第一章 新たな生活

 二〇〇七年

 佐治ケ江優 十三歳



     1

「みなさん静粛にィ。それでは、本日からここで暮らすことになる新しい家族を紹介します。ジャジャーーン! ゆうちゃんでえーす! と、余計なのが一人」


 えのもとしんは、ゆうの背後で紙吹雪よろしく両手をひらひらひらひらと振った。


 優の隣にいる「余計なの」であるところの佐治ケ江ふみが、鬱陶しそうな表情で実兄の手をパシリと払いのけた。


「いまどき静粛にとかジャジャーンとか、誰もいわないよ。二十何年かぶりに聞いたわ」


 と小バカにするのはえのもとなえ。信吾の奥さんであり、優のおばである。


「え、そうなの?」


 きょとんとする信吾。


「あたしも。最後に聞いたのもやっぱりここで、やっぱりお兄ちゃんだ。ジャジャーン、みなさま静粛にぃ不肖なんと期末で学年ビリになりましたぞお、とか何故か自慢してんのバッカみたいって思った」


 文江が続いた。

 片や信吾の妻、片や信吾の妹、と血の繋がりのない二人の女性であるが、信吾の言動センスにげんなり辟易する感覚はまるで血を分けた肉親のようであった。彼と一緒に暮らしたことのある者であれば、誰でもそうなるのかも知れない。


 ここは千葉県香取市、香取駅近くの住宅街にある榎本信吾たちの自宅前だ。

 佐治ケ江優は、羽田空港からおじである信吾の車で母とともにたどり着いたばかりである。


 ここは優にとってのおじ、おば、祖母が三人で暮らしている家であり、おじが先ほどいった通り今日からここで佐治ケ江母子が加わることになるのだ。


 家は、作りは古そうだが、しっかりと手入れの行き届いているのを感じさせる広い平屋である。


「久し振り、優ちゃん。五年振りかな。自分の家だと思って楽にしてね」


 おばは、緊張にカチコチ固まっている姪が少しでも楽な気分になれるようにということか、柔らかな笑みを浮かべてみせた。


 なお、今回こちらの家に世話になることとなった経緯であるが、一通りみなには伝えてある。優が酷いいじめを受けたということをだ。そうであればこそ信吾たちから「それならばこっちに来るか?」という話が持ち上がったのだから。


「はい。お世話になります」


 優は緊張の満面に浮かぶギクシャクとした態度で、香苗へと頭を下げた。


「そういういい方ダメ。家族なんだから! 子供が自分の家で暮らすのに、お世話になりますなんていうかぁ? いわなあい!」


 おじが割って入ってダメ出しをした。


「そういわれても……」


 優は困ってしまう。招く側はそれでいいだろうけど、招かれた小心者の気持ちも理解して欲しい。堂々と振る舞えなんて、それむしろ拷問だ。


「こんなとこで立ち話もなんだから、とっとと中に入れてもらっていい? あたしたち長旅で疲れてるんで」


 文江は自分の肩を揉みながら、心底疲れたような気だるそうな表情を浮かべている。


「お前は遠慮なさすぎるんだよ」


 信吾は妹の頭を軽く小突いた。


「だって、自分の家じゃん」


 そう。文江にとって、東京で一人暮らしをするまでずっと住んでいた家だ。やがて結婚し、それから半年ほどで夫である佐治ケ江雅信の転勤により広島に行くことになってしまい、ほとんど千葉へ来ることはなくなってしまったが、それでもやはりここは彼女にとって子供の頃から慣れ親しんだ我が家なのだ。


 そうであればこそ、優は余計に肩身が狭いのである。

 自分一人だけがお客さんという感じで。


「じゃあ、入れよもう。仕方ないな。特別だぞ。あ、優ちゃんは遠慮なくね、自分の家だと思って」


 文江と優は、信吾に促されて中に入った。

 二人はまず最初に、それぞれに割り当てられた部屋を案内された。


 文江には自身が少女時代に使っていて、出ていってからずっと物置になっていた部屋を、優には来客集中などのごく稀な機会に客間として使わることのあった部屋が与えられることになった。


