番に当たるようにして下さい。相手も同じ人間だなんて思わないで下さい。残念ながら同じじゃないんで。それと他の先輩たちは、攻守どちらにしてもなるべく敵陣で勝負が出来るよう、上手くラインを押し上げるようにして下さい!」


 やはり、そういうことか。


 優は全身の血がさあっと引いていくのを感じていた。

 自分が研究対策されている、ということに、自分のすべてを覗き見られているような不快な気持ちになっていた。

 すべてを覗き見られているということから、もうこの勝負はおしまいだという絶望感に身を包まれていた。


 じゃけえ……

 そんな弱気なことをいっていられない。

 ちゃんのためにも、絶対に、優勝するんだ。


 習明院大学のゴレイロは、指示通り自陣ゴール前から飛び出して優へぴたりとついた。

 しかし優は、すっと動いて難なくパスを受けていた。


 優に何人のマークがついていようとも、がわ女子の基本戦術は変わらなかった。それだけ優のボールを扱う技術が絶対的に信頼されているのである。


 木村梨乃主将代行の叫び声。

 FPの選手たちをどんどん入れ替えていった。


 背番号と、試合前に目を通したメンバー表から判断すると習明院は、ゴレイロを残して全員が一年生や二年生、つまり主力ではない選手たちだけになっているようであった。


 そして、瀬野川女子が相手に対していつもやっていたように、習明院大学も守りに徹するようになっていた。


 これも、うちへの対策ということ?

 優は全身に鳥肌のたつような、なんともいえない気持ち悪さを感じていた。


 でも、点を取らなくてはならないというのに、そんな、全員でガチガチに守ってどうするのか。


 木村梨乃の考えが、理解出来なかった。


 習明院のゴレイロと、優が向かい合った。 

 優はフェイントでゴレイロをかわそうとするそぶりを見せたが、すぐそばに習明院のフィクソが接近していることに気付くと無理をせずに後ろへ下げた。


 こちらがリードしているのである。無闇に攻めてボールを奪われることもない。と、優は判断したのである。


 だが、それがその後も二回三回と続き、それによって瀬野川女子の選手たちがストレスを感じてきていた。


 本来、実力を考えれば、関東の強豪を相手に陣地を突破出来ずに攻めあぐねるなど当然のことであるはずだが、しかし現在の瀬野川女子には常人離れした才能を持つ佐治ケ江優がいる。それ故に、苛立たしい気持ちになるのだろう。もっと点を取れるはずなのに、なぜ、まだたかだか一点のリードなのか、と。


「優、下がれ! ハミと入れ代われ!」


 全体に広がるストレスに、ピッチの外から気付いたのであろう。瀬野川女子の監督、しのむらこうぞうが大声で指示を出した。


 その指示に従い、優は後方へ下がり、うちようが前に出た。


 なるほど。マークが甘くなった。

 優は、監督のアイディアに関心していた。


 篠村幸三監督、齢五十五、フットサルどころか球技の経験すらもないまったくのド素人監督である。

 それだけに理論をしっかりと頭に叩き込んで監督という仕事に臨んでおり、机上の空論と失笑されないためにも選手の意見をしっかりと聞いて勉強する柔軟さも持っている。

 優と二人で、パソコンデータを駆使してのITフットサルを瀬野川女子に導入し、そしてリーグ戦で加盟後初の最下位脱出と、同時に初の優勝という快挙をもたらせた人物である。


 そのような様々な共同作業を行なった関係だからということではないが、優は篠村監督のことを人間的に尊敬している。


 この大会に優勝したいと強く願うのは、事故で死んだとおやまのためもあるが、この篠村監督のためでもあるのだ。


 優へのマークは明らかに甘くなっていたが、まだゴール前はがら空きのまま、習明院大学はパワープレー継続中であった。


 ぽとり、と、こぼれ球が優の足元へと落ちた。

 後方にいるだけあって、習明院の選手はあまりがつがつとぶつかってはこないようであった。一人が、ようやく優を気にしてゆっくりと間を詰めてきた。


 前にいる内田葉美にボールを渡すと、相手の意識はそちらへ集中して、また優へのマークが完全におろそかになった。


 ほうか……


 優は監督の狙いを理解した。

 そして、習明院大学にも一人、狙いを見抜いて危機感を持つ者がいた。


「ミキエ先輩はそのままで! 前二人が5番をマークして! 状況次第でウマヨも寄せて! とにかく5番がどこにいようと絶対に自由に……」


 主将代行の、木村梨乃である。


 その必死さを理解出来ていないのか、習明院の選手が不思議そうな顔で、優のマークにつこうとゆっくりと寄り始めた。


 その時であった。大きく跳ねてこぼれたボールが、ぽとりと優の足元へ落ちた。


「急げ! 潰せ!」


 木村梨乃が、声を裏返らせて叫んでいる。

 怒鳴り声で指示を受けた選手が、わけが分からないながらもその声に背中を押され、速度を上げて全力で優へと詰め寄った。


 だが、優にとってはノーマークでフリーの状態がコンマ五秒もあれば充分だった。

 真っ直ぐ前方を見据えながら、小さなステップでボールに踏み込んで右足を素早く振り抜いた。


 緩やかな放物線を描いて、ボールはほぼ端から端へ。

 そして、無人のゴールへと吸い込まれ、ゴールネットが揺れた。


 全力で駆け戻った習明院ゴレイロであったが、間に合わなかった。ボールに一瞬遅れて自分自身もゴールへと飛び込んでしまった。


 こうして、佐治ケ江優のゴールによって瀬野川女子に追加点が生まれたのである。

 それは瀬野川女子の選手たちの不安を吹き飛ばす、値千金のゴールであった。


     6

「優、やった!」

「勝てる、勝てるよ、あたしたち!」


 優を取り囲む瀬野川女子の選手たち。

 優は体力面に問題があり長時間の出場は出来ないというのに追加点がなかなか決まらなかった、そんな焦りも相当にあったのだろう。まるで優勝でもしたかのような喜びようであった。


