第一章 生まれてみただけ
一九九四年 ~ 一九九九年
佐治ケ江優 〇歳 ~ 五歳
1
一九九四年三月十七日、広島県
性別は女の子であり、
思いやりのある優しい子になるように、そして、優れた子になるようにというちょっとした親の欲も込めて。
夫妻は、男女どちらが産まれていたとしてもこの名前にするつもりであった。
妊娠期間が短かったため多少未熟ではあったが、元気よく泣き、乳を求めるなど健康。ただ、二ヶ月、三ヶ月、四ヶ月と経ってもまるで笑顔を見せる兆しがないのが、両親としては気になるところであった。
雅信の両親は自閉症など脳機能の障害を心配し、しきりに検査をすすめてきたが、優は時として激しく甘え、激しく泣いたため、雅信も文江も、特に深くは気にせずに放っておいた。
そんなことよりも、ようやくにして授かったかけがえのない我が子へと訪れるであろう未来に対し二人とも、希望、愛情、幸福に溢れた人生、そして素敵な伴侶との出会い、孫、と、そんな明るい夢をなんの疑いもなく抱いていた。
2
一九九八年四月。
四歳からの、二年保育だ。
最近は三年保育が主流になりつつあるというし、そうなのであれば途中入園では友達が作りにくくなるかも知れない。
そのような理由により当初は三年保育で入園させる予定であったのだが、優の甘えや家族依存があまりに酷く、外へも出たがらず、でも一人でしっかりと机に着いて勉強もする子だったので、嫌がるのを強制させるよりはと二年保育を選んだのである。
入園してから最初の数ヶ月は、特に問題はなかった。
と、両親は思っていた。家庭には、なにも知らされなかったからだ。
五月の父兄付き添いの遠足では、それこそ優はずっと母親にべったりであったため、
生後間もなくの頃のように、娘がちょっとおかしいのではと改めて問題になったのは、入園から三ヶ月が経過した、夏休みも直前のある日のことだった。
ちょうどその時、佐治ケ江文江は各部屋の隅々にまで掃除機をかけて回っているところだった。
優を妊娠して派遣会社を退職するまでは、いつも土曜をこうした清掃日と決めていたのだが、ずっと家にいるようになってからは毎水曜をその日に当てている。土日は家族とゆったり過ごす時間に当てたいからだ。
そんな普段通りの水曜日、ちょうど正午のこと、玄関の呼び出しチャイムが鳴った。
水曜の正午といえば優が帰ってくる時間であるが、でもそうならば自分一人でドアの錠を開けて、入ってくるはずなのに……
「はい」
誰だろうかと思いつつ文江が出てみると、立っていたのは幼稚園さくら組担任の
まだ二十代前半の、ちょっと愛嬌のある顔立ちをしている小太りの女性だ。
相対的にすっかり小さくて目立たないが、優も一緒だ。二人は手を繋いでいる。
「優、おかえり。ちはる先生、どうされたんですか?」
文江は尋ねた。
「ちょっと、優ちゃんのことで、ご相談がありまして」
山岡先生は、当たり障りのない笑顔を作りながらも、ちょっと恐縮したような、ちょっと困ったような、そんな表情を浮かべていた。
文江は、優を二階の自室へ行くよう促すと、先生をリビングに通し、コーヒーを出した。
「それで先生、相談というのは」
常識的に考えてこのような突然の訪問が、良い意味のものであるはずがない。
ならばとっとと話して欲しかったが、聞くのが怖くもあった。
「はい、優ちゃんのですね……性格、というか、まあ、幼稚園での態度についてなんですが」
山岡先生は、なんともいいにくそうに話し始めた。
文江の心臓は、ドキンと高鳴っていた。
動揺していた。
でも、ついに来たかと妙に落ち着いている自分もいた。
「まったく笑わない子なんですよね、優は。感情を見せないんです。特に喜び、楽しさといった感情を」
落ち着いている方の自分が、先制パンチというより防衛反応的にそんな言葉を吐き出していた。
「はい。まあそれは性格でしょうし、いいと思うんですよ」
山岡先生は、ハンカチを取り出すと額の汗を拭った。
「他に、優の性格にどういうことが?」
「あとは、協調性に欠けるというか……でも、それもそれぞれの個性ですし、まだ園児なので、とりあえずはいいと思うんですよ。一人でおとなしく、いわれたことをしていますしね。優ちゃんは、本当にいい子なんです」
「はい……」
