第二章 佐原南高校

 二〇〇九年

 佐治ケ江優 十五歳



     1

 緊張のあまり全身がそわそわむず痒く、なんとも落ち着かなかった。

 でも、程度の差こそあれ誰だって緊張するに決まっている。

 だって今日は、高校の入学式の日なのだから。


 ゆうは、今日から高校生。千葉県立わらみなみ高等学校へと通うことになった。


 そこは一体、どのような学校なのだろうか。

 入学試験のために一度行っているから、もちろんどこにあってどんな作りの校舎なのかなどは知っているが、そこがどのような校風であり、どのような生徒たちと一緒に勉強することになるのか、そんなこと知るよしもないわけで、疑問や不安を抱くのも当然であろう。


 優にとってとにかく最重要なのが、同じクラスにどのような生徒がいるのかという点であった。

 その一点こそが、自分が空気になり無になり平穏な三年間を過ごせるかということに大きく影響するであろうからだ。


 目立たぬポジション、ほとんど無視される存在、親しまれてもいないがさりとて憎まれてもいない、常に誰かに隠れていて人から見えない、そんな立ち位置をみつけて慣れるのに中学では相当な月日を要した。


 ようやく教室で過ごすことが楽に思えてきて、無駄にドキドキしたり背後の足音に怯えたりしないですむようになってきた、と思った矢先に卒業であった。


 またほとんどゼロの状況から、立ち位置の構築をし直さねばならない。

 構築出来るのかどうか不安ではあるが、でも今回はもう転校生という目につく立場ではないのだし、なんとかなるだろう。


 いやいや、油断は禁物だ。

 話が戻るが、どんな生徒と同じクラスになってしまうか、まったく分からないからだ。

 もしかしたら広島の頃のように、いじめっ子の大勢いるようなクラスかも知れない。

 声が小さい人が嫌い、暗い性格がなんだかムカツク、とか、もしもそんないじめっ子がいたら、もう自分はアウト確定だ。暗黒の一年間、もしくは三年間だ。


 でも、やるしかない。

 とにかく学校へ、行くしかない。


 入学早々に不登校になどなって、一人広島に残って仕事を頑張っているお父さんを悲しませるわけにはいかないし、なにより不登校になどなった日には、目立ってしまうではないか。二度と学校に行かれなくなってしまう。