「想定内! がたがた抜かすな!」


 習明院大学ベンチでは、怒気不満満面の先輩たちにごつごつと頭を小突かれながら木村梨乃が怒鳴り声を上げている。


「いまの失点は、もっとガツガツ当たらないからだよ! 警告は一回まではオッケーなの! なんのためにルールがあると思ってんだ!」


 梨乃先輩が、梨乃先輩らしからぬことをいっている。

 優は少しびっくりした。

 急遽チームを率いることになって余裕がないということと、それだけ勝つことへの執着心が凄まじいのだろう。


 試合再開。

 梨乃の入れた活によって、習明院大学の当たりが実に激しいものになった。


 もともと接触プレーに厳しいフットサルという競技である。一枚、また一枚、と習明院にばかりイエローカードが掲げられていく。


 そうなると必然的に増えていくのがFK、そして第二PK。

 基本的にキッカーは優が務めた。


 優のキック精度は抜群であり、習明院ゴールを何度も脅かせた。

 ゴールを割ることは出来なかったが、ゴレイロの能力が並以下であったならば、何点か決まっていても不思議ではなかった。


 なおも習明院大学の激しい当たりは続く。

 退場者が出ないようにということか、その都度選手交代を指示していく木村梨乃であったが、しかし、


ゆう、そこ! 当たれ! 潰せ!」


 拡声器よりも大きいような梨乃の怒鳴り声に驚いて、習明院大学の選手が、つい足を引っ掛けて瀬野川女子主将のぐらふみを倒してしまった。


 笛が鳴り、その倒した選手にイエローカードが出された。

 カードを引っ込めると、今度はレッドカードを出した。

 警告二回で、退場である。


「ついてるよ!」

「優、この機会に絶対にもう一点取ろうね!」

「絶対に勝てるよ、この試合。勝たなきゃ!」


 瀬野川女子の選手たちは、思い思いに興奮の色を表した。

 みながテンションを高めるなか、優だけは恐怖に震えていた。


 ちらり、と木村梨乃の顔を見た。

 梨乃は手を叩き、一人少なくなったチームを鼓舞している。


 わざと退場するように指示をした、というわけではないようだ。でも優には、そうなっても構わないような、なにを考えているのか分からない不気味さを梨乃に感じていた。


 なにもかも、すべてが自分を倒すための策略なのでは。

 わたしはただ、先輩の手のひらで踊らされているだけなのでは。


 そう思うと、たまらなく怖かった。

 フットサルへの勝ち負けが、というよりも、自分の内面を覗き見られているということに。


 いや、そう決まったわけではない。

 苦しいのは向こうの方かも知れないんだ。


 優は首を振り、弱気を追い払った。

 そうだ、現実としてこちらの方が人数が多いんだ。そして、二点もリードしている。

 さらにここで点を取って、差を広げればいい。それだけだ。

 ただ、それだけなんだ……


     7

ゆう、疲れたらすぐにいうんだぞ」


 ベンチから、監督の大きな声。


「はい!」


 とっくに疲れていたが、そう返事をするしかなかった。

 まだ二点のリードであり、セーフティリードとはいえない。いつもはもうとっくに後半戦に備えて引っ込んでいるが、今回、なかなか追加点を奪えずにいつまでもピッチに居すぎた。

 だからもう、相当に体力は消耗している。


 早くベンチに下がって、後半のために体力を回復させたい。

 でも現在、相手が一人少ない。

 ここはもう少しピッチに立ち、なんとか点を取るしかなかった。


 二点差では、一点取られた瞬間に動揺が出てそのまま追い付かれることもあるからだ。

 そして優のいない瀬野川女子の選手だけでは、一人少ない相手に一点を取ることも容易ではないからだ。


 だから、なんとかあと一点を取るまでは……

 絶対に、ここで点を取るんだ。


 相手の人数が揃っていても、こうやって二点を先行することが出来たじゃないか。

 優は大きく肩を上下させながら、疲労に弱気になる自分の心を叱咤していた。


 後方に下がっていた優であるが、相手の退場によりまた前面へと出た。優が前面へ出たことにより、ピッチ脇に立つ習明院の主将代行である木村梨乃からすかさず指示の声が飛んだ。


「ミキエ先輩、また上がって5番(佐治ケ江優)のマークについて! あとは近いのが一人、先輩のフォローお願い!」

「うおっけい!」


 習明院のゴレイロは、二点を先行されているというのにこの状況を楽しんでいるのか、嬉々とした表情で優へと突っ込んできた。


 強豪揃いの関東リーグで優勝しただけあって、まだ自分たちの勝利に自信を持っているということだろうか。

 不気味ではあったが、優としては、やることに変化はなかった。

 すっと横へ動いて、パスを受けた。


「やらせないよ!」


 と、戦意満々にほくそ笑む相手ゴレイロの脇を、優はすっとボールを転がしたその瞬間に風のように抜けていた。


「身体入れろ! シュートコース塞げ!」


 木村梨乃の絶叫。

 それにびっくりして背中を押されたか、優の身体に、習明院の選手がどんとぶつかってきた。優はぐらりとよろけて、床に手と膝をついた。


 習明院のファール。

 第二PKが瀬野川女子に与えられた。キッカーは優である。


 優は助走をつけ、蹴った。

 狙いは完璧であったが、わずかに蹴る足に力が入らず、そのせいかゴレイロにキャッチされてしまった。


 優は、ふうと息を吐いた。ため息なのか、単に疲労による息なのか、自分でも分からなかった。

 疲労に体力が限界近い、ということは間違いのないことであったが。


 だけど、なんとか点を取らなくては。

 そうすれば、残るは後半だけ。


 きっと勝てる。

 そう自分を励ます優であったが、ここでまた絶望に心沈むことになった。


「フミ! あたしと交代!」


 木村梨乃が叫びながら、交代ゾーンへと向かったのである。


 優と梨乃、高校生の時以来、二年ぶりに、二人は同じピッチに立つことになった。

 以前と違い、今度は敵と味方として。


     8

「ミキエ先輩、5番(佐治ケ江優)はあたし一人で見ます」


 梨乃は、優の視線を無視するように、味方のゴレイロへと声を掛けた。


「じゃあ、ゴール前に戻ってていい?」

「いえ、他のマークについて下さい」

「分かった」


 梨乃は、ゴール前不在というリスクを背負いつつも、現在のこのバランスを維持しようというつもりのようであった。

 ゴール前不在という背水の陣がもたらす効果に期待しているのかは分からない。


 どんな理由があろうとも、まだ前半だというのにこういつまでもゴレイロを前に上げているなんて、正気の沙汰じゃない。


 わたし個人の体力がなくなる前に、そちらの方こそ全員の集中力が切れるのではないか。


 優は心の中で呟いていた。

 本当にそう思っていたわけではない。

 相手を心配することで、強がってみせただけ。自分を奮い立たせてみせただけ。それだけ優は弱っていたのである。それだけ木村梨乃という存在が怖くて仕方なかったのである。


 優へぴたりとマークについた木村梨乃であるが、瀬野川女子の行動は一切変わることはなかった。とにかくボールを奪えば優へパス、である。それを有効にするために他の行動を取ることはあるが、基本戦術としては優を生かして点を取ること露骨すぎるくらいに実践していた。