文江は、受け答えに困ってしまった。
だってそうだろう。問題点を挙げるだけ挙げておきながら、すべて「それは個性なので構わない」では。
おそらく、肝心なことをなかなか切り出せないでいるだけなのだろう。
文江には、山岡先生がなにをいわんとしているのか、なんとなく分かっていた。困っているような表情や、そわそわした態度からも。
「それでは、先生は優をどうすればいいと思いますか? ちはる先生だけでなく、幼稚園としては、どう考えているんですか?」
なんのための訪問であるのか、もうおおよその見当はついていたが、文江は自分からすべてはいわずに、先生から答えさせるような質問の仕方をした。
そう促されると、先生の次の言葉は早かった。むしろ早過ぎるくらいだった。
「検査、受けてみませんか?」
「検査?」
はっきりと文江の耳に聞き取れてはいたが、でも聞き返していた。
「はい」
山岡先生は頷いた。
文江は、ごくりとつばを飲んだ。
優の態度について、精神異常がないか専門医の検査を受けろ、と、先生はそういったのであろう。
他人からも、ついにその点について踏み込まれ、指摘を受けてしまったわけであるが、でも、さほどショックは感じなかった。
ただ、なんだかいいようのないどろどろした思いが、胸中にじわじわ広がっていくのを感じていた。
お前は欠陥品を生んだんだ。
誰からもいわれたことなどないというのに、そんなことを考えてしまっていた。
このように考えてしまうこと自体が、優や、自分自身をも侮蔑する最低な行為であるというのに。と、ぐるぐる回って出口のない、自己嫌悪のループ。
そんな文江の気持ちを知ってか知らずか、伝えにくいことをいったん切り出した山岡先生は、タガが外れたようにぺらぺらと喋り続けた。
「幼稚園には、園長たちには、まだなにもいっていません。わたし個人の判断です。余計なことじゃろかとは思ったんですけど。でも、勘違いなさらないで下さいね。
「優ちゃんね、ほんとにほんとに、すごく良い子なんです。ただ……やはりその、笑顔を作ることが出来ないという点と、あと、わたし毎日観察していますけど、優ちゃん、人の輪に入り込めず、その……嫌だから入らないとかではなく、他人がなにを考えているのか分からず、どう溶け込めばいいのか分からず、それで困っているように見えるんです。わたし、先ほど協調性がないといいましたけど、正しくはこういうことなんです。
「中に入れ、といわれれば、素直に入ってはくれるんですが、いまが入らなくてはならない時なのかどうか、そういう空気を読む力に欠けるというか。
「もしも……優ちゃんになにかしらの障害があるのであれば、それも尊重すべき個性の範囲かも知れませんが、でも結局のところ本人が辛いわけで、決め付けはよくないですが、一般的には。でも障害と分かってさえいれば、周囲がどうするか、本人をどう教育してあげるか、それによって本人を楽にしてあげることが出来るんです。場合によってはそういう施設だってありますし。あ、その、そういうところに行けということではなく、わたしがいいたいのはですね、ええと……」
そんなとめどもなく溢れ続ける言葉を聞きながェら、文江は心の中でため息をついていた。少し悲しい気持ちになっていた。
山岡先生が、こちらを傷つけないように言葉を選んで一生懸命に語るほど、お前は欠陥商品を作り出した欠陥人間なのだと責められているような気がしてしまって。
3
三原市郷山総合病院精心療内科。
狭い診察室の中で、初老の医師が机に置かれているパソコンを操作している。コンピュータ操作に不慣れな、ぎこちない手つきでマウスを動かしては、叩くような勢いでボタンを押している。
導入してそれほど経っていないと思われる、綺麗な外観のデスクトップパソコンだ。
いまなにかとテレビや雑誌で騒がれている、ウインドウズ95の動いているパソコンのようだ。廃棄予定であるのか机の横には、すっかりくたびれてベージュから茶に変色したPC98が置かれている。
ドアの近くには三つの椅子が並んでおり、両端には
優はとても四歳とは思えないほどに落ち着いて、じっとおとなしくしており、足をバタつかせるなど子供っぽい仕草が微塵も見られない。この空気に畏縮しているのかやや上目遣いになってはいるが、これは子供っぽさとはまた無関係の問題であろう。