 平穏平凡な人生を送りたいなら、せめて高校くらい出ておかないと。


 もしも今日登校しなかったら、きっと引きこもりになる。

 実際、引きこもりたくて仕方がない。

 学校なんか行きたくない。

 誰とも会いたくない。


 でも、

 だからこそ、

 歩け。


 学校へ、行くんだ。


 右足を出して、

 そしたら次は左足だ。

 いいぞ。


 右、左。

 頑張れ。

 じゃけえ、坂道が、きつい……


 佐治ケ江優は自分の非力な肉体を叱咤して、ゆっくりとではあるが学校へと続くうねうねとした坂道を上っていた。


 JR成田線佐原駅から学校まで、徒歩三十分。バスも出ているものの、噂に聞いていた通り凄まじく混んでおり、乗りたくともとても乗れるものではなかった。


 普段、交通機関の行列の先頭にならんでいようともポンと弾かれ押し出され乗り損なってしまうことの多い優である。

 入学式、登校初日だというのに阿鼻叫喚凄まじいサバイバルに挑戦する気など毛頭なく、徒歩で登山を最初から選択したのであるが、これもこれで非常に厳しいものがあった。


 でも、体力をつけるのにはいいのかも知れない。

 中学校のフットサル部では、最初のジョギングでへたばってしまって、残りの練習が辛くて辛くて仕方がなかったし。

 だからこれでいいのだ。


 そう強がってみないと、力尽きて倒れて、坂道を転げ落ちてしまう。麓まで転げ落ちたならば、自分の体力では二度と這い上がることは不可能だ。


 でも本当に、ここを毎日上って登校していたら体力がつくかも知れない。

 しっかりと上れば、であるが。


 こんなのろのろふらふらとした歩調で、体力がつくとも思えない。徒歩三十分の道のりといわれているが、三十分どころか一時間かかるかも知れない。


 元の体力のなさが、自分でも本当に嫌になる。

 いや、これはきっと初日だからだ。

 そこまで体力が無くはないと思う。こんなゆっくりなのに、へたばるだなんて。

 きっと精神的な問題なのだ。学校に行くことを、肉体が拒絶しているのだ。


 早く学校に慣れさえすれば、登校に慣れさえすれば、もっと速く歩けるはずだ。四十五分、いや、五十分くらいには、縮められると思う。……五十五分くらいかな。


 学校に慣れるといっても、友達を作るつもりなどは毛頭なかったが。

 仮に作ろうと思ったところで、出来やしないだろうし。


 そんなことこんなことを脳裏に呟きながら、ぜいぜい喘いで必死に坂道を上っていると、後方から絶叫に似た凄まじい声が轟いてきた。


「うおおおおおおおおおっ!」


 ガシャンガシャンというけたたましい音と、その雄叫びとに、優は思わずびくりと肩をすくませていた。

 なにごとかと思い振り返ると、二人乗りの自転車が坂道を上がってくる。


 男子が二人だ。

 漕いでいるのは十八、九といった、高校生でも大学生でも通りそうな私服の男子で、荷台に座っているのは中学生であろうか。


 いや……

 荷台に座っている子の服装、スカートだ。優と同じ、佐原南高校の制服だ。

 スポーツ刈りのような短い髪の毛だけど、でも服装から判断するに女子のようであった。


「気合全開! 行くぞぉ、うおおおおおおおおお! つうかもっと急げよ兄貴!」


 荷台の少年、いや少女の雄叫び。


「急げよじゃねえよ! ったく兄使いの荒い妹だ。おおおおおじゃないよ、なんで楽してる方のお前が声を張り上げてんだよ! お前が遅刻しそうなんだから、お前が漕げよ!」


 兄の方は、ひいはあ呼吸の中で不満をぶちまけつつ、立ち漕ぎでぎっちらぎっちらと坂道を上って、あっけに取られて立ち尽くしている優の方へと近付いてくる。

 そして、優の横を通り過ぎて、坂の上に消えた。


 道路は、嵐が過ぎ去ったかのように、静かになった。


「何年生じゃろ」


 優は珍しく独り言を呟いていた。

 高校では誰とも接点など持ちたくないと思っているが、ああいうあまりに騒々しいのとは、特に係わり合いになりたくなかった。


 ふと腕時計を見て、背筋が凍りついた。

 歩くのに時間を掛けすぎた。

 このままでは遅刻してしまう。


 もう足の疲労は限界を越えていたが、なんとか残る体力を振り絞り、歩調を速めた。


 坂を上り終えると平野が広がり、少し歩いたところに県立佐原南高校がある。

 校舎が見えてきたことにほっとし、ちょっとだけ足を止めて呼吸を整えると、また歩き出す。


 バスから降りてきた生徒たちの群れに加わり、校門へ。

 危ないところであったが、なんとか優は初日からの遅刻を回避することが出来た。


 下手をしたら、初日から目立ってしまうところだった。

 明日からは、もっと余裕を持って家を出るようにしよう。


     2

 一年三組の教室は、実に騒々しかった。

 他の教室も似たようなものではあろうが。


 出身中学を確認して盛り上がったり、中学時代の友達同士が喜んでバカ騒ぎをしていたり、初めて会ったばかりなのにもう友達のように話していたり。


 これからの三年間に楽しみと不安のないまぜになった心境で、それゆえハイテンションになっているのであろうが、ないまぜではなく、ただただ不安のみで心理構成されている生徒も約一人いた。


 ゆうである。

 仮に百パーセントの安心が保証されていようとも、そもそも高校生活を楽しもうなどという気は毛頭なく、従って当然の心理といえばそれまでであったが。


 なお反対に、楽しみという気持ち純度百パーセントで心理構成されているような者も、いるようであった。

 先ほど登校時に見かけた、スポーツ刈りの女子生徒だ。


 どうやら隣のクラスのようであるが、バリバリバリバリと鼓膜を破りそうな勢いの大声がここまで届いてくる。

 声を聞いているだけなので、あの坂道で見た女子生徒だという確証はなにもないが、まあ間違いのないところであろう。


 同じクラスでなくてよかった。

 と、ほっと一安心の優であった。

 あんなのと一緒じゃ、一年間どころか半年ももたないから。


 教室の前の扉が開いて、先生が入って来た。

 ところどろに白髪の混じった、冴えない風体の中年の男性教師だ。


「はい、それじゃあみんな、席につけー」


 生徒たちは蜘蛛の子を散らしたようにざわついて動き出し、自分の名前の貼られた席に着き、そしてしんと静かになった。

 静かになったところで、隣の教室から声が聞こえてきた。


「はい、それじゃあみんな、席につけー」


 同じようなことをいっている。

 声はずっと太く若い感じであるが。


「おい……」


 その、隣の教室の若い先生の声だ。どうやら、誰かに注意をしているみたいだ。


「そしたら間違って中学校まで行っちゃってさあ、つい癖でさあ。たまったま自転車に乗ってた兄貴に会えてよかったあ。普段はクソの役にも立たない兄貴だけどねえ。つうかクソが無駄に長くて迷惑なんだけどねえ、いつもいつもお」


 あのスポーツ刈りの声だ。自転車がどうこういっているし、やはり間違いない。やはりあの子の声だったか。

 無駄にうるさくて迷惑なのはお前だろう、と優は思ったが、もちろん口には出さなかった。


「おい」


 また、その若い先生の呼び掛ける声。想像するに、おそらく先生はスポーツ刈りの背後にぴったりくっついていて「先生後ろにいるぞ」というオーラを送っているのに、でもスポーツ刈りが全然気付いていないのだろう。

 先ほどまで話し相手だった子が「後ろ後ろ」と指を差しているのに、全然気付かずペラペラ喋り続けているのだろう。


 優にはそうした光景が、はっきりと頭に浮かんでいた。


「そしたら兄貴があ、漏れるうとかいっちゃってえいっちゃってえいっちゃってえ!」


 けはははは、とけたたましい笑い声が、こちらの教室にまで轟き渡る。


「うるせえんだよお前! 漏れるうじゃねえ!」


 ゴ、となにか鈍い音が響いた。


「いってえ後ろ頭殴られたあ!」


 こちらまで聞こえるのだから、加減は相当であろう。


「誰だくそ、ああ先生か、おはようございます。つうか入学したての出会ったばかりの可愛い生徒をいきなり殴らないでくださいよ。もおおお」

「おれだって、出会ったばかりの生徒をいきなり殴ったのなんて教師生活で初めてだよ」

「年々忍耐力が落ちてんじゃないのお」

「自分が常軌を逸脱しているだけって可能性を考える想像力はないんか!」

「英語混じりで話されても分かりません!」

「混じってねえよ、一パーセントも混じってねえよ! 素か、ボケか、どっちだコラ!」


 隣の教室だというのに、ぜいぜいという先生の喘ぎ声が優の耳にはっきりと聞こえてきた。


「しょうがないなあ、おとなしく席につきますよ」

「おお、ありがとう。ってそれが当たり前なんだよ。恩着せがましくいうな!」


 そのやりとりに、当の教室からも優のいる教室からも、笑い声が上がっていた。


「はあ、隣のクラスは、えらく賑やかなのがいるようだなあ。大変だ、たかむら先生も」


 と、優の教室の先生が、同情するような安堵するような表情。


 他の生徒たちは、隣の教室にはバカな女子がいる程度にしか思っていないようであったが、優は心底から心配になっていた。

 あの子、目立ちすぎる。あんなに目立つと、いつか絶対いじめられる、と。


 いじめらる可能性を少しでも減らすべく透明な空気になろうと努力している優にとって、目立つとはすなわちいじめられるということなのである。


 やがて優はあのスポーツ刈りの女子生徒によって、自らの価値観の根本を揺さぶられるような、まさに晴天の霹靂ともいえる衝撃を受けることになるのであるが、それはまだまだ先の話であった。


