第二章 再会

   1


「……つも会場に駆け付けて、励ましてくれるサポーターのみなさんのため、また優勝が出来るように練習を頑張ります」

「おっとぉ、出ましたね、二連覇宣言。期待しています。ベルメッカ札幌、ゆう選手への突撃インタビューをお送りしました。佐治ケ江選手、ありがとうございました」

「こちらこそありがとうございました」


 佐治ケ江優はリポーターの女性に頭を下げると、差し出された手を握った。

 地元のテレビ局で夜中に放送しているスポーツニュースの、インタビューである。


 優は歩きながら、ふうとため息をついた。


「優ちゃん、お疲れ様あ」


 四十を幾つか過ぎていると思われる黒スーツの女性が近付いてきて、優の肩を軽く叩いた。広報担当の、たけなおである。


 ここは北海道札幌市内の、ベルメッカ札幌が日々の練習に使っている施設である。

 先日に初優勝を達成してからというもの、その立役者である佐治ケ江優は、連日の取材ラッシュに追われていた。


 FWリーグ初のプロ契約選手になった時や、初の得点王になった時にも取材は多かったが、それらとは桁違いの取材数だ。

 しかも、これまでは雑誌や地元の新聞社が中心であったというのに、今回は格段にテレビ局からの取材が多い。

 広報や所属事務所のマネージャーにコメントを考えてもらっていなかったら、果たしてどうなっていたことか。緊張のあまり、わけの分からないことばかり喋って、インタビューは無茶苦茶になっていたに違いない。


 約十年前の取材ラッシュ時は、佐治ケ江優本人にスポットが当たっていたというより、初のプロ選手、得点王、ということが取り上げられていただけであったが、今回はまるで様子が異なっていた。