本日この病院へ訪れた理由であるが、他でもない、幼稚園の担任である山岡ちはる先生にすすめられて、優についての相談に来たのだ。
山岡先生はくどいまでに「別に優ちゃんを病気と思っているわけではありませんが」「単なる個性とは思いますが」などの言葉を繰り返してはいたが。
きっと、彼女は親切でお節介な性分なのだろう。
だって、協調性に欠け笑顔を見せること皆無とはいえ、優は非常におとなしく、いうことも聞き、先生としては手がかからない子供であるということなのだから。
つまり山岡先生は、本心から優のことが心配であるからこそ、家庭を訪問し、恐縮しながらも強く検査をすすめてきたのだ。余計な首を突っ込んできたのだ。
だから、そんな山岡先生の善意を立てる意味もあり、文江は夫と相談し、こうして三人で病院へとやって来たのである。
……そうした理屈付けでもしなければ、とても優をこうした科に連れて来ることなど出来やしなかったであろうし。
ただ、とりあえず訪れてはみたものの、文江はどんどんと、ここの空気が、たまらなく嫌になってきていた。
この空間に一秒でも長くいればいるほど、優を、すなわち自分を否定されそうで。正確には、ここの空気というよりは完全に自分の心だけの問題なのであろうが。
「まあ、精密検査を受けてみた方がいいでしょうねえ」
医師の言葉は、そんな文江の気持ちに追い打ちをかけるものであった。
「精密検査、ですか。それは、どんなものですか?」
夫であり優の父である、雅信が尋ねた。
「ええとね、まあ痛みを伴うようなものではまったくないです。まずは、幼児にはあまりやりたくないですけれどCTとMRI。脳を見るんだからしょうがない。それと血液検査に、ああ、これはチクッとしますか。あとは、簡単なテストですね。まあこっちがメインといいますか。記憶力、判断力、決断力、図形認識、空間認識、それから……」
医師が検査の概要について話しているのを、雅信はふむふむと真面目に聞いている。検査に乗り気なのだろうか。
文江は、ますますやり切れなさ、居場所のなさを感じていた。
と、その時であった。
「だいたい分かりました。でも、せっかくですけどお断りします。この子は、まともなんで」
雅信は医師の話を途中で遮ると、すっと立ち上がっていた。
「優、文江、行こうか。先生、相談に乗っていただき、どうもありがとうございました。色々と聞かせて頂いて、おかげですっきりしました」
優の小さな手を引っ張って立ち上がらせると、雅信は医師へ小さくお辞儀をした。
文江は呆気にとられていたが、慌てたように立ち上がると優のもう片方の手を掴んだ。
「ありがとうございました」
医師へと頭を下げる文江。
その口元には、わずかではあるが笑みが浮かんでいた。
何故かは、自分でも分かっている。
夫が自分と同じ考えの方向性であることが、嬉しかったのだ。
自分が自分の感情と常識や世間体とを戦わせてうじうじ悩んでいたことを、すっぱりとはねつけてくれたことが、嬉しかったのだ。
もしかしたら単に夫は、色々と気に病んでいる自分に気を使ってくれただけのことかも知れないが。
「しかしですよ、軽度なアスペルガーかも知れないんでね。本人のためにも、そういうこと早いうちから分かっておいた方がいい。可能性は充分にあるんですから。軽度どころじゃないかも知れない。素人に判断なんか出来ますか?」
尊厳を傷つけられたのだろうか。
出来れば検査をした方がいい、初めはその程度のいい方であったくせに、このように拒否された途端に医師は語気を荒らげ態度を強くした。
文江は、ちょっと頭に来てしまっていた。
まだ幼児とはいえ本人のいるところで、アスペルガーがどうとかいうものではないだろう。いや、幼児であればこそ、いってはいけないことだろう。
「なにがあろうと、優は優ですから」
雅信はそういって二人を連れ廊下に出ると、診察室の扉を閉めた。
医師はそれ以上引き止めるつもりはないようで、書類を机に叩き付ける音がするだけで、特に通路へ飛び出して来るようなことはなかった。
なにがあろうと優は優。
文江は、夫が発したばかりのその言葉を、胸に噛み締めていた。
確かにその通りだ。