 その後、リビングにて全員が集まって一、二時間ほどもくつろぐと、夕食の時間になった。


 家族の一員としてみなに歓迎された優であるが、特に信吾おじさんが大大大歓迎、大喜びであった。

 夫婦に子供がいないためであるが、いたとしても実の子供以上の可愛がりようではないだろうか、というくらいに。


 優はあまり詳しくは聞いておらずよくは知らないのだが、おじ夫婦が子供を授かろうと不妊治療を相当に努力したらしいことは聞いている。

 不妊の原因がなんなのかなどは分からないが、優は歓迎されればされるほど、色々と考え込んでしまう。


 なにを考えてしまうのかというと、まず一つには子供が出来ないことへの単純な同情心。


 優自身はいくら大人になろうと結婚や出産など経験したくもないが、欲しがる人の気持ちは他人事ながらも理解出来ないものではないので。

 あくまで理屈の上では、であるが。


 もう一つには、自分が夫婦にとって子供代わりなのだというプレッシャー。


 ならばここではない別の場所に住むというのも選択肢の一つではあろうが、広島の家はまだローンが残っているし、単身父を残して母と自分だけそんなことをするだけの余裕もないだろう。だからそんなこと、優としてはとてもいい出すことなど出来ず、ただ両親のすることをそのまま受け入れるしかなかった。


 両親としても、これまでの学校でのいじめによって娘がどれだけ傷ついているのかを考えた上で、絶対的な味方である「家族」の多い家での暮らしを選択したのであろうし。


 優の内向的な性格上、窮屈さは否めなかったが、とにかくこうして新天地である千葉での生活がスタートしたのである。


     2

「イエーイ!」


 えのもとしんは元気に叫びながら、ふみゆうとの間に割って入って両手でブイサイン。


「撮れた? どう? カナちゃん、上手に撮れた?」

「撮れたと思うけど……。それよりなんであんたが一番目立ってんの? 主役はフミちゃんと優ちゃんでしょ」


 渋柿口に含んだような顔のなえである。


「いいじゃんかよ。分かったよ、だったらおれが撮りゃいいでしょ。カナちゃんも入んなよ」


 信吾は妻からデジタルカメラを受け取り構えると、液晶画面を覗きながら優たちから距離をとって構図の調整。


 さきほどからずうっとカチコチ固まったままであった優は、もう限界だとばかりにプハッと大きく息を吸うと、横にいる母にこそっと耳打ちした。

 母、文江は人間拡声器になって、


「お兄ちゃん、写真は恥ずかしいから、もういいってさ!」


 優は、こくこくと頷いた。

 写真撮影など、恥ずかしいし、いじめっ子ばかりの中で身を小さくして精神的に窮屈だった嫌な記憶しかないから。


「分かった。じゃあアイスクリームでも買ってこよう」


 なにがじゃあなのか分からないが、とにかく信吾はそういうと、踵を返して走り出した。


 ここは、千葉県西部にある巨大テーマパークである。

 佐治ケ江親子の千葉での生活が始まって、今日で三日目。平日一日チケットが入手出来たので、信吾の車に乗って四人でやってきたというわけである。


 なお、まだ優は中学校へは一度も登校していない。

 引っ越しの慌ただしさや、学校生活に対しての心の傷などを考慮し、今週一杯は休み、来週月曜日から登校する予定である。


 その前にパーっと遊ぼう、とおじにいわれて断れずにやって来たものの、人混みやそれにともなう喧騒が優にとってはとにかく凄まじく、当然ながらまったく落ち着かない。


 遊園地である以上は落ち着かないのが当然の場所なので、家で落ち着かないことに比べれば遥かに良いのだが。


 そう考えれば、ここへ来てよかったともいえた。

 住居が落ち着かないというのは、ただ拷問でしかないから。

 とにかく精神的に窮屈なのだ。

 実家の時のように一日中サッカーボールを蹴っているわけにもいかないし(やってもおそらく誰からも注意はされないだろうけど)、かといって家事の手伝いをしようとしても断られるし。


