第19話 夢幻の如く

 浩正は『椎名探偵事務所』の庭にある時空の穴から戦国時代にタイムスリップした。

 赤間は5万で菜々子を助けてくれた。仲直りした木村の力を借りて多江を探したがどこにも見当たらなかった。


 7月、信長・信忠は、織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を含む大軍を率い、伊勢長島の一向一揆を水陸から完全に包囲した。抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、大鳥居城から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど、一揆方は劣勢となる。

 9月29日、長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去しようとしたが、信長は鉄砲の一斉射撃を浴びせ掛けた。これは、信長の『不意討ち』と表現される事があるが、これは一向宗側が先に騙し討ちを行った事への報復であるという説がある。一方、この時の一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広ら織田方の有力武将が討ち取られた。


 これを受けて信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。この戦によって長島を占領した。


 天正3年(1575年)3月、荒木村重が大和田城を占領したのをきっかけに、信長は石山本願寺・高屋城周辺に10万の大軍で出陣した(高屋城の戦い)。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長が降伏を申し出たため、これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城を破城とした。その後、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。

 

 1567年(永禄10年)8月、信長は稲葉山城を落として美濃国を平定したが(稲葉山城の戦い)、城を落とされた斎藤龍興は『河内長島』へ逃げ込んだという。直後、信長は龍興を追って伊勢へ侵攻し、長島を攻撃した。

 その上で北伊勢の在地領主を服属させた。この年11月、顕如は信長に美濃・伊勢を平定したことを祝う書状を送っており、まだ信長と敵対したわけではなかった。


 1569年(永禄12年)、信長は北畠家が守る大河内城などを攻撃し(大河内城の戦い)、伊勢をほぼ支配下に置いた。


 1570年(元亀元年)9月、本願寺の反信長蜂起(石山合戦)に伴って、当時の願証寺住持証意や本願寺の坊官下間頼成の檄文によって長島でも門徒が一斉に蜂起。また、これに呼応して『北勢四十八家』と呼ばれた北伊勢の小豪族も一部が織田家に反旗を翻し一揆に加担した。大坂より派遣された坊官の下間頼旦らに率いられた数万に及ぶ一揆衆は、伊藤氏が城主を務める長島城を攻め落とし城を奪うと、続けて11月には織田信興の守る尾張・小木江城を攻撃。信興を自害させ城を奪取し、さらに桑名城の滝川一益を敗走させた。


 この頃、信長は近江国で朝倉氏・浅井氏と対陣しており(志賀の陣)、救援に赴くことができなかった。同年12月、信長は朝倉・浅井と和睦し、兵を引いた。


 ☠『第一次長島一向一揆』

 1571年(元亀2年)2月、近江国・佐和山城の磯野員昌が信長に城を明け渡して退却。5月には横山城の木下秀吉が、約500の寡兵で浅井井規率いる一揆勢約5000を破るなど、近江では織田軍が優位に立った。ここで信長は北伊勢への出陣を決める。


 5月12日、信長は5万の兵を率いて伊勢に出陣。軍団は三手に分かれて攻め入った。


 信長本隊、津島に着陣。

佐久間信盛軍団、中筋口から攻め入る。

(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)

 

 柴田勝家軍団、西河岸の太田口

(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)

織田軍は周辺の村々に放火。5月16日にはひとまず軍を退こうとした。


 これを見た一揆勢は山中に移動し、撤退の途中の道が狭い箇所に弓兵・鉄砲兵を配備して待ちうけた。信長本隊と佐久間軍はすぐに兵を退くことが出来たが、殿軍の柴田勝家が負傷。勝家に代わって殿をつとめた氏家卜全と、その家臣数名が討ち死にした。


 この一戦により、長島一向一揆はこれまでの圧倒的物量で押し切る一揆とは違い、撤退路での伏兵といった作戦行動を取るなど、防衛能力の高さを織田家に知らしめた。また桑名方面から海路を使って雑賀衆らの人員や兵糧・鉄砲などの物資が補給されていた為、伊勢湾の制海権を得ることも長島攻略には欠かせない要素であり、信長は長島に対しての侵攻作戦内容の再考を余儀なくされた。


 ☠『第二次長島一向一揆』

 1573年(天正元年)8月に浅井長政・朝倉義景を滅亡させた織田家であったが9月には信長は二度目の長島攻めを各将に通達した。


 今回は出陣の前に前回の反省から水路を抑えるために次男北畠具豊(織田信雄)に命じて伊勢大湊での船の調達も事前に命じていたが、こちらは大湊の会合衆が要求を渋り、難航していた。信長からも北畠具教・具房父子を通じて会合衆に働きかけたがこれも不調に終わる。それでも織田軍は予定通り9月中に二度目の長島攻撃を敢行した。


 9月24日、信長をはじめとする数万の軍勢が北伊勢に出陣。25日に太田城に着陣し、26日には一揆勢の篭る西別所城を佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆らが攻め立て、陥落させた。柴田勝家・滝川一益らも坂井城を攻略し、10月6日には降服させた。二人は続けて近藤城を金掘り衆を使って攻め、立ち退かせた。


 10月8日には信長は本陣を東別所に移動し、この時には萱生城・伊坂城の春日部氏、赤堀城の赤堀氏、桑部南城の大儀須氏、千種城の千種氏、長深城の富永氏などが相次いで降服し、信長に人質を送って恭順の意を示した。しかし白山城の中島将監は顔を見せなかったため、佐久間信盛・蜂屋頼隆・丹羽長秀・羽柴秀吉の4人に命じて金掘り攻めをさせ、退散させた。


 ただ、大湊の船の調達作業はこの時期に至っても進捗状況が芳しくなく、今回は長島への直接攻撃は見送らざるを得なかった。信長は北伊勢の諸城の中で最後まで抵抗する中島将監の白山城を佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆らに攻めさせて落城させると、10月25日には矢田城に滝川一益を入れ美濃へと帰陣を開始した。


 退く最中、門徒側が多芸山で待ち伏せし、またもや弓・鉄砲で攻撃を仕掛けてきた。中には伊賀・甲賀の兵もいたという。信長は林通政を殿軍としたが、折悪く雨が降り出して火縄銃が使用不可となってしまい、白兵戦となった。林通政が討ち取られ、また正午過ぎからの風雨で人足がいくらか凍え死にするなどの損害を出したが、通政や毛屋猪介らの部隊の奮戦によって夜に信長は一揆勢を振り切って大垣城へと到着。10月26日には岐阜へと帰還した。


 大湊での船の調達が失敗した背景には織田家より長島に肩入れをする会合衆の姿勢にも要因があった。こうした中で大湊が長島の将、日根野弘就の要請に応じて足弱衆(女や子供)の運搬のため船を出していたことが判明した。


 この事実を知った信長は激怒し、「曲事であるので(日根野に与した)船主共を必ず成敗すること」を命じ、山田三方の福島親子が処刑された。信長は福島親子の処刑によって「長島に与すことは死罪に値する重罪である」と伊勢の船主達に知らしめ、長島への人員・物資補充の動きを強く牽制した。


 ☠『第三次長島一向一揆』

 1574年(天正2年)6月23日、信長は美濃から尾張国津島に移り三度目の長島攻めのため大動員令を発し、織田領の全域から兵を集め、7月には陣容が固まり陸と海からの長島への侵攻作戦が開始された。

 タイムスリップしていた浩正は滝川一益に憑依していた。


 陸からは東の市江口から織田信忠の部隊、西の賀鳥口からは柴田勝家の部隊、中央の早尾口からは信長本隊の三隊が、さらに海からは九鬼嘉隆などが動員され、畿内で政務にあたる明智光秀や越前方面の抑えに残された羽柴秀吉など一部を除いて主要な将のほとんどが参陣し、7-8万という織田家でも過去に例を見ない大軍が長島攻略に注ぎ込まれた。主な陣容は以下の通り。


 市江口

 織田信忠、長野信包、織田秀成、織田長利、織田信成、織田信次、斎藤利治、簗田広正、森長可、坂井越中守、池田恒興、長谷川与次、山田勝盛、梶原景久、和田定利、中嶋豊後守、関成政、佐藤秀方、市橋伝左衛門、塚本小大膳


 賀鳥口

 柴田勝家、佐久間信盛、稲葉良通、稲葉貞通、蜂屋頼隆


 早尾口

 織田信長、羽柴秀長、浅井政貞、丹羽長秀、氏家直通、安藤守就、飯沼長継、不破光治、不破勝光、丸毛長照、丸毛兼利、佐々成政、市橋長利、前田利家、中条家忠、河尻秀隆、織田信広、飯尾尚清


 水軍

 九鬼嘉隆、滝川一益、伊藤実信、水野守隆、島田秀満、林秀貞、北畠具豊(織田信雄)、佐治信方


 7月14日、まず陸から攻める三部隊が兵を進め、賀鳥口の部隊が松之木の対岸の守備を固めていた一揆勢を一蹴した。同日中に早尾口の織田本隊も小木江村を固めていた一揆勢を破り、篠橋砦を羽柴秀長・浅井政貞に攻めさせ、こだみ崎に船を集めて堤上で織田軍を迎え討とうとした一揆勢も丹羽長秀が撃破し、前ヶ須・海老江島・加路戸・鯏浦島の一揆拠点を焼き払って五明(現愛知県弥富市五明)へと移動しここに野営した。


 翌7月15日には九鬼嘉隆の安宅船を先頭とした大船団が到着。蟹江・荒子・熱田・大高・木多・寺本・大野・常滑・野間・内海・桑名・白子・平尾・高松・阿濃津・楠・細頸など尾張から集められた兵を乗せて一揆を攻め立てた。また、織田信雄も垂水・鳥屋尾・大東・小作・田丸・坂奈井など伊勢から集められた兵を大船に乗せて到着し、長島を囲む大河は織田軍の軍船で埋め尽くされた。


 海陸、東西南北四方からの織田軍の猛攻を受けた諸砦は次々と落とされ、一揆衆は長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の5つの城に逃げ込んだ。


 大鳥居城・篠橋城は、織田信雄・信孝らに大鉄砲で砲撃され、降伏を申し出てきたが、信長は断固として許さず兵糧攻めにしようとした。8月2日夜中、大鳥居城の者たちが城を抜け出したところを攻撃して男女1,000人ほどを討ち取り、大鳥居城は陥落した。


 8月12日、篠橋城の者たちが「長島城で織田に通じる」と約束してきたので、長島城へと追い入れた。しかし長島には何の動きも起こらず、籠城戦が続いて、城中では多くの者が餓死した。


 兵糧攻めに耐えきれなくなった長島城の者たちは、9月29日、降伏を申し出て長島から船で退去しようとしたが、信長は許さず鉄砲で攻撃し、この時に顕忍や下間頼旦を含む門徒衆多数が射殺、あるいは斬り捨てられた。これに怒った一揆衆800余が、織田軍の手薄な箇所へ、裸になって抜刀するという捨て身で反撃を仕掛けた。『日本史』によれば、これは伏兵だったという。これによって信長の庶兄である織田信広や弟の織田秀成など、多くの織田一族が戦死し、700-800人(『信長公記』)または1,000人(『フロイス日本史』)ほどの被害が出た。ここで包囲を突破した者は、無人の陣小屋で仕度を整え、多芸山や北伊勢方面経由で大坂へと逃亡した。


 この失態を受けて、信長は、残る屋長島・中江の2城は幾重にも柵で囲み、火攻めにした。城中の2万の男女が焼け死んだという。同日、信長は岐阜に向け帰陣した。


 こうして、門徒による長島輪中の自治領は完全に崩壊、長島城は滝川一益に与えられた。


 一益は大永5年(1525年)、滝川一勝(滝川資清)の子として生まれたが、尾張国の織田信長に仕えるまでの半生は不明である。父が甲賀出身であるとする立場からは近江国の六角氏に仕えていたとされることもある。『寛永諸家系図伝』には「幼年より鉄炮に長す。河州(河内国)にをひて一族高安某を殺し、去て他邦にゆき、勇名をあらはす」とあり、鉄砲の腕前により織田家に仕官したとされる。なお、後年に水戸藩の佐々宗淳から織田長清に送られた書状には、「滝川家はそれなりに由緒ある家だったが、一益は博打を好んで不行跡を重ね、一族に追放され、尾張津島の知人のところに身を寄せた」と書かれている。


 信長に仕えた時期は不明であるが『信長公記』首巻によると、信長が踊りを興行した際、「滝川左近衆」が餓鬼の役を務めたという記述があり、また親族とされる慈徳院が、弘治年間(1555年~1558年)に生まれた織田信忠の乳母であったことから、この頃には信長の家臣であったようである。


