20 先輩

 その日の晩のこと。風呂から上がったわたるは、英語の課題に取り掛かっていた。だがシャーペンは一向に動く気配がない。ノートも同様に、ずっと同じページで固定されたまま、めくられていない。


「ダメだ。さっぱり分からん」


 1年の頃から、別に赤点でなければいいや、といった姿勢で取り組んできた教科だ。進級してもそれは変わらず、こうして不得手になってしまっている。


 諦めて課題を放り出そうとすると、頭の中でかざりの声が響いた。


『こら。きちんと最後までやる』


「どうせ明日解答配られるし、いいですよ」


 ふむ。自分と意識や経験を共有しているお目付け役がいるというのも、厄介なものかもしれない。渡は今更のようにそんなことを自覚した。


 まさかこんな下らないきっかけで、自分の中に自分以外の人物がいることの大変さを実感するとは。


 そんな時、むすっと不満になっていた彼に救いの船が現れる。


 携帯が震えたので手に取ると、そこには『先輩』からのメールが届いていた。


『もしかして、ご母堂が仰っていた「憧れのお姉さん」とやらかい?』


「はいそうです……」


 やっぱり厄介だ。これまでだったら、先輩からメールが届けばベッドの上で2、3回は跳ね回ったものだ。だが飾がいる手前、そんな奇行も取れない。なんとももどかしかった。


 視界を共有していることを承知で、渡はメールを開く。


『こんばんは


 ごめんね、今日は図書館に行けなくって。そういえば最近あまり会えていないね

 例の倒壊事故現場にいたって、先生から聞きました。無事で本当に良かった


 まだしばらく会えそうにはありません。でも近いうちに君を驚かせることができると思います。それまで待っていてね』


 短い文面を読み終え、渡の胸は悶々とする。


『あぁ、先輩――。やっぱり好きだなぁ――』


「こんな時だけ俺の心を読み上げないでください!」


 からかってくる飾に少しだけ怒りを覚える。彼女、どこか母と似ているな。そんな風に思った。


 ちなみに先輩の言っている『先生』とは、渡の父・秀弘ひでひろのことだ。父は大学で教鞭を取ってており、彼女は父のゼミに所属している。図書館で会うだけでなく、そんな繋がりもあったため、先輩とは仲良くなれた。両親に感謝だ。


『渡、この先輩とはどんな人なんだい?』


 頭の中で飾が首を傾げているのが見えた。無理に記憶を読まないで、こうして直に聞いてくるあたり、彼女なりの気遣いが窺えるえる。


「えっとですね……」


 渡は、先輩と出会った時のことを思い出す――。




 1年前のことだ。高校に入って初の試験を控えていた渡は、勉強のために宝士ほうし図書館を訪れていた。


 資料をさがして本の森を歩いていると、棚の上部にある本を取ろうとしている車椅子の女性を見つけた。それが先輩だった。


 綺麗な人だな、と思った。


 別に下心があった訳ではない。ただの親切心で、声を掛けた。


「どれが欲しいんですか?」


 あまりにも唐突で、彼女はぽかんと口を開けていた。その時は渡も「出過ぎていただろうか?」と申し訳なくなったが、すぐに「あの本、お願いします」と答えてくれた。


 そこから彼女との交流は始まった。




『へぇ。だから図書館に行くとそわそわするんだね』


「先輩と会うのは大体あそこですし。家族や友人とも違う関係の人で、そういう特別な交流のできる場所かなって……」


『素敵じゃないか。嫌いじゃないよ、そういうの』


 飾の楽しそうな笑い声がする。しかし、彼女はすぐに神妙な面持ちになり、訊ねててきた。


『ところで、車椅子っていうのは……』


 この場合、それがどういった道具なのかを訊いているのではなく、先輩がなぜそれを使っているのかを訊いているのだろう。


「俺も詳しいことは教えてもらっていないんですけど、先輩は生まれつき脚が悪いらしくて。自力はもちろん、補助を受けても立つことが難しいそうなんです」


 別にハンデを背負ってるとは思ってないよ。でも、周りと目線が合わないのは少し寂しいかな――。先輩が以前そう呟いていたことを、渡は思い出す。


 あの日から、いつかこの人と並んで歩くことができたら、そう思念している。

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