きんのさじ 上巻
かつたけい
プロローグ
すっと伸ばした足の先に、飛んで来たボールがぴたり吸い付いくように収まっていた。
と、次の瞬間には、既にボールは床の上。
フットサルはコートが小さく人が密集するため、スペースの少ない窮屈な競技である。
だというのに相手の8番を遥か後方に置き去りにして目の前に大きなスペースを作り上げることに成功した佐治ケ江優の個人技や、それに繋がった
2023年度FWリーグ 最終節
ベルメッカ札幌 対 ファルカリーナ亀岡
後半十六分。
あと四分で試合終了だ。
現在のスコアは、3-3。
前半戦までは失点せぬよう様子を見ながらの膠着した展開であったのだが、後半四分にファルカリーナ亀岡が先制してスコアが動いたことをきっかけに様相一変、互いに攻め合い打ち合い、追い付き追い越せのデッドヒートを繰り広げている。
逆転し、再逆転されたベルメッカ札幌が、一分前に
なおFWリーグとは、女子日本フットサルプロリーグの通称である。
当時のサッカーなでしこジャパンブームや、女子プロ野球の存在などに後押しされて発足したものだ。
将来的に完全プロ化を目指すとして、プロ選手ゼロ人で始まったのであるが、発足から十年が経過している現在、ほとんど進展はない。
プロ選手は一つのクラブに三人もいれば多い方であり、一人もいないクラブも珍しくない。
佐治ケ江優は創設時から活躍している一人であり、リーグ初のプロ契約選手、そして現役の日本代表である。
大学時代に地元であるエステセジオ広島に入団し、そこで二年。その間に、代表初召集を受けるなど知名度を上げ、大学卒業と同時に、リーグ初のプロ契約選手として迎えられてベルメッカ札幌に移籍。ここで深紅のユニフォームを着るようになって、既に八年が経つ。
二十九歳。女子のアスリートとしては、ベテランと呼ばれてもおかしくない年齢である。
身長は百六十台の半ばで、そこそこあるものの、それが吹けば飛びそうな華奢な体格に見えるのは、無駄な脂肪がほとんどないばかりか、筋肉も他の選手と比べてあまりついていないためであろう。
だが、見た目から想像もつかない素晴らしい能力を持っているからこそ、トップリーグや代表で長く活躍をしているのだ。
佐治ケ江は、足に吸い付くような細かなタッチのドリブルで、突破を阻まんと立ち塞がる3番へと速度を落とすことなく突っ込んで、綺麗なS字を描くように相手をかわして抜けていた。敵陣完全突破。残るはゴレイロのみだ。
完全にフリーであり、パス、シュート、キープ、選択肢は豊富であったが、どれも実行されることはなかった。
彼女は、がくりと体勢を崩し、膝をつき、肩を打ち付けるように転がっていた。
ファルカリーナ亀岡にとって、ここを抜かれたらほぼ失点確実という状況であり、3番が背後から佐治ケ江の腕を掴んで引き倒してしまったのである。
笛が鳴った。
第一審判は、3番に向けてイエローカードを高く掲げた。
手を引っ込めたかと思うと、続いてレッドカードを同様に高く掲げた。
この選手は既に前半にも一枚、警告を受けていたのである。
退場処分を受け渡されたファルカリーナ亀岡3番の
フットサルはプレーヤー人数が五人、ゴレイロを除くと四人しかいない。つまり一人の退場者が出るということは、失点の可能性が倍増することに他ならない。
現在スコアは同点であり、残り時間が二分弱しかないことを考えれば、おそらく先に点を取った側がこの試合の勝者となるであろう。
時間は少ないが、人数が対等であってもこの後半だけでベルメッカ札幌は三点も取ったのだ。一点くらい入らないはずがない。と、勝利の可能性が高まったことに、二階席の半分をぐるりと陣取るベルメッカ札幌サポーターたちが、どっとわいた。
どどどどどん、と激しい太鼓の音が鳴り響いた。
そしてベルメッカ札幌コール。
若い男女、中年女性だけの集団、老人、子供、親子連れ、等などサポーターと一口にいっても様々である。
中には選手の家族などもいるのだろう。
みな、タオルマフラーを振り上げ、振り回し、ベルメッカの勝利を信じ、選手に元気を送り続けた。
なお、クラブの愛称であるベルメッカとは、赤い槍という意味のポルトガル語を縮めた造語である。
対するファルカリーナはやはりポルトガル語で、鷹と少女をかけ合わせた造語。
北海道札幌市と京都府亀岡市にそれぞれ本拠地を置くクラブの対戦であるが、この最終節はセントラル開催。