それにこの時代、なんだって病気に結び付けられるではないか。昔は単なるおっちょこちょいで済んでいた程度のものが、現在では注意欠陥性障害と診断されるなど。
まだ胸のもやもやが完全に晴れたわけではないものの、夫にいいたいことをいって貰って、ちょっとすっきりとした気分になっていた。
改めて、この人と結婚してよかったと思えていた。
「マー君、有給休暇取らせちゃってごめんね」
「いいんだよ。取りにくい職場で余りまくっちゃってるから、ちょうどよかった。でも、優には変なのに付き合わせちゃって申し訳なかったかな。お詫びになにか、美味しいものでも食べに行こうか」
雅信は幼い娘の頭に手を置くと、そっと撫でた。
4
八月の、蒸し暑くはあったがすっきりと晴れた、夏のある日のことであった。
「こんにちはあ」
と、佐治ケ江家を齢三十くらいの男性が訪れ大声を上げ、ドンドンと強くドアをノックしたのは。
まあこのようなまわりくどいいい回しなどせずとも、彼は頻繁にここを訪れているのだが。
そして毎度毎度、このように呼び鈴も押さずにノックに大声を張り上げているわけだが。
「やだもう、お兄ちゃん、連絡くれれば迎えに行ったのに」
閑静な住宅街での近所迷惑を気にして慌てて玄関へと出た
「いやいや、我が妹君にそのような従者のごとき真似をさせては申し訳ない。まあバス停から、そんな時間もかからないんだし……走ればね」
そんなことはない。この家とバス停との間は、大人の足でも徒歩二十五分はある。
走ってもそれなりにかかるだろうし、そもそも大きなスーツケースに背広姿だというのにまともに走れるわけがない。
近所の人たちの大半が自動車による送り迎えを受けて直接駅へと行き来しているくらいだというのに、兄はいつもバス停から徒歩で来てしまうのだ。
しかも、いきなり訪れてびっくりさせたいという、ただそれだけの理由で。
妹が呆れるのも無理はない。
兄、
「おおーっ、随分と大きくなったなあ、優。こんにちは」
信吾は嬉しそうに両手を広げた。三週間前に会ったばかりの四歳の子供が、そう実感出来るほどに成長するはずもないのだが。
「こんにちは」
と返したものかは分からないが、とにかく優はかすかに口を動かすと、床の上を音も立てず信吾へと飛び込んだ。
信吾は姪を両手に抱くと、頭を撫でてやった。
「優は本当に千葉のおじちゃんが好きだからねえ」
文江は笑った。
千葉県に住んでいる信吾は、優が生まれる前までは佐治ケ江夫婦にとって「お兄ちゃん」「お義兄さん」であったが、生まれてからはもっぱらこのように「千葉のおじちゃん」と呼ばれている。
千葉のおじちゃんは時折、出張などがあるとこうして唐突に妹の家へと訪ねて来る。
千葉のおじちゃんは、優が心を開いている稀少な存在だ。優の人見知りぶりは、それは凄まじいもので、隣県に住んでいてよく顔を合わせることのある父方の祖父母と会う時すら、隠れてしまってなかなか姿を見せようとしないのだから。
千葉のおじちゃんは、結婚してからもう十年以上経つが、まだ子供はいない。だから、優がおじちゃんを好きなように、おじちゃんにとっても、妹の子である優はことさらに可愛いようである。
最初は、結婚してすぐに東京から広島に行くことになってしまった妹が淋しがっているのではないか、そんな兄としての思いやりから頻繁に妹の家を訪問していたのだが、現在では、姪になつかれる嬉しさが主な理由になっているようだ。
むしろ、優が生まれる前よりも訪問頻度は増しているのではないだろうか。サラリーマンの身であるからして、広島への出張を自分の意思だけで決められるものではないとはいえ。
今回の出張、商談は午前だけで滞りなく終了しており、午後は暇で、広島観光をして帰るだけ。と信吾は文江に話した。
でもその広島観光も、すっかり飽きてしまっているため、ここ最近のいつもの通り、
妹の入れたコーヒーで一息ついた信吾は、優をつれ、名所めぐりの代わりに近所の散策へと出た。
5
二人は手を繋いで、単なる住宅街をぷらぷらと宛てもなく歩いている。
といっても、だいたいいつも同じようなコースになってしまうのだが。
ここは高台にあり、所々、眼下に広がる海を坂道などの向こうに眺めることが出来た。住人が誇らしげに語るような見事な景観であったが、