 昨今、女子アスリートがおとなしい中で新たなヒロインを作り上げようというマスコミ側の動きなのか、まるでアイドル扱いなのである。

 鶏が先か卵が先か、巷ではちょっとした佐治ケ江優フィーバーともいえる現象が起きていた。

 アイドルもなにも、もう三十歳目前だというのにである。


 雑誌やテレビのインタビューだけでなく、地元テレビ局から番組への出演依頼も多い。

 広報が是非にと背中を押してくることもあり、クラブの知名度を上げることも仕事だとなんとか割り切って出演している。

 一昨日、お笑いタレントが司会のバラエティー番組の出演依頼が来た時には、さすがに契約事務所のマネージャーに何度も何度も必死に謝って、出演を取り下げてもらったが。


 テレビに出て有名になりたいという気持ちがまるでない佐治ケ江優にとって、ここ最近の騒動は迷惑以外のなにものでもなかった。

 チームメイトのがたからは、テレビに引っ張りだこなんて羨ましいなどといわれるが、あんな恥ずかしくて気忙しいだけのどこがいいものか。


 自分はただ、フットサルをやりたいだけだというのに。

 それならば友達を集めて草フットサルでもやっていろ、などと誰かにいわれるのが怖くて、とても口になど出せないけれど。


 そう、友達といえば、今日これから久し振りの友達と会う予定だ。

 高校時代からの親友が、仕事の関係で札幌まで来ているのだ。


 今日の午後は取材対応のため練習免除。その取材が終わり次第、友達に会うために向かおうと思っているのだが、しかし、


「夜竹さん、あと何本ですか?」


 尋ねたのは、取材の本数である。


「うん、もうあらかた片付いたから。ええと、テレビと雑誌と広報誌とで、あと五本かな」

「そうですか……」


 普段の練習だけの日の方が、よほど早い。

 やはり草フットサルでもやろうか、と半ば真剣に考えてしまう佐治ケ江優であった。


     2

 視界のほぼ一面が、いっそ見事なまでに白に覆われている一月の札幌である。

 昨日の昼から降り始めた雪が、先ほど止んだばかりだ。


 車道は凍結防止のロードヒーティングにより雪のほとんどない状態であるが、この一帯は歩道にまでその設備はなく、降った分だけしっかりと積もっている。


 そんな歩道を、しゃくしゃくと音を立てて足元を踏み付けながら、ゆうは歩いている。


 腕時計を見て、ちょっと歩調を速めようとしたところ、つるり滑って転びそうになった。

 北海道で暮らし始めてもう何年も経っているというのに、雪に一向に慣れない。慣れないものだから、冬は絶対にスカートを履けない。


 プライベートで履く冬靴は実用重視でしっかりとお店の人に選んでもらっているのだが、それでもよくこのように転びそうになる。

 たまに本当に転んで、周囲に醜態を晒すこともある。


 チームの同僚たちは、体幹にも脚にもしっかりと筋肉がついているため、靴の効果との相乗で雪が氷であろうともつるり滑ることすらないというのに。


 でも、どうせズボンなんだからと割り切って、例え何回転ぼうとも急がなければ。

 だって親友との待ち合わせ時間に、もう既に小一時間ほども過ぎてしまっているのだから。


 事前に、遅くなる旨を伝えるメールは送っておいたが、そもそも彼女がそんなもの見てくれているかどうか。


「ありっとございまーす」


 茶髪の若者から美容室の宣伝チラシを、断れずに受け取りながら、さらに前へ踏み出す速度を上げる。


「あいたっ!」


 ついに思い切り滑り転んでしまい、尻餅をついた。

 優は周囲の視線の中、恥ずかしそうに起き上がると、お尻についた雪をはたいた。


 待ち合わせ場所は、もうすぐ目と鼻の先だ。

 親友の姿がないか、前方に視界を凝らした。


 と、その時であった。


「もしもしぃ、そこの豪快にすっ転んでいたお嬢ちゃあん。いやもうお嬢ちゃんじゃねえなあ、そこの三十路直前のおばはんっ」


 北海道進出をついに果たしたばかりの老舗ファーストフードチェーン店であるセカンドキッチンの正面で、そんな押し殺したような低い声が聞こえた。


 それは女性の作り声のようであった。最後、ちょっと地声が出てしまっていたようだけれど。


 優にとって実に聞き覚えのある声であったが……それどころかもう誰の声だか分かっていたが、しかし不思議なことにどこにも姿が見えず。

 立ち止まって、小首など傾げながら周囲をきょろきょろとしていると、セカンドキッチン入口横に立っているマスコットキャラクターであるタイガー君の像が突如爆発し、積もっていた雪がばあーっと八方に弾けた。


「うわ!」


 驚き、思わず身をのけ反らせた優は、飛んでくる雪の粉を腕で防ぎながら、とと、と後ろに下がり、転びそうになった。

 いや、結局転んだ。また、尻餅をついた。


「王子!」


 雪の霧が晴れると、優はそんなちょっと素っ頓狂な声を上げていた。

 さもあろう。爆発して雪を吹き飛ばしたのはタイガー君の像ではなく、その横に掻かれ詰み上げられていた雪の塊であり、そしてそこにはいま、一人の女性が立っていたのである。

 優のよく知っている人物が。


 年齢は、優と同じく三十くらいであろうか。

 優と同じく非常に痩せぎすであったが、優とまるで違うのはなんだか全身から健全健康といったオーラを発しているところであった。厚着でよくは分からないものの、筋肉がしっかり発達して引き締まっているように感じられ、そのせいだろう。

 目深に被ったニット帽。

 髪の毛は肩まで伸びており、それを無造作に後ろで束ねている。


「びっくりしてたな。わああ、なんてのけぞってさ。いやあ、ずうっと隠れてた甲斐があったあ」


 王子、と呼ばれた女性は、ニット帽を脱いで雪を払いながら、わははと豪快に笑ったのであった。


     3

 彼女の名前はえんどうゆう

 ゆうの、高校時代からの親友だ。


 誕生日が七月であるため、優よりも一足先に三十歳を迎えている。


 王子と呼ばれている理由であるが、なんのことはない。高校生の頃は男子と見間違えるほどの短髪で、でも顔立ちだけ見るとなかなかに可愛らしく、そうしたところから先輩たちにからかわれ、あだ名をつけられ、現在もなお呼ばれ続けているというわけである。