 永禄3年(1560年)、一益は、北伊勢の桑名は美濃国との境であり、患となる可能性があるため、桑名長島の地を得、北畠氏や関氏に対し備えることを信長に進言した。まずは尾張国荷ノ上の土豪で長島城主・服部友貞の資金によって蟹江城を構築し、やがて友貞を放逐して蟹江城主となる。永禄6年(1563年)には松平家康(後に徳川に改姓)との同盟交渉役を担う(清洲同盟)。


 永禄10年(1567年)と永禄11年(1568年)の2度に渡る伊勢攻略(北勢四十八家を中心とする諸家を滅ぼした)際には攻略の先鋒として活躍しており、源浄院主玄(後の滝川雄利)を通じ北畠具教の弟・木造具政を調略し、具教が大河内城を明け渡した際には津田一安と共に城の受け取りを任され、戦後は安濃津・渋見・木造の三城を守備することを命じられた(大河内城の戦い)。永禄12年(1569年)に与えられた北伊勢5郡を本拠地とした。

 津田一安は天正3年(1575年)頃から北畠氏の軍事行動を先導しており、一益と連携して越前一向一揆討伐や大和宇陀郡の統治を行っている。


 浩正は怪物を倒す度に憑依できる人物が変わる。信長に憑依する為には残り10匹倒さなければいけない。

 長島城で餓死者が出たとき、一益に憑依していた浩正は鬼火の夢を見た。🔥

 

 田丸領間弓村(現三重県度会郡玉城町)の猪草が淵に現れたとされる。

 猪草が淵は幅十間(約18メートル)ばかりの川に、水際まで十間を越える高さに丸木橋を渡す。水底は深く、さらに周囲には山蛭が多く住む大変な難所であった。このあたりに出没したのが悪路神の火である。雨の降る夜に特に多く現れ、誰かが提灯を灯しているかのように往来する。この火に出会った者は、素早く地に伏して通り過ぎるのを待ち、逃げ出せばよい。このようにせず、うっかり近づけば病に侵され、大変な患いになるという。


 また、浩正は一目連の夢を見た。

 一目連は天目一箇神ともいう。天津彦根命の子で、戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造った。

 夢から覚めると枕元に不思議な刀があった。どんなものでも切れる不思議な刀、草薙剣だ。

 

 下間 頼旦(生年不詳 - 天正2年9月29日(1574年10月13日))は、戦国時代の本願寺の武将だ。


 元亀元年(1570年)、織田信長からの本願寺明け渡しの要求に反発した石山本願寺第十一世法主顕如は全国の本願寺門徒に檄文を飛ばし、石山合戦を勃発させた。その折に伊勢国の願証寺に顕如の命で現地の指導にあたらせる為に派遣された人物の一人が頼旦であった。


 頼旦は現地に入った僧の中でも高い権限を与えられた地位にあり、長島入りすると下間頼成と共に門徒を率いて同年11月21日に織田信興(信長の弟)が守る尾張の古木江城を尾張弥富の服部党や現地の農民らが合流した大軍で攻め立て敗死させ、古木江城を支配下に収めた。


 元亀2年(1571年)、織田信長は長島一向一揆を殲滅するべく50,000人余りの大軍をもって長島に攻め寄せる。これに対し頼旦は中洲が多く大軍の利を生かしにくい長島の地形を生かした防戦を展開。篠橋砦・符丁田砦・森島砦らに紀伊の雑賀衆・地侍・門徒を配して織田軍を待ち構えた。この一戦では特に西河岸の太田口から中洲を渡って砦へと取り付こうとした柴田勝家率いる美濃衆に砦や山から鉄砲・弓などの一斉射撃を浴びせ甚大な打撃を与え、退却しようとした柴田軍に更に追撃を加えて勝家を負傷させ、柴田軍と入れ替わりで殿を務めた氏家卜全を敗死させる戦果を挙げ、織田軍の撃退に成功した。


 しかしながら織田軍は諦めず、天正元年(1573年)第二次長島侵攻では長島の周囲で協力的であった豪族の諸城が全て攻略されるなど力を削がれ、続く天正2年(1574年)の第三次長島侵攻では織田軍の総勢80,000人の大軍に各砦は個別に攻囲され連携を断たれてしまい、籠城以外に取る手段が無くなった。海陸の流通も織田軍に押えられた長島は徐々に兵糧が尽きて飢餓に苦しめられた。


 こうした状況の中で同年9月25日、頼旦は織田軍に『長島に篭もる者の助命』を条件に開城を願いでて、信長が了解したのでついに降服した。しかしこれは信長の謀略で、9月29日に城の明け渡しのために城から出たとき、頼旦は織田軍の銃の一斉射撃を受けて周辺の門徒ともども射殺された。

 シモツマ・ライタンは浩正の夢の中で後神(うしろがみ)に食われた。鳥山石燕の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』などにある日本の妖怪。


『今昔百鬼拾遺』では頭頂部に一つ目を頂く女性の幽霊のような姿で描かれており、石燕による同書の解説文によれば、突然人の背後に現れて後ろ髪を引くものとしている。妖怪探訪家・村上健司はこれを、『後ろ髪(うしろがみ)を引かれる』と『神』との語呂合わせによる創作物としている。


 江戸時代の狂歌本『狂歌百物語』では名称は『後髪(うしろがみ)』とされ、画図は後ろ髪をひかれる女性のみで、妖怪などは描かれていない。これは何かを決断して行動しようとする人間の心を、その決意よりもさらに強く思いとどまらせようとする心の動きや戸惑いなどを、一種の霊として表現したものと解釈されている。


 井原西鶴の著書『西鶴織留』によれば、後神が三重県の伊勢神宮の宮に祀られており、親が子を勘当しようとしたとき、親の背後に立って気持ちをなだめるものとされる。


 後ろ神は臆病な女が夜道を歩いていたところ、突然現れた後神がその女の束ねた髪をくしゃくしゃに乱し、火のように熱い息を吹きかけたという。また、風を起こして傘を飛ばしたりして驚かしたり、冷たい手や熱い物を首筋につけたりするものともいう。


 他にも戦後の文献によれば、臆病者や優柔不断な人間に取り憑く妖怪・臆病神の一つで、人が何かを行おうとして躊躇しているとき「やれ、やれ」などとそのかして、その者がいざ行動に出ようとすると、後ろに回って後ろ髪をひき、恐怖心や心残りを誘うものであり、震々、袖引小僧などもこの臆病神の一種だとの説もある。

 

 

 金平鹿(こんへいか)は、紀伊国熊野の海を荒らし回った鬼の大将。文献によっては、海賊多娥丸(たがまる)などとも記されている。熊野灘の鬼の岩屋を本拠として棲み、数多くの鬼共を部下にしていたという。


 鬼ヶ城は断崖絶壁で、海が静かな時にしか近づけないところであり、ここに鬼神が住んで郷民を悩ませていた。平城天皇の頃、鈴鹿山の鬼神を退治した征夷大将軍坂上田村丸が、紀伊国の鬼の話を聞いて討伐しようと二木島を経由して船で岩屋へと近づいた。鬼の大将である金平鹿は手下を集め「田村丸は物の数ではないが、観音の加護があるので我々の神通力が効かないかもしれない」と食料を運び込んだ岩屋の石の戸を閉めてじっと閉じ籠った。田村丸が攻めあぐねていると、沖にある島の上に菩薩のような一人の童子が現れ、弓矢を携え田村丸を手招きした。かしこまる田村丸に「私が舞を舞うから、軍勢も一緒に舞おう」と童子が語り、船を並べた舞台の上で舞い遊んだ。その妙なる調べに、鬼の大将は何事かと石の戸を少し開けて顔を出したところを、田村丸はここぞとばかりに童子から授かった弓を引き矢を放つと、矢は金平鹿の左眼に命中した。すると岩屋の中から金平鹿の手下の鬼たち800人が飛び出してきたが、田村丸の千の矢先にことごとく倒れた。千手観音の化身であった童子は、光を放って飛び去り、童子があらわれた島は魔見るか島と呼ばれ、鬼ノ本(木ノ本)もこの故事から付けられた地名である。 金平鹿の首は井土村の谷間に埋められ、祟りをもたらさぬよう「さしもぐさたたりをなさじ」と念じて封じ込めた。将軍は大泊の奥に観音堂を建立して、守り本尊の千手観音像を納め清水寺と名付けた。


 三重県熊野市井戸町に鎮座する大馬神社に、鬼ヶ城に於ける討伐で、賊の頭の首を地中に埋め、その上に社殿を造ったとの伝承がある。この賊の頭が海賊多娥丸(たがまる)とされている。


 浩正の夢の中でオダ・ノブツグが死んだ。夢の話を九鬼嘉隆に話した。九鬼水軍の頭領で、関ヶ原の戦いでは西軍につき命を散らしている。 

「信次殿が河童に尻から内臓を抜かれて死ぬ夢を見た」

「ハハハ!それは不可思議な夢ですな?尻こぼしという妖怪がこの辺りに棲んでるそうですぞ?」

 尻こぼしとは、「尻を破壊する、削り取る者」の意で、「こぼす」(毀す、毀つと同)とは「壊す、破壊する」「剃り取る、削り取る」を意味する古語であり方言である。「こぼし」は小法師、子法師の意味との説がある。


 海にもぐる海女を襲い、河童のように人間の尻子玉を抜き取るといわれるもので、これに襲われた死体は必ず尻の穴が開いているという。海で人を脅かしてショック死させるともいう。また鉄が嫌いであり、海中に鉄を落とすとこの妖怪の祟りに遭うという説もある。


 布施田村では、天王祭の日に海に入ると尻こぼしに生き胆を奪われてしまうという。しかし海女がテングサ採りのために海に入らなければならない日が天王祭にあたり、どうしてもその日に海に入らなければならない場合には、山椒の枝を糸でまとめて首にかけると、尻こぼしを除けるお守りになるという。


 志摩町越賀の伝承によれば、あるとき川に住むコボシが馬に悪戯しようとし、逆に馬に蹴られて頭の皿を割られ、川へ帰れなくなった。仕方なくコボシは人間女性に化けて同町の普門寺で働いていたが、寺の住職に正体を見破られた。コボシが住職に、皿を治して水を入れてくれるよう懇願したところ、住職は今後は悪戯をしないよう誓い、その誓いの証拠の品となるものを出すように言った。するとコボシは海から大きな石を2つ運んで来て、この石が朽ちるまで悪戯をしないと誓ったので、和尚は皿を治してやったという。この誓いの石の一つは普門寺の境内に、もう一つは中の浜の北東の堤防の上に、「小法師石(こぼしいし)」の名で現在でも残されている。


 織田信次は兄の織田信秀に仕え、初め深田城主となる。天文21年8月15日(1552年9月3日)、信秀の死後に攻勢に出た清洲織田家・織田信友の重臣・坂井大膳らが、織田伊賀守の松葉城と、その並びにあった深田城を占拠し、伊賀守と信次は人質となった。翌16日、甥・織田信長と兄・信光が駆けつけ、萱津の戦いが起こり、大膳側を敗走させ、伊賀守と信次も解放された。


 天文24年4月20日(1555年5月10日)、信友が信長によって滅ぼされ、兄・信光が守山城から那古野城へ移ると、後任の守山城主となった。ところが弘治元年6月26日(1555年7月14日)、信次が家臣を連れて龍泉寺の下の松川渡し(現在の庄内川)で川狩りをしていたところ、1人の若者が馬に乗って通りかかった。若者が馬から下りないという無礼な態度だったため、信次の家臣・洲賀才蔵は怒って弓で射殺した。近づいて見てみると、その若者は信長の弟・織田秀孝であり、遺体を見て驚愕した信次はそのまま逃亡した。守山城下は、弟の死に激怒した織田信勝(信長の弟で秀孝の兄)の軍により焼き払われた。信長の異母弟・織田信時が後任の守山城主を務めたが、重臣の角田新五の謀反に遭い自害したため放浪中の信次は信長に罪を許され守山城主に戻った。


 天正元年(1573年)、信長と対立した妹婿・浅井長政の小谷城が攻め落とされ、浅井氏が滅亡した際、お市の方と茶々、初、江の三姉妹は大叔父にあたる信次に預けられ、守山城に滞在していたとされる。


 天正2年(1574年)、第三次長島一向一揆攻めに参加。兵糧攻めを受けた一揆勢は降伏しようとするが信長は受け入れず、退城して海から逃げようとする一揆方の人々を鉄砲で射殺させた。追い詰められた一揆勢は捨て身の斬り込みをかけ、この時信次は戦死した。


 織田氏の悲劇は信次だけでは終わらなかった。織田信直は織田氏(藤左衛門家)・織田信張の子として誕生。母は織田信康の娘。


 小田井城に居を持ち父・信張と行動を共にしていた。天正2年(1574年)7月、第三次長島攻めに従軍。同年9月29日、一揆勢の捨て身の攻撃に遭い討ち死にした。享年29。