 勉強とボール蹴り以外の時間の使い方を知らない優としては、あまりボールを蹴れない以上は、もうひたすらに勉強しているしかなかったから。

 勉強すること自体は苦ではないが、自分の意志ではなく、ひたすら人目を気にしながらというところがとにかく窮屈なのだ。


 お母さんは自分が育った家なものだから自由にくつろげていいだろうけども、その子供だから平気でくつろげるというわけではないのだ。


 みんなが自分のことを気にして、色々と気を使ってくれているのはよく分かる。学校に休みの交渉をしてくれたり、このように遊園地にも連れてきてくれたし。

 本当に有り難いことだと思う。


 でもそうやって気を使われるほど、様々の原因はすべて自分の精神的な弱さであり、それを責められている気がして、どうにも素直に感謝することが出来なかった。


     3

 「いいかゆう、最初が肝心だぞ」

 果たしておじが何十回繰り返した台詞であることか。


 登校初日における、周囲へと示す自らの態度のことである。

 「まさのぶ君やふみから、だいたいの話は聞いている。……よく、いじめられる方にも原因があるなんていう奴もいるが、おじちゃんはそうは思わない。妹もよくいってる。

「確かに、絶対にないとはいえないだろう。普段の行いが返って、自分がいじめられっ子になってしまうとかあるだろう。でもな、現在のいじめはゲームで、確固たる理由なんかないことの方が多いと思うよ。

「単に他人の身になれないという、想像力の異常に欠如した子が多いだけ。子供がいつまでも子供のまま、学習しない、情緒が成長しない、そのくせ悪知恵ばかりが身についてな。

「だから、そのなんだ、とにかくだ、いじめられることになる主な原因は、もう運としかいえないくて、たまたま、そうなるきっかけを本人が作ってしまっただけ。悪いとか、悪くないじゃなくてな。だからとりあえずは、そうなる可能性を減らすためには、とにかく普通にしてりゃあいいんだ。

「あえて目立たなくなろうなんて、そんな努力はしなくていい。普通、普通だぞ普通。登校したら、しょっぱなからガツンと豪快に猛烈な普通をかましてやれ!」


 飽きるほどそんな言葉を熱く語られて、そしてついに登校初日。


 香取第三中学校、二年四組の教室の一番前に佐治ケ江優は立っていた。

 初登校までに充分な期間の余裕があったので、既にこの中学校の制服は仕上がっている。女子制服である、えんじ色のセーラー服に紺のスカートだ。


「それじゃ、名前を書いて、自己紹介して」


 いそむら先生に促されて、優はチョークを手に取って自分の名前を書いた。

 生徒らの方を振り向くと、ゆっくりと口を開いた。


「佐治ケ江優です」


 こそっ、とまるで内緒話でもしているかのような小さな声であった。

 緊張のあまり、自分がどの程度の声の大きさを出しているのかも分からないのだ。分かったところで、なんら変化はなかったかも知れないが。


「あのな、もっと大きな声出せんか」


 二年四組の担任である磯村先生。ずんぐりむっくり体型の、ジャージに竹刀が似合いそうな、ひげそり跡のやたら濃い先生だ。


「黒板の文字で名を知ろうにも、こっちもこっちで小さ過ぎてよく分からんぞ」


 え、と優は振り返った。

 確かに……

 ノートに鉛筆で書くほどではないものの、とにかく小さく、一番前の席の者でも読めないかも知れない。


「あ、あ、あの、ごめんなさい、すぐ書き直します!」


 慌てて黒板消し掴んで書いた文字をガシガシ。

 なんだこれ全然消えない! と思ったら裏表逆だ。


 ひっくり返して今度こそチョークの文字を消すと、気持ち大きな字で書き直して、くるり生徒の方を向くと、すーっと深く息を吸った。


 そして恥ずかしいのをぐっと堪えて、教室中に聞こえるよう大きな声で改めて自分の名を名乗った……つもりであったが、先ほどとほとんど変わらず、教室中どころか真ん中くらいまでも届いていなかった。


「ええ、今日からここでみんなと学ぶ、佐治ケ江優だ。仲良くするように」


 諦めた先生がフォローしてあげて、生徒数人がハハハと失笑して、これにて転校生挨拶終了だ。

 優は、慌てたように頭を下げると、よろしくお願いしますというふうに小さく口を開いた。


 まだ、優の顔には以前に暴力を受けた時の痣が残っている。見るからに、打撲によって出来たものと分かる。


 ぼそぼそ声も手伝って、もしかしたらわけあり転校生と思われたかも知れない。

 だからこそ、挨拶くらい普通にこなして、とにかく目立たないようにと思っていたのに……


 最悪の日であった。


     4

 登校初日から、一週間が過ぎた。

 顔の痣はほとんど消えた。眼科での精密検査も問題ないといわれたし、足の骨折も完全に癒えて、もう走ることへの痛みもない。


 さあこれから中学生活をエンジョイだ! という気分には、まったくならなかったが。


 当然だろう。

 もともとが極度に内向的で、極度に無趣味。そんな彼女が、精神的肉体的に凄まじいショックを受けて、それから逃げるためにこの千葉まで来たのであるから。


 おじは、「普通に」「あえて逃げようとして目立つな」を強調する。でもゆうには、それは無理だった。それが自分にとっての「普通」なのならば、それはそれでいいのではないかとも思う。