     3

 さて、優たちの教室では担任となるしげふじ先生の簡単な挨拶が終わり、落ち着いたところで生徒たち全員は体育館へと移動した。


 本年度の入学式を行うためだ。


 体育館にはパイプ椅子がぎっしりならべられており、男女それぞれ縦列で座っている。

 隣の列、つまり隣のクラスであるが、くるり振り返ってみるとやはりいた。あのスポーツ刈りの女子生徒が。

 あまりにもうるさいため別に振り返ってみるまでもなかったが、やはり登校時に見た、あの女子生徒であった。


 さすがにこのような場では大声を出すまいと気をつけるくらいの良識はあるようであるが、とにかくそわそわとして落ち着きがない。

 脊髄反射なのか分からないが、なにかにつけて「うおっ!」「あああっ!」「むほお!」などなど、結局のところ大きな声で叫んでしまっている。しんと静かな中で、突発的にそんな声が発生するものだから、むしろ絶えずうるさいよりもタチが悪かった。


 本当に、同じクラスじゃなくて良かった。

 苦手だ、ああいうタイプは。

 もっと乱暴にいっていいなら、嫌いだ。

 近寄りたくない。


 きっと、ああいう世の中自分中心に回っていると勘違いしているようなのが、ちょっと気に入らないと他人をいじめたりするんだ。


 どうしてああいう子って、どこの学校にもいるんだろう。

 本当、迷惑だ。


 そう心の中で呟く優であったが、実は彼女の方こそ勘違い、思い違いをしていた。

 あの女子生徒は、決してどこにでもいるような生徒などではなかったのである。


     4

 玄関を上がったすぐの廊下の隅っこで、ゆうは制服姿のまま、ぴいんと背を伸ばすようにしてうつぶせに倒れていた。


「お、優がそんなギャグかますなんて珍しい」


 そんな優の姿を最初に発見したのは、母のふみであった。

 放心しているところを見られていた恥ずかしさに、優はびくりと身体を震わせ、わたわたと慌てて上体を起こした。


「いや、別にほういうつもりではないんじゃけど」


 そもそも、これのなにがどうギャグなのか。

 単に、通学路の延々続く坂道での肉体疲労や、初めての学校での精神的疲労などが重なり、帰ってきて玄関で靴を脱ごうとしたところ脚をもつれさせて框の角っこにスネをぶつてけて前のめりにぶっ倒れ、そのまま激痛に動けなかっただけだ。


 やがて痛みは引いてきたけれど、疲れが身体の奥から際限なく沸き上がってきて、倦怠感にそのままじっと寝そべっていただけだ。


 慌ただしく起き上がった優は、なんだか疲れたような足取りで自室へ向かった。

 ブラウスやスカートを脱いで壁にかけ、スエットとTシャツに着替えると、サッカー用の二号球を抱えて庭へと出た。

 疲れていようとも日課は日課。

 というより、疲れているからこそ蹴りたかった。


 平たい庭石ならぶ庭の、地面の部分に立つと、身体をあたためほぐすためにストレッチを開始する。

 運動前にストレッチをする習慣がついたのが、中二の秋にフットサル部に入ってからであることと、先天的な体質の問題もあって、少しばかりストレッチなどをやったところで関節はこれっぽっちも軟らかくなどはならなかったが。


 とりあえず身体をあたため終えると、庭に置いておいたボールへたたっと小走りで寄り、右足を軽く振った。

 二号球は微かなな曲線を描いて飛び、地面から一メートルほども突き出した大きな庭石に当たり、高く跳ね上がると綺麗な放物線を描いて戻ってきた。


 それを右腿を上げて、受ける。

 ぽん、と跳ね上げて、落ちてきたところをボレーで蹴った。


 また先ほどの石に当たって大きく弾んで戻ってきたところ、今度は左足で蹴った。


 跳ね返りを今度はまた右足で蹴り、今度はまた左足で蹴り、そして胸トラップ、をした瞬間にくるりと後ろを向いて、落ちてくるボールを踵で蹴り上げた。と、その瞬間に再び前を向き、右足を振り抜きボールを蹴って、また大きな石の寸分変わらぬ個所へと当てた。


 跳ね返りを内腿で受けると、今度はリフティング。

 落としたボールを右足の甲で受け、ちょん、ちょん、ちょん、と左足、右足、左足、右足。

 跳ね上げておでこ。

 そこで十秒ほど止めると、ころり流れるように背中。

 右の踵、左の踵、と交互に小さく蹴り、最後に右の踵で高く蹴り上げた。

 頭上を飛び越え、小さく出した右手のひらに、すとんとボールが落ちてきた。


 息切れ。

 ちょっと休憩だ。

 体力がないものだから、続けるとあっという間にへたばってしまう。


 突然、すぐそばから拍手の音が聞こえてきた。


「相変わらず上手だねえ。お金取れるんじゃない? 大道芸で」


 母、文江であった。


「そんな。たいしたことないよ」


 謙遜ではない。

 優は本気で、自分は誰よりも下だと思っている。

 技のことだけではなく、その存在自体が。

 誰よりも……


 優は、ふと中学時代を思い出していた。

 千葉に来てからの、フットサル部でのことを。

 ミニゲームで、緊張してまともにボールを蹴ることの出来ない自分のことを。

 役立たずと罵られるだけの毎日を。


 そう。緊張しようがしまいが、試合でまともにボールを蹴れないのではまったく意味がないのだ。

 いくら自宅でちょっとくらいリフティングが出来ようとも、試合でボールを扱えないようでは意味がない。

 頭が真っ白になって、周囲がまるで見えなくなるようでは意味が……


 って、あれ……

 心の中に、ふと疑問がわいていた。


 もともと自分は、一人でボールを蹴っていられればそれだけでいい。そう思っていたはず。それならば、こうやって一人でそこそこの技術でボールを蹴ることが出来ているのだから、ならばそれだけで良いではないか。

