第4話 解



 柔らかな光の差し込む森がある。涼しげな風が葉や草を揺らす、穏やかな森だ。


 その中を一人歩く、白髪の少女の姿があった。


 足が向かう先は南西方向。先ほどまで向かっていた方向とは真逆の方向だ。


 やや重い足取りの近くに寄り添うものは、今はいない。



 ……“あれ”もいつの間にかいなくなってるんだけど。


 思うのは大きな角を持つ獣のことだ。


 時折現れては、こちらをじっと見つめるだけで何もしてこない獣。


 それが今まで見たことがないような形で荒ぶるのを見たときは、本当に驚いたものだ。



 少女はふと立ち止まり、後ろを振り向く。


 そこには今まで自分が歩いてきた道がある。


 目の焦点を、ずっと遠くへ、森の向こう側に合わせるが、そこには何もいない。


 思うのは森の外へ出て行った彼のこと。


 彼との道中の最後の最後に背を向け、再度振り返った時にはもうその姿はなかった。



 無事に逃げ切ってくれていればいい、と思う。


 彼が纏う空気には常に焦りがあった。彼には身を焦がすような目的があったということだ。


 自分にはそれがない。彼との会話でだんだんと自覚してきたが、どうやら自分は空っぽらしい。


 自分が何であり、誰であり、何故、どうやって、いつからここにいたのか、何も分からない。


 ……そんなこと、考えたこともなかった。


 難しいことを考えることは苦手だ。起きたいときに起き、食べたいときに食べ、寝たいときに寝る。


 今までもそうだったし、これからもそうなのだと思う。


 だから、



「きみの ねがいが かなうと いいね」



 そう呟くと、止めていた足を再び動かす。


 いつもの場所。温かな光と柔らかな草のベッドがある場所。


 そこへ帰るために。





 しかし、長い時間をかけて戻った場所は、いつもの場所ではなくなっていた。


 ……何、これ。


 お気に入りの草のベッドが、枕代わりの土の盛り上がりが、玉座の残骸を残して、消えている。


 代わりに地面にあるのは、見たことがないもの。直線と曲線を組み合わせた、記号の羅列だ。


 露わになった地面に彫り込まれたそれは、光の当たる、開けた場所全てを蹂躙するように覆っていた。



「――帰ってきたのか」



 驚くこちらの耳に、声が届く。それは、もういなくなったと思っていた彼の声だ。


 開けた場所の中心。崩壊した玉座を間に挟むようにして、彼が立っていた。


 彼の手には、先端が擦り切れた木の棒が握られている。


 何故ここに、という疑問を発する前に、彼は、こちらの目をまっすぐと見て、言った。



「話をしよう。俺たちのこれまでと、これからの話を」




● ● ● ● ●




 ……やっぱり驚いているよな、と青年は考える。


 彼女からしてみれば、自分は去ったはずの者だ。


 その驚きに理解を示すように深く頷きながら、ゆっくりと歩きだす。



「ここに俺がいるってことから分かってもらえるとは思うんだけど、うん、まあ、森を出た瞬間にここに戻された。あの出方じゃあ、ダメだったってことなんだろうな。どうやらこの森は、正しい方法でなければ脱出も許されないらしい」



 だから、考えたのだ。


 この魔術的現象の、何もかもを。


 その結果が、彼女が帰ってくるまでに刻まれた、この地面360度に書かれた文字たちだ。


 青年は、北を0時とした時、8時の位置にある部分に立つ。北東方向からやってきた彼女に背を向ける形だ。


 そして、いいか? と言って彼女の方を振り向く。



「まず最初の疑問は、この森では何が起きているか、だ」



 そう言いながら、木の棒で地面に書かれた文字を指す。


 そこには3つの事象が書かれていた。



 1、死者の蘇生又は森から出た者の強制転移


 2、木の急成長及び消失


 3、動かなくなった太陽



「これらの現象は別個に原因があるわけではなく、ある1つの原因が3つの異なる結果となって現れていると状況的に推測される。どれもこれも、この森の中で観測されるものばかりだからな」



 いいか? と再度言いながら、1本の指を立てる。



「ではその1つの原因とは何か。


 3つの結果に共通する要素――それは、“時”だ」



 少女に背を向け、地面に書いた結論を木の棒で指し示す。



「時間の逆行・停止・加速。この森で起きていることはこの3つのどれかに分類される。


 死者は生者に、苗木は大樹に、太陽は動かず……。不変であるはずの時間の流れが、この森ではめちゃくちゃになっているんだ。


 幸いその対象は、この森から出た者という例外を除いては、非生物に限定されている。


 だから今ここで俺や君がいきなり老人になったり、逆に赤ん坊に戻ったりすることはない」



 自分の背後からは何の反応も返ってこない。


 一度に話し過ぎたか、とも思う。多分今言ったことの全てを彼女は理解していないかもしれない。


 それでも、と背を向けたまま次の場所へ――10時の位置へ向かう。


 まずは自分の中にあるこの解を、吐き出してしまおうと、思う。


 そして2本の指を立て、



「2つ目の疑問だ。


 この森では時が歪んでいるとして、それは誰が原因なのか?


