第14話 姉川の戦い

 久慈宏は天龍島にやって来た。ここには不思議な玉が眠ってるらしい。洞窟の中でモグラの怪物に襲われた。ショットガンで撃ち殺した。だが、5つ目の『山』の玉は消えていた。奪ったのは上戸有紗なのだが、そんなことを久慈は知らない。

 有田菜々子って女は『氷』『天』の玉を手に入れた、有田浩正は『炎』の玉を手に入れた。2人とも不幸な目に遭っている。

 久慈は玉を取らないことを選択した。

 

 常日頃から上司である神澤からの罵倒を受けていた浩正。浩正は滋賀にあるチェーン工場に派遣されていた。神澤は最初こそは『おまえはうちの救世主』だとか言っていたが、次第に正体が明らかになった。派遣社員を一段低く扱い、「カス」「バカ」と罵倒された挙句、殴る蹴るの暴行を受けた。

 浩正は恋人の椎名多江に相談した。

 多江は探偵事務所を運営していた。

 パイロキネシスを使って殺そうとしたが、使えなくなっていた。インフルエンザにかかっていた。体力が落ちると魔法も使えなくなるようだ。

 多江は神澤を琵琶湖の畔に呼び出してダガーナイフで背後から刺し殺した。神澤はナイフで反撃してきた。頬がパカッと裂けた。「嫁にイケなくなったらどーすんだよ!」

 多江は4人目を殺したところだ。

 以前、雑魚兵を巨大化して倒したことがあったがそれはカウントされない。残り2人で『飛空』を覚える。


 朝倉赤龍はカンザワ・ヨシアキが死ぬ夢を見た。赤龍はチェーン工場の工場長だ。

 カンザワは鬼に食い殺された。

 滋賀には恐ろしい鬼の伝説が残っている。

 大嶽丸は、伊勢国と近江国の国境にある鈴鹿山(鈴鹿峠と鈴鹿関周辺の山地)に住んでいたと伝わる鬼神。文献によっては鬼神魔王、大だけ丸、大竹丸などとも記される。山を黒雲で覆って暴風雨や雷鳴、火の雨など神通力を操ったという。


 平安時代初期に創建された鈴鹿峠の近江国側に位置する田村神社の由緒では、鈴鹿山の「悪鬼」を平定した坂上田村麻呂が、残っていた矢を放って「この矢の功徳で万民の災いを防ごう。矢の落ちたところに自分を祀れ」と言われて、矢の落ちたところに本殿を建てたとしている。田村麻呂が亡くなった弘仁2年(811年)の翌年となる弘仁3年(812年)に、田村麻呂の霊が鈴鹿の地に遷られた。


 室町時代初期に世阿弥作とも伝えられる勝修羅三番のひとつ能『田村』が成立した。物語の中では東国の僧に京都清水寺の縁起が語られるが、その中で田村麻呂が黒雲鉄火をふらし数千騎に身を変じて山の如き勢州鈴鹿の『悪魔』(場面によっては鬼神)を千手観音の加護で鎮めたと語られている。『田村』には清水寺の縁起の他に田村神社など、鈴鹿峠周辺で語られた坂上田村麻呂伝説が採り入れられたものと思われる。室町時代中期から後期にかけて『田村』を元にしたお伽草子『鈴鹿の草子』や室町物語『田村の草子』などが成立する。『田村の草子』では、鈴鹿の鬼神『大だけ丸』を討ったのは藤原俊仁の子『稲瀬五郎坂上俊宗』となる。


 大嶽丸の名前が登場する例はこの『鈴鹿の草子(田村の草子)』より遡らない。三代目の田村丸将軍が天女・鈴鹿御前もしくは第六天魔王の娘・立烏帽子と夫婦の契りを結び、妻となった彼女の助力によって鈴鹿山の大嶽丸という鬼神を討つ。古浄瑠璃『田村』の和泉太夫正本では田村麻呂が戦った「大竹丸」を「日本を覆さんが為 数千の眷属、引き具し」として鈴鹿山に天下ったとしている。