 試合に出ることになんかまったく興味はない。その思いは現在だって変わっていないのだから。

 でも、それならば何故……


「どうした?」


 母がすぐ眼前にまで接近して、なんとも不思議そうな表情を浮かべていた。


「なんでもない」


 なんだか自分の心と向き合うのが気持ち悪くなって、優は頭を振ってもやもやを振り払った。


「付き合おうか? 球蹴り」


 いうが早いか、文江は優の手からさっとボールを奪っていた。

 ゆっくりと下がって、優との間隔を空けると、ボールを地面に起いて、


「いくよー」


 一歩踏み込み、優へと向けて蹴った……つもりであったのかも知れないが、かなり逸れてしまい、優がかろうじて足を伸ばして、ぎりぎり受けた。

 優は足先で引き寄せながら、爪先でちょんと軽く浮かせ、再度蹴り上げて母へ。

 ボールは地面に落ちた瞬間に軽くバックスピンがかかり、文江の足元でぴたり止まった。


「どうだった? 高校は?」


 文江は蹴り返す。返すというより、適当な方向へと転がしているだけという方が適切な日本語かも知れないが。


「まだ入ったばかりじゃけえね。あ……まだ、入学したばかりだから、分からないよ」

「別に標準語でいい直すことないのに」

「だってきっといじめられるもん」


 優のその口調や唇を尖らせた憮然とした態度に、文江はぷっと吹き出していた。


「あたし、なにか変なこといった?」

「いやあ別にい。……優が、もんなんていうの、初めて聞いたからさ」

「え……」


 優の顔が一瞬にして真っ赤になっていた。


「変? こっちの人って、そういいよらんの? テレビで何度か聞きよったんじゃけど」

「いうよ。若い女の子なら使うと思うけど、でも優の口から出るとは思いもしなかったから」


 と、母は笑い続ける。

 優はすっかり、憮然と混乱のないまぜとなった表情になっていた。


「若い女の子が使いよるって、なら別におかしくないじゃろ?」


 おかしくない子とおかしい子の違いってなんなんだ。自分はおかしいのか。そうならば、どうおかしいのか教えて欲しい。

 言葉使い一つでも、いじめられるいじめられないに密接に関わる場合があるんだ。お母さんにはただ面白いだけかも知れないけれど、こっちにとっては死活問題なんだ。


「いやあその、雰囲気というかなんというかが」

「なに、雰囲気って?」

「よく分かんないんだけど、なんとなく」

「まあええわ、もう」


 いつまでも不満顔をしていても仕方ない。

 母はもともと関東育ち。ずっと住んでいたものでないと分からない、微妙なニュアンスというものがあるのだろう。自分がテレビで、もっとこちらの言葉を勉強すればいいだけだ。


 パス交換再開。

 母の笑いはとっくにおさまっていたが、それでも相変わらず出鱈目な方向にばかり蹴ってしまう。

 ついには、軽く地面を転がすつもりがうっかり強く蹴り上げてしまい、しかも真横へと飛ばし家の壁に思い切り当ててしまった。


「うわ、あぶね。ガラス戸すぐ横」


 文江は幸運に胸をなでおろした。


「あぶないじゃないよ、もう。やっぱりあたし、一人で練習するよ」


 せっかく庭でボールを蹴る許しを得ているというのに、それがダメになるかも知れないところだった。

 外で蹴られるところを探すのも面倒だし、そもそも蹴っているところを誰かに見られるのも嫌だ。


「はーい。おとなしくしてまあす。あたし料理下手だから、おばあちゃんらに夕食の手伝いするのも断られたし暇だから、じゃあ、ここで娘の素晴らしいテクニックでも見てよおっと」


 文江は、縁側にどっしり腰をおろした。


「しょうがないな」


 優は練習を再開した。

 人にただ見られるというのは好きではないし、どちらかといえば苦手だけど、おばあちゃんたちの夕食の手伝いを強行されるよりはよほどましか。

 お母さん、料理が上手とか下手とかといった次元ではなく、砂糖と塩を平気で間違えたり、焦げているのに食べても気付かなかったりするくらいの味覚音痴だからな。


 その後、優はたった一人の見物客の前で、日が暮れるまでボール捌きを披露し続けた。


 家の中に入ると、母と一緒にお風呂に入って汗を流し、出るとちょうど食事の時間。

 食事を終えて小休止、そしてその後は勉強時間だ。


 自室で全教科の教科書をぱらぱらとチェックして、一学期の予習の予定を立てると、まずは英語から取り掛かった。


 数学、世界史とこなし、大きく伸びをした際にふと壁の時計を見ると、もう二十三時。

 トイレを済ませて部屋に戻ると、明かりを消してベッドの布団に潜り込んだ。


 でも、なかなか眠ることが出来なかった。

 心も肉体も、相当に疲労しているはずなのに。


 疲れているが故であろうか。

 今日は高校の入学式だったのだから、当然か。

 精神的にも、肉体的にも、誰だって疲れるだろう。

 おかげで玄関で蹴つまづいたし。


 でも、初日で慣れていないから緊張して疲れたというだけで、今日は記念すべき特別な日でもなんでもない。

 三年間のうちの、一日が過ぎた。

 ただ、それだけだ。


 目立たぬように。

 平穏無事に何事もなく過ごし、卒業が出来るように。

 これから三年間、頑張ろう。


     5

「……です。ガッツだけは先輩たちに負けないと思います。早く戦力になれるよう、精一杯努力しますのでよろしくお願いします!」


 新入部員の一人が元気よく挨拶し、深く頭を下げた。


「よろしくお願いします!」


 周囲から、大きな声が返った。


「はい、次!」


 と指示するのは、三年生のかね部長である。


ながあきです。牧野中出身でテニス部に所属していましたが、小学生の頃には地元の少年団でサッカーをやってました。フットサルは未経験ですが、一生懸命頑張りますのでどうかよろしくお願いします!」