 他の選手たちは、優と梨乃との関係など知らない。優がどれほど梨乃を恐れているかなど知らない。

 だからこのように、相変わらずの優頼みは当然といえたが、当の優としてはかかるプレッシャー倍増どころではなかった。


 でも、元々が神の領域と評する者もいるくらいの優の技術である、プレッシャーをものともせずに、梨乃からボールを守り続けた。自分へのパスを、梨乃の妨害を掻い潜って受け続けた。


 素晴らしい技術で、優は梨乃を翻弄し続ける。

 でも、優には分かっていた。

 自分は、梨乃先輩によってそう動かされているのだ。

 梨乃先輩は、疲労するように疲労するようにと自分を追い込んでいるのだ。

 分かってはいたが、さりとてどうしようもなかった。


 恐怖から逃げるように、味方にパスを出す優であるが、ボールはまたすぐに戻ってきてしまう。

 仲間から、絶対的な信頼を置かれすぎているのだ。


 まるで魔法使いといったボール捌きを見る者に与える優であるが、魔法にかけられているような気持ちがしているのは、むしろ彼女の方であった。

 どんどん、精神が追い詰められていく。


 だけど、弱音を吐くわけにはいかない。

 わたしは、優勝しなければならないんだ。

 梨乃先輩だって同じ人間。勝てない相手では、決してないはずだ。

 ならば、やってやる。


 優はちょんとボールを爪先で跳ね上げて、梨乃に迷いをもたせ、その瞬間に、一気にニュートラルからトップギアへ。身体を沈ませながら右へ、と見せて左から抜きにかかった。


 全身から、汗が吹き出した。

 心臓が、どんと大きく跳ね上がった。

 優の体力は、すでに限界近いのだ。


 しかし、木村梨乃を抜き去ることに成功した。

 相手はまだ一人少なく、そしてゴレイロの上がりによりゴール前は無人。


 三点目への道筋が見えた瞬間、それを現実のものにすべく右足を振り上げた。

 振り下ろす前に、がっと激しい衝撃を受け、優の身体は横殴りに吹っ飛ばされていた。


 パワープレーで上がっている習明院大学のゴレイロが、優へと突っ込んでスライディングで優を弾き飛ばしボールを奪ったのだ。


 ゴレイロはすぐさま起き上がり、ドリブルを開始する。だがすぐに、審判の笛が鳴った。

 習明院のゴレイロに、イエローカードが掲げられた。


「うおお、しまった! ゴレイロの癖で!」


 ミキエ先輩と梨乃に呼ばれていた習明院のゴレイロは、両手で頭をかかえると、すぐさま梨乃へとダッシュで向かい、


「お前のせいでカレー券もらっちゃったじゃないかよ! なにが5番あたし一人で見ますだよ!」


 梨乃の頭をボカンとぶん殴った。

 フットサルは、ゴレイロの守備に限ってよほど危険でない限りスライディングタックルが認められている。習明院大学のゴレイロは、ペナルティエリアを出ているというのに、普段の癖でファールだと思わずスライディングをしてしまったのだろう。


「すみません」


 梨乃は謝ったが、まるで反省などしておらず、けろりとしたものであった。

 佐治ケ江優を確実に食い止めることなんて出来るはずないだろう、と割り切っているような。


 いまのファールにより、瀬野川女子は第二PKを得た。

 優は、キッカーとして第二ペナルティマークに向かったのであるが、


「コトセに蹴らせろ!」


 監督の指示が飛んだ。

 これまでいつも、優がピッチにいる時には優が蹴ってきたというのに……


 おそらく監督は、自分の状態をよく分かっているということなのだろう。

 体力の限界が近いということを。


 優はそう思っていた。

 ただでさえスタミナがないというのに、この大会は連戦なのだから当然だ。なかなか得点を奪えずに、ピッチに立ち過ぎてしまったこともあるし。


「コトセ、変に狙わないでいいぞ。思い切り蹴れ!」

「はい!」


 第二ペナルティマークにボールをセットしたはなことは、審判の笛とともに長い助走をし、豪快に蹴った。

 ずどん、と凄い勢いでボールは真っ直ぐ飛んだが、しかし習明院大学ゴレイロの胸の中にしっかりと収まっていた。

 雄叫びをあげながら、ガッツポーズを作る習明院のゴレイロ。


 試合を決めてしまうチャンスだったのに。と、優は残念がったが、しかし琴瀬先輩を責めても仕方がない。


 自分が蹴っていたならば、疲労に勢いが出ず、それこそもっと楽々キャッチされてしまっていただろう。それどころか腰がまるで入らずに、打ち上げていた可能性だって高い。


 習明院大学は、木村梨乃による優対策のために、あまりにファールを犯し過ぎた。

 瀬野川女子としては、もう毎回のように第二PKが貰えるわけで、監督は優の体力を使わせるよりも他の者に下手な鉄砲を勢い良く撃たせる作戦を選んだ、ということだろう。

 それは、優にも納得出来るものだった。


「フミ! ウマヨと交代!」


 優にぴったりとマークにつきながら、梨乃が叫んだ。

 習明院大学、選手交替。フィクソを下げて、先ほどピヴォをやっていた選手を再び出してきた。


 その采配が、優には不可解だった。

 だって習明院大学は一人少ないのに。サッカーと違って、もう少し時間が経てば補填が出来るのに、何故ここで守備の選手を引っ込めて攻撃の選手を出す必要がある?

 普通は、人数が戻るまでは守り切ろうとするはずだろう。


 排水の陣で集中力を高めるため?