 江戸時代の東北地方にお伽草子『鈴鹿の草子』や室町物語『田村の草子』、古浄瑠璃『田村』『坂上田村丸誕生記』などが伝わると、これら物語を底本とし、旧仙台藩や北上川流域を中心に語られた達谷窟の悪路王など東北各地に残る坂上田村麻呂伝説と融合して奥浄瑠璃の代表的演目『田村三代記』が成立した。

 『田村の草子』などでは大嶽丸は鈴鹿山で討伐されるも黄泉還って霧山で再び討伐されるが、『田村三代記』では達谷窟、霧山、箟嶽山と転戦する改編がなされた。江戸時代中期には紀海音による浄瑠璃『坂上田村麻呂』が成立している。また『東海道名所図会』「巻之二」には説明書きと共に田村将軍による鈴鹿の鬼神退治の絵が描かれ、歌川国芳の『東海道五十三対』土山でも田村麻呂と鈴鹿御前による鈴鹿山の鬼神退治が描かれていることから、江戸時代の庶民にも鈴鹿山の大嶽丸は広く知られていたと考えられる。幕末には高杉晋作が江戸遊学の前後に鈴鹿峠を通る際に漢詩で英雄(坂上田村麻呂)が賊(鬼)を挫いたのはこのあたりであろうと読んでいる。


 中村涼香は神奈川から遠く離れた滋賀にいた。琵琶湖にプカプカと遺体が浮いている。

 遺体は腹が膨れていなかった。水死体は決まって妊婦みたいに腹が膨れる。ガスがたまるのが原因だ。つまり、この遺体は死んでから湖に落とされたことになる。


 名古屋市郊外にある雑木林にやって来た。

 奇妙な遺体が見つかった。

 体のあちこちに黒い斑点があった。

「何かの感染症?ペストかな?」

 平井が言った。

 ペスト菌が血液によって全身にまわり敗血症を起こすと、急激なショック症状、昏睡、皮膚のあちこちに出血斑ができて、手足の壊死を起こし全身が黒いあざだらけになって死亡する。別名黒死病。

 だが、ガイシャはペストではなく感電死だった。木村は雷に打たれた遺体を昔見たが、同じような斑点があった。


「ライハンかもね?」

 ニュースを見ていた椎名多江が言った。多江の事務所は名鉄名古屋駅の近くにあった。

 ソファはフカフカしていた。浩正はモカを飲んでいた。

「なにそれ?」

『雷斑』と古紙にボールペンで書いた。

「雷に打たれたときに出来るのよ」

 被害者の顔写真が画面に現れた。

「あれ?」

「なに?ヒロの知ってる人?」

「ウチの会社の工場長、そういや最近ね?鬼が人を殺す夢を見た」

「名前は?」

「アサクラ・セキリュウ」

「神澤の上司、もしかして多江が?」

「違うわよ」

「じゃあ、誰だ?」

「知らないわよ」

 浩正は朝倉の死を鼻で笑った。正社員になる為の試験を受けたが落とされた。

「罰が当たったんだ」

 浩正は『天』の玉を握った。朝倉はサカイ・マサヒサって男と争ってる最中に雷に打たれて死んだ。そういや、3日前はすごい雷だった。サカイは鎧兜を身に着けていた。上戸が『山』の玉を手にしたときに戦国時代にワープホールが出来た。巨大な穴だ。サカイはその穴からこっちの世界にやって来たのだ。

 朝倉はサカイに殺されたわけじゃない。事故だったのだ。次の仕事どうしようか?もう深夜1時だが浩正は眠れずにいた。

 履歴書を書いているとズズンッ!と地鳴りがした。外に出ると庭にドでかい穴が開いていた。

「ゲッ!何だこれ?」

 事務所から多江が出て来た。

「ワープホールかも知れない」

 浩正は現実逃避したかった。恐る恐る、多江と穴の中に飛び降りた。


 尾張(愛知県西部)出身の戦国大名である織田信長は、駿河の今川義元を討ち取り、斎藤龍興から美濃を奪取したのち、上洛を目的として近江に侵攻した。侵攻に先立ち、北近江を治める浅井長政には、妹であるお市の方を娶らせて織田氏との縁戚関係を結んでいた。信長は、浅井氏からも援軍を得て、共通の敵である南近江の有力大名である六角義賢父子を破り(観音寺城の戦い)、足利義昭を奉じての上洛を果たした。