サッカーや野球のリーグ戦でよく見られるようなホームアンドアウェー方式ではなく、一つの会場でその節のリーグ戦全試合を開催する方式だ。
セントラルはシーズンに何回か行われ、当然ながらチケット人気が一番高い。
今節の会場は首都圏である千葉幕張ということもあり、また、優勝の決まる一戦が行われるとあって、ファンたちはこれまでのセントラルより格段にチケット入手が大変だったようである。
そんな熱狂的なファンの前で行われているこの試合も、残すところあと二分弱。
亀岡の3番が退場となったが、そのプレーにより直接FK対象となるファールは後半戦六回目に達し、ベルメッカ札幌に第二PKが与えられることとなった。
蹴るのは、ファールを受けた本人である佐治ケ江優だ。
両サポーターの声援入り乱れる中、審判の笛が鳴った。
佐治ケ江優は軽く助走をつけ、第二ペナルティマークに置いたボールを蹴った。
それは矢のように真っ直ぐ、ぐんと伸びた。ゴールマウス端の、ここしかないというところを捉えていたが、惜しくも得点はならなかった。ゴレイロがかろうじて腕を当てて、弾いたのだ。
ファルカリーナ亀岡6番がそのボールを拾うが、深紅のユニフォームが数的優位を活かして二人掛かりで挟み込んで奪い取った。
派生スポーツであることを考えれば当然だが、サッカーとフットサルは非常に共通点が多い。ルールとしても、技術がそのまま使えることとしても。
その中で決定的に違う点の一つが、選手の退場についてだ。サッカーは退場したら人数は戻らないが、フットサルは条件を満たせば人数補填が可能なのである。
コートが小さくプレーヤー人数も少ないような競技に、よく見られるルールだ。
その条件としては、退場から二分が経過、または退場した側が失点すること。それにより、欠けた人数を元に戻すことが出来る。もちろん退場処分を受けた本人は戻ることは出来ない。
もう残り時間もほとんどないため、二分経つ頃には試合終了であるし、わざと失点するわけにもいかず、ファルカリーナ亀岡としては、人数不利のままなんとか粘って引き分けに持っていくくらいしか実質上の選択肢はなかった。
ベルメッカ! ベルメッカ!
フォルツァ亀岡! フォルツァ亀岡!
サポーターの太鼓の音、そして絶叫にも似た大声が響く。
若干ながら、ベルメッカ札幌の応援の方が慌てているようであった。
なかなか点が入らないことによる選手たちの焦りを受けて自然とそのようになってしまっているのか、それともサポーターのその応援に選手たちが焦らされてしまっているのか。
いずれにせよ、このような状況において冷静でいることの方が難しかったであろう。
残り時間、そして現在の順位、点数を考えれば。
前節終了時点でのリーグ戦の首位は、現在隣の建物にて試合中であるカステライナ喜多方。そして、同勝ち点で得失点差により二位にいるのが、ベルメッカ札幌なのである。
その得失点差であるが、9と大きく離れている。
つまり今節カステライナ喜多方が勝利した場合には、ベルメッカ札幌が悲願の初優勝を成し遂げるためには十点を超える大量得点差での勝利が必要になる。
しかし、もう試合の残り時間はほとんどなく、大量得点差による勝利は例え奇跡が起きようとも不可能。
ベルメッカ札幌としては、とにかく勝ち点を積み上げた上で、あとは女神にすべてを委ねるしかないという状況なのである。
いっそ分かりやすくはあるものの、やはり優勝のかかった大一番ということもあって選手たちが緊張してしまっているのか、それとも目の前で優勝などされたくないという相手選手の粘り故なのか、あと一点が遠かった。
むしろ、相手の退場がないほうが、よほど得点の気配があったかも知れない。
「ヨッシー、上がれ!」
ベルメッカ札幌監督である、
「はい!」
背番号1番、ゴレイロの
パワープレーだ。
ゴレイロがFPとして攻撃参加するという、当然ながら自陣ゴール前がガラ空きになるというリスクを伴う背水の陣的な戦術である。
フットサル観戦における醍醐味の一つであるが、やっているチーム側、応援する側としては、生きた心地もしないほどの凄まじい緊張感を伴うものである。
あと一点をどうしても奪いたいといった時に使う戦術であるが、下手をすれば相手のロングシュート一発で終わってしまうからだ。
電光掲示板の時刻表示が、カウントダウンを続けている。
試合の残り時間は、あと二十秒。