 人には色々なタイプがあるわけで、ごくごく一般的な感じの生徒になるなんて自分に出来るはずがない。


 でも初登校からこの一週間、それなりに自分に悪意なく話し掛けてくる者もおり、感触としては悪くない。

 別に誰かと話したり仲良くなりたいということではなく、まだ自分に対しておかしな方向性の興味を向けられてはいないという意味で。


 とにかく目立たぬように目立たぬように自分なりに頑張って頑張り抜いて、何事もなくこの中学を卒業出来ればそれでいい。


 そのためには、人付き合いを極力避けること。

 以前、友人と称して接近してきた者に裏切られたことがある。あれは、身内以外を信用してしまった自分が悪いのだ。もう二度と、あんな目にあうのはごめんだ。


 だから、学校には極力長居しないことが重要であり、部活動への参加などは論外だ。

 授業が終わったら、とにかくまっすぐ帰ろう。


 と思っていたのだけど、以前にいた中学校と違って部活動には必ず参加しなければならない決まりらしいことを聞かされた。


 迷ったあげくに選んだのは、フットサル部であった。

 優は運動が大の苦手で、体育の成績はいつも「2」、稀に「1」もあるくらいであり、だから最初は文化部にしようと考えていたのだが、どうせ嫌々参加しなければならないのならばボールを蹴っていられる部活の方が良いのではないかと思ったのだ。


 どんなに体育の成績が酷かろうとも、サッカーボールを蹴ることならば幼少の頃よりやっていたため、そこそこ上手に出来るだろうし、嫌いではなかったので。


 だが入部してすぐに、その決断が決断などと呼べるものではない単に覚悟のない甘い考えであったことを思い知ることになった。


 フットサルはボールを蹴る競技のはずなのに、練習はボールを蹴るだけではなく様々な体力作りをやらされ、しかもそれが凄まじいまでにハードなのだ。


 他の子、一年生なども普通にこなしているようなので、単に自分の体力がまるでないということなのだろうが、とにかくきつかった。


 練習は基本的に屋内だが、最初に外に出てグラウンドを走る。優はこれだけですっかりバテてしまって、もうボールを蹴るどころではなかった。


 これまで集団での運動などは体育の授業でしかやったことがなく、その他は運動といっても家で一人でボールを蹴るだけであり、体力作りなど一度もしたことがない。そう考えれば当然の結果なのかも知れないが。

 また先天的なスタミナの無さも、多分に影響しているのだろう。


 しかし入部してしまった以上は、とにかく頑張るしかなかった。

 体力をつけ、目立たなくなるしかなかった。

 現在あまりの体力のなさに、悪い意味で目だってしまっているので。


 なお優がやたら気にしている「決して目立たず」という目標における努力の一つに、学校ではなるべく共通語で話すということがあった。

 これまでも両親と喋る時だけはそうしていたことではあるが、それを誰に対しても実践するようになった。


 広島にいた頃はテレビなどほとんど見ることがなかったので、最初はこちらの言葉への違和感が凄かった。だって両親と自分だけが知っていて使っているんだと思っていた特殊な言語を、みんなが喋っているのだから。


 どうしても出てしまうイントネーションの違いを少しでもなくそうと、家でテレビをよく見るようになった。興味のある番組など皆無であったが、単に言葉の勉強のためだけに。


 とにかく「出る杭」の要素をなるべく減らしたかったのだ。それにより未来の安心を掴み、過去の記憶を少しでも消去出来るように。


 とどのつまりは、広島でいじめられている時の優と、やっていることはなにも変わらなかったのである。


 いや、先制防衛への意識がより過剰になっている分だけ、現在の方が酷いともいえるだろう。

 充分に自覚はしており、自己嫌悪に陥ることもしばしであった。

 でも……


 もうあんな目にあうのなんか、嫌なんだ。


     5

「ここでさっきの砂糖、と……あれ、塩は何グラム?」


 ゆうは、隣で包丁を持ち大根を切っている祖母にちらりと視線を向け尋ねた。


「グラムで考えたことないなあ。いつも感覚だから。この分量の卵だと、一つまみと半分。ついでにいっておくと、お弁当なんかに入れる場合は冷えて硬くなるから、一つまみにしないとしょっぱくなる」