 でも短髪は昔の話。現在は髪を肩まで伸ばしており、いかにも女性といった風ではある。

 顔には若干の小皺も出来ており、王子様の雰囲気にはほど遠いが、見た目がどう変化しようとも優にとって王子は王子であった。


 かつて二人は、千葉県北東部にある佐原南高校という公立校で、共にフットサル部に所属していた。

 裕子はこの頃から実に行動的で、粗野ではあるがパワーや魅力に溢れ、個性的な部員を部長として見事まとめあげ、部を初の大会優勝へ導いたことがある。

 既に優は広島に転校していたため、残念ながら一緒に優勝を喜ぶことは出来なかったのだが。


 彼女は、優の尊敬する数少ない人間の一人である。

 先ほどの登場シーンのように、なにをするのか行動のまるで読めないところがなんとやらであるが。


「ほうじゃ王子、待ち合わせに遅れちゃってごめんなさい」


 優は呆然とした状態から立ち直ると立ち上がり、深々と頭を下げた。上目遣いで、おずおずと裕子の顔を見ながら、


「……もしかして、ずっと雪の中に隠れとった?」


 と、尋ねた。


「うん。だってさあ、せっかく隠れたのに自分から出ちゃったら無駄になっちゃうじゃんか。肩とか頭とか、通行人の皆様にご協力頂いて埋めてもらったのにさあ」


 裕子はニット帽を被り直すと、ダウンジャケットの雪を払った。


「そがいな問題じゃ……」


 そもそもなんだって待ち合わせるだけなのに雪の中に潜り込む必要があるのか。

 必然性がまったく理解出来ない。


「遅れたこと、気にしなくていいよ。取材やらイベントやらで、忙しいんだろうなって思ってたから。東京でも、佐治ケ江佐治ケ江ってテレビでやたら取り上げられてるからな。ま、とにかく、久し振り。元気そうでなによりだ」


 裕子は、すっと手を差し出した。


「そっちこそ」


 優も手を伸ばし、二人は硬い握手をかわした。


「んじゃ、行こうか。待ち合わせって、あの店でいいんだよね」


 裕子は、すぐそこに見えているカフェに向かって歩き出した。

 その歩き方は少し、いや、相当に奇妙であった。


 右足首の関節が柔軟に動かないようで、引きずるようにして右足を前に出しては、膝を伸ばしたまま右脚全体を杖のようにして、よっこいしょで右足に体重をかけて全身を押し出し、ようやく左足が前に出る。

 ブリキのカラクリ玩具のような、実にぎこちない歩き方であった。


 二年振りの再会じゃけど、やっぱりまるで治っとらんな。

 どこかに無理がかかっているのか、以前より悪くなっている気さえする。


 優は、裕子の背中を見ながらちょっと悲しい気持ちになっていた。


 高校時代に裕子が、フットサル部を率いて大会優勝を果たしたことは前述した。その大会で裕子は、右足首に怪我を負っている状態で強行出場し、激痛の中まったく足を庇うことないプレーを続け、結果、自らの関節を完全に破壊してしまったのである。


 その後に手術は受けたものの、完治は無理と医者にあっさりといわれた。

 人工関節を入れさえすれば人並みに歩いたり、多少なら普通のフォームで走れるかも知れない、と医者からは手術をすすめられたのだが、しかし裕子は「生身なら自分の力で完治させられる可能性が生きている限りゼロではないけど、人工の物に取り替えてしまったらその時点でもうゼロだから」と、迷うことなく拒否。


 長いリハビリ生活の末になんとか自力で歩くことが出来るようになり、さらなる頑張りの成果なのか前回に会った時には一見普通に歩くことが出来るようになっていたのだが、それはたまたまであったのか、こうして二年振りに会ってみたら、さらに良くなるどころか逆戻りで悪化していた。


 裕子自身がその運命を受け入れてまるで後悔していないのだから、親友としてはその生き方、選択を尊重するしかなく、いまからでもいいから手術をして人工関節に置き換えろなどとはとてもいえるものではなかった。