 ノブナオは浩正の夢の中で鈴鹿御前の吐く炎に包まれて死んだ。鈴鹿御前は、伊勢国と近江国の境にある鈴鹿山(鈴鹿峠とその周辺の山地)に住んでいたという伝承上の女性。女神・天女とされ、鈴鹿姫・鈴鹿大明神・鈴鹿権現・鈴鹿神女とも記されている。文献によっては立烏帽子(たてえぼし)の名前でも記され、女盗賊・鬼・天の魔焰(第六天魔王もしくは第四天魔王の娘)とされる。その正体は伝承や文献により様々である。


 室町時代以降の伝承はそのほとんどが田村語り並びに坂上田村麻呂伝説と深く関連し、坂上田村麻呂ないし彼をモデルとした伝承上の人物・坂上田村丸と夫婦となって娘の小りんにも恵まれる。


 三重県亀山市と滋賀県甲賀市の境に位置する鈴鹿峠に古くは東海道の鈴鹿関が置かれ、東山道の不破関・北陸道の愛発関とともに三関と呼ばれた。鈴鹿峠は畿内と伊勢や東国を結ぶ重要な役割を果たしたことで、往来する旅人や物資を目当てとした盗賊が跳梁跋扈したことが記録や説話に記されている。特に伊勢国は水銀の産地として有名で『今昔物語集』では、水銀商人80余人が盗賊に襲われたが、日頃から恩を施していた蜂が飛んできて盗賊を刺したおかげで難を逃れたなどと記されている。鬼の棲家とされたことから藤原千方の四鬼の説話なども伝わっている。


 一方で鈴鹿の地は、斎王群行の途中に設けられた鈴鹿郡の頓宮が置かれ、豊かな水に恵まれていたことから斎宮が禊を行う鈴鹿禊の聖地であり、のちに巫覡の徒(修験山伏・陰陽師・巫女)が祓えをおこなった神聖な地となった。


 14世紀に成立する『太平記』では源家相伝の鬼切の剣の由来を語る場面で、田村麻呂が鈴鹿御前と戦ったおりの剣が鬼切であり、やがて田村麻呂は鬼切を伊勢神宮に奉納、その後は源頼光に伝えられたとの一節があり、鬼切の剣を介して田村麻呂から頼光への武器継承の説話が創造された。御伽草子の世界は『太平記』の記述を元にしてさらに脚色された。


 応永25年(1418年)の征夷大将軍・足利義持の伊勢参宮に随行した花山院長親が著した『耕雲紀行』に、当時の鈴鹿山の様子が記されており、「その昔勇力を誇った鈴鹿姫が国を煩わし、田村丸によって討伐されたが、そのさい身に着けていた立烏帽子を山に投げ上げた。これが石となって残り、今では麓に社を建て巫女が祀るという」と、この頃には鈴鹿御前と坂上田村麻呂伝説が融合していたことが伺える。


 紀伊半島南部に位置する熊野では『紀州熊野大泊観音堂略縁起』に「鬼神魔王が蜂起して日本で人々を殺害し困らせたため、平城天皇が坂上田村麻呂に鎮定を命じた。田村麻呂は伊勢鈴鹿から出陣して凶徒を退治するものの、討ち漏らしたものたちが熊野へ逃げて深山幽谷に身を隠した。八鬼山、九鬼、三木などで敵を討つものの鬼王はしぶとく逃れて、行方がわからなくなった。田村麻呂は高山に登って『立烏帽子』を心に念じ一心に祈ると、雲の中で天女が南の海辺の岩屋(鬼ヶ城)に悪鬼(金平鹿)が隠れていると告げて消えた」と田村麻呂の手助けをしている。


 織田信張は※清洲三奉行のうちの一つ織田藤左衛門家の系統。藤左衛門家は三奉行として織田信秀とは同格であったが当主の早世が続いたため早くから信秀、信長に仕えた。


 小田井城主の織田寛故の子として誕生。織田信長に仕えた際、偏諱を受け信張と名乗った。


 弘治2年(1556年)7月、織田信長が盆踊りの祭を主催した際には、信張の家来衆が地蔵に扮した。近江国浅井攻め・比叡山焼き討ちなどに従軍。その後天正5年(1577年)紀州の雑賀攻めなど、主に紀伊方面を担当。紀伊国佐野砦を任されていたが、その後岸和田城へ移り和泉半国を領し、信長直轄軍の一員として働いた。


 天正10年(1582年)に雑賀衆の土橋重治を破るが、同年の本能寺の変直後に紀伊国人らが蜂起すると、蜂屋頼隆と鎮圧に努めた。その後尾張の居城である小田井城に戻り、織田信雄に知行1100貫で仕えた。天正12年(1584年)には、信雄の家臣として、土佐国の香宗我部氏と連絡をとっている。


 天正15年(1587年)に佐々成政が肥後国の検地に失敗し切腹を命じられた際には、豊臣秀吉より八代城を与えるとの命があったが、信張はこれを固辞した。文禄3年(1594年)、近江の大津で没する。享年68。


 ※清洲三奉行家

 『因幡守家』-織田広長?-織田広貞?-織田広延-…-織田達広?-織田広信(信友?)


 『藤左衛門家』-織田良縁?・織田良頼?-…-織田常寛-織田寛故-織田寛維-織田信張-織田信直-織田信氏-織田忠辰-


 『弾正忠家』-織田良信?-織田信定-織田信秀-織田信長-(織田信忠-織田秀信)


 信長の従兄弟に織田信成という人物がいる。フィギュアスケートの彼と同姓同名だ。 

 信成は信長とは義兄弟でもあった。血で血を洗うこの時代、兄弟だろうが親子だろうが殺し合うことが日常茶飯事だった。事実、信長は実の弟の信行を暗殺している。

 信成は兄弟ではないが、実の兄弟以上に硬い絆で結ばれていた。織田信光の長男として誕生。


 弘治元年(1555年)、那古屋城主として威を振るった父・信光が殺害された後は信長に従ったらしいが、この時の詳しい経緯は不明。


 小幡城主となるが、同城はしばらく後に廃城となった。


 元亀2年(1571年)の第一次長島攻めや、天正元年(1573年)7月の槙島攻め、同年8月の浅井・朝倉攻めに従軍。


天正2年(1574年)9月29日、第三次長島攻めに参加。戦いの終盤において、追い詰められた一揆側の捨て身の攻撃を受けて、戦死した。


 ノブナリは浩正の夢の中でトモカヅキの餌食に遭った。トモカヅキは、『同一の潜水者』の意味で、『かづく』(潜く)とは『潜水すること』『潜水して、魚介類を採取すること』を意味する古語であり方言である。


 トモカヅキは、海人などの海に潜る者にそっくりに化けるという。つまり、海には自分一人だけのはずなのに、自分そっくりの身なりの人がいるということになる。この妖怪に遭遇するのは曇天の日といわれる。ほかの海女と違って、鉢巻の尻尾を長く伸ばしているのでトモカヅキだとわかるともいう。


 トモカヅキは、人を暗い場所へと誘ったり、アワビを差し出したりする。この誘いに乗ってしまうと、命が奪われると恐れられている。このときには後ろ手にしてアワビを貰えば良いという。しかし、その言い伝えを聞いていた海女がトモカヅキに遭い、その通りにしたところ、トモカヅキに蚊帳のようなものを被せられて苦しみ出し、無我夢中で持っていた鑿でこの蚊帳状のものを破って助かったという話もある。


 トモカヅキに遭った海女はそれ以降、ほとんど海に潜る仕事はしない。それどころか、その話を聞いただけの近隣の村の海女ですら、日待ちといって2,3日は海に潜らないほど、海女たちはトモカヅキを恐れたという。


 海女たちはこの怪異から逃れるため、五芒星と格子の模様を描いた『セーマンドーマン』または『ドーマンセーマン』と呼ばれる魔除けを描いた服、手ぬぐいを身につける。

 陰陽道で知られる安倍晴明や蘆屋道満に由来するともいわれるものだが、トモカヅキとの関連性はよくわかっていない。


 佐治 信方(さじ のぶかた、天文22年(1553年)? - 天正2年9月28日(1574年10月12日)?/天文19年(1550年) - 元亀2年(1571年)5月という説もある)は戦国時代の武将。通称は八郎。尾張国大野城主佐治為景の嫡男で、名ははじめ『為興』。妻は織田信秀の娘で信長の妹お犬の方。そのため信長の義弟にあたる。子に一成、秀休。


 佐治氏は代々知多半島の大半を領した豪族で、伊勢湾海上交通を掌握する佐治水軍を率いていた。そのため尾張を領した信長らにとって非常に重要視され、桶狭間の戦いの後に信長に臣従するが、妹を妻に与えられ、信長の字を拝領されて『信方』と改名するなど、待遇は一門衆並みであった。


 信方は信長の嫡男信忠に従って、伊勢長島攻めに加わるが、天正2年9月28日、ここで討ち死にしてしまう(『大雲山誌稿』)。わずか22歳だった。

 ノブカタは浩正の夢の中で肉吸いに殺された。肉吸いは三重県熊野市山中や和歌山県の果無山に伝わる妖怪。


 人間に近づき、その肉を吸い取る妖怪と言われる。夜遅くに提灯を灯して山道を歩く人間に対しては、18,19歳の美しい女の姿に化け「火を貸してくれませんか?」と言って提灯を取り上げ、暗闇の中で相手に食らいつき、肉を吸い取ったという。そのためにこの地方の人々は、火の気なしに夜道を歩くことは避け、どうしても夜道を行く際には提灯と火種を用意しておき、肉吸いに提灯を奪われたときには火種を振り回して肉吸いに打ちつけたという。南方熊楠の随筆『南方随筆』には、明治26年にある郵便脚夫が肉吸いに遭い、火縄を打ちつけて退散させたとある。


 また、十津川付近で郵便脚夫をしていた老人の証言では、源蔵という猟師が果無山へ猟に行ったが、狼がやってきて袖を噛み進ませまいとした。そこへ、目の前に18、19歳ほどの女が「ホーホー」と笑いながら現れ、火を貸すように頼んだ。源蔵が怪しみ、「南無阿弥陀仏」と彫られた銃弾を準備しようとすると、何事もなく立ち去ったが、その後背が2丈ほどもある怪物の姿で現れたため、先に準備していた銃弾で仕留めたところ、正体は白骨だけの化け物だったという。


 江戸時代の黄表紙『百鬼夜講化物語』には、山中に現れるという伝承とは異なり、屋内で男に寄り添う姿が描かれており、男と交わることで精気を吸い取るもの、または男性が腎虚になりそうな美女を妖怪にたとえて描いたものとの説もある。


 甲斐国・信濃国を領する武田氏は永禄年間に、駿河の、今川氏の領国を併合し(駿河侵攻)、元亀年間には遠江国・三河国方面へも侵攻していた。その間、美濃国を掌握した尾張国の織田信長は足利義昭を擁して上洛しており、当初は武田氏との友好的関係を築いていた。しかし、将軍義昭との関係が険悪化すると、元亀3年には反信長勢力を糾合した将軍義昭に挙兵される。そこで将軍義昭に応じた武田信玄が、信長の同盟国である徳川家康の領国である三河へ侵攻(西上作戦)したため、織田氏と武田氏は手切れとなった。


 浩正の夢の中で武田信玄が龍に食い殺される夢を見た。越後の上杉謙信とは5回も川中島の戦いで刃を交えたが結局決着はつかなかった。

「謙信が信玄を討ち果たしてくれれば幸いなんだがの?」

 一益に化けていた浩正の話を聞いた勝家はそうぼやいた。


 信玄の急死によって西上作戦は頓挫し、武田勢は本国へ撤兵を余儀なくされた。一方の信長は、朝倉氏・浅井氏ら反信長勢力を滅ぼして、将軍義昭を京都から追放。自身が「天下人」としての地位を引き継いで台頭した。


 武田氏の撤兵に伴って三河の徳川家康も武田領国に対して反攻を開始し、三河・遠江の失地回復に努めた。天正元年(1573年)8月には、徳川方から武田方に転じていた奥三河の国衆である奥平貞昌(後の奥平信昌)が、秘匿されていた武田信玄の死を疑う父・貞能の決断により一族を連れて徳川方へ再属すると家康からは、武田家より奪還したばかりの長篠城に配された(つまり対武田の前線に置かれた)。


 1万5000の武田の大軍に対して、長篠城の守備隊は500人の寡兵であったが、200丁の鉄砲や大鉄砲を有しており、また周囲を谷川に囲まれた地形のおかげで武田軍の猛攻にも何とか持ちこたえていた。しかし兵糧蔵の焼失により食糧を失い、数日以内に落城必至の状況に追い詰められた。5月14日の夜、城側は貞昌の家臣である鳥居強右衛門を密使として放ち、約65km離れた岡崎城の家康へ緊急事態を訴えて、援軍を要請させることにした。