 それとも……


 まさか、ここが逆にチャンスだと思うて……


 優は、梨乃からするりと離れると、習明院のパスをインターセプトした。

 そして、ボールキープに入った。

 守備をしながら、


「みんな、引いて!」


 優は、叫んでいた。

 なるべく自分がキープをして、退場した習明院の人数補填がされるまで粘るつもりであった。


 相手の人数が少ないこと、こちらにとってチャンスなどではなかったのだ。

 下手をすれば、押せ押せの気分になっているうちの守備陣、相手の策略に引っかかって手痛い目にあうに決まっている。


 優の眼前に、木村梨乃がいた。

 梨乃は、優のことを睨んでいた。

 単に真剣な表情がそう思わせてしまうだけかも知れないが、とにかく優には、梨乃が睨んでいるように思えた。


 ほんの一瞬のことではあったが、将棋のような、何手もの先を読み合う攻防が展開され、そして勝利したのは木村梨乃であった。


 そう、基本技術としては優の方が格段に上のはずであるというのに、ここぞという時の勝負強さでは、優は梨乃の足元にも及ばなかったのである。


 優は、股の下を通され、抜かれた。

 焦りに身体を震わせながらも、くるり振り返り、すぐさま梨乃の背中を追った。


「ハミさん、7番マーク!」


 優は、ゴール前を固めるべきか迷っている内田葉美へ、ゴールではなく人に、木村梨乃につくよう指示を出した。


 ドリブルする梨乃は、ペナルティエリア内へと入り込んだ。

 そこへ葉美が猛然と突っ込んだが、追いつくためにスピードを出し過ぎており、梨乃の技術の前に簡単に切り返されかわされてしまった。


 間髪入れず、今度はゴレイロのくすあけが梨乃へとスライディングで突っ込んだ。だが梨乃は、冷静に横パスを出すと、軽く跳躍してスライディングをかわした。


 ゴール前をころころ横切るボールへと、先ほど交代で入ったばかりの習明院のピヴォが走り込み、右足を振り抜いた。

 ゴールネットが揺れた。


     9

 瀬野川女子大学、失点である。

 今大会、初の失点。

 ここまで二点のリードをしていたが、一点差に詰め寄られることになった。


 優は悔やみ、天を仰いだ。

 意識の統一さえ出来れば、防げる失点だったのに。


 相手は、一人少ないという逆境を反対に利用することで、点を取ったのだ。

 元が弱小故に早くセーフティリードにまで差を広げたい、そういう瀬野川女子の心理を、木村梨乃に上手く突かれてしまったのだ。


 それだけではない。

 優が持つと、みな優を過度に信頼し過ぎてフォローの意識が希薄になってしまう。結局、そこを木村梨乃に突かれて、上手くやられてしまったのだ。


「まだ負けてんだ、集中切らさず、粘り強く戦ってこう!」


 木村梨乃、習明院の主将代行は手を叩き味方の気持ちを引き締めた。


 習明院の部員たちは、この得点によって明らかに表情が明るくなっていた。


「まだまだ。一点リードしてるんだから!」


 同様に、気を引き締めようと手を叩いたのは、瀬野川女子の主将である名倉文子だ。


 瀬野川女子の部員たちはこの失点にすっかり落胆してしまっていた。


 リードしている方がどんより暗く、リードされている方が希望に溢れているというなんとも奇妙な空気に、会場は包まれていた。


「優、すまん、もう少し頼む」


 監督の声が聞こえた。


「はい!」

 優は精一杯の大声で返事をした。


 頼まれずとも、もとよりそのつもりであった。

 中国リーグならともかく、一点リードで関東リーグの強豪に勝てるはずもない。なんとか、あと一点、出来ればあと二点、取らなくては。


 だが、優や監督のそうした思いは、ただから回りするばかりであった。

 瀬野川女子の部員たちは、一点差に詰め寄られたことでどうしても焦りが出てきて、まともにボールを繋ぐことが出来なくなってしまっていたのだ。


 そして、木村梨乃は相も変わらず優への過剰ともいえる激しいマーク。


 ようやく、習明院の選手が退場してから二分が経過した。

 これでまた四対四の人数に戻る。


 ある意味では、これで良かったのかも知れない。

 優は思う。


 まだリードしているのは瀬野女の方だし、これで守備が集中して引き締まるからだ。


 じゃけえ……

 優はこの人数補填で、木村梨乃がまたなにかしてくるのではないか、と感じていた。


「ニシヤ!」


 優のマークにつきながら、梨乃はベンチにいる選手を手招きした。

 呼ばれた選手は立ち上がった。

 ユニフォームからして、控えゴレイロのようだ。

 メンバー表の記憶では、確か西にしあゆむといったか。


 現在ピッチにいるゴレイロどうするの? と、不思議そうな顔でピッチに入ろうとする彼女に、梨乃は、


「あ、違う、ニシヤ! ピヴォ、ピヴォで!」


 ああ、やっぱり。

 変なことをしてくるのは分かっていて、それが的中したわけだが、だからといって優が心に受けるダメージは微塵も和らぐことなどはなかった。


 次々と主力でないと思われる選手を投入し、瀬野川女子に対して激しいマークをさせ、イエローカードが出ると交代させていった梨乃であるが、ついに控えゴレイロまでその駒として使おうというのだ。

 目的は、ただ一つ。


 うちを、潰すためじゃ……

 体力のない自分が完全に潰れたところで、主力を投入して一気に攻勢に出る。

 それが習明院の、木村梨乃の、作戦ということなのだろう。


 それが分かったところで、現在の状況では、自分が出続けるしかなかった。

 こんな状態でも、いや、こんな状態だからこそ自分へと送られて来る味方からのパス、これを受け、守り、なんとか攻撃に繋げるために頑張るしかなかった。


 息遣いが聞こえるくらいに梨乃が密着して、執拗にマークしてくる。

 なんとか振り切り、ボールを受け、さばく優であったが、既に疲労に頭が真っ白になりかけていた。


 胸が熱い。

 息を吸っても酸素が全然入ってこない。

 ぜいぜいと肩で大きく呼吸をしていると、


「監督!」


 瀬野川女子の主将名倉文子が、優を指差して叫んだ。

 その指摘を受けて、監督はようやく決断したようである。


「優、下がれ! ノリエ、入るぞ!」


 指示に、木戸のりえは交代ゾーンに立った。

 朦朧とした様子でふらふらと戻ってくる優の手を叩くと、ピッチへ入った。


 強豪に対して攻撃の核となりうる唯一の選手である佐治ケ江優がベンチに下がったことで、瀬野川女子は必然的に意識統一がされ、守備が引き締まった。


 しかし、やはり動揺を隠すことは出来なかった。

 このままの点差で、前半の残りと後半とを乗り切れば勝利。しかし、たかだか一点差なのだ。しかも佐治ケ江優は、すっかり疲労しきっており、視点定まらず、立っていることすらおぼつかない状態。