 でも、これはこれで、やはり見ていてどうにも辛いことではあったが。


 だが、そんな思いがまったくのいらぬお節介であったこと、上から目線のおこがましい気持ちであったこと、そう気付かされるような衝撃的な出来事が、この直後に待っていたのであった。


     4

「ぶつかったろが!」


 男の大声が、優と裕子二人の鼓膜をびりびりと震わせた。

 先ほどから口論をしていたらしい一人が、いきなり声を張り上げたようである。


「……そっちから、ふらふらとぶつかってきたんじゃないですか」


 若い、女性の声。怒鳴られたことに対して負けじと返そうとするものの、すっかり声が上擦ってしまっていた。


 ゆうたちがいたセカンドキッチン前の、隣店舗の前。そこに、二十代らしい若い男が二人と、OL風のやはり二十代らしい女性。騒ぎの声の主は、彼らのようである。

 男のうち一人は、地面に尻餅をついて、片手で反対の肩を痛そうな顔で押さえている。


「ふざけたこといってんじゃねえよ。酔っ払いみたいな歩き方しやがって。友達が怪我したじゃねえかよ。おい、大丈夫かよ」

「大丈夫じゃねえよ。痛い痛い。肩の骨が折れたかもお!」


 そんな男たちの態度を見ながら、えんどうゆうは、ふーーーーっと大きなため息をついていた。


 不良大学生だかヤクザ下っ端のチンピラだか分からないが、いい年した大の男が二人して女性を脅かしている。からかっているだけなのか、本気で金品を巻き上げようとしているのかは分からないが、もしも腰低く金品渡そうものならきっと喜んで貰うだろう。

 つまり間違いないのは、最低な生物が路上で女性に迷惑をかけているということなのだ。


 そう判断したのか分からないが、とにかく裕子は、ため息つき終えた瞬間には口が無意識のうちに動いていた。


「やめなよ、そういうことは」


 その声に、男たちは裕子の方を振り向いた。


 裕子は続ける。


「男のくせにさあ。みっともないなあ」


 男たちをまるで恐れることなく、ゆっくりと近寄っていた。

 ゆっくりであるため、それほど目立ちはしなかったが、やはり少しびっこをひいたような歩き方になっている。


「はあ?」


 大声を張り上げ続けていた方の男が、怪訝そうな表情を浮かべた。

 もう一人、地面に座って肩を押さえていた男も立ち上がった。なお、肩は特になんともなさそうである。


「誰、おばちゃん?」


 男たちは、薄い笑みを浮かべた。


「通りすがりの王子様だよ。なに、君たちそのお姉ちゃんからお金をせびろうとしてたの? いまどきバカでもやらないような、古典的な方法で。……あのさあ、お金っつうのは、汗流した分しか手に入らないんだよね。演技で汗流したとかなんとか主張するつもりだったら役者にでもなれば? 下手くそすぎて需要ないだろうけど」

「はあ?」


 反応のパターンが極めて少ないのか、男らはまた同じような態度を見せた。

 なんだかよく分からないものの、バカにされたということは充分に感じ取ったようで、二人の顔付きが変わっていた。より、凶悪な方向へと。


「ふざけんなよ、このババア!」


 一人が、裕子へと近づいた。

 性格的に平気ということなのか、それほど怒りに我を忘れているということなのか、とにかく男は相手が(まがりなりにも)女性であるというのに飛び掛かり、顔面を目がけて平手をぶうんと振るっていた。


 だがその平手は、顔面をすり抜けていた。

 裕子が紙一重で身を引いて、かわしたのだ。


 完全に舐められている。そう感じたか、男たちの表情はますます危険になり、二人で裕子を挟むように立った。


「王子! いま警察呼ぶから!」


 優は慌てたように、バッグから携帯電話を取り出した。

 彼らが逃げていくことを期待したものであったが、だがまるで効果はなかった。

 周囲のことなどまったく眼中に入らないほどに、男たちはすっかり激昂してしまっていたのである。

 一人が、今度は拳で殴りかかっていた。


「無用!」


 裕子は鋭く短く答えながら、すっと素早く身を沈め、男のフック気味のパンチをかわしていた。

 身を起こしながら、右膝で金的一蹴り。

 が、と呻いた男が苦痛に顔を歪めて身を屈めようとしたところへ、裕子の左膝が顎に炸裂。拳ならいざ知らず、膝ともなれば女性の攻撃とはいえかなりのダメージを受けたようである。