サッカーのようなアディショナルタイム性ではなく、プレイングタイム性であるため、カウントがゼロになった瞬間がゲーム終了の時だ。
最終節を負けて終われない、と意地のボールキープに入るファルカリーナ亀岡であったが、パワープレーで前へ出たゴレイロの村上芳美は、相手のパス回しを読んで全力疾走、スライディングで起動上に入り込み、インターセプト。
亀岡の8番が取り戻そうと駆け寄るが、村上芳美は倒れたまま足を振るい、ボールを蹴った。
ワンバウンドし、タッチラインを割ろうかというぎりぎりのところで、走り込んだ
「ミユ!」
前へと駆け上がりながら、佐治ケ江優が大きな声でボールを要求する。
その声に反応した重原美由紀は、相手をかわして前線にいる
ゴール前へと迫る佐治ケ江優が、囮となって二人のマークを引き付け、スペースを作りだしたのである。
サイドを駆け上がりながら横パスを受けた野方志保は、パスを出す相手を探すようなそぶりを見せたその瞬間、シュートを放っていた。
中距離からの、意表をついたシュート。ゴレイロがブロックをしても、そのこぼれを誰かが狙うというベルメッカ札幌が得意とする得点パターンだ。この場合、囮となってチャンスを作った佐治ケ江優が、こぼれ球に詰める役でもあった。
だがそもそもの起点である野方志保のシュートは、精度が悪く枠に飛ばず、詰めていた佐治ケ江優の前で虚しくもクロスバーに当たり大きく跳ね返った。
ベルメッカ札幌、またしても得点ならず。
電光掲示板を見れば、試合終了まで残りあと四秒。
この場にいる誰もが、引き分けで終わることを考えたであろう。
しかし……
ゴール前の佐治ケ江優は、瞬時に踵を返すと、駆け戻りボールを追っていた。
大きく、跳躍した。
初めて彼女のプレーを見た者は全員が全員、度肝を抜かれたことであろう。
無理もない。
跳躍して空中でボールを追い越すと、身体を回転させてゴールへと向きながらその瞬間に右足でシュートを放ったのだから。
人間の身である以上、空中でそこまで自由に動けるはずがない。跳躍する寸前の動作と、滞空時間とが見せる一種の目の錯覚であり、力学にかなったものではあるのだろう。しかし初めて彼女のプレーを見た者には、これはもう魔法にしか見えなかったに違いない。
見慣れた者にすら、やはり魔法にしか見えなかったのだから当然だ。
これが、佐治ケ江優なのである。
残り時間二秒。
こうして、この試合最後のゴールが決まった。
ゴレイロはまるで反応することが出来なかった。気付いた時にはネットが揺れ、ボールが落ち転がっていた。
ベルメッカ札幌 4 - 3 ファルカリーナ亀岡
得点者 佐治ケ江優(ベルメッカ札幌)
試合終了の笛が鳴った。
その瞬間、ベルメッカ札幌のサポーターがどっと爆発した。
この試合を勝利した喜びのためだけではない。
電光掲示板には、隣の建物にて同時に行われている試合のスコアも表示されている。こちらも試合終了。
首位であったカステライナ喜多方が、下位相手に追い付かれてまさかの引き分け。
つまりはその結果により、ベルメッカ札幌の初優勝が決まったのである。
プロ契約選手を何人も抱えているが故に、金はあるけど生かす力が皆無と酷評されることも多かったが、ついに悲願を成し遂げたことにベンチの選手、スタッフが、笑顔満面でピッチへと飛び込んだ。
いまのいままで試合をしていたピッチ上の選手たちは、そのみんなの態度やサポーターの歓声に隣のコートでの結果を理解し、ようやくその顔をほころばせ、飛び上がった。わめき、近くの者と抱き合った。
決勝ゴールをあげた佐治ケ江優は仲間たちに取り囲まれ、抱き着かれ、髪の毛をぐしゃぐしゃに掻きまわされ、早速にしてもみくちゃにされていた。
「優、やったやった! ほんとすごいよ!」
野方志保が遅れて中に入り込んできて、佐治ケ江優の細い身体を独り占めにしてぎゅうっと抱きしめた。
「ほらほら~、もっと喜べ。ほんと無愛想なんだから、優は。サポーターたちに、せめて手ぐらい振んなきゃ」
彼女は佐治ケ江優の腕を掴むと、ぷらんぷらんと無理矢理に手を振らせた。
「はい、笑顔~」
そして、両側からほっぺたをむにゅーっと引っ張った。
二歳年上の同僚の顔をおもちゃにして遊ぶ野方志保であったが、はっと気が付いたように慌てて手を離した。
佐治ケ江優の目に、涙が浮かんでいるのに気が付いたからである。