「分かった」


 と、塩を一つまみしてみたはいいが、そこで優は自分の手が人一倍小さいことに気がついた。祖母のいう一つまみとは、誰の手を基準とした一つまみなのだろう。

 尋ねてみたけれど、「そんなの感覚」としか返ってこなかった。


 ここは榎本家の台所である。

 優は、祖母に料理を教わっていた。

 卵焼き、肉じゃが、味噌汁など、そのまま今晩のおかずにするものだ。


 母が専業主婦ながら料理が苦手であるため、広島にいた頃は優がよく手伝ったり、まるまるその晩のご飯を担当することも多かった。だから作れといわれれば、大抵のものはレシピを見なくとも作ることは出来る。


 作れる、というだけで、美味しいかどうかは分からない。

 よその家の一般的な家庭料理などよく知らないし、食べたこともないし、だから優は自分の料理の腕がどんなものだかまったく分からなかった。


 この家に世話になることになって、祖母やおばがテキパキと料理をこなす様を見て凄いなと思っていたが、食べてみるとこれがまた美味しい。

 なにか手伝える家事を探していた優であるが、どうせなら料理がいいかなと思い、こうして教えを請うているというわけである。


 家事炊事を手伝うと申し出てもなにも手伝わせてくれないけど、習うということであれば教えて貰えるから。


 料理ならば、そのまま家の食事として出されるわけであり、だから家の手伝いをしているのと同じことだろう。手伝うためだけでなく、自分の勉強にもなるし。いつか広島に一人残っているお父さんに、美味しい料理を食べさせてあげることも出来る。

 などと思ってのことであったが、誰にも本心を明かさなかったため、


「どうして急に、お料理を手伝うなんていい出したの?」


 と、突然祖母に尋ねられることとなった。


「別に急じゃないよ。この間もそういったら、おばあちゃんとおばちゃんだけで間に合っとるから外で遊んでこいゆうて、手伝わせてくれんかったんじゃけ」


 最後の方の部分、共通語でどういえばいいのか咄嗟に口をついて出てこずに、つい地元の言葉が出てしまった。


 なお、お手伝い無用と断られたのは、祖母からだけではない。祖母、おじ、おばの三人、つまり元からの住人全員からである。


 掃除、洗濯どころかコーヒーいれるなど簡単なことすら断られるのだからたまらない。

 この家で暮らし始めてやったことといったら、一緒にお世話になっている母の文江にマッサージをしたくらいだ。


「そうだっけ?」

「ほうじゃ」


 優は仏頂面でフライパンに蓋をすると、タマネギ切りを開始。

 ふと包丁を持つ手をとめて、


「そうだよ」


 いい直した。


「他のみんながなにを考えているのかは知らないけれど、世話になることが心苦しくて、だから手伝う、というのが嫌だってことなんじゃないかな」


 祖母の言葉に、タマネギ切りをしていた優の手がまた止まった。


「おばあちゃんも、そう思っとるってこと?」

「そう感じた。そういうつもりで料理をやっているのなら、もう教えないからね」

「そういうつもり、とは思っとらんけど……分からん。自分の気持ちが……自分がなにを考えているのか」

「でも、慣れてはきた? ここでの生活に」

「正直、まだ遠慮はあるけえ。でも、十三年住んでた家を出て、五年前に会うたきりのおばあちゃんやおばちゃんと暮らすんじゃから、遠慮が出たって当然じゃろ」


 また、刻み始めた。

 ふと、優は違和感を覚え、祖母を見た。


 今度は祖母の方が、作業する腕が止まっていたのだ。

 微笑んでいた。


 それを見て、優の顔は一瞬にして真っ赤になっていた。


「ごめんなさい! なんか、生意気なこといっちゃって。住まわせて貰っているのに。ほんまごめんなさい!」

「いいよいいよ……本音が聞けたからね。……あたしたちも気負いすぎていたかも知れないね。優に早く打ち解けて欲しくて。そんな無理しないでいいよね。お互いね」


 その祖母の微笑みに、優のまぶたからどっと涙がこぼれ、頬を伝い落ちていた。


「タマネギじゃから、これタマネギじゃから」


 聞かれてもいないのに、必死に強がっていた。

 指で涙を拭ったら、指についていたタマネギのエキスに今度こそ本当にやられてしまい、涙が止らなくなった。


 でも、やがて嗚咽の声が漏れはじめたのは、きっとタマネギは関係ないだろう。


     6

「さじがええええっ! だからマークしろってええ! ボケっとしてんなよ!」


 あき部長の怒鳴り声を受け、佐治ケ江優はびくりと肩を震わせた。その声にどんと背中を押されたかのように前によろけ出て、ドリブル突破をはかろうとするぐちあやの前に立った。