 浩正はトリイ・スネエモンが夢の中で怪物に殺される夢を見た。

 夜の闇に紛れ、寒狭川に潜って武田軍の厳重な警戒線を突破した鳥居が、15日の午後にたどり着いた岡崎城では、既に信長の率いる援軍3万人が、家康の手勢8000人と共に長篠へ出撃する態勢であった。信長と家康に戦況を報告し、翌日にも家康と信長の大軍が長篠城救援に出陣することを知らされた鳥居は、この朗報を一刻も早く長篠城に伝えようと引き返したが、16日の早朝、城の目前まで来たところで武田軍に見付かり、捕らえられてしまった。


 最初から死を覚悟の鳥居は、武田軍の厳しい尋問に臆せず、自分が長篠城の使いであることを述べ、織田・徳川の援軍が長篠城に向かう予定であることを堂々と語った。鳥居の豪胆に感心した武田勝頼は、鳥居に向かって「今からお前を城の前まで連れて行くから、お前は城に向かって『援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ』と叫べ。そうすれば、お前の命を助け、所領も望みのままに与えてやろう」と取引を持ちかけた。鳥居は表向きこれを承諾したが、実際に城の前へ引き出された鳥居は、「あと二、三日で、数万の援軍が到着する。それまで持ちこたえよ」と、勝頼の命令とは全く逆のことを大声で叫んだ。これを聞いた勝頼は激怒し、その場で部下に命じて鳥居を磔にして、槍で突き殺した。しかし、この鳥居の決死の報告のおかげで、援軍が近いことを知った貞昌と長篠城の城兵たちは、鳥居の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、見事に城を守り通すことができたという。


 鳥居強右衛門が歴史の表舞台に登場するのは、天正3年(1575年)の長篠の戦いの時だけで、それまでの人生についてはほとんど知られていない。現存する数少ない資料によると、彼は三河国宝飯郡内(現在の愛知県豊川市市田町)の生まれで、当初は奥平家の直臣ではなく陪臣であったとも言われ、長篠の戦いに参戦していた時の年齢は数えで36歳と伝わる。


 奥平氏はもともと徳川氏に仕える国衆であったが、元亀年間中は甲斐武田氏の侵攻を受けて、武田家の傘下に従属していた。ところが、武田家の当主であった武田信玄が元亀4年(1573年)の4月に死亡し、その情報が奥平氏に伝わると、奥平氏は再び徳川家に寝返り、信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買うこととなった。


 奥平家の当主であった奥平貞能の長男・貞昌(後の奥平信昌)は、三河国の東端に位置する長篠城を徳川家康から託され、約500の城兵で守備していたが、天正3年5月、長篠城は勝頼が率いる1万5,000の武田軍に攻囲された。5月8日の開戦に始まり、11、12、13日にも攻撃を受けながらも、周囲を谷川に囲まれた長篠城は何とか防衛を続けていた。しかし、13日に武田軍から放たれた火矢によって、城の北側に在った兵糧庫を焼失。食糧を失った長篠城は長期籠城の構えから一転、このままではあと数日で落城という絶体絶命の状況に追い詰められた。そのため、貞昌は最後の手段として、家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断した(一方、岡崎城の家康もすでに武田軍の動きを察知しており、長篠での決戦に備えて同盟者の織田信長に援軍の要請をしていた)。しかし、武田の大軍に取り囲まれている状況の下、城を抜け出して岡崎城まで赴き、援軍を要請することは不可能に近いと思われた。


 この命がけの困難な役目を自ら志願したのが強右衛門であった。14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発。川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらまし、無事に包囲網を突破した。翌15日の朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から狼煙を上げ、脱出の成功を連絡。当日の午後に岡崎城にたどり着いて、援軍の派遣を要請した。この時、幸運にも家康からの要請を受けた信長が武田軍との決戦のために自ら3万の援軍を率いて岡崎城に到着しており、織田・徳川合わせて3万8,000の連合軍は翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていた。これを知って喜んだ強右衛門は、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返した。16日の早朝、往路と同じ山で烽火を掲げた後、さらに詳報を伝えるべく入城を試みた。ところが、城の近くの有海村(城の西岸の村)で、武田軍の兵に見付かり、捕らえられてしまった。烽火が上がるたびに城内から上がる歓声を不審に思う包囲中の武田軍は、警戒を強めていたのである。


 巨大なネズミの怪物が浩正の前に現れた。猫を食っていたとの噂もある。

「キュウソやも知れぬ」

 一人の武士が言った。

 

 江戸時代の奇談集『絵本百物語』によれば、文明年間、出羽国(現在の山形県、または秋田県)のある家の厩舎に旧鼠が棲みつき、母屋にいる雌ネコと仲良く遊んでいた。やがて雌ネコは5匹の子ネコを産んだが、後に毒を食って死んでしまう。親無しとなった子ネコたちに対して旧鼠は、夜な夜なそのもとへやってきてこれらの世話をし、ネコたちが無事に育った後にどこかへと姿を消した。あまりに奇異な話のため、ある者がこれを俳諧師の松尾芭蕉に教えたところ、芭蕉は「これと逆に、ネコがネズミを育てたこともある」と答えたという。


 このネズミは人間と契り、千年の歳月を経て体色が白く染まったネズミだという説もあり、『絵本百物語』中でも中国の北宋時代の類書『太平広記』からの引用として「旧鼠、人の娘と契りたり」との奇譚が述べられている。


 また同書の挿絵中にある文章によれば、大和国(現在の奈良県)にいた旧鼠は、その毛色が赤白黒の三毛のもので、いつもネコを食べていたという。挿絵には中型犬ほどの大ネズミと数匹のネコが描かれているが、ネズミがネコを育てている様子、ネズミがネコを食べようとしている様子のどちらにも解釈でき、どちらを描いたものかは判明していない。

 

 一瞬、浩正は夢かと思ったが腕を自分でつねったが、痛かったので夢ではないことを悟った。

「一益!はよう斬らんか!」

「勝家殿、しばしお待ちを!」

 浩正は草薙剣で旧鼠を一刀両断した。

 旧鼠を倒した浩正は滝川一益から柴田勝家に宿主を変えた。

「はっ?俺は何をしておったんだ?」

 一益はキョロキョロしている。

「どうしたのだ?狐につままれたような顔をして?」

 浩正は柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで死ぬことくらいは知っていた。

 

 大永2年(1522年)、『張州府誌』によると尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)で生まれる。生年には大永6年(1526年)説や大永7年(1527年)説もあり、明確ではない。出自は不明で柴田勝義の子といわれるが、確実な資料はない。おそらく土豪階層の家の出身であると思われる。


 若いころから織田信秀の家臣として仕え、尾張国愛知郡下社村を領したという。地位はわからないが織田信長の家督継承の頃には織田家の重鎮であった。天文20年(1551年)に信秀が死去すると、子の織田信行(信勝)に家老として仕えた。


 天文21年(1552年)の尾張下四郡を支配する守護代で清洲城主の織田信友との戦いでは、中条家忠とともに敵方の家老・坂井甚介を討ち取り、翌年には清洲城攻めで大将格で出陣し、30騎を討ち取る武功を立てた(萱津の戦い)。


 信行を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し、織田信長の排除を試みたが、弘治2年(1556年)8月に信長との戦いに敗れて、降伏した(稲生の戦い)。

 この時は信長・信行生母の土田御前の強い願いで赦免され、信行、勝家、津々木蔵人は、墨衣で清州城に上り土田御前と礼を述べた。以後は信長を認め、稲生の敗戦後、信行が新参の津々木蔵人を重用したこともあって、見限った。弘治3年(1557年)に信行が謀反の計画を企んだときには信長に事前に密告し、信長は仮病を装い信行は11月2日に清州城に見舞いにおびき出され河尻秀隆らに殺害された。信行の遺児の津田信澄は、信長の命令により勝家が養育することになった。


 信行の死後、罪を許され、信長の家臣となった。しかし、信行に与して信長に逆らったことが響いたのか信長の尾張統一戦や桶狭間の戦いや美濃斎藤氏攻めでは用いられなかった。ただし、永禄8年(1565年)7月15日付と推定される尾張国の寂光院宛に出された所領安堵の文書には丹羽長秀・佐々主知(成政の一族)とともに署名しており、この頃には信長の奉行の1人であった。


 永禄11年(1568年)の上洛作戦になって再度重用され、畿内平定戦などでは常に織田軍の4人の先鋒の武将として参加し(勝竜寺城の戦いなど)、信長の重臣として武功を挙げた。11月までは先方武将4人が京都の軍政を担当したが、幕府奉公衆に任せ、信長とともに岐阜に引き上げる。永禄12年(1569年)1月、三好三人衆による本圀寺の変の際に信長と共に再度来京し、4月上旬まで京都・畿内行政に担当5人の内としてあたった。同年8月、南伊勢5郡を支配する北畠氏との戦に参加する。


 元亀元年(1570年)4月、浅井長政が信長から離反すると5月には六角義賢が琵琶湖南岸に再進出し、岐阜への道を絶った。信長は南岸確保のため各城に6人の武将を配置することとし、まず江南に4人が置かれた。勝家は長光寺城に配属され、同月下旬には六角勢と戦闘となったが、佐久間信盛、森可成、中川重政と共に撃退した。6月、浅井・朝倉との姉川の戦いに従軍する。


 同年8月から9月の野田城・福島城の戦いで三好三人衆が四国から攻め上り総軍で対峙する中、石山本願寺が突如敵対し、混戦となる。その後半に、朝倉・浅井連合軍が3万の大軍で山科、醍醐を焼きつつ京都将軍御所を目指して進軍した。『言継卿記』によると、勝家と明智光秀が守備のため京都へ戻されたが、勝家が事態を重大視して信長に進言し、23日に総軍で野田・福島から退却し強行軍で同日夜半に京都に戻り、志賀の陣となる。12月、信長は足利義昭に依頼し、朝廷が仲介する形で浅井・朝倉との和睦に持ち込む。


 元亀2年(1571年)5月、石山本願寺に呼応した長島一向一揆を鎮圧に向かう。退却の際、勝家の隊は殿を務めたが、大河と山に挟まれた狙いやすい箇所で一揆勢が襲い掛かり、傷を負い勝家は旗指物まで奪われた。 すぐ、氏家直元(卜全)が交代したが小勢であり対応できず、氏家と多くが戦死する。9月の比叡山焼き討ちでは殺戮戦に加わる。


 元亀4年(1573年)2月、信長と対立した将軍・義昭が石山と今堅田の砦に兵を入れると、勝家を含めた4武将が攻撃してこれらを陥落させた。信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが、成立寸前で松永久秀の妨害で破綻する。このため4月、信長自ら出陣し、義昭への脅しのために上京に放火させた際は勝家も参加している。なお、この時に信長は下京に対しても矢銭を要求した。この際に下京側が作成した矢銭の献金予定リスト(「下京出入之帳」)には信長個人へ献上する銀250枚に続いて勝家個人とその配下に合計銀190枚を送ることが記載されている。 

 また、同月に信長と義昭が一時的に和睦した際に交わされた起請文には織田家の重臣として勝家は林秀貞・佐久間信盛・滝川一益ならび美濃三人衆とともに署名し、勝家と林ら3名は当時の織田家の年寄(重臣)の地位にあったことをうかがわせる。

 7月、義昭は槙島城に、義昭の側近・三淵藤英は二条城にそれぞれ立て籠もったが、勝家は藤英を説得し二条城を開城させた。なお、7月1日には信長は4月に下京に命じていた矢銭の献上を免除しているが、勝家は4日付でこの内容を保証する副状を下京側に発給している。その後、勝家は自身も加わった7万という人数で義昭が籠る槙島城を総攻撃し、降伏させた。義昭は追放され事実上室町幕府は滅びるが、毛利氏に保護された義昭により信長包囲網が敷かれると、織田軍の有力武将として近江国・摂津国など各地を転戦する。


 天正元年(1573年)8月の一乗谷城の戦いでは朝倉氏を滅ぼした。勝家は、その後の北近江の小谷城の戦いにも参加したが、その際の先鋒は羽柴秀吉が務めた。


 同年9月に、2度目の長島攻めに参加している。長島の西方の呼応する敵城を勝家も参戦し桑名の西別所城、酒井城を落とす。長島は大湊の船が十分確保できず退却する。2年前の勝家負傷と同所で殿の林通政隊が一揆勢に襲われ林と多数が戦死する。天正2年(1574年)に多聞山城の留守番役に細川藤孝に続き3月9日から勝家が入る。同年7月、3度目の最終戦の長島攻めに参軍し総員7万の大軍で兵糧攻めで助命を約束に開城したところをだまし討ちで殲滅する。三手の内の賀鳥口(右翼)を佐久間信盛と共に指揮した。


