9 心配の声

 わたるはゆっくりと瞼を開く。その先に広がっていたのは、町の中心部。建物倒壊の事故現場のすぐ近くだ。消防車や救急車が往来している様を、彼はビルの屋上から眺めていた。


 こうして風に当たり、サイレンに耳を傾けていると、先程の会話は全て夢だったのではないかと思えてくる。本当は魔法使いなんていない。事故を目撃して混乱していたために見た幻覚だ。一気に現実に引き戻された気分だ。だが襟元に手をやってみると、そんなことはなかったと分かる。左の襟には、凹みのあるピンバッジ。ポケットの中もまさぐってみると、コインもある。


「俺……本当に魔法使いになったんだ」


『これからよろしくと、言ったばかりじゃないか』


「うわっ!?」


 突然頭の中に声が響いてくる。かざりのものだ。


『うむ――――。私たちの会話はこれでよさそうだな。わざわざ意識の深層に潜るのは危険だからね』


「あの店のことですか? そんなに危険はなさそうだったけれど」


 むしろ落ち着いて平和な空間だろう。あそこに入れば心が安らぎ、気が楽になると思える。危険など皆無に等しいはずだ。


『平和なのはあくまで、君の意識の奥の雰囲気だ。あの状態はね、夢を見ているのに近いんだ。喫茶店にいる間、君は店の中ならどんなことでもできるが、現実は違う。君の意識が表には出ない奥底に潜っているため、現実では活動ができなくなるのさ』


「つまり、寝てるってこと?」


『その通り。だから喫茶店に入るのは、確実に安全であると確認できた時だけにするといいよ。自分の部屋とかね。道路の真ん中で意識の奥に入って、表の意識を失くしてしまうと、大変なことになるよ』


 まあ、車道のど真ん中で突然寝てしまったら、車に飛ばされてお陀仏だろう。喫茶店のことが気に入った渡だが、あそこに行くのは控えよう、と決意する。


『それじゃあ、まずは家に帰るべきじゃないかい? あんな大規模な事故があったんだ、きっと家族が心配しているよ』


「あっ!!」


 飾に言われて、渡は慌てて、懐から携帯を取り出す。そこには母からの着信が7件、メールが17通、LINEメッセージが35件。


 しまったと、渡はこめかみを押さえた。


『From 母

 渡くん、大丈夫ですか? 無事なら返事ください』


『From 母

 巻き込まれたりしてない?』


『渡くん?』『ねぇってば』『何か言え』『バカ息子!』


 背筋が凍る思いだった。今頃母は、渡が倒壊事故に巻き込まれて死んだと思い込んでいるに違いない。錯乱して泣き崩れているかもしれない。


 急いで電話のリダイヤルボタンを押した。


 プルルルルルルルルルルルル――――――――。待機音だけが、虚しく鳴り響く。


 早く出てくれ。俺は生きている。生きて話がしたい! 焦りが募っていく。今頃ど

れだけ母が心配しているだろうか。きっと想像できないくらい取り乱しているだろ

う。


 ピッ。


「!!」


 ようやく通じた。だが応答がない。渡は急いで自分が無事であることを伝えようとした。


詩穂しほちゃん!? 俺だ! 渡だ!」


「――――――――――――渡くん?」


 か細い、母・風科かざしな詩穂の声。今にも消えてしまいそうな、止まってしまいそうな時計の針のような声だった。それに少し乾いている。きっと今の今まで、泣きじゃくっていたからだろう。


「ごめん、連絡できなくて。その、えっと、色々大変だったから……。でも大丈夫。俺は無事だ。安心してくれ」


 しばらくの沈黙の後、


「本当に渡くんなの? 幽霊じゃない?」


「もちろんだ。足もある、透けてもいない。って、電話越しじゃわかんねぇよな」


「悪霊が渡くんのふりをして、私をだましている訳でもない?」


「ああ。風科渡、本人だよ」


 よかった――冗談を言えるくらいには落ち着いている。そう、安堵する渡。これで取り乱して、話もできないような状況だったらどうしようかと思う。早く家に帰って、姿を見せて、今以上に安心させてやりたい。


 1度通話を切り、携帯をしまうと、彼は今いるビルから出ようとする。だがその時。あることに気が付いた。


「……俺の鞄と、買い物袋は?」


 ない。ここに来た時は、飾が表に出ていた。自力で移動した訳ではない。


「なあ、飾さん。俺の荷物って、どうした?」


『ああ、それなら、私が表に出て来た時にはすでに見当たらなかったよ』


 頭の中で声が響いた。きちんと聞こえていたらしい。


『あの事故だ。手荷物がそのまま手元にあることの方が難しい。諦めて新しいのを買うのをおすすめするよ』


 あの鞄に教科書とか財布とか色々入っていたんだがなぁ、とため息をつく。なくなってしまったものについて考えても仕方がない。ここは飾の言う通り、すっぱりと諦めて新しくそろえた方がいいかもしれない。


 結局渡は、手ぶらで帰ることになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る