 結論から言おう――君だ」



 立てた2本の指をそのまま彼女の方へ向ける。


 その時、睨んだりするような目を向けないように注意を払う。


 もし自分の推理が当たっているのなら、彼女は責められるべきではない。


 ふ、と小さく息を吐いて、胸の内から湧きあがりそうになる思いを抑え込む。



「俺がそう考える理由は明確だ。


 ……君、どのタイミングで時間の流れが歪むのか、把握してるよな?」



 前回の、魔獣に追いかけられる直前のことだ。


 彼女は確かに、苗木が急成長しようとするタイミングを把握し、こちらに警告を送ってきた。



「それは君が時を歪めている張本人だからできたことだ。


 俺が召喚を得意とする魔術師なら、君は時を操ることが得意な魔術師ってことだ」



 正直なところ、時を操る魔術など聞いたこともない。


 だがあの灰髪の――幼い頃出会った、あの異質な魔術師は言っていた。


 “世界には、君の知らないものなどいくらでも存在する。


  世界を、君の知識ごときで測るのは止め給えよ”



 言い方に腹が立つことはともかくとして、内容的には間違っていない。


 この世界では、何でも起こるのだ。


 だから、指を突きつけたまま、自分は聞く。



「――どうなんだ? 君が、時を操り、俺をここに閉じ込めている犯人なのか?」



 自分と彼女の間には何もない。


 地面に文字を書くために取り払われた草は風に乗ってどこかへ飛んでいった。


 荒れた地面が露出した円形のフィールドで、周囲と隔絶された領域で、向かい合っている。



 自分の指が指すの先。


 彼女は、無表情に、しかしゆっくりと、



「わっかんない」



 首を傾げて、そう言った。



「……」


「む? きこえなかった? わからない って いったんだけど」


「ああ、大丈夫大丈夫。聞こえてたから。ちょっと思考が止まっただけだから」


「それなら よし!」



 何だその片足上げて片手でこちらを指さす変なポーズ、という疑問はある。


 しかし、彼女に魔術を使っているという自覚がないかもしれないという予測はあった。


 それは、と考えながら玉座を挟んでの4時の方向へ移動する。


 少女にもこちらに来るよう、手招きをする。


 その部分に書かれたものは、



「今回の相関図、だな」



 いいか? と言って、図の一点を木の棒で指す。



「まずはこれが俺。帝国の、召喚を得意とする補助系魔術師だ。


 俺の望みは、帝国に残してきた仲間を救う事。そのためにも、まずはこの森から出たい。


 しかし――」



 指した絵から伸びるギザギザの線をなぞる。


 その線の先にいるのは、



「俺を1度殺した魔獣。


 出会い頭に問答無用で殺しに来た辺り、何としてでも俺をこの森から排除したいらしい」



 あの時、体を貫いて言った角の感触は今思い出しても不快しか感じない。


 あれから分かったのは、あの魔獣が自分に対して嫌悪といえる感情を抱いているということだ。


 嫌な思い出を振り払うように頭を振って、相関図に焦点を合わせる。


 次になぞるのは、自分を示す絵から伸びる、もう1本の線。その線は、直線だ。



「そしてこれが君だ。時を操る謎の魔術師。


 君は俺がこの森を出るのを手助けしてくれた」



 向かうべき場所を示し、魔獣が来れば「逃げて」と言って囮になってくれた。


 そこまで言って、青年は相関図から目を離して、少女の顔を見る。


 そして、いいか、と言って、



「この相関図に描かれている誰もが、俺がこの森に残ることを望んでいない。


 なのに、時間を巻き戻され、俺はこの森から出られない」



 それは、有り得ないはずなのだ。


 魔術は“思い”が世界を改変した結果だ。


 魔術の根底には常に誰かの思いがある。


 誰も望んでいないのなら、その結果は起きないはずなのだ。



「それなら どうして?」



 相関図の前、しゃがんだ2人で顔を見合わせる。


 少女はこてん、と首を傾げる。


 その表情に感情があるように見えないのは、それを表現する方法をまだ獲得していないからだ。



 少女の問いに対する答えを、青年は持っていた。


 それは、自分の幼い頃の記憶。まだ自分の可能性を盲信していた時の記憶だった。




● ● ● ● ●




 あれは、6,7歳くらいのことだったか、と召喚士の青年は思う。


 その時にはすでに帝国は周辺国のほとんどと戦争状態にあった。


 だから、自分のような孤児院所属の孤児は将来兵役につくことが当然の進路として決まっていた。


 自分は幸運な方だったのだと思う。


 帝国の孤児には、帰る場所として孤児院がある孤児とそうでない孤児がいる。


 一人で生きていくしかない後者に比べ、少なくとも生活は保障され、同じような境遇の孤児とも協働できていたのだから。



 とはいえそこには親に捨てられた者、初めから親を知らない者、親を亡くした者など、暗い事情の掃きだめのような場所だった。


 己の抱える事情の裏で、未来を思い、きっと自分には己すら知らない素晴らしい力があって、将来それが認められるのだという根拠のない期待を、自分も含め誰もが持っていた。