やっぱりいつも通りとなった道のりを、二人はさらにぷらりぷらりと歩いて行く。
おじさんになついているとはいっても、優はひたすら無口であった。
無口ではあったが、なついていた。
人にほとんど心を開かないからこそ、開く人にはとことん開いてしまうのかも知れない。
優は不意に足を止めた。手を繋いでいた信吾も、必然的にその足を止めることになった。
児童公園で、六、七人ほどの子供たちが、サッカーボールを蹴って遊んでいる。
優は、それをじっと見ていた。
なんだか、羨ましそうな表情で。
実際、優は羨ましかったのだ。
興じることが出来るものが、なにか一つでもあるということが。
いや、正確には、ちょっと違う。
別に、なにかに興じたいわけでもない。
そういう感覚が、そもそも自分にはない。
でも、だからこそ、味わってみたかった。
みんなでなにかをすることには興味はないし、誰かと一緒だなんて怖いから嫌だけど、興じられることに興じるという気持ちをただ純粋に味わってみたかった。
まるで理解出来ないからこそ。
本当に、ただボールを追って蹴っているだけなのに、みんななんであんなに楽しそうに笑っているのだろう。
ぼーっと立ち尽くしながら、優は公園で遊ぶ子供たちの姿を眺めていた。
「優はサッカーやりたいのか?」
「やりたくない」
姪はそう即答したつもりであったが、口の開け方も声の大きさも小さ過ぎて、言葉になっていないどころかなんの音すら発していなかったようで、
「そっか、じゃあ買いに行こうか」
と、勝手な解釈をされ、バスに乗って駅前繁華街へ行くことになり、そこでサッカーボールを買ってもらったのであった。
まだ幼いためか、記念のサインボールに使われるような、小さな二号球を。
買ってもらったはいいが、これはまともにサッカーをやるためには幼児にも小さ過ぎた。大人なら手で掴むことも容易な、野球だって出来そうな、そんな程度の大きさしかないのだから。
しかし遥かな未来からこの時を振り返ってみれば、二号球を手に入れたこの日こそが、後にフットサル日本代表にまで上り詰め世界の強豪と戦いを繰り広げることになる佐治ケ江優という選手を作るスタート地点だったのである。
予知能力など持ち合わせない二人は、そんな未来が待っていることなど知ろうはずもなく、いつも通り駅前から仲良くバスに乗って帰ってきた。
先ほどの子供たちがいたのとは別の、誰もいない小さな児童公園で、さっそく買ったばかりのボールを蹴ってみることになった。
信吾と優は、三メートルほどの距離を向かい合った。
「行くぞー」
と、信吾は右足の内側で軽くボールを蹴った。
待ち構え、思い切り右足を振る優であったが、蹴りそこない、バランスを崩して後ろに転んでしまった。
起き上がり、再度蹴ろうとしたところ、今度はボールに乗っかってしまい、ころり、宙を舞ったかと思うと次の瞬間には背中を地面に打ち付けていた。
「やっぱり……小さ過ぎたかな、ボール。ごめんな。でも小さいボールはな、コントロールの練習にいいんだぞ。ボールを自分の物にするために最適なんだ。これに慣れておくと、いざ大きなボールに触れた時に、楽々と扱えるようになるんだ。だからおじちゃんも、才能なんかないのに大学時代はレギュラーだったよ」
そういうと千葉のおじちゃんは、爪先でボールを引いた、と、次の瞬間にはその爪先で蹴り上げていた。
落ちてくるボールを今度は腿で蹴り上げ額で止め、ぽんと跳ね上げて、また爪先で受け、そこまま爪先でちょんちょんと跳ね上げ続けた。
ボールリフティング。
サッカーの基礎技術であるが、優にはまるで魔法であった。
幼い少女は目を見開いて、その魔法を、いつまでも見つめていた。
6
「お前、いったら絶対にぶっとばすからな」
お遊戯の練習でみんなが外へと出た後、教室に坂田健太が一人残って本棚の絵本にクレヨンで落書きをしていた。うっかり帽子を忘れて取りに戻った優が、それを目撃してしまったのだ。
見た瞬間に、
教室の絵本に落書き。
それは良いこと? 悪いこと?
悪いことだ。
間違いなく。
大人に、先生に、伝えなければならない、悪いことだ。
でもそれは何故。
何故、悪いことなのか。
そう親や先生に教わったから、だから悪いこと?
教わってなければ、
もし誰もこまらなければ、怒らなければ悪くない?