「よろしくお願いします!」

「はい、次!」


 ゆうはずらり横並びの一年生の真ん中で、ふうと小さく息を吐いた。

 自分の気持ちをごまかすため、わざと。

 全然ごまかすことなど、出来やしなかったが。


 心臓、ドキドキドキドキ。

 手からは、汗がダラダラダラダラ。

 頭の中は、なんだか分からないものがグルグルグルグル。


 もうすぐ、挨拶の順番がまわってきてしまう。

 これが緊張しないでいられようか。

 汗ばんだ手を、ぎゅっと握り締めた。


 結局、優が高校で選んだ部活は、またもやフットサル部であった。

 中学の時と同様どこかの部には所属せねばならない決まりだったので、ならば中学で経験しているところの方が勝手が分かっている分まだましだ。という思いからであった。


 自身の体力がないが故にトレーニングは他人の何倍も過酷であると、充分過ぎるほどに分かっていたので、文化部を選ぶべきかどうするか最後の最後まで悩みはしたが。

 でも今回は途中入部ではないし、そういう意味では目立たないのではないだろうか。


 だろうか、ではない、絶対に目立たないようにしなくては。それが最低限度、自分のやるべきことだ。

 平穏な三年間を送るためにも。

 もう、あんな地獄のような日々を送らないためにも。


 目立たないからいじめを受けないというものでもないだろうが、でもそのくらいしか自分に出来ることなどないのだから。

 そう思えばこそ、絶望的なまでの体力の無さが目立たぬように、この春休みだってずっと走り込んできたのだから。


 運動部に入ると決めていたわけでもないのに、そういう可能性もあるというただそれだけのために。


 それよりなによりいま現在は、この挨拶の場をどうやって乗り切るかの方が遥かに重要重大な課題であったが。


「……です! よろしくお願いします!」

「よろしくお願いします!」

「それじゃ次!」


 部長の大声。


 来た!

 来てしまった。

 どうん、と重低音サラウンドの効果音とともに優の胸から心臓が飛び出していた。


 優の、挨拶の順番が回って来たのである。


「あ……」


 軽く一歩前へ出て小さく口を開いたものの、それきりなにも言葉が続かなかった。

 微かながら声を発してはいるのかも知れないが、自分でも分からないし、ましてや自分でも聞き取れない声量のものが他人に聞こえるはずもなかった。


 中学でフットサル部に入った時にも当然挨拶をさせられたが、現在それとまったく同じ状態に陥っていた。


 確かあの時は、見るに見かねた部長が途中で代わって紹介してくれたのだ。

 あの時は途中入部のため、挨拶をするのは自分一人だけであったが、いまは他の一年生と一緒であり、幾分か気も楽なはずなのに。


 いや……中学の時と同じだ。

 だって、いまのこの瞬間に、ここでこうして挨拶させられているのは自分だけなのだから。

 緊張のあまりまるで言葉が出ず、恥ずかしい思いをして震えているのは、この瞬間、自分一人だけなのだから。


「聞こえないよ。ほら、もう一回」


 と、金子部長が手を叩いた。


 それ、色々とこっちの事情を分かっていていっている?

 それとも、単に聞こえないから聞いてるだけ?


 優は真っ白になりながらも、残る理性で自分をごまかすようにそんなことを思っていた。


「……です」


 小さく、ささやくような声を出した。


「ん? まったく聞こえないよ。もう高校生なんだから恥ずかしがってないで、もう一回!」


 そんな金子部長の要求に、優は心の中で叫び声を張り上げていた。


 もう、この部活辞めたい! 声が出ないんだから、仕方がないだろう!