「てめえ!」


 もう一人の男が、拳を振り上げた。

 その拳が突き出されるよりも先に、裕子のジャブが男の頬をぴしりと打ち抜いた。

 二発、三発と連打を浴びて男はたじろいだが、なんとか腕でガードの姿勢を整えて気を持ち直すと、


「舐めんじゃねえぞ!」


 と、腕を大きく振り上げた。

 反対側から、先ほど金的と顎を蹴られてしゃがみ込んでいた男が起き上がって、挟み撃ちにしようと迫っていた。


 武術の心得でもあるのだろうが所詮は女、油断せず、なおかつ同時にかかればなんということはない。とでも思ったのであろうか。二人の顔に浮かぶ、残虐な笑み。


 裕子へと、前後両方向から男の腕が伸びた。

 まさに掴みかからんとするその瞬間、裕子は高く跳躍し、大きく広げた両足で二人の顔面をそれぞれぶち抜いていた。


 カウンター気味に顎を蹴られて首を激しくねじられた二人は、悲鳴を発することすらなく雪積もる歩道に沈んだ。

 どうやら、気を失ったようである。


「あいててて畜生!」


 裕子は着地に失敗して、お尻を思い切りレンガの歩道に打ち付けてしまい、倒れたまま痛みにごろごろ転がった。

 やがて起き上がると、すっかり伸びてしまっている男たちの姿に「やべえ」と頭を掻き、続いてお尻を掻いた。


「まあ、雪に顔を突っ込んでいて冷たいだろうし、ほっときゃ凍死する前に目覚めるでしょ。サジ、行こっ」


 裕子は優の手を取ると、歩き出した。びっこをひきながらも、逃げるようにせかせかとした仕草で。


「どうかした?」


 裕子は、優を見詰め小首を傾げた。

 握った優の手が、ぶるぶると震えていることに気が付いたようである。


「あ、あのっ……」


 手だけではない。

 優の、全身が震えていた。


「あの、ええと」


 口の中が渇いて、まともに言葉を発することが出来なかった。


 理由の一つは、恐怖心だ。

 親友が男二人に襲われて、命が危険にさらされていたのだから、当然だろう。


 もう一つが、裕子がその二人の男を「蹴り」で難無く倒してしまったこと。こちらの方が、優に与えた衝撃の度合いは遥かに高いかも知れない。

 だって、裕子は普通に歩けないほどに足の状態が悪いというのに。


 ボクシングを習っているらしいから、拳だけで相手をやっつけてしまうというのなら分かる。女性の力とはいえ。

 しかし、高く跳躍して顎を蹴るなど、そんなアクロバティックな技で……


 元々運動神経抜群の裕子であるから、脚が現在のようになる前ならばまだ理解出来るが……

 一体どれだけの時間を費やしてどれだけのトレーニングをすれば、現在の彼女にそんなことが出来るようになるのか。


 歩き方こそ他人と比べて不自然ではあるものの、裕子はこの身体こそ自分なのだと認めて、心から一体化しているのだ。


 優は今回のこの再会で、今度こそ裕子に人工関節の手術を受けるよう切り出すべきだろうか否かと迷っていたのであるが、それがまったくの出しゃばりであることを知った。

 裕子はしっかりと考えて、正しい選択をしている。自分がなにか指図することなど、おこがましい以外のなにものでもないのだ、と。


「どうもありがとうございました」


 男らに脅かされていたOL風の女性は、遠藤裕子の前に立つとに深く頭を下げた。


「ああ、ちょっと食事前の運動しただけだから。気にしないで。世の中こういう悪い奴がいっぱいいるから、気をつけようね。じゃ、いこか、サジ」


 裕子は改めて優の手を引いて、歩き出した。

 優は遅れて、とと、と歩き出した。


「サジ、怖かった?」


 まだ、優の手が脂汗でじっとり湿ってるためか、裕子は尋ねる。