涙はぼろぼろと溢れ、頬を伝い落ちていた。
「あ、ごめん、そんな嫌だった?」
「そういうわけじゃないけど……」
佐治ケ江優は、鼻をすすりながら袖で涙を拭った。
「優勝が嬉しかったんだよねー」
村上芳美が、佐治ケ江優へそっと肩を寄せた。
喜び合う彼女らの元へ、黒いスーツを着た四十代とおぼしき女性が近付いてきた。
「優ちゃん、お疲れのところ悪いけど、インタビューお願い」
「はい」
チームスタッフの一人である
「よろしくお願いします」
女性インタビュアーが頭を下げる。
「はい、こちらこそ」
佐治ケ江優も、小さく頭を下げた。
「放送席、放送席。FWリーグ初のプロ契約者にして今シーズンの優勝を決定づけるスーパーゴールを決め、そしてそれによって三回目の単独得点女王に輝いた、佐治ケ江優選手へのインタビューをお届けします。まずは、優勝おめでとうございます!」
インタビュアーの女性は、佐治ケ江優の顔にぐぐっとマイクを突き付けた。
佐治ケ江優は、一瞬たじろいだ。
FWリーガー及び日本代表選手として生活してきてたこの十年間に、インタビューなど腐るほど受けているというのに、一向に慣れない。
反射的にマイクを避けようとしてしまい、逃げちゃダメだ、とぐっとこらえて、逆に鼻に当ててしまった。
「……ありがとう、ございます」
一呼吸置くと、ようやく、ちょっとくぐもったような声でそれだけいった。
実にカチコチとした硬い表情で。
「四点目、気迫のこもったスーパーシュートでした」
でした、で言葉を完結されても、こちらはどう返せばいいんだ……。
日本語を話す能力が欠如している者がインタビューを任されているのか、最近やたらとこういう振り方をされるのだけど、困る。
「はい……あの……ええと」
ほら、わたしの受け答えがしどろもどろになってしまったじゃないか。
「千葉県でのセントラル開催だというのに、札幌から大勢のサポーターが駆け付けて下さいました」
いや、だからそれはなんて返せば……
「ありがとう、ございます」
とりあえず、そう答えた。
ドンドンドンドン、と観客席から太鼓の音。
「スーパーシュート、サポーターのみなさんの気持ちが乗り移りました」
「……はい」
ドンドンドンドン、と、またサポーターの太鼓、歓声。
佐治ケ江優は、照れたような表情で小さくお辞儀をした。
「優勝するためには、チームメイト、スタッフ、たくさんの人達の協力があったかと思います」
「……はい」
先ほどの「はい」とは、明らかに態度、口調が異なっていた。
いまのインタビュアーの言葉のせいなのか、優の中になにか思うところが生じているようであった。
「どんな人達に、優勝をしたというこの嬉しい気持ちを届けたいですか?」
「……はい……」
もともと彼女は、明るい受け答えが出来る性格ではないが、協会からのお願いを受けて以来、最低限、聞いている人に不快感を与えないように、無愛想にならずにしっかり喋ろうと気を付けてはきた。
それがまた、FWリーガーになったばかりの頃のように、どんよりと沈んだ表情、声に戻ってしまっていた。
目に、涙が滲んでいた。
そして、つうっとこぼれた。
先ほどの試合終了直後、自分の中に押さえ込んだはずの涙が、また溢れ出てきてしまっていたのだ。
インタビュアーの言葉の通り、自分がここまで登って来るためには、たくさんの人たちの協力があった。
幼少の頃からよき理解者に囲まれ、だからこそ自分などがこんな身に余る輝く栄冠を受けることが出来たのだ。
自分を変えてくれた、自分を信じてくれた、自分を認めてくれた、そんな人達との出会い。
優勝したことそのものよりも、そうしたことばかりを考えてしまい、インタビュアーの言葉が引き金になって感極まり、とめどなく涙が溢れてしまっていたのだ。
「高校、大学、時代の……」
息を詰まらせるように、唐突に喋り始めた。
「仲間、や、先輩たち。それと、父、母の、おかげで……信じてくれた、おかげで、ここまで、来ることが出来ました。だから……だから……」
最後まで喋ることは出来なかった。
つっかえつっかえながらも、それでもなんとか一つづつ言葉を選び、続けていく佐治ケ江優であったが、いつしかまったく言葉にならなくなり、やがて、まるで幼い子供のように声を上げて泣き出してしまったのである。
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