 なんとかこの場をやり過ごせたら、退部届け出そう。

 決めた。

 もう部活なんて入らない。

 どこか入らなければならない決まりだなんて、そんなこと知るか。

 もしも辞めさせてくれないのなら、無断で休み続けてやる。最悪、学校自体を休んでもいい。

 学校を退学したっていい。


 でも、とりあえずこの場をなんとかしなければ。

 恥ずかしいけど、今度こそみんなに聞こえるような大きな声を出してやる。何度も何度もいわされていっこうに解放してもらえないことの方がよほど恥ずかしいから。


 と、大きく息を吸い込み始めたその瞬間であった。

 背後から両の脇腹を、指かなにかで思い切り突かれていた。

 きいっ、と息を吸い込みながら声を上げると、


「佐治ケ江優ですっ!」


 すっかり裏返ってしまっていたが、これまでとは信じられないくらいの大きな声を、優は発していた。


「……しく、お願いします……」


 ぼそぼそ声にすぐ戻ってしまったが。


「まあ、いいでしょ。はい、じゃあ次」


 部長の言葉に、優はほっと安堵のため息をついた。


 いやいや、それよりも誰だわたしの脇腹を突いたのは。

 おかげでびっくりした拍子に大きな声を出すことは出来たけど、やたらみっともない恥ずかしい声になってしまったじゃないか。

 それでからかわれて、いじめられるようになったらどうしてくれるんだ。


 優は険しい表情になって背後を振り向こうとしたが、九十度横を向いたくらいのところで、


「一年二組、やまゆう! 津宮二中出身です!」


 けたたましいまでの大声が優の鼓膜にザクザクと突き刺さり、うわと悲鳴を上げて、大きく肩をすくませた。


 そして、優はその顔を見てさらにびっくりした。

 山野裕子と名乗ったそのけたたましい声の主は、なんとあのスポーツ刈り少女だったのである。

 この場に優たち新入部員と一緒にずっといたはずであるが、優があまりに緊張していたためまったく気が付かなかったのである。


「好きな食べ物はステーキ、将来の夢はアイドル歌手になることです! フリルふりふりの清純派がいいです! 好きなキャラはミッキーマウスとプリキュアの白い方、あとダーティーハリーのハリーキャラハンと、エイリアンに出てたシガニーウィバーがやってるリプリーも好き。だからみなさん、よろしくお願いします!!」


 みんなの鼓膜を一人残さず突き破るかのような凄まじい大声で、フットサルとなんら関係ないことばかりをいってのけると深く頭を下げた。


「佐治ケ江さんってんだ。変わった苗字。確か隣のクラスだよねえ。よろしくねえ」


 山野裕子は、すぐ横にいる優へと笑顔を向けた。


「あ、は、はい、よろしく、お願いします」


 いきなり声をかけられたということと、既に顔を知られ覚えられていたことに、優は焦り、ぺこぺこと頭を下げていた。


「君たち、面白いね」


 先輩の中の、一番背の低い色の黒いのが笑った。後になでしこリーガーとなる、はまむしひさであった。


 何故「たち」で括る!

 わたしは全然面白くなどない。この山野裕子というのと、なんの関係もない!


 優は憤慨すると同時に、救いようのない絶望感に襲われていた。

 山野裕子と同じクラスじゃなくて良かったなんて以前に思ったことがあるが、部活が一緒ではクラスが一緒なのと同じようなものではないか。


 前にも思ったけど、こういうタイプは本当に嫌だ。苦手だ。

 「たち」だなんて、なんだか関わりが出来てしまったみたいで最悪の気分だ。


 近くにいたから脇を突付かれ声をかけられてしまったわけで、だったらもっと端に立っていれば良かった。

 先輩も先輩だ。こんなのと自分をセットにしないで欲しい。

 わたしは、目立たずに、不必要に話し掛けられることのない、決して誰からも注目されることのない、そんな存在になりたいと思っているのに。

 こんな、無駄に目立とうとしているのと一緒にするな。


 脇腹ずんのおかげで偶然に出た大声により、挨拶無間地獄から解放された優であるが、だからといって山野裕子への感謝の念などこれっぽっちもわくことはなかった。


「はい、じゃあ次」


 部長が両手を叩いた。

 先ほどからずっとべったりくっついている、どうやら中学からの友人同士らしい二人組だ。


しのです。みなさんはじめまして、わたしは……」


 山野裕子など目じゃないくらいに、篠亜由美はぺらぺらと舌を動かして、まるでマシンガンのように自己紹介の言葉をまくしたてた。


 優は、ちょっとした興味を覚えていた。


 篠亜由美にではない。

 隣にいる友人に対してである。

 次に挨拶をする予定の篠亜由美の友人と思われる人物が、先ほどからずっと、あまりにも無口だったからだ。


 そう。最初からそこに気をとられていたため、山野裕子の存在に気づかなかったのた。


 先輩たちが来るまでの間、一年生だけで待っていたわけであるが、篠亜由美ら二人はずっと隅に立っていた。篠亜由美が弾倉尽きぬマシンガンのように絶え間なく口を動かし言葉を吐き出しまくっていたのに対して、友人はまるで無視でもしているかのように不機嫌そうな顔でずうっと口を閉ざし続けていた。


 もしも本当に、過剰なまでの無口なのであれば、挨拶せねばならなくなった際には果たしてどのように喋るのか。そうした点に、優としては興味があったのだ。

 決して面白半分などではなく、自分の今後に生かすためにも。


 だが結果は……

 優のまったく予期もしないものであった。

 いや、優だけでなく、誰が予想出来たであろうか。


「はーい、真砂まさごしげでええーす。さっき挨拶していた篠亜由美ちゃんとはあ、相思相愛の親友同士だにゃん。趣味はあ、手芸とかあポエムとかあ、は全然興味なくてえ、スケボーとか、ストリートバスケとか、ストリートダンスとかあ、ボランティアとかあ、おっそろしく無口で無愛想な顔はしているけれども意外と行動派でええす。美人の亜由美ちゃんともどもフットサルを頑張りますので、よろしくお願いしやっす!」


 と、親友同様にマシンガンのようにまくしたてたのは、真砂茂美本人ではなかった。

 篠亜由美が、まるで二人羽織かのように真砂茂美の背後にぴたりとくっついて、腹話術のような奇妙な声色を使っていたのである。


「なんだそりゃあ」

「アホか」


 先輩たちにはその奇妙な様子が受けたようで、みな大笑いであった。

 金子部長は涙を指で拭うと、


「ああ面白かった。はい、じゃ次」


 次じゃないじゃろ!