「ごめんな。でもあたし、ああいうの見るとなんかほっとけなくてさあ」

「分かっとる……王子がそがいな性格じゃってことは」


 直情型で、納得いかないことがあると後先損得考えずに動いてしまうのだ。

 暴力的な雰囲気の男たちにであろうとも、平気で口論を挑む。


 それは別に、喧嘩や腕力に自信があるからではない。

 随分前、二十三、四の頃にも、プロレスラーのようなアメフト選手のような、見るからに屈強そうな三人に喫煙を注意したことから絡まれ胸倉掴まれ、悲鳴を上げるどころか受けて立ったことから殴り合いに発展。肋骨と右腕を骨折するという大怪我を負ったことがある。

 見事に前歯もへし折られて、現在は差し歯だ。たまに笑いながら歯を引っこ抜いて見せてくるなど、全然後悔していない。


 まあバカは死んでも治らないからね、と自分でも常々いっていることだ。

 これが遠藤裕子、優の数少ない親友の一人である。


     5

「そんでさあ、まずって思わず口に出しちゃったら、酒蔵のおっちゃんが一瞬にして顔色が変わって大激怒で、どばあって酒をぶっかけてくんのさあ。おれが愛を込めて作った酒をよくもぉ、とかなんとかいって。旦那の一眼、レンズに酒が入ってオシャカだし散々だったよ」


 えんどうゆうは楽しそうな腹立たしそうな、なんともいえない表情でまくし立てている。


「大変だったね」


 ゆうはその勢いに押され、差しさわりのない相槌しか打てない。もともと気のきいた相槌が打てるタイプでもないが。


「ぶっかけんのは、夜のベッドで嫁さんの顔だけにしろってんだよ。ねえ、サジちゃん」

「お、王子っ、あああ、あたしっ、なにも聞こえてないっ!」


 両耳を塞いで、声を裏返らせながらきょろきょろ周囲見回す佐治ケ江優。他に客がおらず、店員も裕子の言葉に気付いていないようで、ホッと一息。下ろした手で、胸を押さえた。

 心臓ドキドキ、顔真っ赤だ。


「サジ、どうかしたの?」

「……怒るよ」

「ああ、仕事の愚痴ばかり聞かされて、面白くないよね。ごめんね」

「ほうじゃのうて」


 まだ頼んだ紅茶も運ばれてきていないというのに、背もたれに重心預けてぐったりしてしまう優であった。


 ここはノイノストラという名のカフェ。

 札幌市街の大通りに面した、どこにでもあるような平凡な喫茶店だ。


 窓際の席で、遠藤裕子と佐治ケ江優はテーブルを挟んで向き合っている。


 二年振りの再会であった。

 この時代、遠距離の連絡手段などいくらでもあるし、お互い元気なことさえ分かっていればいいので、二人はこのように、親友ではあるもののあまり頻繁に会う仲ではない。


 会ったら会ったで会話をするのは、優にとって楽しいものであったが。

 といっても、ほとんど一方的に裕子が喋っているだけだ。


 ちょっととんでもない冗談を挟んで優を焦らせたりしたが、いま裕子が話していたのは仕事のことであった。


 裕子の現在の世間的な肩書としては、日本酒のソムリエ及びコラムニストだ。


 舌が優れており、なおかつ個性的な日本語で酒を語るため、なかなかに評価が高い。

 本業だけでなくメディア取材や各種イベントへの参加などで休む間もないほど忙しく、今日は北、明日は南、と全国を飛び回っている毎日だ。


 雑誌や新聞などで何本も連載を持っており、テレビに出たこともあれば地方のラジオ番組でコーナーを担当したこともある。


 そのラジオ番組では、ユーモア織り交ぜた持ち前のトークが実に人気であったのだが、内容が回を経るごとに暴走に拍車がかかり、いつしかほとんどお笑い路線になってしまって、高尚な番組を作りたいスポンサーとそりが合わずに降板させられた。