 一点入れられたら、おしまいだ。

 そうした焦りから高まる集中力ももちろんあるのだろうが、全体的には、ちぐはぐさばかりが目立ってしまう結果になっていた。


 だが、これは救済と捉えるべきか、ほどなくして笛の音が鳴った。

 前半が終了したのである。


     10

 後半が開始された。

 ゆうは、ベンチから試合を見ている。


 ハーフタイムにおける監督の指示は少なかった。

 全員でこの一点を守り切る。

 佐治ケ江は出さない。

 要約すると、この二点だけである。


 仮に優が出場して勝てたとしても、疲労から次の決勝を戦うことは不可能だろう。ならば排水の陣で、この一点を優を抜かした全員で守ろう、決勝で優に活躍してもらうためにも。ということだ。


 確かに、優の疲労は既に限界を超えているとはいえ、この試合に勝利出来さえすればある程度は体力の回復が出来る。

 昼休憩と、三位決定戦があり、決勝はその後だからだ。


 監督は、ハーフタイムのほとんどを精神論についやした。

 その効果か、瀬野川女子の選手からは迷いが消えて、吹っ切れたように集中した守備が出来ていた。


 技術においてはしゆうめいいんが圧倒的であったが、瀬野川女子はチームワークで跳ね返し続けた。


 一分、また一分と時間が経過するにつれ、行けるかも知れないという気持ちがどんどん大きくなっていくのか、その守りが強固になっていく。

 押し込まれているのは瀬野川女子であるというのに、むしろ圧倒的に攻める習明院大学の方にこそ、焦りに致命的なミスをしてしまいそうな、そんな雰囲気が漂いはじめていた。


 実際、習明院のパスワークの乱れを突いて、瀬野川女子が一気にボールを運んでゴールを脅かすようなシーンも増えてきた。


 攻撃も守備。

 瀬野川女子としてはただ引いているばかりでなく、守り切るためにもこのように果敢な攻め上がりを見せるようになっていた。


 だからといって、習明院も守備的にはならない。

 一点のリードを追い掛けるべく、前へと出る。

 当然といえば当然であるが、しかしそれは、木村梨乃の本意ではないようで、


「攻め急ぐな! じっくり回してけ!」


 梨乃は叫び、残り時間が減っていくことに焦る仲間を落ち着かせた。


「そうそうそう、急ぐな。それだけでいい」


 梨乃の指示が浸透して、習明院は無理に攻め入らずに様子を窺うようなパス回しが増えた。


 ベンチで見ている優は、またなんだか嫌な予感がしていた。

 その予感は的中した。


 ハーフタイムで落ち着いたと思われる瀬野川女子の選手たちに、また焦りが出始めていたのである。


 相手がどっしり構えて回し始めたことにより、一点差しかないという不安が大きくなってしまったのだろう。


 優は、この状況をそう捉えた。

 一点差、という人間心理を木村梨乃が最大限に利用しているのだ。


 監督が必死に選手たちを落ち着かせようと声を飛ばすが、木村梨乃の策略は人間の無意識に語りかけるものであり、そう簡単にこの動揺はおさまらなかった。


 さすが、梨乃先輩……

 でも、一番の狙いは、選手たちの動揺を誘うことではないのだろう。

 分かっている。

 分かっているけど、


「ほじゃけえ、やるしかない」


 優は額のヘアバンドに、そっと触れた。

 立ち上がった。

 ふらふらと、まるで病み上がりのように頼りなげな様子で。


「監督、あたし、出ます」


 びっくりしたのは監督、周囲の部員たちである。


「無理だ。無茶するな。決勝では、お前に活躍してもらうんだから」

「分かってますが、このままではチームがバラバラになってしまいます。あと一点取れば、落ちつくはずですから。そうなれば、絶対に勝てます」

「……ダメそうならすぐに自分でサインだせよ」

「はい」

「よし。あい、交代だ! 優、本当に無茶だけはするなよ」

「はい!」


 優は監督に肩を叩かれ、交代ゾーンへ向かい、立った。


     11

 優は右足をトントンと軽く蹴って、状態を確かめた。

 リーグ戦長期離脱の原因となった右膝関節の怪我であるが、疲労が増すと共にじくじくと痛むようになってきていた。


 体力が落ちて、患部を庇うような動きが出来なくなっているからであろう。

 長くピッチに立つわけにはいかない。

 次の試合、決勝戦のためにも。

 優勝するためにも。

 美奈ちゃんとの約束を守るためにも。


「優、任せた」

「はい」


 ながさとあいと佐治ケ江優は手をパンと合わせ、入れ代わった。


 こうして、再び優はピッチに入ることになった。

 それこそが木村梨乃の狙いであることなど分かっている。

 でも、出ないわけにはいかなかった。


 あえて乗ってやる。一点取ればいい、ただそれだけじゃ。


 優はいとも簡単なことのように、自らの心にいい聞かせた。


 全員守備であった瀬野川女子であったが、前半のように優へ集めて攻撃に出るようになった。


 習明院側に選手交替、再び木村梨乃が入り、優へのマークに。

 いっそ気持ちの良いくらいの、徹底した佐治ケ江優潰しであった。


 でもうちだって……負けるわけにはいかん!


 優は軋みを上げる身体を気力で動かし、梨乃を振り切り、トラップと見せてワンタッチで捌いて前線へと送った。


 信じてゴール前へ走ったいまさきが、完全にフリーの状態で、落ちてくるボールに合わせて右足を振りぬいた。

 瀬野川女子、追加点!