 天正3年(1575年)には高屋城の戦い、長篠の戦いにも参加する。


 朝倉氏滅亡後、信長は朝倉旧臣・前波吉継を越前国の守護としたが、同じく朝倉旧臣の富田長繁はそれに反発して土一揆を起こして前波を討ち取った。しかしその後の富田の態度から一揆勢は富田と手を切ることとし、加賀国の一向一揆の指導者である七里頼周を誘って、新たに一向一揆を起こして富田に襲いかかり、動乱の中で富田は家臣に射殺され越前は一揆持ちの国となった。信長はこれに総軍を率いて出陣し、一向一揆を殲滅戦で平定した。9月、信長は越前国掟全9条(原書には「掟条々」)とともに勝家は越前国八郡49万石、北ノ庄城(現在の福井市)を与えられた。このとき簗田広正に切りとり次第の形で加賀一国支配権が与えられるが信長が帰陣すると、一揆が蜂起し、小身の簗田は抑えられず信長に見限られ尾張に戻される。


 天正4年(1576年)、勝家は北陸方面軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治らの与力を付けられ、90年間一揆持ちだった加賀国の平定を任される。なお、従前の領地の近江国蒲生郡と居城長光寺城は収公され、蒲生賢秀、永田景弘らは与力から外されている。


 天正5年(1577年)7月、越後国の上杉謙信が加賀国にまで進出してきた。この時、勝家は軍議で羽柴秀吉と衝突、仲違いし、秀吉は信長の許可を得ることもなく戦線を離脱してしまい足並みが乱れる。勝家は七尾城の救援に向かうが間に合わずに七尾城が陥落したため、周辺の拠点に放火しつつ退却した。退却中の9月23日、手取川で上杉軍の襲撃を受ける(手取川の戦い)。勝家側が千人余り打ち取られたという話も、謙信書状のみに書かれているが、他の史料に記載は無く小戦とも見られ不明である。そして天正6年(1578年)に謙信が死去すると、織田信忠軍の将・斎藤利治が越中中部から上杉軍を逐った。


 天正8年(1580年)3月、信長と本願寺に講和が結ばれた途端に北陸方面は活発化し、勝家は一向一揆の司令塔金沢御堂を攻め滅ぼして、軍を北加賀・越中境まで進めた。一向一揆を制圧して、天正8年(1580年)11月、ついに加賀を平定する。さらにその勢いのまま能登国・越中国にも進出を果たす。また、佐久間信盛が失脚したことによって、名実ともに織田家の筆頭家老に位置することになる。


 翌天正9年(1581年)2月28日、信長の京都御馬揃えでは与力の前田利家ら越前衆を率いて上洛し、参加した。また、この頃から対上杉政策の為か、伊達氏の家臣・遠藤基信と連絡を盛んに取り、伊達氏との外交政策の一端を担っている。


 天正10年(1582年)3月から上杉氏方の越中国の魚津城・松倉城(富山県魚津市)を攻囲していた。6月2日未明、本能寺の変があって信長が横死するが、これを知らぬまま6月3日に魚津城は陥落した(魚津城の戦い)。事件を知り6日の夜からただちに全軍撤退して北ノ庄城へ戻った。6月10日付の溝口半左衛門への書状では、勝家は光秀が近江に駐屯していると認識し(実際には8日に近江・安土を発ち、9日には山城の京都にいた)、大坂にいた丹羽長秀と連携して、光秀を討つ計画を伝えている。しかし上杉側が変を知り、失地回復に越中・能登の国衆を煽り動けず、やっと18日に近江に出動するが、すでに中国大返しを行った秀吉の軍が光秀を討っていた。


 本能寺の変後の清洲会議で、織田氏の後継者問題では秀吉への対抗もあり、信長の三男・織田信孝を推したが、明智光秀を討伐したことで実績や発言力が大きかった秀吉が信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)を擁立したため、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなった。ただし、近年になって勝家が三法師の後継に反対して信孝を擁立したとする話は『川角太閤記』による創作であって、実際には三法師を後継者にすること自体には秀吉・勝家らの間で異論はなく、清洲会議の開催そのものが三法師の存在を前提にしていた、とする説も出されている。


 また、信長の遺領配分においても河内や丹波・山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡と長浜城(現在の長浜市)を新たに得たが、勝家と秀吉の立場は逆転してしまった。清洲会議の結果、3歳の三法師に叔父・織田信雄と信孝が後見人となり、信雄が尾張、伊賀、南伊勢、信孝が美濃を領有し、これを羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する体制となった。


 また、この会議で諸将の承諾を得て、勝家は信長の妹・お市の方と結婚している。従来は信孝の仲介とされて来たが、勝家の書状で「秀吉と申し合わせ…主筋の者との結婚へ皆の承諾を得た」とあり、勝家のお市への意向を汲んで、清洲会議の沙汰への勝家の不満の抑えもあり秀吉が動いたと指摘されている。


 清洲会議終了後、勢力を増した秀吉と勝家など他の織田家重臣との権力抗争が始まる。勝家は滝川一益、織田信孝と手を結んで秀吉と対抗する。だが秀吉は長浜城の勝家の養子の柴田勝豊を圧迫したうえ懐柔した。次には岐阜の織田信孝を攻め囲んで屈服させる。天正11年(1583年)正月に秀吉は滝川一益の北伊勢を7万の大軍で攻めるが一益は3月まで対峙する。


 天正11年(1583年)3月12日、勝家は北近江に出兵し、北伊勢から戻った秀吉と対峙する(賤ヶ岳の戦い)。事前に勝家は、毛利に庇護されている足利義昭に戦況を説明し毛利軍とともに出兵を促す書状を毛利を介して出し背後を突かせようとするが、義昭では既に時代に合わずうまくいかなかった。同様の働きかけは3月頃に高野山にもしており、各地にしたようだが実を結ばなかった。

 4月16日、秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵し、秀吉は岐阜へ向かい勝家は賤ヶ岳の大岩山砦への攻撃を始めるが、美濃大返しを敢行した秀吉に敗れ、4月24日に北ノ庄城にてお市とともに自害した。享年62。  

 辞世は「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公 (やまほととぎす)」。


 早く次の怪物を倒して宿主を倒すか?秀吉を暗殺するか?浩正は考え倦ねた。歴史を変えると向こうに戻れなくなってしまうかも?


 その頃、多江は信長の寝所にいた。

 多江は最近、濃姫と帰蝶が同一人物であることを知った。

 濃姫は、斎藤道三の娘で、母は正室の小見の方。『美濃国諸旧記』では、小見の方は、東美濃随一の名家であったという明智氏の出身であり、濃姫は正室唯一の子であったとされる。

 小見の方は、『系図纂要』『明智氏一族宮城家相伝系図書』では明智光継の娘、光綱の妹とされるので、(一説に光綱の子という) 

 明智光秀の叔母にあたることになり、濃姫と光秀は従兄妹の関係にある。


 生年を記した書物は『美濃国諸旧記』しかなく、濃姫は天文4年(1535年)の生まれだとされる。道三が42歳の年である。


 天文10年(1541年)頃、斎藤道三は守護・土岐頼芸を放逐し、その連枝を殺害して美濃国主となった。しかし、依然として土岐氏に従う家臣も多く、国内の秩序は乱れていた。そこで、頼芸より下賜された側室・深芳野の子である長男・義龍を頼芸の落胤であると称して美濃守護に据えた。


 しかし天文13年(1544年)8月、斎藤氏の台頭を嫌う隣国尾張の織田信秀は”退治”と称して土岐頼芸を援助して兵5千を派遣し、越前国の朝倉孝景の加勢を受けた頼芸の甥・土岐頼純(政頼)が兵7千と共に南と西より攻め入った。斎藤勢はまず南方の織田勢(織田寛近)と交戦したが、過半が討ち取られ、稲葉山城下を焼かれた。同時に西方よりも朝倉勢が接近したため、道三はそれぞれと和睦して事を収めることにした。織田家との和睦の条件は信秀の嫡男・吉法師丸(信長)と娘とを結婚させるという誓約であり、他方で土岐家とは頼芸を北方城に入れ、頼純を川手城へ入れると約束した。


 天文15年(1546年)、道三は朝倉孝景とも和睦し、土岐頼芸が守護職を頼純に譲るという条件で、新たに和睦の証(人質)として娘を頼純へ輿入れさせ、頼芸と頼純を美濃に入国させた。主筋の土岐家当主への輿入れであることから相応の身分が必要との推測から、この娘は道三の正室を母とする濃姫であった、とする説がある。この説に従えば、濃姫は数え12歳で、美濃守護土岐頼純の正室となったことになる。


 信秀との約束は一旦保留となったが、織田・朝倉の方でも道三を討伐しようという考えを捨てておらず、天文16年(1547年)8月、土岐頼芸と頼純に大桑城に拠って土岐氏を支持する家臣団を糾合して蜂起するように促した。道三はこれを知って驚き、織田・朝倉勢が押し寄せる前に大桑城を落とそうと大軍で攻め寄せたので、頼芸は命からがら朝倉氏の越前国一乗谷に落ち延びた。

 9月3日、信秀は再び美濃に侵攻して稲葉山城下を焼いたが、22日の夕暮れに退却しようとしている所を斎藤勢に奇襲され、敗北を喫した。


 土岐頼純は、『美濃国諸旧記』では同年8月の大桑城落城の際に討ち死に、または同年11月に突然亡くなったとする。

 前出の同一人物説では、いずれにしろ濃姫はこの夫の死によって実家に戻ったと推測される。


 天文16年から翌年にかけて、道三と信秀は大垣城を巡って再三争ったが、決着が付かず、和睦することになって、先年の縁組の約束が再び持ち上がった。『美濃国諸旧記』によれば、信秀は病気がちとなっていたために誓約の履行を督促したとされ、天文18年2月24日(1549年3月23日)に濃姫として知られる道三の娘は織田信長に嫁いだ。媒人は明智光安であったとされる。この時、濃姫は数えで15歳であった。一方で『信長公記』によれば、織田家臣の平手政秀の(個人的な)政治力で和睦と信長の縁組みがまとめられたという。


『絵本太閤記』と『武将感状記』のよく知られた逸話に、結婚の1年後、濃姫が熟睡すると信長は毎夜寝所を出て暁に帰るという不審な行動を1か月も続け、浮気を疑う濃姫が尋ねると、信長は密計を図っていて、謀叛を起こす道三の2人の家老(堀田道空、春日丹後守)からの連絡を待っているのだと答えた。 

 濃姫はついにその旨を父に知らせると、道三は信長の離間策にはまって、家老の裏切りを疑って殺害してしまったというものがある。ただし、この逸話に相当するような、道三が実際に家老を殺害した記録は存在しない。


 天文22年(1553年)4月には、信長と道三が正徳寺で会見を行っているが、先年の婚儀以後、濃姫についての記載は『美濃国諸旧記』から途絶える。道三の遺言でも一言の言及もない。他方で、『勢州軍記』『総見記』には、信長の御台所である斎藤道三の娘が、若君(御子)に恵まれなかったので、側室(妾腹)が生んだ奇妙丸(信忠)を養子とし嫡男としたという記述がある。


 ワタシが憑依してるのはホンモノの帰蝶じゃない?例えば浅井長政や朝倉義景に親しい女性が復讐の為に帰蝶に化け、信長に接近した?