 話術あればこそ、そういうことも起こるわけであるが、その話術と反対に文章力はさっぱり皆無であった。

 コラムニストであるというのに、日本語でまともな文章が作れないのだ。文字にする際の語彙も貧弱なら、言葉を選ぶセンスも最悪で。


 それなのに何本も連載を抱えていられるのは、ひとえに裏で旦那が文章添削してくれているからだ。


 先ほど個性的な日本語で評価が高いと説明したが、それは元の文章が無茶苦茶という、ただそれだけの理由であった。旦那の修正能力、バランス感覚をこそ褒めるべきであろう。

 彼女の舌が優れていることには、疑う余地はないのだろうが。


 なお、裕子には三人の子供がいる。

 みんな男の子で、上から八歳、六歳、三歳。


 一人くらいは女の子も欲しいな、と、現在四人目を作るべく奮闘中。周囲からは絶対に生まれるのは男の子だといわれているが、やってみなくちゃ分からない、と。


「あ、そうそう、この前さあ、ひろ連れて先輩のとこ行った。子供同士で遊ばせてきたよ。さすがうちの子、アホや。まるで人見知りすることなく、一瞬にして溶け込んだ」


 弘樹とは、裕子の三男である。


「まあ溶け込めないよりはよかった。梨乃先輩、元気じゃった?」

「元気元気。自分の子供に、どけやおらあって怒鳴り散らしたり、子供に飛び蹴りくらって吹っ飛ばされて反撃の蹴りくれたりしてた。選手を引退しちゃったからか、かなり太ってた。貫禄ついて、すっかりおばちゃんになってたね。顔のシワも増えたしさあ」


 裕子は、自分の唇の横を、縦にぴっと線を書くように指を動かし、ほうれい線を表現した。


「確か梨乃先輩のとこは、もう上の子が十歳になるんじゃよね」


 優は、感慨深げに呟いた。


「そう。オバハーンになるわけだよ、梨乃先輩も」

「一歳しか違わんじゃろ」

「そうだけどさあ」


 梨乃というのは、高校時代の部活の先輩だ。

 たか。旧姓むら。二十歳で結婚し、子供は二人、男の子と女の子だ。


 子持ちながらもフットサル日本代表候補に選ばれて、優と一緒に強化合宿に参加したこともある。現在は完全に一線から退いて、仕事をする合間に近所の体育館で子供たちにフットサルを教えているらしい。


しげに梨乃先輩、そしてあたしが結婚して、それから全然佐原南関係のそういう話が出ないと思ってたら、最近いきなりラッシュだよね。けい先輩に続いてさきも先月結婚したし、ナオも今度、根暗でジャガイモ顔の姉貴を差し置いて職場の人と入籍するらしいね」

「あたしのところにも招待状送っていいかってあきらから聞かれた。あたしは参加するつもりじゃけど、王子は行かれそう?」


 たけあきらとは、裕子のいう根暗でジャガイモ顔で、ナオことなおの姉である。


「問題なし。いまはレギュラーの仕事は雑誌だけだから。来年春の、咲の披露宴も参加出来ると思う。……みんなこうしてどんどん結婚していくけどさあ、さとは、絶対に無理だろうな。いや、絶対じゃあないかも知れないけど、五万賭けるかっていわれたら即決で賭けるね。十万でもいいや」


 そういうと裕子は、がははと下品に笑った。


 いくやまさととは、二人の高校時代の後輩である。

 とかく優をライバル視しており、行き過ぎが度々問題になることがあったが、フットサル部員としては個人としてだけでなくリーダーとしても能力優秀で、裕子の後を継いで部長となった翌年に、部を初の全国優勝に導いている。


 大学でもフットサル部に入り活躍、卒業後も実業団チームでプレーを続けていたが、大学一年の時からかかえていた左膝の爆弾がついに騙せなくなって、一昨年より指導者に転向。


 指導法や采配への評価が高く、二部ではあるがFWリーグのクラブからオファーが来たこともあるらしい。


「蹴ったらしいけどね、その話。将来職に困るから会社を離れたくないってのが表向きの理由だけど、あれ絶対にさ、サジと同じ舞台なんかにいたらハートに火がついて、率いたチームを絶対に一部に上げて現役復帰してサジと戦いたくなってしまうから、とか、そんな理由だと思うよ、本当は」