 誰しもがそう思ったであろう。

 それほど決定的なシーンだった。


 だがシュートは相手ゴレイロに顔面ブロックされ、ぽとりと落ちた。

 今崎奈穂は自らねじ込んで試合を決めてやろうと身体を突っ込ませたが、床に倒れているゴレイロはカエル足でボールを挟み込んだ。


「惜しかったあああ!」

「次、次!」


 ピッチの内外から、瀬野川女子の選手が叫び、決定的な得点機会を逃したことによる士気の低下を防ごうとしている。


 習明院ゴレイロは顔面ブロックにより鼻血を出してしまい、止血作業のため試合は一時中断になった。

 すぐそばに梨乃が立っているが、どのような言葉をかけたものか分からず、ずっと黙っていた。

 どうにも沈黙が気まずくて、一秒が一年にも二年にも感じられた。

 梨乃先輩も、同じ気持ちであっただろうか。


 ようやく、試合再開。


「みんな、これまで以上に集中して、それぞれのマークをしっかり! 5番から、どんなパスが出るか分からないから!」


 梨乃が叫んだ。

 先ほど優がワンタッチでボールをはたいて瀬野川女子は決定的なチャンスを得た。また同じことにならないように警戒しているのだろう。


 それだけ梨乃先輩は自分を警戒している。

 なら、その心理を利用すれば、こちらにも攻め手はあるのでは。


 そうだ、考えろ、優。

 どうすれば勝てるのか、考えろ。


 疲労に朦朧とした意識の中、優のとった行動は無意識のものであった。

 味方とアイコンタクト、パスと思わせ梨乃を抜く。

 想定内であったか梨乃はしっかりと付いてきたが、優はさらに瞬時に切り返していた。


 さすがにそこまでは予測出来なかったか、それとも身体が付いてこられなかったのか、とにかく梨乃の脇を優は抜け出した。


 ついに優に訪れた、決定的な得点のチャンス。

 しかし、次の瞬間に優の視界は反転していた。どうという音とともに床に転がっていた。

 足の感覚が半分なく、もつれさせてしまったのだ。


 起き上がろうともがいていると、やがて観客席から喚声がわいた。

 続いて、梨乃の大声。


「いまのよかったよ。その調子で!」


 なにごとか、と優は思った。

 周囲の状況から、すぐに理解した。

 どうやら梨乃は、優が転んだ瞬間に、まるでそうなることを予期していたかのようにボールを奪い味方へパスを通したのだ。

 その流れから、習明院のシュートがあわや決まってしまうところだったらしい。


 でも、決まらなかった。

 優は安堵の息を吐きながら、立ち上がった。


 その後も優と梨乃との攻防は続き、そして後半十一分。


「優! 交代だ」


 とっくに体力が限界を超えていたというのに、あと一点を取るためにピッチへと戻った優であるが、結局点を奪うことかなわず下がることになった。


 優を壊すわけにはいかない、ということと、残り時間が十分を切ったため選手たちに気力や集中力の湧き起こることを監督は期待したのかも知れない。


 だが、そのような効果は生じなかった。

 ぜいぜいと喘ぐような呼吸をし、足をよろめかせてベンチへと戻って行く優の姿に、瀬野川女子の選手たちの間に生じたのは暗雲であったことだろう。

 明らかに、全員の表情が陰っていた。


 どう考えても優が再びピッチに立てる可能性は低く、となれば瀬野川女子としては追い付かれたらおしまいである。

 優以外には、強豪校に太刀打ち出来るほどの個人技を持つ選手はおらず、技術の無さを必死に走り回ることでこれまで戦ってきた。

 そのため、優に限らず瀬野川女子の誰もが、疲労の限界だったのである。


 つまり、習明院の主将代行である木村梨乃は、既に目的のほとんどを遂行したのである。

 あとはただ、とどめを刺すだけ。


 そして、その時は来たのである。


「先輩たち、そろそろ出番です!」


 木村梨乃の叫び声。

 優はぜいはあと大きく肩で呼吸しながら、聞いていた。


 ついに、主力を出すつもりなのだ。

 なんとかしなければ……


 とは思うものの、しかしもう、瀬野川女子に打つ手は残されていなかった。

 選手の頑張りを、奇跡を信じるしかなかった。


     12

 しゆうめいいんの選手たちが次々と交代ゾーンから出入りし、セットが丸々と入れ代わった。


 関東リーグを制した、主力が投入されたのである。


「また最初の時みたくワイドに開くようにして! アラは上がったらどちらか引いて!」


 むらが、指示を飛ばしている。


「ノリエ、マークが甘くなってる。奈穂さん、なるべく前でキープ!」


 がわ女子のベンチからは、ゆうが立ち、やはり味方に指示を出していた。


 もう疲労の限界でピッチに立つことは難しいが、戦術を任されている身としてやれることはやらなくては。


 優は指を差し、声を出し続けた。

 いつ倒れても不思議のない、苦しそうな表情で。

 しかしその頑張りは、残念ながらピッチの選手たちには届いていなかった。


「リードしているのはうちなんだよ!」

「もうすぐ後半も終盤!」

「あと七分耐え切ればいいだけ!」

「落ち着こう! 落ち着こう!」


 そんな言葉が引っ切りなしに飛び交っている。

 すっかりちぐはぐになった状態を、選手たちは認識しており、どうにかしたいものの、個人はそう思っていてもさりとてチームとしてどうしようもない状態になっているのだ。

 完全に、優が怪我で長期離脱していた頃の状態に戻ってしまっていた。

 連敗に次ぐ連敗を重ねていた、あの頃の状態に。


 だからこそ、一点をリードしているというこの状態を守ろうと、彼女らは泣き出しそうな顔で、必死に走っていた。

 習明院主力の波状攻撃を、身体を張って食い止め続けていた。


「ほやから、前でキープを! このままじゃもたない!」


 優はイラついたように、声を裏返らせ、足を踏み鳴らした。

 選手の一人が前に上がることくらい不可能な状況ではない。精神的に焦るあまり判断力が鈍くなって、視野が狭くなっているのだ。


 すべては心の問題なのだ。

 このまま指示を出し続けていても、なんら事態を好転させることが出来ないのなら、もうやれることは一つしかなかった。


「監督……行かせて下さい」


 優は、しのむらこうぞう監督へ向かって深く頭を下げた。


「無茶だ。もう出すわけにはいかない」


 だが、優はその言葉を無視して、交代ゾーンへと歩き始めた。


「おい、優! やめろ! 無茶だ! おい! 優!」


