2 乗っ取り

 気が付くと、わたるは暗闇の中にいた。不思議と身体に痛みはない。目を開き、辺りを見渡す。そこには何もなかった。ただ闇が広がっているだけ。瓦礫も死体も見えない。熱いだとか、寒いだとか、そういった気温のようなものも感じなかった。立っているのか座っているのかも分からない。虚無の、無限に広がっている暗闇の中に、独りぼっちで漂っているような感じ。そうか、と彼は自己完結する。


「俺は死んだのか」


 死んだら天国へ行く、あるいは地獄へ落ちるなんて言うが、そんなことは嘘っぱちだったらしい。死んだら何もないではないか。だが、これはこれでいいのかもしれない。痛い、辛いといった感覚もない。ただここに、何をするでもなく、いるだけでいいのだから。


 渡は己の死を自覚し、かえって冷静になっていた。これ以上足掻いても意味がないのだからと、諦めていただけかもしれない。こんな何もない場所で、希望を持てと言う方が難しいか。


 そんな彼の元へ、一筋の光が射した。


「あぁ――――、ようやく目覚めた」


 女性の声だ。あまり子供っぽくはない。すでに成人した、妙齢の女性の声。どこから聞こえて来たのだろうか。渡は首を前後左右にきょろきょろと振り回す。けれどどこを見ても、景色は変わらなかった。目を開けているはずなのに、ずっと瞼の裏を見つめているように思える。


「誰だ?」


 渡は問いかける。その声は何かに跳ね返されることなく、どこかへ吸い込まれていった。


「私は、君だ」


 女性の声が返って来た。それが意味するものはさっぱりわからないけれど。


 これは気のせいだ。孤独を恐れる心が生んだ幻聴だ。渡はそう解釈した。


「早く私を解放してくれ。そうしなければ、私も君も助からない」


 まだ声が聞こえる。が、やはり姿は確認できない。だんだん馬鹿らしくなってきて、瞳を閉じ、再び眠ろうとする渡――。


 ばしっ!


「おい起きろ。私ごと死ぬな!」


 痛い、という感覚を彼は覚えた。頬がヒリヒリする。まるで誰かに平手打ちを食らったみたいな。驚いて、頬を擦りながら目を開ける。すると彼の眼前に、見知らぬ女が立っていた。否、渡と同様に、彼女も真っ暗な空間に浮かんでいた。


「誰だお前! 何で、こんな所に人がいるんだ!?」


 女性は一糸纏わぬ姿でそこにいた。全身の色があまりにも薄すぎる。真っ白、と表現するよりは、透明と言った方が的を射ているかもしれない。この真っ暗な空間の中では、彼女の白い肢体は浮いて見えた。左腕がなく、肩にはさかりを終えた花弁のように萎まった傷痕が、生々しく残っている。その中で、彼女の双眸だけが、黒く爛々と煌めいている。


「よかった……、私を認識できたんだな。これならきっと『前世転生』ができるはずだ」


 彼女が何を言っているのか、渡にはさっぱり理解できない。困惑し続ける彼を、女性は突然抱き締めてきた。


「え、ええっっ!!??」


 これまで女には縁遠かった渡は慌ててしまう。こんなよく分からない流れで、裸の女性に抱かれるなんて、考えもしなかった。


 だがここに、艶っぽい雰囲気などありはしない。あるのは得体の知れない恐怖だけ。


「ちょっと主導権借りるからね」


 そう、まるで身体を、心を、存在を乗っ取られてしまうような。強く腕を絡められるほど、彼女に浸食されていくように感じる。渡は必死に「助けて」と叫ぼうとした。だが口ももう動かない。代わりに、


「すぐにここから出られるから」


 彼女が喋ると同時に、自分の唇が動いた。もう発言する権利を奪われてしまっている。次第に、腕や足を動かすことも、思い通りにならなくなってきた。まるで自分とは別の意志を持った衣服が、自分の全身を包み込んでいるみたいだ。


「安心して。私は君を傷つけない」


 優しい声だった。けれど信用ならない、胡散臭い言葉だった。


 建物の倒壊に巻き込まれた上、見ず知らずの、謎の女に存在を上書きされる。そんなのあんまりだ。もう、自分を認識できるものが思考だけになってしまった渡。人は遅かれ早かれ、必ず死ぬ。原因も様々、老衰、病気、事故、災害、自殺――――。数知れない死がこの世界にはある。でも、こんなのは嫌だ。自分を奪われるのを自覚しながら死んでいくのなんて。


「(俺が一体、何をしたっていうんだ……)」


 そりゃあ、勉強は大してしていないし、友達とケンカもしたし、親に反抗もした。けれど、許されないほどの罪を背負った覚えはない。地獄堕ちするよりも恐ろしい死にざまを見せるほど、悪行をはたらいたりはしていない。


「(助けてくれ……誰か、誰か!)」


 頭に、これまで自分が関わって来た人々の顔が、走馬灯のように浮かぶ。父、母。小学生のころの同級生。今でもたまにつるんでいる、中学の時の友人。今の、高校でのクラスメート。これまで指導してくれた先生たち。そして――――。


「(先輩………………)」


 ごめんなさい。もう車椅子を押してあげられません。死ぬまで、結局告白できなかったな。最期の最期で渡の心は後悔の海に沈んでいく。これだけ沈んでしまえば、2度と日の光を浴びることはないだろう。こんな短時間で、何度も何度も死を自覚するなんて、俺は本当に世界に嫌われていたんだな。次に生まれてくる時は、もっとみんなから愛されたいな。渡の想いは彼の中から溢れて、海面へ顔を出し、すぐさま泡沫となり消えた。

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