 信長軍30,000と家康軍8,000は、5月18日に長篠城手前の設楽原に着陣。設楽原は原と言っても、小川や沢に沿って丘陵地が南北に幾つも連なる場所であった。ここからでは相手陣の深遠まで見渡せなかったが、信長はこの点を利用し、30,000の軍勢を敵から見えないよう、途切れ途切れに布陣させ、小川・連吾川を堀に見立てて防御陣の構築に努める。これは、川を挟む台地の両方の斜面を削って人工的な急斜面とし、さらに三重の土塁に馬防柵を設けるという当時の日本としては異例の野戦築城だった。海外の過去の銃を用いた野戦築城の例と、宣教師の往来を理由として信長がイタリア戦役を知っていた可能性に言及されることもある。つまり信長側は、無防備に近い鉄砲隊を主力として柵・土塁で守り、武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術を採った。


 一方、信長到着の報を受けた武田陣営では直ちに軍議が開かれた。信玄時代からの重鎮たち、特に後代に武田四名臣といわれる山県昌景、馬場信春、内藤昌秀らは信長自らの出陣を知って撤退を進言したと言われているが、勝頼は決戦を行うことを決定する。そして長篠城の牽制に3,000ほどを置き、残り12,000を設楽原に向けた。これに対し、信玄以来の古くからの重臣たちは敗戦を予感し、死を覚悟して一同集まり酒(水盃)を飲んで決別したとも言う。『信長公記』にある武田軍の動きは、「長篠城へ武将7人を向かわせ、勝頼は1万5千ほどの軍勢を率いて滝沢川を渡り、織田軍と二十町(約2018m)ほどの距離に、兵を13箇所ほどに分けて西向きに布陣した」というものである。


 武田のこの動きを見た信長は、「今回、武田軍が近くに布陣しているのは天の与えた機会である。ことごとく討ち果たすべきだ」と思い、味方からは1人の損害も出さないようにしようと作戦を考えた。


 相手の油断を誘ったという面もあるが、鉄砲を主力とする守戦を念頭に置いていたため、武田を誘い込む狙いであった。

 

 武田軍は最新兵器を手に入れた。

 先端部にドリルを備え、前方の土砂を掘削しながら前進するもので、不整地走行用にキャタピラで駆動する。

「地底戦車!?」

 突如現れたマシンに浩正は叫び声を上げた。木村と平井は地底戦車で戦国時代にやって来たのだ。浩正をサポートするはずだったが、山県昌景に見つかりやむなく武田軍に属していた。

 多江は馬を巨大化させて地底戦車に突進させた。馬には人は乗っていない。浩正はまるでゴジラやスーパーヒーローの映画の中にいるような感覚に陥った。

 が、木村の放つキャノン砲によって巨大馬は倒されてしまった。

 

 信長は当時最新兵器であった鉄砲を3,000丁も用意、さらに新戦法の三段撃ちを実行した織田軍を前に、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は為す術もなく殲滅させられたとされるが、そもそも兵力に2倍以上の差があったうえ、後述にもあるように経過・勝因については様々な論点において異論が存在する。なお、三段撃ちはマウリッツ (オラニエ公) が行った軍事革命の一つでもある。


 信長は佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の5人の奉行に鉄砲を配備した。


 5月20日深夜、信長は家康の重臣であった酒井忠次を呼び、徳川軍の中から弓・鉄砲に優れた兵2,000ほどを選び出して酒井忠次に率いさせ、これに自身の鉄砲隊500と金森長近ら検使を加えて約4,000名の別働隊を組織し、奇襲を命じた(『信長公記』)。別働隊は密かに正面の武田軍を迂回して豊川を渡河し、南側から尾根伝いに進み、翌日の夜明けには長篠城包囲の要であった鳶ヶ巣山砦を後方より強襲した。鳶ヶ巣山砦は、長篠城を包囲・監視するために築かれた砦であり、本砦に4つの支砦、中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君が臥床砦という構成であったが、奇襲の成功により全て落とされる。これによって、織田・徳川連合軍は長篠城の救援という第一目的を果たした。さらに籠城していた奥平軍を加えた酒井奇襲隊は追撃の手を緩めず、有海村駐留中の武田支軍までも掃討したことによって、設楽原に進んだ武田本隊の退路を脅かすことにも成功した。


 浩正の夢の中で武田の兵士たちが次々に死んでいった。そいつらは馬に姿を変え鉄砲隊に撃たれて死んだ。

『馬憑き』という怪奇現象がある。馬を粗末に扱った者が馬の霊に取り憑かれ、馬のように振る舞い、最後には精神に異常をきたして死ぬというものである。


 江戸時代の三州中村(現・愛知県田原市赤羽根)に太郎介という男がいたが、彼は若い頃、馬同士の争いを止めようとして、誤って馬を殺してしまったことがあった。その40年以上も後、40歳代半ばになった太郎助は突然、馬屋に入って馬のように鳴き、雑水を飲み干し、死んでしまったという。

また、同じく三州の江村とおいう地に住む受泉という法師は、若い頃に馬工郎(馬を扱う仕事)として働いていたが、寛永16年(1639年)の春から突然、目をむいて嘶いたり、桶から雑水を飲んだりといった、馬のような挙動を始めた。周囲の者は初めは悪ふざけだろうと思っていたが、その挙動は馬そのものであり、到底悪ふざけで行えるものではないということになった。周囲が心配して見守る中、まもなく死んでしまった。周囲は、法師でありながら若い頃の仕事の行いが悪かったため、生きながら畜生道へ墜ちたものと話したという。


 阿波国(現・徳島県)の国主・松平阿波守が、あるときに飼い馬をひどく虐待したところ、馬は病気で死亡した。すると間もなく馬屋の者が「殿様は馬を十分に飼い馴らすまで馬に乗らないと言っていたが、殿様は俺を偽り、責め立てて殺してしまった。この怨みはいつか晴らす。思い知れ!」と叫び続け、精神に異常を来たしたまま死んでしまったという。


 また武蔵国八王子(現・東京都八王子市)では、原半左衛門という者が馬に焼印を押すことを非常に好んでいた。彼の息子・灌太郎がある年の元旦、従者と共に神社へ参拝に出かけたところ、鳥居の前で「なんと馬の血が多い場所だ。祠の前まで血だらけで足の踏み場もない。参拝どころではないので帰ろう」と言い出した。従者の目には馬の血などどこにも見えないが、灌太郎はそう言われても「血の海なのでこれ以上先へは進めない」と、鳥居の外で参拝を済ませて帰った。その日から灌太郎は病に侵され、馬の鳴き真似をするようになった。7日後に正気に戻った灌太郎は「父が馬を苦しめ続けた報いで畜生道に堕ちる羽目になった、無念だ」と言った。その後に灌太郎は再び悶え苦しみ始め、遂に死んでしまったという。


 遠江国(現・静岡県西部)にハヤセの梅という男がいたが、馬に憑かれて精神に異常を来たして以来、三河国(現・愛知県東部)に住み始めた。50歳ほどで常に口から涎を垂らしており、馬の死の報せを聞くと、きまって自分の腕に食らいつき、その報せを追いかけた。そのために彼の腕は常に赤く腫れ上がっていたという。


 鳶ヶ巣山攻防戦によって武田方の動きは、主将の河窪信実(勝頼の叔父)をはじめ、三枝昌貞、五味高重、和田業繁、名和宗安、飯尾助友など名のある武将が討死。武田の敗残兵は本隊への合流を図ってか豊川を渡って退却するものの、酒井奇襲隊の猛追を受けたために、長篠城の西岸・有海村においても春日虎綱の子息・香坂源五郎(諱は「昌澄」ともされるが不明)が討ち取られている。このように酒井隊の一方的な展開となったが、先行深入りしすぎた徳川方の深溝松平伊忠だけは、退却する小山田昌成に反撃されて討死している。


 そもそもこの作戦は、20日夜の合同軍議中に酒井忠次が発案したものであったが、信長からは「そのような小細工は用いるにあらず」と頭ごなしに罵倒され、問答無用で却下された。しかし、信長がこのように軍議の場で忠次の発案を却下したのは、作戦の情報が武田軍に漏れる可能性を恐れてのことであった。軍議の終了後、信長は忠次を密かに呼びつけて、「そなたの発案は理にかなった最善の作戦だ」と忠次の発案を褒めたたえ、直ちに作戦を実行するよう忠次に命じた。

 

 地底戦車は燃料切れで使い物にならなくなっていた。木村と平井は戦車の中で怯えていた。戦車の外は屍の山だ。

 戦車から出た木村はSAKURA M360Jで武田兵を次々に撃ち殺した。

 日本警察の要請に応じたカスタマイズモデル。

 .357マグナム弾の使用が求められなかったことから、シリンダーはチタンより安価なステンレス鋼製、銃身はPDと同様にアルミ合金の内部にステンレス剛製のライナーの2ピース構造とされた。また、グリップはニューナンブM60の最終生産型やS&W M37の日本警察仕様と同様、フィンガースパーを付するとともに底面にランヤードリングが設置されている。なお、左フレームのシリアルナンバーの下には"SAKURA M360J"および"NMB"(ミネベア)と刻印されている。

「おのれぇ!」

 勝頼は吠えた。

「これより、我々は織田に寝返る!!」

 木村は吠えると『地』の玉に祈りを込めた。グラグラと地面が揺れ、ピキッ!ピキッ!と地割れが走った。

 武田軍の櫓が次々に倒れる。


 5月21日早朝、鳶ヶ巣山攻防戦の大勢が決したと思われる頃の設楽原では、武田軍が織田・徳川軍を攻撃。戦いは昼過ぎまで続いた(約8時間)が、織田・徳川軍から追撃された武田軍は10,000名以上の犠牲(鳶ヶ巣山攻防戦も含む)を出した。織田・徳川軍の勝利で合戦は終結した。


 織田・徳川軍には主だった武将に戦死者が見られないのに対し、『信長公記』に記載される武田軍の戦死者は、譜代家老の内藤、山県、馬場を始めとして、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など重臣や指揮官にも及び、被害は甚大であった。


 勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら、一時は菅沼定忠に助けられ武節城に篭ったが、信濃の高遠城に後退した。


 上杉の抑え部隊10,000を率いていた海津城代春日虎綱(高坂昌信)は、上杉謙信と和睦した後に、勝頼を出迎えて、これと合流して帰国した。

 

 長篠における勝利、そして越前一向一揆平定による石山本願寺との和睦で反信長勢力を屈服させることに成功した信長は、「天下人」として台頭した。また、徳川家康は三河の実権を完全に握り、遠江の重要拠点である諏訪原城、二俣城を攻略していき、高天神城への締め付けを強化した。


 武田氏は長篠において、重臣層を含む多くの将兵を失う大敗を喫し、領国の動揺を招いた。武田氏は長篠の敗退を契機に外交方針の再建をはかり、相模後北条氏の甲相同盟に加え、越後上杉氏との関係強化や佐竹氏との同盟(甲佐同盟)、さらに里見氏ら関東諸族らと外交関係を結んだ。

 

「越前で再び一揆が起きもうした!」

 そう叫んだのは羽柴秀吉だった。

 柴田勝家と丹羽長秀はすぐに信長のもとに向かった。秀吉はもともとは木下日吉という名前だった。後に木下藤吉郎に改名、さらに元亀3年(1572年)8月頃、丹羽長秀、柴田勝家のような人物になりたいという希望から羽柴秀吉に改めている。


 発端は天正元年(1573年)8月、信長の越前侵攻により朝倉義景が攻め滅ぼされたことにある。朝倉氏の旧臣の多くが信長に降伏して臣従することにより、旧領を安堵された。 信長は朝倉攻めで道案内役を務めた桂田長俊(前波吉継)を越前『守護代』に任命し、事実上、越前の行政・軍事を担当させた。しかし朝倉氏の中で特に重臣でもなかった長俊が守護代に任命されたことを他の朝倉氏旧臣は快く思わなかった。特に富田長繁などは長俊と朝倉家臣時代からの犬猿の仲であったため、長俊を敵視するようになった。


 さらに桂田はこれら元同格の者たちに対して無礼で尊大な態度を取ったため、天正2年(1574年)1月、ついに富田長繁は長俊を滅ぼそうと考え越前中の村々の有力者と談合し、反桂田の土一揆を発生させた。


 1月19日、長繁は自ら一揆衆の大将として出陣し、一乗谷城の攻略に取り掛かった。城主・桂田長俊はこの時失明していて指揮が執れず、さらに一揆の兵力が3万以上と大軍だったことや、長繁の腹心である毛屋猪介の活躍もあり、さしたる抵抗もできないまま討死した。息子の新七郎ら一族は城外に逃亡したが、翌20日には捕捉されて皆殺しにされた。


 一揆衆は1月21日には信長が府中の旧朝倉土佐守館に置いていた三人の奉行、木下祐久・津田元嘉・三沢秀次(溝尾茂朝)を攻めたが、安居景健(朝倉景健)が間に入って調停をしたため和睦。三人は越前を出て岐阜に向かった。


 1月24日、長繁はさらに策謀を巡らし、桂田成敗の宴を開くと称して有力者である魚住景固を自らの居城である龍門寺城に招き、次男の魚住彦四郎もろとも謀殺した。翌日には鳥羽野城を攻めて景固の嫡男彦三郎も討ち取って魚住一族を滅亡させた。しかし、敵対関係になかった魚住一族を無闇に滅亡に追い込んだことで、一揆衆の長繁に対する不信感が生じたという。加えて同時期、長繁が信長に対して自らの越前守護任命と引き換えに実弟を人質を差し出して恭順する、と誼を通じたという風聞が立ったこともそれに拍車をかける結果となった。


 そして、一揆衆は長繁と手を切り、加賀国から一向一揆の指導者である七里頼周や杉浦玄任を招き、自勢力の首領とした。杉浦玄任は坊官でありながら越中において、総大将として一揆軍を率い、上杉謙信と戦った武将であった。尻垂坂の戦いでは謙信に敗れたが、五福山や日宮城で上杉方に勝利を収めていた他、朝倉義景とも戦っており、実績も十分であった。一揆衆の中に相当数の浄土真宗本願寺派(一向宗)の門徒がおり、彼らの意見が通ったのである。こうして富田長繁を大将とする土一揆は、そのまま七里頼周を大将とする一向一揆に変貌した。