優は混乱していた。
良識ある両親に育てられた優にとって、考える必要などない程度のことなのに、だというのに、そんな考えが頭の中をぐるぐると回っていた。
他人の悪さを、一人きりで見てしまったからだ。
そのため、頭が軽いパニックを起こしていたのだ。
教室にみんなでいる時は、誰かが悪戯をしようが、自分は無視しているだけでよかった。傍観者どころか、完全な部外者でいればよかった。
でも、一人きりで遭遇してしまったことにより、そうは出来なくなった。
異様な空気が、全身を包んでいた。
胸の鼓動が早くなっていた。
「ああ、あの……」
なにを伝えたいわけでもないが、単に無言に耐えられず、優が小さく口を開いた、その時であった。
「分かったかって聞いてんだ!」
両手で強く、胸を突き飛ばされていた。
あまりに不意のことに、足で踏ん張ることも出来ず、尻餅をつき、後ろに倒れた。
後頭部を木の床に打ち付けてしまい、呼気のような声にならない呻き声を上げた。
激痛を堪え、片手で頭を押さえたまま慌てたように上体を起こすと、坂田健太の顔を恐る恐る見上げた。
「あ、あ……」
優は小さく口を開いたが、それに続く言葉はなにもなかった。
泣き出していたのである。
それは突き飛ばされて頭を打った痛みによるものでも、重圧から来る恐怖によるものでもなかった。
混乱している自分自身の心に、理由も分からず涙が溢れ、嗚咽の声が漏れてしまっていたのである。
心の奥に少し冷静な自分もいて、そちらの自分は涙の理由がなんとなく分かっていた。
先日、担任の山岡先生が家に来て話をしたことにより、その週の土曜に両親に連れられて病院に行くことになった。
なにをいっているのかは難しくてよく分からなかったけど、間違いなく自分のことだろう。
きっと自分は、どこか病気なのだ。
お父さんは、「まとも」といっていたけれど、きっとそれは嘘なのだ。
考えるまでもないことを考えてしまったり、パニックを起こしてしまっている現状に、優はこれまでの大人たちの態度の意味を悟り、その思いが涙となって、頬を伝って流れ落ちているのだった。
7
蹴り上げたボールが空中で一瞬だけ静止したかと思うと、重力に引っ張られてふわりと落下した。
一歩前進し、少し上半身を傾けると、背中を滑らせるようにして落とし、さらに踵で高く蹴り上げた。
とと、とよろけながら後ろへ下がり、おでこで受けようとするが失敗。顔面直撃。
ばん、とボールが高く跳ね上がる。
落下地点へ走り込んだ優は、爪先で受けると、右腿と左腿で交互に跳ね上げ続けながら後退して距離を取ると、再び石へと蹴った。
石に当たったボールが、今度はほぼそのままの軌道で、優のところへ戻って来た。
「うわ」
そう出来るよう日々練習をしていたというのに、まさか本当に戻って来るなど夢にも思わず、自分へと飛んできたボールに驚いて後ろへ転び、その際にまた顔面にボールが直撃することになった。転びさえしなければ、上手く胸に戻ってきたはずだったのに。
優は尻餅をついたまま、しばらく呆然としていた。
痛みのためではない。
運も多分にあったとはいえ、あんな上手くボールを蹴られたということに、なんだか信じられない気持ちになっていたのである。
「出来た」
表情一つ変えることなく真顔で小さく呟くと、ゆっくりと立ち上がった。
転がっているボールに近寄って爪先で蹴り上げると、タイミングを見計らって右足を振った。
もう一度、石へと蹴って跳ね返りを受けようとしたのであるが、今度はコントロールが大きく狂ってしまい、家の塀に当ててしまった。
やっぱり、偶然でしかなかったか。
優は残念に思いながらも、爪先で蹴り上げて、今度はリフティングを開始した。
リフティングは、かなりの回数がこなせるようになっていた。
三回も続かずに落としてしまうこともよくあるが、調子がよければ五十回くらいは続けられる。
自分が両親に要求しなかったせいもあるが、他に娯楽と呼べる娯楽もないため、優は幼稚園から戻ってくるとこのように、千葉のおじちゃんに買って貰ったサッカーボールをひたすら一人で蹴っていた。
病的なほどに、のめり込んでいた。
時間も忘れて、暗くなり親から注意されるまでずっと蹴り続けていた。
でも、自分では分かっていた。
楽しいから蹴っているのではないのだと。
他の子は楽しそうに遊んでいるというのに、自分には楽しいことがないどころか、そもそも楽しいという感覚がよく理解出来ない。
そんな自分が嫌で、
楽しさというものを感じたくて、
なにかに興じてみたくて、
心から、なにかに夢中になりたくて、
それで、蹴っているだけなのだ。
続けていればいつか本当に、心から好きになれる日が来るかも知れないし。
だから。
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