 篠村監督の必死の叫びに、優は足を止めた。


「他に、勝ち切る方法があれば教えて下さい」


 真剣な眼差しで、尋ねた。


 篠村監督は、言葉に詰まってしまった。

 もとより素人監督である。みんなで頑張ればなんとか失点しないで済むかも知れない。そのような言葉の持ち合わせしかなかったのであろう。


「しかし、優の身体が……」

「うちだけじゃのうて、みんな疲れてます。それにうち、まだこうして倒れず立っています。やれることがあるのになにもしないで負けたら、きっと一生後悔するけえ」

「分かった……」


 監督は優へと歩み寄ると、ぽんと肩を叩き、頭を撫でた。踵を返してベンチへと戻った。


「ノリエ! 優と交代だ!」


 瀬野川女子の、誰もが驚愕していた。

 嬉しいような、不安なような、なんとも複雑な表情を顔に浮かべていた。


 とにかくこうして、試合残り時間あと五分というところで、佐治ケ江優は再びピッチ上に立ったのである。

 ピッチへ足を踏み入れるなり、優はふらりと前のめりに倒れそうになった。

 咄嗟に片足を前に出して、なんとか自分の身体を支えた。


「5番には絶対に気をつけて!」


 木村梨乃の声だ。

 放っておいても倒れてしまいそうに見える優であるが、梨乃はまったく警戒心を解くつもりはないようであった。


 梨乃のその考えは正しかった。

 自重を支えているのも辛そうであった優が、ボールを持った瞬間、奪おうと寄ってきた習明院の選手にフェイントを仕掛けて瞬きする間に抜き去ったのである。


 瀕死の患者のようであった優の見せた技に、瀬野川女子大学、習明院大学、どちらの部員もほぼ全員が呆然としてしまっていた。


 習明院のフィクソだけは、集中力欠如が命取りのポジションだけあって、焦らず冷静に対応しようとしていたが、しかしここでも優は異常なまでの才能を発揮してみせた。


 慣性の法則を無視したような切り返しでフィクソを振り切ると、なんとか追いすがろうとするフィクソの股の下を狙ってラボーナつまり軸足と見せた方の足をすっと交差させてシュートを放ったのである。


 味方選手の股下からいきなり現れたボールに、習明院のゴレイロは反応が遅た。なんとか足を伸ばそうとしてバランスを失い、後ろに倒れてしまった。


 優のシュートは決まらず。ポストに直撃した。


 だがこれは、優の狙いであった。

 ゴレイロのバランスを崩し、無人のゴールを作り出して確実に点を奪うための。


 ポストの跳ね返りに、優は誰よりも早く反応し、詰め寄った。

 そうなるよう狙ったのだから当然である。


 しかし、シュートが放たれることはなかった。

 優はボールまであと一歩というところで、どうと倒れてしまったのである。


 仰向けになって、苦痛に顔を歪め、両手で胸を押さえている。

 起き上がろうと力を込めようとするが、身体はぴくりとも動かなかった。


 審判が笛を吹いて、試合を中断させた。

 会場係員が二人、担架を持って小走りにピッチへと入った。


     13

 係員の一人が、優の両脇に腕を入れ、もう一人が足を持ち、担架へと載せた。

 担架が持ち上げられた。

 これから医務室へと運ばれるのであろう。


 だが係員が歩き出そうとしたその瞬間、優は身体を捻って担架から転がり落ちた。


「大丈夫ですか? もう一回載せますから」


 わざと落ちたなどと思わない係員は、担架を床に下ろすとまた優の両脇に手をかけようとした。


「いえ……続けさせて、下さい」


 優はゆっくり上体を起こすと、弱々しく手を伸ばして担架を押し退けた。


「優! もう出なくていい! 起き上がるな、寝てろ!」


 監督の怒鳴り声。

 しかし優は、胸を押さえ、まるで生まれたばかりの小鹿のように膝をがくがくと震わせながら、ゆっくりと、立ち上がっていた。


「続けさせて、下さい、監督……お願いします!」


 数年前までの優しか知らない者にはとても想像出来ないような、大きな声を張り上げ、深く頭を下げた。


 会場は、静寂に包まれていた。

 瀬野川女子の選手たちも、習明院の選手たちも、すっかり言葉を忘れてしまっていた。


 観客席も。

 緊迫した雰囲気が会場全体に広がって、しんと静まり返っていた。


 二人の審判員が協議した結果、優はこのままピッチに残り、試合は続けられることになった。


 こうして試合が再開されたわけであるが、状況が一転して、どちらが精神的優位に立っているというものではなくなっていた。

 「習明院大学 対 瀕死の佐治ケ江優」という稀に見る異常な構図を前に、全員の気持ちがおかしくなってしまっていたのであろう。


 そうした精神的なことだけでなく物理的な話としても、どちらが優位であるかまったく読めなくなっていた。

 全体としてはやはり個人技としては勝る習明院であるが、肩で息して意識も朦朧といった様子の佐治ケ江優一人に突破や決定的なパスを許しまくって、あわや失点という状況を何度も何度も作られていたのである。


 そしてまた優が、ここにいる全員を驚愕させるような凄まじい技を見せた。

 跳躍しながら自分で蹴り上げ、寸前まで背中にあったはずのボールに対し、空中で身体をくいと捻って強烈なシュートを放ったのだ。

 習明院のゴレイロからすれば、消えたボールがいきなり剛速球で自分のところへ飛んできたように思えたことだろう。

 もしも優にあとほんのわずかでも体力が残っていたならば、このシュートは決まっていただろう。

 現実は、ポスト直撃であった。


 その後も瀬野川女子の攻撃が続いた。

 主将の名倉文子がボール奪取。長里愛に渡り、そしてシュート。


 ゴレイロが弾いた。

 落下するボールへ、優が頭から飛び込んだ。


 ゴレイロと交錯し、優の身体はぐるんと回転して肩から落ちていた。

 仲間が駆け寄ったが、救いの手を待つまでもなく優はよろよろと自力で起き上がり、ボールを追い掛けた。


 凄惨、という言葉が適当であろうか。

 ぼろぼろになりながらも動き続ける優の姿に、会場はしんと静まり返っていた。


 選手たちも会場の作り出すその雰囲気にすっかり飲まれてしまっており、冷静なゲーム運びなど出来なくなっていた。


 混沌としてお互い実力の発揮出来ないゲームになってしまっているのであれば、現実としてこの終盤に一点のリードをしている瀬野川女子が絶対的有利といえたが、しかしここで大きな悲劇が瀬野川女子に起きた。