「ほじゃろか」

「そしたら間違いなく膝を完全にやっちまって、下手したらあたしみたいなことになってたかも知れないし、だから賢明な判断だったと思うよ。ま、能力あるし頑張りも凄いのは認めるけど、でも恋愛って話になると、やっぱりあの負けん気の強い性格がちょっとなあ。男が引くよ絶対。あ、でもさでもさ、サジが結婚したりしたら、あいつもすぐに続くだろね。負けてたまるかって。……そんじゃやっぱり十万賭けるのやめとこうかなあ。で、どうなんですか? 佐治ケ江さん家のゆ、う、ちゃ、ん、は? 名字の変わる、ご、よ、て、い、は?」

「なんであたしに振る? あたしは……その、結婚とか、そういうのにはまったく興味ないけえ。ほじゃから安心して十万円賭けてええよ」

「そういうと思った。相変わらず変わってないな。いまだ男の子と手を繋いだこともないんだろ」

「いまだどころか、きっと一生ないじゃろな」


 優は恥ずかしがることなく、きっぱりといい切った。まったく、そういう方面への興味や願望がないのだ。

 幼い頃に父やおじと手を繋いだのが最後だ。


 クラスの男子にいじめられ、髪の毛や腕を掴まれて教室中を引っ張り回されたことなら、小学中学といくらでもあったが。


「そうそう、手を繋いだといえばあ」


 裕子はバッグから携帯を取り出し、画面に指を滑らせて画像を表示させた。

 写真画像だ。中学生くらいの運動着姿の男女が、たくさん写っている。


「中二の時の運動会で、オクラホマミキサーを踊ってるところ。あたしがこれで、で、一つ離れたとこのこいつ、次にあたしとペアになるんだけど、こいつと手を繋いだことから、このあと数分後に取っ組み合いの大喧嘩することになるんだよな。あー山猿の手なんか触っちまったよ、とかムカツクこといってくるからさ。……まさか、こいつと結婚することになるとは思わなかったよなあ。こん時、本気でこいつの顔面にチョップくれたもんね、あたし。あいつも、あたしのお腹にパンチぶち込んできたし」

「運命だったんじゃね」

「お、サジが運命なんて言葉を口に出すとは珍しい。でもまあ、そういうことなのかな」


 裕子は、ふふっと笑った。


 高校を卒業してすぐに地元で事務職の仕事に就いた裕子であるが、三年で退職し、現在の仕事を始めた。

 仕事の関係で紹介してもらったカメラマンが、偶然にも中学高校同窓の青年だったのである。

 カメラマン兼ライターであり、どちらの能力も裕子の仕事を効率よくこなすに都合がよく、ことあるごとに仕事を頼んでいるうちに、不精な裕子が彼の家に転がり込むようになり、いつしか子供が出来、そして結婚。


「あれだよな、小学中学の頃ってさあ、ほんっとガキで後先なんてなんにも考えてしやしないんだけどさ、こうやって振り返ってみると、現在の自分を築き上げている色々なことがぎっしりぎっしり詰まっているんだよね。出会いのことだけじゃなく、人間形成における色々なことがさ」


 裕子は頬杖をつきながら、しみじみといった口調で呟いたが、


「ん?」


 優の様子のおかしさに、小首を傾げた。

 なんだか優が、ちょっと辛そうな顔をしているように見えたからであろうか。


「ごめん、なんか嫌なこと思い出させちゃった?」


 裕子のその言葉に、優は二秒ほどの間をおいて、ハッとしたように顔を上げた。


「あ、ああ、なんでもないけえ。こっちこそごめん、ボケッとしとった」

「あ、いや、なんでもないならいいけど」


     6

 なんでもなくなどは、なかった。

 裕子がいった通りであった。


 優は、裕子の言葉に、無意識に子供時代を回想してしまっていたのである。


 ただ辛いだけの、

 まるで自己肯定の出来ない、

 ただ生きているだけの、

 呼吸しているだけの、

 社会の底辺、

 ゴミ、

 害虫、

 害虫……

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