 その後、信長からの上洛参集要求などを拒んで対立した越前の朝倉義景に対し、元亀元年(1570年)4月に信長が越前への侵攻を開始すると、朝倉氏との縁(同盟関係、主従関係とも)も深かった長政は信長から離反し、織田軍の背後を襲った。


 優位から一転、挟撃される危険に陥った信長は撤退を開始。信長の家臣たちは『金ヶ崎の退き口』を経て退却した。

 信長は朝倉氏に雇われた暗殺者により狙撃されるが、命からがら尾張に戻った。

 氏家卜全は異世界からやって来た浩正と多江を出迎えた。浩正は氏家ト全と勘違いしていた。日本の漫画家で、宮城県仙台市出身。 2001年に『別冊ヤングマガジン』掲載の読み切り『妹は思春期』でデビューし、同作が『週刊ヤングマガジン』で連載化して連載デビュー。代表作に『妹は思春期』・『妹はひまわり組』・『女子大生家庭教師濱中アイ』・『生徒会役員共』・『プチプチたんたんプチたんたん』がある。 目の前にいるのはウジイエ・ボクゼン。漫画家はウジイエ・トゼン。

 

 卜全は、始め美濃国守護の土岐頼芸の家臣として仕えたが、斎藤道三によって頼芸が追放されると、道三の家臣として仕えた。道三死後もその子・義龍、龍興に仕えたが、龍興とは折り合いが悪かったとされており、稲葉良通や安藤守就と共に永禄10年(1567年)、織田信長の稲葉山城攻めにおいて内応し、以後は織田氏の家臣として仕えた。なお、この頃に卜全と号した。


 信長上洛の際にはこれに従った。また、永禄12年(1569年)の北畠具教が籠城する大河内城攻めや、元亀元年(1570年)の姉川の戦いなどにも参加して活躍した。


 元亀2年(1571年)の伊勢国長島攻めで柴田勝家に従軍し、織田軍が撤退する際に殿軍を務めたが、5月12日に美濃石津で本願寺勢力と共に織田軍に抵抗していた六角一族の佐々木祐成に討ち取られた。享年38とされるが、『美濃国諸旧記』には59歳で死去したと書かれている。

 

 織田軍の撤退後、朝倉義景は自身は敦賀に滞陣し、戦後処理や浅井長政との連絡に努め、5月11日に一族の朝倉景鏡を総大将とする大軍を近江に進発させる。朝倉軍は浅井軍とともに南近江まで進出し、六角義賢と連携し信長の挟撃を図ったが、この連携はうまくいかず、信長は千草越えにより5月21日に岐阜への帰国に成功し、六角軍は6月4日、野洲河原の戦いで柴田勝家、佐久間信盛に敗れてしまう。このため、浅井・朝倉軍は美濃の垂井・赤坂周辺を放火するとともに、国境に位置する長比・苅安尾といった城砦に修築を施し、兵を入れて織田軍の来襲に備えた。朝倉軍は6月15日に越前へ帰陣するが、前後して長比城に配置された堀秀村・樋口直房が調略により信長に降り長比・苅安尾両城は陥落する。これを受けて6月19日、信長は岐阜を出立しその日のうちに長比城に入った。


 6月21日、信長は虎御前山に布陣すると、坂井政尚や木下秀吉らに命じて、小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き払わせた。翌6月22日、信長は殿軍として簗田広正、中条家忠、佐々成政らに鉄砲隊500、弓兵30を率いさせ、いったん後退した。


 6月24日、信長は小谷城とは姉川を隔てて南にある横山城を包囲し、信長自身は竜ヶ鼻に布陣した。


 木村と平井、それから久慈宏は『椎名探偵事務所』の庭に出来た巨大な穴の謎に苦戦していた。

「落盤かな?」と、木村。

「この辺はまだ最近、工事があったばかりですよ」と、平井。

「近くに住む老人が人間がこの穴に落ちるのを目撃している」

 木村は『地』の玉を持っていた。コイツで地割れとか起こせるかな?