 さくらしずが習明院のピヴォからボールを奪おうとして、スライディングタックルで転ばせてしまいレッドカード、つまり退場処分を受けたのである。


 しかもペナルティエリア内部のファールであり、瀬野川女子は相手にPKを与えることになってしまったのである。


 転ばされた習明院のピヴォが、自らPKを決め、こうして終盤の終盤というところで試合は振り出しに戻ることになった。


 瀬野川女子大学 2ー2 習明院大学


 しんとしていた会場であるが、習明院の選手の叫び声に、どっと沸いた。

 叩き合い、抱き合い、喜ぶ習明院の選手たち。

 相手の個人技のみに圧倒されながらも、ようやく追いつけたのである。嬉しいのは当然だろう。


 対して瀬野川女子の選手たちは、肩を落とし、そしてばたばたと床に倒れ込んでいった。


「ごめんみんな、本当に、ごめん」


 PKを与えることになった桜木静香が、ぼろぼろ涙をこぼし、頭を下げている。


「仕方ないよ。あのままでも失点確実だったんだから」


 主将の名倉文子が、桜木静香の肩を叩いて慰めている。

 それは戦うためではなく、慰めるために慰めているようであった。


 みな、明らかに落胆していた。

 もう、立ち上がる力もないような、

 もう、試合終了して敗退が決定したかのような、瀬野川女子の部員たちはピッチ内外誰もが終戦ムードになっていた。

 だけど一人だけ、まだ諦めていない者がいた。


「試合、まだ終わっちょらん!」


 優が、足を踏み鳴らして激怒していた。


 その声にみんな驚いていたが、誰よりも驚いているのは優自身であった。

 怒ったその表情が、だんだんと、弱々しくなっていった。


「まだ時間、ある。まだ、同点じゃけえ。一点取れば、勝てるんだから……だから、諦めないで……お願いします!」


 仲間たちに、深く頭を下げた。

 瀬野川女子の部員たちはしばし無言であったが、やがて主将の名倉文子が苦笑しながら優へと近寄り、その肩を撫でるように叩いた。


「……ほやな。まだ、同点じゃ。そう思えば、試合開始直後とおんなじことじゃ。優が開始早々ぱぱっと先制点を取ってくれたけど、そんな感じに優が、いや、優だけじゃなく誰かが点を取れば、絶対に勝てる。だからみんな、やろう! 最後の最後まで! あたしらがリーグ優勝して、この大会に出ていることって、もちろん優の力が大きいけど、でもやっぱり奇跡かも知れない。その奇跡を、みんなの頑張りで、もう一回起こしてやろう!」


 その笑顔が、他の選手たちの間に伝わるのにさして時間はかからなかった。


「そうだね」

「やろう。最後の最後まで!」


 もう、瀬野川女子の中に、悲観に暮れたような顔をしている者など一人もいなかった。

 優の頑張りが、気迫が、弱小と自らを諦めているような選手たちの心を大きく変えたのだ。


 試合が再開された。

 瀬野川女子は点を取るために果敢に攻め、その勢いで強豪校である習明院を完全に飲み込んだ。


 だが、次の一点を取ったのは習明院であった。

 木村梨乃のシュートが決まったのである。


 しかし、瀬野川女子の選手たちに、がくりと崩れるような者は一人もいなかった。


「まだまだ!」

「絶対に一点取って、延長戦で勝とう!」


 と、それぞれに声を張り上げて味方を、そして自らを鼓舞し、恐ろしいまでの気迫で習明院へと向かっていったのである。


 終了間際、瀬野川女子の前掛かりになったところを突かれ、習明院に追加点を決められた。


 瀬野川女子大学 2―4 習明院大学


 まだまだ、と気合の声を張り上げる瀬野川女子の選手たちであったが、ここで長い笛。

 瀬野川女子の敗退を告げる笛の音であった。


     14

 瀬野川女子の選手たちは、笛の音と同時にピッチ上に倒れ込んでいた。

 大の字になって、天井を見上げている。

 みな、ぜいぜいと大きな呼吸をしている。


 悲壮感のかけらも感じられない、精一杯やったんだという満足げな表情であった。

 二点のリードを守り切れずに同点に追い付かれた時には、すっかり顔面蒼白になって泣き出してしまう者もいたというのに、佐治ケ江優の頑張りが彼女らの気持ちを変えたのだ。


 でも一番誇らしげに胸を張ってよいはずの優だけが一人、ボロボロと涙をこぼして泣いていた。


 幼児のように座り込み、拳で床を叩き、しゃくりあげるような声を漏らしながら、ボロボロと涙をこぼしていた。

 優勝する、というとおやまとの約束を果たせなかったからではない。

 負けたことが、ただ悔しかったのだ。


 主将のぐらふみが優へと近寄ると、背中を撫でるように優しく叩いた。


「くよくよしてる暇はないよ。三位決定戦が残ってんだから。さ、まずは挨拶」


 名倉文子は、優の腕を掴んで引っ張り起こした。

 優は、ふらふらと頼りない足取りで、主将と一緒にピッチの中央へと向かった。


 両校の選手は、それぞれ一列で向き合った。

 前へ進み、すれ違いながら、一人一人と挨拶や握手をかわしていく。


 みんなと同じように握手していく優であったが、いきなり心臓がどくんと大きく跳ね上がった。

 木村梨乃と握手をかわす番になったのである。

 優は震える手を差し出した。


「あ、あ」


 唇も震えていて、そんな声が漏れるばかりであった。


「お疲れ」


 木村梨乃は、照れたように微笑を浮かべた。

 優のそのうろたえたような態度に、ただただ苦笑であったのかも知れないが。


 とにかくこうして優は、木村梨乃との長い長い戦いをようやく終えたのである。

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