 優はあまりの納得のいかなさに、思わず大声で怒鳴っていた。胸の奥の奥で、かつてないそれは大きな声で。


 なんだよあれは。

 ずるい……


     6

 びくう、

 とゆうは大きく身体を震わせたかと思うと、目を大きく見開いて、きょろきょろと部屋を見回した。


 意識が落ちかけたのだ。

 自分の頭をポカリと殴ると、気を取り直して机に向かう。

 だが十秒もしないうちに、またとろーんとまぶたが下がってきた。


 眠過ぎる。

 もう限界だ。

 でも、今日は全然ノルマをこなせていない。

 頑張らないと。

 佐原南はそこそこの進学校であり、落ちこぼれたりなどした日には目立ってしまうではないか。


 目を開けようと必死に頑張るが、いつの間にか腰がずるりと落ち、背もたれに肩を預けるように眠ってしまっていた。

 がく、と首が横へとたれたその勢いに身体が引っ張られて、椅子から転げ落ちていた。


「痛い!」


 頭を打ち、首にぐきりと捻られるような衝撃。


 首、やってしまった……

 こんなバカなことで。


 激痛の中、身動きとれず天井を見上げていた。

 床に寝そべったままその激痛がとりあえずおさまるのを待つと、そのまま部屋の真ん中までゴロゴロと回転して、思い切り四肢を伸ばして大の字になった。


 ここは優の自室である。

 最近眠くてあまり自宅での予習復習が出来ず、今日こそはしっかりやるぞと思ったものの、首の筋を違えてしまうというかつてない最悪な事態に陥ってしまった。


 根源はすべて部活だ。

 優はそう思っていた。


 入部してから早一ヶ月半。ボール拾いと基礎トレばっかりであるが、この基礎トレがくせ者なのである。


 中学時と比べて、とにかくハードなのだ。中学の時ですら、この世のものとは思えないくらいにきつかったのに。


 いつまで経っても身体が慣れない。

 疲労が十分の一も回復していない状態で翌日のトレーニングが始まるものだから、毎日が筋肉痛であった。


 日曜日はとにかく身体を動かさないようにして精一杯回復に当てるようにしているが、それだけではとても追い付かない。

 あんなに厳しい練習なのに、何故みんなついていけているのか不思議で仕方ない。


 とくにあの山野裕子とかいうの、あれは化け物か。

 トレーニングが終わったあとも、ふざけて無駄に走り回っているし。さらには、おふざけの度が過ぎて先輩に追いかけられ、罰で走らされたりスクワットやらされたり。だというのに、翌日になれば誰よりも走っているし。

 その体力、せめてその百分の一でも分けて欲しい。


 運動部に入ることになった時のために春休みは毎日走り込みをしたというのに、あんな甘いトレーニングなどなんの足しにもなっていなかった。


 そもそもだ、最初からあんなにハードだと分かっていれば、本気で文化部を選んでいたと思う。

 考えが甘かった。

 呪うべき対象はトレーニングではなく自分の体力である気もするが。


 とにかくもう心身限界だ。

 耐えられない。


 夜にベッドに入ると疲労や節々の痛みがあまりに辛くて目が冴えて眠れないくせに、こうして勉強しようと机に向かっていると眠くて仕方ない。

 ひねくれているのはこの肉体か、それとも性格か。


 瞼を開いているだけでも、凄まじい労力だ。

 もうすぐ初の中間テストであるが、なんだが最悪な結果に終わりそうな気がする。

 もしも留年なんかしたら、きっと目立つだろうな。

 目立つどころじゃない。

 人生最悪だ。

 半ば夢の中で優はそんな心配をしながら、気力を振り絞り、目を覚まそうとしていた、が次の瞬間には床に大の字のまま完全に眠りに落ちてしまっていた。


     7

 終わってみれば、中間テストは学年で四位という誰もが羨むような高成績であった。


 それが分かったからといって自分の体力までが向上するはずもなく、ハードな部活練習に常に労困憊気味であったり、自宅でも意識朦朧で勉強どころではないというのは相変わらずであった。


 今回のテストはただ運が良かっただけであり、期末は下がるのではないか、二学期や三学期は赤点か留年か。優は、そんな戦々恐々の日々を送っていた。


 六月上旬。

 外は雨。

 昨日夕方から、しとしとといつまでも止む気配なく降り続いている。


 ここは体育館の一角。すぐそばでは剣道部の男女が、竹刀を振り回し練習をしている。

 天気にかかわらず普段と同じように練習が出来るのは、室内競技の強みである。


 ただ、グラウンドでのランニングや二十メートルダッシュがなくなるのは優にとっては幸いなのだが、その分だけ筋トレの比重が増えることになり、結局のところどちらがより地獄であるかは微妙なところであった。


 地獄かどうか分からないことといえば他にも一つ、五月から一年生もボールを使ったトレーニングに参加するようになった、という点だ。


 ただボールを蹴っていたくてフットサル部に入ったゆうであり、本来なら喜ばしいはずなのに。


「こら佐治ケ江! サジ! サジロベー! さっきから、なにやってんだよ!」


 三年生の、せりぞの副部長の怒鳴り声だ。

 佐原南を公立高校ながらも将来のフットサル名門校にするんだ、と一番はりきっているので、夢を追う分だけ自分にも下級生にもとにかく厳しい先輩なのである。


「すみません」


 優は相変わらずの小さな声で謝った。

 なにを叱られていたのかというと、相手組の単純なロングパスを、カットに入ったはいいが受けそこねてボールが股下通過、攻め残っていた相手に渡ってしまい、そのまま持ち込まれてゴールを決められてしまった、ということに対してだ。


 今度は三年生のかず先輩が、優へと近寄って声を掛ける。


「普通ね、そこでそんなミスするなんて誰も思わないから、味方がカットの動きに入ってこれは奪えたなって思った瞬間に、みんな攻撃に移っちゃうのよ。瞬間の判断を全員で共有するのがフットサルだから。つまり、そこでそんなまさかのミスをされると、守る人がいなくなって失点しちゃうの。分かる? サジちゃん。素人ならなにもいわないけど、中学二年からやってたんでしょ? 一年以上もやっていたんなら、なにもいわなくても分かるよねえ」