「もしかしたらアリタかも知れない」

 浅井政澄という戦国時代からタイムスリップして来た人間が死体となって雑木林で見つかった。掌では血文字で『アリタ』と書かれてあったのだ。


 浅井長政はアザイ・マサズミが死ぬ悪夢を見た。

 浅井政澄は、浅井氏庶流・浅井政信の子として誕生。長政の宿老の一人して、仕えた。遠藤直経とともに、六角家攻めを進言している。

 元亀元年(1570年)、姉川の戦いで浅井軍の第二陣を務め、織田氏の武将・氏家卜全に討たれた。この戦で、3人の弟、政成、政重、政連共々戦死したという。なお、息子の政勝は、その後も、長政に仕え、小谷城の戦いで討死した。20歳前後と伝わる。


 マサズミは鬼に焼き殺された。長政は幼き日に母から聞かされた話を思い出していた。

 

 桓武天皇の時代、伊勢国鈴鹿山に大嶽丸という鬼神が現れ、鈴鹿峠を往来する民を襲い、都への貢物を略奪した。帝は坂上田村丸に大嶽丸の討伐を命じた。田村丸は三万騎の軍を率いて鈴鹿山へと向かったが、大嶽丸は飛行自在で、悪知恵を働かせて峰の黒雲に紛れて姿を隠し、暴風雨を起こして雷電を鳴らし、火の雨を降らせて田村丸の軍を数年に渡って足止めした。


 一方、鈴鹿山には鈴鹿御前という天下った天女も住んでいた。大嶽丸は鈴鹿御前の美貌に一夜の契りを交わしたいと心を悩ませ、美しい童子や公家などに変化しては夜な夜な鈴鹿御前の館へと赴くものの、そのことを神通力で見透かしていた鈴鹿御前からの返歌はなく、思いが叶うことはなかった。


 大嶽丸の居場所を掴めずにいた田村丸が神仏に祈願したところ、その夜、夢の中に老人が現れて「大嶽丸を討伐するために鈴鹿御前の助力を得よ」と告げられた。田村丸は三万騎の軍を都へ帰し、一人で鈴鹿山を進むと十六歳ほどの見目麗しい女性が現れて、誘われるまま館へ入り閨で契りを交わすと、「私は鈴鹿山の鬼神を討伐する貴方を助けるために天下りました。私が謀をして大嶽丸を討ち取らせましょう」と助力を得た。この女性こそ鈴鹿御前であった。


 鈴鹿御前の案内で大嶽丸が棲む鈴鹿山の鬼が城へ辿り着いたものの、鈴鹿御前から「大嶽丸は三明の剣に守護されているうちは倒せない」と告げられる。鈴鹿御前の館へ戻ると、その夜も童子に変化した大嶽丸がやってきたので、鈴鹿御前が「田村丸という将軍が私の命を狙っている。守り刀として貴方の三明の剣を預からせてほしい」とはじめて返歌すると、大嶽丸から大通連と小通連を手に入れた。顕明連は天竺にあるという。


 次の夜も館へと来た大嶽丸は、そこに待ち構えていた田村丸と激戦を繰り広げる。正体を現した大嶽丸は身丈十丈の鬼神となって日月の様に光る眼で田村丸を睨み、天地を響かせ、氷の如き剣や矛を三百ばかり投げつけたが、田村丸の両脇に立つ千手観音と毘沙門天が剣や矛をすべて払い落とした。大嶽丸が数千もの鬼に分身すると田村丸が神通の鏑矢を放ち、一の矢が千の矢に、千の矢が万の矢に分裂して数千もの鬼の顔をすべて射る。大嶽丸は抵抗するものの、最後は田村丸が投げたソハヤノツルギに首を落とされた。大嶽丸の首は都へと運ばれて帝が叡覧され、田村丸は武功で賜った伊賀国で鈴鹿御前と夫婦として暮らし、娘の小りんも生まれた。