 しかし、ただ立っているだけ。

 ドリブルを止めるどころか遅らせることすら出来ず、見るも簡単に抜かれてしまい、慌てて追おうと反転した瞬間に自らの足をもつれさせて転んでしまった。

 どっと下級生たちの笑い声が上がった。


「うちの小学生の妹の方がよっぽど上手だわ。先週始めたばかりだけど」

「パスは何故か全部宇宙開発だしねえ」

「し、聞こえるよ! 先輩なんだから……一応」


 また、下級生みんなの笑い声がどっと上がった。


「なにやってんの、下手くそ! もう、佐治ケ江交代! あとで説教部屋! 津田、入って!」


 野田部長のあからさまに不満げな声。

 実際、不満であったことだろう。


 どんなに下手であろうとも、公式戦ならともかく練習をさせないわけにはいかない。でも、ここまで次元の低い下手が一人いると、練習そのものの質に影響が出るし、下級生への示しもつかなくなってしまうではないか。と。


 せめて頑張っているという態度だけでもきっぱりと見せてくれればまだしも、野田部長にはきっと、必死なのか舐めているのか、優の態度がさっぱり理解不能であったことだろう。


 そんな複雑な感情を背に受けながら、優は元気のない足取りでピッチから出た。


 代わってようが入った。

 彼女はまだ一年生、つまり入部からまだほんの数ヶ月しか経っていない。だが、個人技においても戦術理解度においても非常に優秀で、部長が指示を出すまでもなく存分にピッチ上を躍動し、存在感を示していた。交代させられた者が者であるだけに、その有能さが一段と輝いていた。


「さすが小学生からやってるだけあるな。うちにとって充分過ぎるくらいの即戦力、いやそれ以上だよね。……それに比べて佐治ケ江はあ、いくら途中入部だからって、二年生のくせにだらしなさ過ぎるよ。ちょっと前まで小学生だった子に、走り負けてばかりで、ボールも絶対に競り負ける、というか競ろうともしないしさあ」


 部長はきつい態度を取ってしまったことを反省したのか、途中から少し語気を弱めていったが、優のノミの心臓をグサグサ突き刺すような言葉であることに変わりはなかった。


 いまこの中学校の体育館の一角で行われているのは、フットサル部による紅白戦である。部員を二手に分けての、実戦形式の練習をしているのだ。


「ほんと上達しないねー、サジちゃん」


 ピッチから出た優に、二年生のうめが苦笑しつつ肩を叩いた。

 お節介な性格で、入部したばかりの優に手取り足取り様々なことを教えてくれた親切者であるが、しかしずけずけと内心隠さずものをいうところがあり、優は好きではなかった。陰湿なことをされるよりは、遥かにましであるものの。


「すみません」


 軽く頭を下げた。


「ほらそれ! タメなんだから敬語使うのやめようよ、いい加減さ」

「すみません」


 あ、と優は思ったが、また「すみません」が出てしまうので、もう口は開かなかった。


 母とは幼少の頃より標準語で話していた優であるが、こちらで標準語を使うにあたって、この言葉使いは他人と話すに無礼に当たらないか、などと言葉選びを迷っているうちに、考えなくても済むよう無難に敬語を使うことが多くなり、それがすっかり定着して抜けなくなってしまったのだ。


 方言でならば細かな語彙もしっかり頭に入っていて、相手に合わせた言葉選びも容易であるが、しかしそれはそれで理解してもらえなかったり、されたとしてもバカにされたり、いじめられるかも知れないし、なにより聞き取ってもらえないかも知れない。最近努力しているとはいえ、自分は人一倍声も小さいのだから。

 それよりなにより、方言など使ったら目立ってしまう。


 要するに優は、いじめられないかが心配なのだ。

 世の中、なにが原因でいじめを受けるようになるか分からないのだし。言葉選びだって重要だ。


 千葉で暮らすようになってからもう数ヶ月が経過しているが、現在のところ、いじめといういじめは受けていない。

 部活ではたったいまのように、怒られたり、からかわれたりはするけれど、悪いところを叱られたり欠点をからかわれたりしているのは他の人だって一緒だし、特別に自分だけがということはない。