 普段表に出さないそれがふとした時に漏れだし、衝突すれば、あとは売り言葉に買い言葉。


 見たことも、やったこともないことをできると言い張り、それならやってみろとの応酬が始まる。



 そうして気付いてみれば、たった一人で森に出現する魔獣を狩るという話になっていた。


 冷静になったのは、真夜中に孤児院を抜け出し、魔獣除けの魔術がかけられた国壁の穴をくぐり、暗い暗い森の中で魔獣の遠吠えを聞いた時。


 急いで帰ろうにも帰り道も分からず、茂みが揺れる音にすら全身を震わせ、ただ彷徨うようにある歩くほかなかった。



 そのような存在は森で暮らす魔獣にとっては格好の獲物でしかなかったのだろう。


 何か背後で茂みが揺れる音がした、と思って振り向いた時には、目の前に四足型の魔獣の爪が迫っていた。



 死ぬ。


 唯一それだけが頭をよぎり、庇う動きすら取れず、呆然とするしかなかったところに、



「――ふむ」



 声と共に、自分の前を黒い風が吹いた。


 風は自分の周辺をぐるりと回って迫っていたボス以外の魔獣をも撫でるように吹き飛ばす。


 風に押されたボスがその四肢で着地する間に、風は人の形をとっていた。



「なるほど。こういう状況か」



 それは異様な風体の男だった。


 肌の露出を極限まで抑えた服。


 顔すらボロボロの布で覆われており、辛うじて見えるのは、布の間から見える昏い瞳と、布に覆われていない灰色の髪だけだ。



 男はこちらを後ろ目に見て、チ、と小さく舌打ちをすると、掬うようにしてこちらの身を抱えた。


 そしてそのまま、魔獣の円を破るように平然と歩いていく。


 その時自分は、やめろ、とか、危ない、というようなことを言っていたと思う。


 しかし、男は、



「黙りたまえよ」



 とだけ言って、こちらの頭をごつい手袋に覆われた手で鷲摑みにした。


 途端、急激な眠気に襲われ、抗うこともできず、そのまま意識は闇に落ちた。




● ● ● ● ●




 気づいて目を覚ました時、目に映ったのは燃える薪だった。


 一目見て、恐ろしい暗闇から抜け出すことができたと安堵したことを覚えている。


 火の向こう、起きたての霞む視界には、先ほどの灰髪の男が座っていた。


 男は、身を起こしたこちらに気付くと、一瞬だけ視線を向け、すぐに興味を失ったように逸らす。



「何も言う必要はない」



 口を開きかけたこちらを遮るように、その男は先手を取った。



「大方、どこぞの孤児がつまらん見栄を張って、つまらんことをしに来て、つまらん死を迎えようとしていただけのことだろう。私はそのどれにも興味はない。


 ……ではなぜ助けたのか、と言いたげな顔だな。意味などない、ただの気紛れだ。


 お前は自分に、助けられるほどの価値があるとでも思っているのかね」



 淡々と、まるで台本を読み上げるように話す男だった。


 こちらが何を言おうとしているのか、その全て見透かしていて、全てにおいて先手を取って話すような男だった。


 まるで少しでも早く舞台を切り上げようとしている役者のようだ、という感想を抱いたことを覚えている。



「魔術も習っていない子供が魔獣の住む森に来ればどうなるかなど、分かり切っていたことだろう。


 ……ふむ、では早く魔術を教えろとでも言いたげな顔だな。


 愚かだな。君のような子供に魔術を教えるわけがないだろう」



 身じろぎもせず、灰髪の男は淡々と話し続ける。



「子供に魔術は教えられない。その理由は単純だ。


 魔術はその根底に人の“思い”が介在する。それが清廉な祈りであれ、醜悪な呪いであれ、世界を改変させる思いが、必ずそこに存在する。


 対し君はどうだね。自分ならできるという根拠のない自信とできないかもしれないという卑屈。譲れないというつまらない見栄とやめておけばよかったという後悔。矛盾だらけではないかね」



 言い返すために口を開こうとしても、男はこちらが声を発することを許さない。



「そんな子供の――未熟者の“思い”通りに魔術を使わせてみたまえ。


 碌なことにならん、ということだけは断言できるだろう」



 その後も、淡々と灰髪の男は話し続けた。


 男は途中からこちらを見てすらいなかった。


 言うべきことを言うためだけに、自分に割り振られたセリフをさっさと終わらせるように話し続けた。


 それでも、その言葉の全てが、正しいもののように感じられたことは、強く覚えている。




● ● ● ● ●




「――とまあ、今回のこれは、その碌なことにならなかったことの現れなんだろうな」


「……つまり どういうこと?」



 それはだな、と顎に手を当てて答える。



「君は確かに俺にこの森から出て行ってほしいと思っているが、その一方で、出て行ってほしくないとも思っているということだ。


 あの魔術師に言わせれば、未熟の結末。子供の癇癪ということなんだろうな」



 そう言って、彼女の方を向く。


 渋い果物でも無理やり食べさせられたような、皴の寄った顔をしていた。


 その彼女の感情に応えるように、ざわり、と剝がしたはずの草が、一斉に生えてきた。

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