 大嶽丸に続いて近江国の高丸も退治して月日が経ったころ、魂魄となって天竺へと戻った大嶽丸が顕明連の力で再び生き返り、陸奥国霧山に立て籠って日本を乱し始めた。田村丸は二百歳にもおよびたる翁から与えられた名馬に乗り陸奥へと向かった。大嶽丸は霧山に難攻不落の鬼が城を築いていたが、田村丸はかつて鈴鹿山の鬼が城を見ていたため搦め手から鬼が城へと入ることができた。そこに蝦夷が嶋から大嶽丸が戻り、天竺に魂をひとつ残していたと嘲笑うが、田村丸は大通連と小通連に顕明連も揃うと応じ、腹をたてた大嶽丸は三面鬼に命じて大石を雨のように降らせるものの田村丸に当たらず、田村丸は神通の鏑矢で三面鬼を討ち取った。腹を据えかねた大嶽丸は田村丸に飛びかかるも、ソハヤノツルギによって二度目の首を落とされた。大嶽丸の首は天へと舞い上がって田村丸の兜に食らいつくが、兜を重ねて被っていたため難を脱し、大嶽丸の首はそのまま死んだ。残りの鬼たちは獄門にかけられ、大嶽丸の首は宇治の宝蔵に納められた。

 

 徳川家康が織田軍に合流し、家康もまた竜ヶ鼻に布陣。一方、浅井方にも朝倉景健率いる8,000の援軍が到着。朝倉勢は小谷城の東にある大依山に布陣。これに浅井長政の兵5,000が加わり、浅井・朝倉連合軍は合計13,000となった。


 6月27日、浅井・朝倉方は陣払いして兵を引いたが、翌28日未明に姉川を前にして、軍を二手に分けて野村・三田村にそれぞれ布陣した。これに対し、徳川勢が一番合戦として西の三田村勢へと向かい、東の野村勢には信長の馬廻、および西美濃三人衆(稲葉良通、氏家卜全、安藤守就)が向かった。


 午前6時頃に戦闘が始まる。浅井方も姉川に向かってきて「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり(信長記)」という激戦になったが、浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを見た家康は榊原康政に命じて側面から攻めさせた。まずは朝倉軍が敗走し、続いて浅井軍が敗走した。結果的に織田・徳川側が1,100余りを討ち取って勝利した。合戦場付近の「血原」や「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせる。


 信長は小谷城から50町ほどの距離まで追撃をかけ、ふもとの家々に放火したが、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ後退した。まもなく横山城は降伏し、信長は木下秀吉を城番として横山城に入れた。


「浩正、朝倉軍の真柄直隆には十分注意しろ」

 本陣で氏家卜全が口にした。

 真柄直隆は越前国・真柄荘の国人として朝倉氏の客将となり、上真柄の地に居館を構えた。但し、真柄氏は朝倉家中では堀江氏などと共に、在地性・独立性が強い国人衆で、越前に足利義昭が頼ってくるまで、朝倉氏に臣従的態度を取りつつも、軍役を一部負担するだけ(すなわち被官)という立場で、朝倉家の完全な家臣という立場ではなかった。


 直隆は朝倉家中でも武勇に優れ黒鹿毛の馬に跨り、越前の刀匠千代鶴国安の作による五尺三寸(約175センチ)もの太刀『太郎太刀』を振り回して戦ったという。足利義昭が朝倉義景を頼って一乗谷に来た際、御前で大太刀を軽々と頭上で数十回振り回し、豪傑ぶりを披露したという。


 朝倉景鏡の夢枕にマガラ・ナオタカが現れた。鬼は氷の剣でマガラの体を切り裂いた。

 

 直隆は『太郎太刀』を眺めた。

 朝倉陣営の敗戦が濃厚になると味方を逃がすべく、単騎で徳川軍に突入し、12段構えの陣を8段まで突き進んだ。だが、向坂三兄弟の攻撃を受け力尽き、「我頸を御家の誉れにせよ」と敵に首を献上して果てた。