 いまのところは問題なく過ごせている。


 いまのところは、だ。

 このあとどうなるかなど、分からない。


 分からないけれど、それを不安視するあまり演技でもいいからみんなに溶け込もうなどという考えは、まったくなかった。


 心を許せる存在は、家族だけでいい。

 家以外では、誰とも関わりを持ちたくない。

 透明でいたい。


 でもそうであればこそ、もう少し心も身体も強くなりたいという思いに悩まされていた。

 あまりに体力がないというのも、心臓だけでなく精神的にも辛いからだ。

 体力などなくとも、しっかりした精神力さえあればそれだけで楽になりそうでもあるが、人間、出来ることと出来ないことがある。


 フットサル部に入部して以来、風邪で学校を休んだ一回以外は真面目に練習に参加しているが、ただ先ほど部長に散々と小言をいわれたことから分かる通り、能力への評価は最低ランクだ。


 全部員の中で、いつも一番怒鳴られている。

 当然ながら、試合に出場したことなど一度もない。


 なまじリフティングの技術が素晴らしいだけに、人間を相手にしたプレーの酷さが際だってしまうという面もあった。


 上手なのはリフティングだけではない。個人練習では、パスもシュートも、部員の中で誰よりも精度が高い。


 それなのに練習試合つまり人間相手の勝負になるとまあ酷いもので、出鱈目な方向へパスを出すなど序の口で、反対方向へ攻め上がる、キック空振りで転ぶどころかなにもないところでも転ぶ、ろくに動けていないくせにすぐ息が上がって走れなくなる、やっとシュート決めたと思ったらオウンゴール。


 プレーが酷いどころかふざけているといわれても仕方のないレベルであり、充分過ぎるほどに本人にも自覚はあったが、さりとてどうしようもなかった。


 ふざけてなどいない。

 真面目にやっているのだ。


 でも人間が相手だと、緊張して頭が真っ白になってしまって……

 怒鳴られて我に返り、自分がなにをしてしまったのかを知る。その繰り返しだ。


 単なるパス練習ならなんとかこなせるが、ミニゲームなど試合形式だと相手の敵意や闘志を全身に浴びるため、もうどうしようもなかった。


 どんなに心構えをしていようとも、効果はなかった。

 透明になりたいと常々思っているものの、こうまで酷い方向にばかり目立っていては、なれるはずもなかった。

 ただ部員たちが基本的にはお人好しなので、優のそうした欠点が原因となっていじめや理不尽なしごきなどに発展するようなことはなく、その点では有り難かった。


 だから安心して、というわけではないが、自由練習の時などは、いつも輪から外れて一人でボールを蹴っていた。


 元々、誰かと繋がるというのは苦手どころか大嫌いだし、繋がることで傷つくことだってある。

 自分はそれを、身をもって味わったのだから。


 まだ繋がっているなどとはいいがたい状況ではあったが、しかし恩人と思っていた生徒に裏切られたことに変わりはない。

 その時のことにより、全身のいたるところを骨折する重症を負ったのだが、そんなことよりも心に負った傷の方が遥かに深かった。だって、いまだにまったく癒えていないのだから。


 そう、誰だって傷つきたくなんかないんだ。

 怖い思い、痛い思いなんかしたくないんだ。


 だからなるべく誰とも接点を持たず、一人でいたい。

 それって悪いことかな。

 絶対に、そんなことはないはずだ。

 教育者や評論家で偉そうなことをいう人がいるけど、文句をいうんなら、だったら同じ目にあってみろ。


 優は、なにかにつけてそんな思いを胸の中で繰り返すことが多かった。

 必死に弁解をするかのように。

 誰に文句をいわれたわけでもないというのに。


     7

 そして月日は流れる。


 三年生になり、そして卒業。

 転入から、そのままなにも変わることなく、優の中学生活は終わった。


 過ぎた日々を振り返ってみれば、こちらでの中学生活は優にとって充分に満足出来るものであった。


 部活では毎日怒鳴られていたけど、それも三年の夏休みに引退するまでだったし、教室では透明とまではいかないもののあまり目立たない存在になって、平穏な日々を送ることが出来たからである。


 高校でも頑張るぞ。

 決して目立つことない、いじめられない、平穏な三年間を送るんだ。

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