 2月13日、一揆勢は先制攻撃をかけ、長繁の家臣である増井甚内助が守る片山館、毛屋猪介が守る旧朝倉土佐守館などを攻略、二人を滅ぼした。2月16日には長繁も反撃に出、帆山河原の一揆勢3万をわずか700の兵で敗走させている。


 翌2月17日には長繁は府中の町衆や一向一揆の指導的立場にある浄土真宗本願寺派(一向宗)と対立する真宗高田派(専修寺派)・真宗三門徒派等と手を結び、北ノ庄城の奪取を狙い北上。対して、七里頼周と杉浦玄任も長繁を討つべく北ノ庄方面より集められた一揆勢5万人を差し向け、両者は浅水の辺りで激突した。このとき、長繁勢は一揆衆より兵力では圧倒的に劣勢であったが奮戦して[4]一揆勢の先鋒を崩壊させ、潰走する一揆勢を散々に打ち破った(『越州軍記』)。次いで17日夕刻、長繁は浅水の合戦に参戦せず傍観していた安居景健、朝倉景胤らを敵対者と見なし、彼らの拠る長泉寺山の砦に攻撃を仕掛けた。しかし、一揆衆との合戦の影響で疲弊した長繁勢はさしたる戦果を挙げられなかった。長繁は翌18日に再度総攻撃を下知したものの、無謀な合戦を強いる長繁に対して配下の不満と不信が高まり、18日早朝からの合戦の最中、長繁は配下の小林吉隆に裏切られ、背後から鉄砲で撃たれて討死、長繁勢は瓦解した。その首は19日、一揆軍の司令官の一人である杉浦玄任の陣に届き、竜沢寺で首実検が行われた。またこの日、一揆勢は白山信仰の拠点であった豊原寺を降伏させて味方につけている。


 4月に入ると、一揆衆の攻撃は勢いを増し溝江城(別名金津城、溝江館)を落城させ、溝江景逸と溝江長逸ら溝江氏一族は舎弟の妙隆寺弁栄、明円坊印海、宗性坊、東前寺英勝および小泉藤左衛門、藤崎内蔵助、市川佐助らとともに自害して果てた(長逸の一子、溝江長澄だけは溝江城から脱出した)。


 4月14日、一揆勢は土橋信鏡(朝倉景鏡)の居城である亥山城を攻撃、信鏡は城を捨てて平泉寺に立て籠もったが、平泉寺は放火されて衆徒も壊滅。信鏡は逃亡を図ったものの、最期はわずかな家臣とともに敵中に突撃、討死した。


 5月には織田城の織田景綱(朝倉景綱)を攻撃する。景綱も奮戦したが寡兵であったことから夜陰に乗じて家臣を見捨て、妻子だけを連れて敦賀に逃走した。こうして、朝倉旧臣団は一向一揆に通じた安居景健、朝倉景胤など一部の将を除いてことごとく滅ぼされ、越前も加賀に続いて『百姓の持ちたる国』となった。


 顕如が越前「守護」として派遣した下間頼照や大野郡司の杉浦玄任、足羽郡司の下間頼俊、府中郡司の七里頼周ら大坊主らは、討伐した朝倉氏旧臣の領地を独占し、さらに織田軍との臨戦態勢下にあると称して、重税や過酷な賦役を越前在地の国人衆や民衆に課すなど悪政を敷いた[注 3]。このため、越前における天台宗や真言宗らが反発し、真宗高田派(専修寺派)をはじめ国人衆や民衆、遂には越前の一向門徒までもが反発。天正3年(1575年)頃から、一揆衆は内部から崩壊しつつあった。


 一方、信長はこの年から領国全域で道路や橋を整備するなど、各地での戦いに備えていた。そして5月には武田勝頼との合戦に大勝(長篠の戦い)、余裕の生じた信長は越前の一向一揆の分裂を好機ととらえ、越前への侵攻を決める。


 信長は8月12日に岐阜を出発し、翌13日に羽柴秀吉の守る小谷城に宿泊。ここで小谷城から兵糧を出し、全軍に配った。14日、織田軍は敦賀城に入った。


一揆勢の配置は以下だったという。


🏯板取城  下間頼俊と加賀・越前の一揆勢

🏯鉢伏城  専修寺の住持、阿波賀三郎・与三兄弟、越前衆

🏯今城・火燧城  下間頼照

🏯大良越・杉津城 大塩の円強寺衆と加賀衆

🏯海岸に新しく作られた城 若林長門守・甚七郎父子と越前衆

 このほか、西国の一揆勢も加わっていたという。


 8月15日、風雨の強い日であったが、織田軍は大良(福井県南条郡南越前町)を越え、越前に乱入した。


 信長率いる織田軍は3万余。武将は佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、佐々成政、前田利家、簗田広正、細川藤孝、塙直政、蜂屋頼隆、荒木村重、稲葉良通(一鉄)・稲葉貞通、氏家直昌、安藤守就、磯野員昌、阿閉貞征・阿閉貞大、不破光治・不破直光、武藤舜秀、神戸信孝、津田信澄、織田信包、北畠信雄(伊勢衆)が動員された。また軍勢の最前列には、越前衆のうち坊官の悪政に反発し織田勢に寝返った国人や浪人、宗徒が配置された。


 これと会わせて、海上からは水軍数百艘が進んだ。粟屋越中守、逸見駿河守、粟屋弥四郎、内藤筑前、熊谷伝左衛門、山県下野守、白井、松宮、寺井、香川、畑田、そして丹後の一色義道・矢野・大島・桜井である。これら水軍は浦や港に上陸し、あちこちに放火した。


 対する一向一揆側は、円強寺勢と若林長門守親子が攻撃してきたが、羽柴秀吉・明智光秀が簡単に打ち破った。羽柴隊・明智隊は200~300人ほどを討ち取ると、彼らの居城である大良越・杉津城および海岸の新城に乗り込み、焼き払った。討ち取った首はその日のうちに敦賀の信長に届けられた。


 この日の夜、織田勢は府中竜門寺に夜襲をかけ、近辺に放火した。背後を攻撃された木目峠・鉢伏城・今城・火燧城の一揆勢は驚き、府中に退却していったが、府中では羽柴秀吉・明智光秀が待ち受けており、2000余りが討ち取られた。この時、鉢伏城に拠った杉浦玄任は討死、城将の阿波賀三郎・与三兄弟は降伏して許しを求めたが、信長は許さず塙直政に命じて殺害した。


 8月15日、織田軍は杉津城に攻撃を開始する。この城は大塩円強寺と堀江景忠が守っていたが、織田の大軍が来襲してきたことを知ると、景忠は森田三左衛門や堺図書助らとともに内応して織田勢に寝返った。これを受けて、板取城の下間頼俊、火裡城の下間頼照、そして今庄の七里頼周は逃亡。一向一揆指導部は完全に崩壊し、一揆衆は組織的な抵抗が不可能な状況に陥った。


 16日、信長は馬廻をはじめとした兵1万を率いて敦賀を出発し、府中竜門寺に布陣すると、今城に福田三河守を入れて通行路を確保させた。


 下間頼俊、下間頼照、専修寺の住持らは越前の山中に逃亡・潜伏したが、一揆衆の不利を悟って織田方に寝返った安居景健に殺害された。景健は下間らの首級を持参して信長に赦免を請うたが許されず、自害を命じられた。この時、景健の家臣の金子新丞父子・山内源右衛門ら3人が切腹して殉死した(信長公記)。


 18日、柴田勝家・丹羽長秀・津田信澄の3人が鳥羽城を攻撃し、敵勢500~600を討ち取って陥落させた。金森長近、原長頼は美濃口から根尾~徳山経由で大野郡へ入り、数箇所の小さな城を落として一揆衆多数を斬り捨て、諸口へ放火した。

「猿たちに遅れをとるな!」

 浩正は叫んだ。


 一揆は完全に崩壊し、一揆衆は混乱の中取るものも取りあえず右往左往しながら山中へ逃げていった。しかし信長は殲滅の手をゆるめず、「山林を探し、居所が分かり次第、男女を問わず斬り捨てよ」と命じた。


 一連の合戦において、一揆衆は1万2250人以上が討ち取られた。さらに奴隷として尾張や美濃に送られた数は3万から4万余に上るとされる。


 9月2日には一向一揆の味方をしたことを問われた豊原寺が全山の焼き討ちを受けた。


 こうして、越前から一向衆は完全に駆逐された。また、1932年(昭和7年)に小丸城跡(武生市、現在の越前市の一部)から発見された瓦に、5月24日(1576年(天正4年)のと比定される)に前田利家が一揆衆千人ばかりを磔、釜茹でにしたことを後世に記録して置く、という内容の書き置きがある。

 越前国は再び織田家の支配するところとなる。信長は、越前八郡を柴田勝家に任せるとともに、府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治)ら複数の家臣を越前国に配し、分割統治を行わせた。  


 浩正は遂に織田信長に憑依することに成功した。

 天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言に任じられる。さらに11月7日には右近衛大将を兼任する。この権大納言・右大将就任は、源頼朝が同じ役職に任じられた先例にならったものであるとも考えられるという。


 これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものとされる。また、義昭の実父である足利義晴が息子の義輝に将軍職を譲った際に権大納言と右近衛大将を兼ねて「大御所」として後見した(現任の将軍であった義輝には実権はなかった)先例があり、信長が「大御所」義晴の先例に倣おうとしたとする解釈もある。ただし、伝統的な室町将軍の呼称であった「室町殿」「公方様」「御所様」「武家」を信長に対して用いた例は無く、朝廷では信長を従来の足利将軍とは別個の権力とみなしていた。同日、嫡子の信忠は秋田城介に任官し、次男の信雄は左近衛中将に任官している。


 11月28日、信長は嫡男・信忠に、一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。


 天正4年(1576年)1月、琵琶湖岸に安土城の築城を開始する。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天守内部は吹き抜けとなっていたと言われている。イエズス会の宣教師は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら(城内の邸宅も含めている)はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。

 天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。


 4月、信長は塙直政・荒木村重・明智光秀・細川藤孝を指揮官とする軍勢を大坂に派遣し、本願寺を攻撃させた。しかし、紀州雑賀衆が本願寺勢方に味方しており、5月3日に塙が本願寺勢の反撃に遭って、塙を含む多数の兵が戦死した。織田軍は窮して天王寺砦に立て籠もるが、勢いに乗る本願寺勢は織田軍を包囲した。5月5日、救援要請を受けた信長は動員令を出し、若江城に入ったが、急な事であったため集まったのは3,000人ほどであった。やむなく5月7日早朝には、その軍勢を率いて信長自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺勢に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢との連携・合流に成功し、本願寺勢を撃破し、これを追撃。2,700人余りを討ち取った(天王寺砦の戦い)。


 この頃、従来は信長と協力関係にあった関東管領の上杉謙信との関係が悪化する。謙信は天正4年4月から石山本願寺との和睦交渉を開始し、5月に講和を成立させ、信長との対立を明らかにした。謙信や石山本願寺に続き、毛利輝元・波多野秀治・雑賀衆などが反信長に同調し、結託した。


 天王寺砦の戦いののち、佐久間信盛ら織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し、物資を入れぬよう経済的に封鎖した。ところが、7月13日、毛利輝元が石山本願寺の要請を受けて派遣した毛利水軍など700~800隻程度が、本願寺の援軍として大阪湾木津川河口に現れた。この戦いで織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。


 このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。この年の冬には、天皇の安土行幸が計画されており、それはその翌年の天正5年に実行されるはずだった。これに先立って、正親町天皇が誠仁親王に譲位し、親王が新たな天皇として行幸する予定だったという。しかし、このときは譲位も安土行幸も実現しなかった。


 天正5年(1577年)2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)し、3月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ、紀伊国から撤兵した。


 天正5年(1577年)8月、松永久秀が信長に謀反を起こし、その本拠地の信貴山城に籠城した。天正五年十月十一日付の下間頼廉の書状の内容から、この久秀の造反は、足利義昭・本願寺といった反信長勢力の動きに呼応したものだと考えられるという。

 しかし、織田信忠率いる織田軍に攻撃され、10月に信貴山城は陥落し、久秀は自害に追い込まれた。


 11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。天正6年(1578年)1月にはさらに正二位に昇叙されている。


 尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。


 天正6年(1578年)3月、播磨国の別所長治の謀反(三木合戦)が起こる。

 4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞した。このとき、信長は信忠に官職を譲ることを希望したものの、これは実現しなかった。