 この時、向坂兄弟が討ち取った時に使用した太刀は「真柄斬り」と名付けられ、名刀の一つになっている。なお、弟・直澄と子・隆基も勇猛で知られたが、この戦いで討死している。だが、朝倉氏滅亡後の天正11年(1583年)に「真柄加介」宛てに丹羽長秀から知行安堵状が発給されており、真柄一族はその後も存続していることが窺われる。


 太郎太刀は現在、愛知県名古屋市の熱田神宮宝物館に奉納されている。熱田神宮にある物が直澄の次郎太刀で白山比咩神社にある物が直隆の太郎太刀(藤島行光作刀)という説もある。


 墓所の越前市宮谷町は中世真柄庄の南西に位置し、隣接する活泉町には斯波氏の鞍谷御所が置かれていた。


 横山城近くで、浩正は木村と久慈に追跡されていた。

「逃げるな!逃げると罪が重くなるぞ!」

 中村涼香がナナハンで助っ人に現れた。

「乗りなよ!」

 間一髪、浩正は助かった。


 浩正は坂井政尚の屋敷にやって来た。

 彼の出生については諸説あり、『張州府志』『尾張志』などでは「(尾張)丹羽郡楽田村の人」とあるが、『御湯殿の上の日記』には「みののさかいうこん(美濃の坂井右近)」とある。なお、『信長公記』などに見える清洲織田氏の家老・坂井大膳などの坂井氏との関係性は不明であるが、織田家には同姓の家臣が複数登場し、同族と思われる。


『武家事紀』『太閤記』によれば、はじめ美濃斎藤氏に仕えていたが、織田信長に転仕したとされている。

 信長に仕えた時期は不明であるが、『信長公記』には永禄11年(1568年)9月28日に勝竜寺城の岩成友通を攻める時、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成と並ぶ大将として出てくるのが初見である。

 主君・信長の上洛後、この勝竜寺城攻めで活躍し、柴田らと共に50以上の首を得たという。その後、この4人またはこれに佐久間信盛を加えた5人で、京や畿内において禁制や税の手配などの奉行として行政に携わっている。


 永禄12年(1569年)に発生した信長の伊勢攻略戦にも参陣しており、大河内城攻めの際には一手の大将として名前が見える。


 元亀元年(1570年)6月21日、信長は江北の浅井長政を攻めることになったが、この際に政尚は小谷城のある小谷山山麓まで攻め寄せ、町を焼き払っている。また、6月28日、この信長の小谷城攻めに対して朝倉義景が援軍を派遣し、姉川の戦いとなったが、政尚は織田勢の先鋒を務めた。しかし、この戦いで坂井隊は苦戦して不覚をとり、嫡子・尚恒が戦死している。


 その雪辱として、9月16日からの志賀の陣に志願して臨んだが、この戦いは比叡山の包囲戦となり、極めて長期戦となった。その長期戦も終盤に差し掛かった11月25日になって堅田の猪飼昇貞が降伏したため、安藤右衛門佐・桑原平兵衛と共に堅田に進駐しようとしたところ、比叡山に篭る前波景当ら朝倉軍の反撃を受けて孤立し、前波景当を返り討ちにするなど奮戦したが討死した。なお、『信長公記』では「一人当千の働き、高名比類なきところ」としている。


 政尚死後、次男・越中守(諱は不詳)が跡を継いだ。しかし、その越中守も本能寺の変において主君・織田信忠に殉じて討死しており、政尚の子孫は伝わっていない。

「何故、赤龍を殺したんですか?」

 浩正は彼に問い質した。

「奴の正体は前波景当だ、奴を倒せば俺も生きながらえるんじゃないかと思ってな?」

「確かに歴史は変わったな?」

 コイツをここで殺せば、また歴史が変わる。もしかしたら親父を蘇らせることができるかも知れない。そんなことを思ってると、政尚は大嶽丸へと変化した。

 暗雲が立ち込め、火の雨が降ってきた。

 浩正は菜々子からもらった『氷』の玉でブリザードを起こした。巨大化した椎名多江が現れ、大嶽丸を持ち上げて大地に叩きつけた。

「グェェッ!!」

 弱体化したところにパイロキネシスを放って冥界へと送った。


 

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