 小田先輩、いつもながら、心配しているのかチクチク嫌味で刺したいだけなのか、よく分からない。


 いっていることは分かるけど、そんないい方をしなくてもいいのに。と優は思う。

 内心は自分のことを心配して注意してくれているのかも知れないけど。でも、芹園副部長のようにただ厳しく叱ってくるだけの方がよほどましだ。はいすみません、ですむからだ。小田先輩と違って「なにがすみませんなの?」などと聞いてこないからだ。


「はい、気をつけます。すみませんでした」


 なのにまた、すみませんが口をついて出てしまった。

 心ない謝罪の言葉が。

 「自分はまたやってしまうだろう」と、よく分かっているから、いくら注意されようとも心の中では開き直っていた。

 だって、当たり前だ。練習で叱られる原因のすべては、緊張で頭が真っ白になってしまうというところから来ているのだから。戦術的セオリー的なところを説明されたって、それはまた別の話だ。


 緊張しなければよいわけだが、自分の心を自在にコントロール出来るくらいならこんなことにはなっていない。

 びくびくするな、とか、精神面を先輩方はあれこれと指摘してくるのだけど、正直、改善は無理だ。

 放っておいて欲しい。

 これが、自分なのだから。


 人も集まれば色々で、緊張とはまるで無縁な者もいるようであるが。


「裕子! お前、そこで簡単に前に出るなよ。読まれて危ないとこだったろ。相手がミスしたからよかったけどさあ」


 相手側チームのはまむしひさが、山野裕子に動き出しについての注意をしている。

 なお、ミスした相手というのは優のことである。


「なんでですか? あたしピヴォ(サッカーでいうところのフォワード)っていわれてんのに」


 山野裕子は、あからさまな不満を顔に出した。

 不満に比例してか、アゴも思い切り前に突き出ており、その顔にイラついたらしい久樹にアゴをがっしと掴まれた。


「だからポストプレーでちょっと下がったろ、そこまではいいんだよ。で、その後に自分が前へ受けに出るのもいいんだけど、単に上がるんじゃなくて、タイミングを上手に取れば一気にチャンスになるの。逆にいうと、正直だと対応されちゃうの! ピヴォだからとにかく前に行っときゃあいい、じゃあダメなの! せっかく流れから下がることになったんなら、それを生かさないと」

「あああああああっ、意味分かんねええ! 前にいなくってもいいんならアラをやれっていって下さいよ」

「そこからか、お前はそこからか? 男みたいな髪型してっから脳味噌が筋肉か?」


 久樹は、裕子の短く逆立ったつんつん頭をごしごし擦った。


「男みたいな髪型なんじゃなくて、これは女のための短髪なんですううう」

「そんな短髪は存在しませえん」


 おんなじような口調でいい返す久樹。


「ここに存在してまあす。山野裕子という立派な短髪の美女が、ここに存在してまあす」

「違いまあす、ここにいるのは男でえす」

「いったなオラァ! 妙ちくりんな苗字しやがって! なにがハマムシだよ!」

「下の名前を男みたいだっていうならいいけど、苗字をバカにすんな! 父ちゃん母ちゃん同じ苗字なんだぞ!」

「母ちゃんデーベソッ! 母ちゃんデーベソッ!」

「このおとこおんなあ!」


 二人はお互いさっと手を伸ばして、胸倉を掴み合っていた。


「もうやめな! どうせならフットサルのことで喧嘩しなよ、二人ともさあ」


 二年生のむらが、二人の間に割って入った。


 仲が良いほど喧嘩する、という言葉が真実なのであれば、山野裕子は浜虫久樹先輩と大の仲良しのようであった。

 入部から既に二ヶ月も経っており、裕子に限らずほとんどの一年生は同期とも上級生とも打ち解けて仲良くなってはいたが。


 そんな中にあって、部にまるで溶け込むことなく完全に浮いている者が一人いた。

 それが自分、佐治ケ江優である。


 単に無口な一年生というだけであれば、自分以外にもいる。

 真砂まさごしげと、たけあきらだ。


 特に真砂茂美は、優の程度が可愛いく思えるくらいの、どんな声なのか誰も知らないくらいの無口である。

 しかし、いつも一緒にいる中学からの親友であるしのが人の十倍は喋るし通訳のような存在にもなっているし、茂美自身無口ながらも積極的な性格ではあり、なんだかんだと部にはしっかり溶け込んでいた。


 武田晶にしても、喋れば声は小さくないし、練習時の掛け声もしっかり出しているし、山野裕子とはよく漫才のような掛け合いもしているし、こちらもしっかりと部に溶け込んでいるといえた。


 なのでやはり、一番浮いているのは自分なのだ。


 でも他人は他人、自分は自分だ。

 優には、みんなの中に溶け込もうという気はまるでなかった。


 そう出来たらいいななどとも思わないし、仮に願ったところで能力的にも無理であろう。


 普通が良い、目立ちたくない、と常々思っているくせに、輪に入ろうとすることを拒絶するが故にすっかりと浮いた存在になっていることを、自覚はしていた。


 だからといって自ら輪の中に飛び込むなど、苦痛以外のなにものでもない。

 そこまでの努力をしなければ送れない高校生活だというのなら、そんな生活はいらない。

 学校なんか辞めてやる。

 高校を出なくたって生きていかれるだろうし、どうしても出なければならないというのなら通信制だのなんだの卒業資格を取る方法などいくらでもあるだろうし。


 浮かないためにに頑張って自らを作り変えて、みんなの中に割って入って、一生懸命に話を合わせて、面白くもないのに笑って、などという人間がクラスにもいる。

 たかが学校生活で、たかが部活で、そんな死に物狂いの努力をしてまで自分は一人じゃないことの確認をしなければならないものなのか。

 正直、バカじゃないかと思う。


 目立ちたくない、いつもひっそりと透明でいたい、その思いは優の本心であるが、だからといって絶対に譲れないところが人間にはあるのだ。

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