 7月、毛利軍が上月城を攻略し、信長の命により見捨てられた山中幸盛ら尼子氏再興軍は処刑される(上月城の戦い)。10月には突如として摂津国の荒木村重が信長から離反し、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する一方、同じく東摂津に所領を持つ中川清秀・高山右近は村重に一時的に同調したものの、まもなく信長に帰順した。


 9月、信長は義弟・斎藤利治を越中国へ派遣、10月4日、飛騨国経由で支援し同盟国の援軍である姉小路頼綱と共に月岡野の戦いにて上杉軍に勝利(大勝)した。


 11月6日、九鬼嘉隆率いる織田水軍が、毛利水軍に勝利し、本願寺への兵糧補給の阻止に成功した(第二次木津川口の戦い)。12月には、織田軍が、荒木村重の籠もる有岡城を包囲し、兵糧攻めを開始した(有岡城の戦い)。


 天正7年(1579年)6月、明智光秀による八上城包囲の結果、ついに波多野秀治が捕らえられ、処刑される。光秀は同年中に丹波・丹後の平定を達成した。


 一方、援軍が得られる見込みが薄くなり、追い詰められた荒木村重は、同年9月、有岡城を出て包囲網を突破し、戦略上の要地である尼崎城に入った。しかし、宇喜多直家の織田方への帰参により毛利氏からの援軍は得られなくなり、有岡城の一部城兵も離反し、有岡城はついに落城した。そして、信長は、荒木氏の妻子や家臣数百人を虐殺した。


 翌年の天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。数カ月後には、播磨国一円を信長方は攻略した。


 天正8年(1580年)3月10日、関東の北条氏政から従属の申し入れがあり、北条氏を織田政権の支配下に置いた。これにより信長の版図は東国にまで拡大した。


 同年4月には正親町天皇の勅命のもと、本願寺もついに抵抗を断念し、織田家と和睦した(いわゆる勅命講和)。ただし、本願寺側では教如が大坂に踏みとどまり戦闘を継続しようとしている[173][174]。門徒間での和睦への抵抗感が大きかったためだが、やがて教如も籠城継続を諦めざるを得なくなり、8月に大坂を退去している。「天下のため」を標榜して信長が遂行した大坂本願寺戦争は、10年の歳月をかけてようやく決着がついた。


 この本願寺打倒の成功は、織田政権の一つの画期とされる。なおも各地の一向一揆の抗戦は続くとは言え、大坂本願寺の敗退により、組織的抵抗は下火となっていく。この頃から、『天下』の意味が単なる畿内を超えて日本全土を指すようになり、信長が『天下一統』を目指すようになったという説もある。


 その一方で、同年8月、大坂本願寺戦争の司令官だった老臣の佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して、信長は折檻状を送り付けた。そして、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放を命じている。さらに、重臣の林秀貞をはじめ、安藤守就とその子・定治、丹羽氏勝らも追放の憂き目にあった。


 天正9年(1581年)1月23日、信長は明智光秀に京都で馬揃えを行なうための準備の命令を出した。この馬揃えは近衛前久ら公家衆、畿内をはじめとする織田分国の諸大名、国人を総動員して織田軍の実力を正親町天皇以下の朝廷から洛中洛外の民衆、さらには他国の武将にも誇示する一大軍事パレードであった。ただ、馬揃えの開催を求めたのは信長ではなく朝廷であったとされる。信長は天正9年の初めに安土で爆竹の祭りである左義長を挙行しており、それを見た朝廷側が京都御所の近くで再現してほしいと求めた事による。ただ、左義長を馬揃えに変えたのは信長自身であった。


 2月28日、京都の内裏東の馬場にて大々的な馬揃えを行った。これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。『信長公記』では「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ…(中略)…あり難き次第にて上古末代の見物なり」とある。


 3月5日には再度、名馬500余騎をもって信長は馬揃えを挙行した。このため、この京都御馬揃えは信長が正親町天皇に皇太子・誠仁親王への譲位を迫る軍事圧力だったとする見解もあり、洛中洛外を問わず、近隣からその評判を聞いた人々で京都は大混乱になったという。


 3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。3月9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の何らかの意向が伝えられた。3月24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足している。だが4月1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。


 8月1日の八朔の祭りの際、信長は安土城下で馬揃えを挙行するが、これには近衛前久ら公家衆も参加する行列であり、安土が武家政権の中心である事を天下に公言するイベントとなった。


 天正9年(1581年)、高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せる。

『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。


 信長は一族の和泉岸和田城主・織田信張を総大将に任命して高野山攻めを発令。

 1月30日には高野聖1,383名を逮捕し、伊勢や京都七条河原で処刑した。10月2日、信長は堀秀政の軍勢を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、350名を捕虜とした。

 10月5日には高野山七口から筒井順慶の軍も加勢として派遣し総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った。


 天正10年(1582年)に入ると信長は甲州征伐に主力を向ける事になったため、高野山の戦闘はひとまず回避される。武田家滅亡後の4月、信長は信張に変えて信孝を総大将として任命した。信孝は高野山に攻撃を加えて131名の高僧と多数の宗徒を殺害した。しかし決着はつかないまま本能寺の変が起こり、織田軍の高野山包囲は終了し、比叡山延暦寺と同様の焼き討ちにあう危機を免れた。


 天正9年(1581年)5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻し、同国の過半を支配下に置いた。7月には越中木舟城主の石黒成綱を丹羽長秀に命じて近江で誅殺し、越中願海寺城主・寺崎盛永へも切腹を命じた。3月23日には高天神城を奪回し、武田勝頼を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。


 武田勝頼は長篠合戦の敗退後、越後上杉家との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まずにいた。


 天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。

 2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から徳川家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近、木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。

 信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。木曽軍の先導で織田軍は2月2日に1万5,000人が諏訪上の原に進出する。


 武田軍では、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに南信濃の松尾城主・小笠原信嶺が2月14日に織田軍に投降する。さらに織田長益、織田信次、稲葉貞通ら織田軍が深志城の馬場昌房軍と戦い、これを開城させる。駿河江尻城主・穴山信君も徳川家康に投降して徳川軍を先導しながら駿河国から富士川を遡って甲斐国に入国する。

 このように武田軍は先を争うように連合軍に降伏し、組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。唯一、武田軍が果敢に抵抗したのは仁科盛信が籠もった信濃高遠城だけであるが、3月2日に信忠率いる織田軍の攻撃を受けて落城し、400余の首級が信長の許に送られた。


 この間、勝頼は諏訪に在陣していたが、連合軍の勢いの前に諏訪を引き払って甲斐国新府に戻る。

 しかし穴山らの裏切り、信濃諸城の落城という形勢を受けて新府城を放棄し、城に火を放って勝沼城に入った。

 織田信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が甲州征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐国都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を自刃させ、ここに武田氏は滅亡した。勝頼・信勝父子の首級は信忠を通じて信長の許に送られた。


 信長は3月13日、岩村城から弥羽根に進み、3月14日に勝頼らの首級を実検する。

 3月19日、高遠から諏訪の法華寺に入り、3月20日に木曽義昌と会見して信濃2郡を、穴山信君にも会見して甲斐国の旧領を安堵した。3月23日、滝川一益に今回の戦功として旧武田領の上野国と信濃2郡を与え、関東管領に任命して厩橋城に駐留させた。3月29日、穴山領を除く甲斐国を河尻秀隆に与え、駿河国は徳川家康に、北信濃4郡は森長可に与えた。南信濃は毛利秀頼に与えられた。この時、信長は旧武田領に国掟を発し、関所の撤廃や奉公、所領の境目に関する事を定めている。


 4月10日、信長は富士山見物に出かけ、家康の手厚い接待を受けた。4月12日、駿河興国寺城に入城し、北条氏政による接待を受ける。さらに江尻城、4月14日に田中城に入城し、4月16日に浜松城に入城した。浜松からは船で吉田城に至り、4月19日に清洲城に入城。

 4月21日に安土城へ帰城した。


 信長による武田氏討伐は奥羽の大名たちに大きな影響を与えた。蘆名氏は5月に信長の許へ使者を派遣し「無二の忠誠」を誓った。また伊達輝宗の側近・遠藤基信が6月1日付けで佐竹義重に書状を遣わし、信長の「天下一統」のために奔走することを呼びかけるなど、信長への恭順の姿勢を明らかにしている。


 天正10年(1582年)の元旦、信長は出仕してきた者たちに安土城の「御幸の間」を見せたという記載が『信長公記』にはある。

 そして、正月7日、勧修寺晴豊は、行幸のための鞍が完成したのでそれを正親町天皇に見せている。このため、天正10年かそれ以降に、正親町天皇が安土に行幸する事が予定されていたと考えられる。


 4月、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた。このことは、晴豊が『天正十年夏記』に記載しているが、その中の「御すいにん候て然るべく候よし申され候」の文意が明確ではない。



 この頃、北陸方面では柴田勝家が一時奪われた富山城を奪還し、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。


 こうしたなか、信長は四国の長宗我部元親攻略を決定し、三男の信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めた。この際、信孝は名目上、阿波に勢力を有する三好康長の養子となる予定だったという。そして、長宗我部元親討伐後に讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与えることを計画していた。

 また、伊予国・土佐国に関しては、信長が淡路まで赴いて残り2カ国の仕置も決める予定であった。そして、信孝の四国侵攻開始は6月2日に予定されていた。


 しかし、従来、長宗我部元親との取次役は明智光秀が担当してきたため、この四国政策の変更は光秀の立場を危うくするものであった。


 5月15日、駿河国加増の礼のため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。信長の光秀に対する信頼は深かった。

 信長が光秀に不満を持ち、彼を足蹴にした。家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。

 信長は光秀に秀吉への援軍に向かうよう命じた。


 5月29日、信長は未だ抵抗を続ける毛利輝元ら毛利氏に対する中国遠征の出兵準備のため、供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて安土城から上洛し、本能寺に逗留していた。

 ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日未明に本能寺を襲撃する。

 わずかな手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら弓や槍を手に奮闘した。しかし、圧倒的多数の明智軍には敵わず、信長は自ら火を放った。

『人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか』

 大河ドラマで見た『敦盛』のフレーズが頭の中で流れた。熱さのあまり呼吸が出来ず、しゃべることもままならなかった。菜々子、多江……もう一度逢いたかった、

 燃え盛る炎の中で、刀で頸動脈を切り自害して果てた。 


 木村と平井は炎上する本能寺を眺めていた。木村は向こうの世界から持ってきたマシンガンで明智軍を蹴散らした。

「有田が死んじまった」

 木村は悪友の死を嘆いた。


 多江は愛する男の死を知り涙を溢した。

「浩正」

 帰蝶に化けていたのは駿河国の戦国大名今川義元と正室定恵院の娘だった。甲相駿三国同盟の一環として、武田義信と結婚した。実名は不明。嶺松院殿、嶺寒院殿とも。


 嶺松院の母の定恵院は武田信虎の娘(武田信玄の姉)である。甲駿同盟を婚姻関係から担保していた定恵院は、天文19年(1550年)6月2日に死去した。甲駿同盟の継続維持・強化のため、嶺松院と信玄の嫡男義信の結婚が決められた。


 天文21年(1552年)11月22日、嶺松院は駿府を発って甲斐に向かい、11月27日に義信(15歳)と結婚して躑躅ヶ崎館に新築された若夫婦のための建物に移った。出迎えの使者に加わった武田家家臣駒井政武はその日記『高白斎記』に駿府出発からの婚礼行列の行程を書き残している。この後、天文22年(1553年)正月には信玄の娘(黄梅院)と北条氏康の嫡男氏政の婚約が成立、天文23年(1554年)7月には氏康の娘(早川殿)が義元の嫡男(嶺松院の兄)氏真に嫁ぐことにより、嶺松院と義信の婚姻関係は甲相駿三国同盟の一環となる。嶺松院は義信との間に一女(園光院)を儲けた。


 永禄3年(1560年)、義元が桶狭間の戦いで敗死すると、今川領国への進出を志向する信玄と、甲駿同盟の維持を志向する義信との間に派閥対立が生じた。この対立は、永禄8年(1565年)10月に義信が甲府東光寺に幽閉されるという事態に至る。このとき義信と嶺松院は離縁させられたともいうが、嶺松院は甲斐にとどまっている。


 永禄10年(1567年)10月19日、義信は東光寺で自害する。同年11月、嶺松院は、兄の今川氏真の要請で駿河に送還された。娘を伴って駿河に戻った嶺松院は出家した。翌永禄11年(1568年)12月、武田信玄は駿河侵攻を行い、大名としての今川家は滅亡に追い込まれる。その後の半生の事跡は明らかではない。

 いつの日か私も、浩正のいるところへ、行くことになる。その日まで待っててね?

 


 

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インソムニアキル 誕生編 鷹山トシキ @1982

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