第37話 試合、開始

 ずっと明けない、夜の中にいるみたいだった。


 夜明けの兆しは微塵もなく、暗闇の支配する世界。右も左も、方角も、わからない。


「優月」

「えっ。な、なに?」


 今日はダブルス。ひとりじゃないと言ってくれたパートナーが、そばにいる。


「がんばろうね」

「う……うん」


 返答がぎこちないのが、自分でもわかる。でも、滑らかな返答ってどうするんだったっけ。どうするのが正解だったっけ。昨日は、泊まった時は、どんな風に話していたっけ。

 様々なことの正解を導けないまま、試合は始まった。



 第1ゲーム 0‐0


 サーブレシーブを決めるじゃんけんの結果、華のサーブからとなった。


「「よろしくお願いします」」


 対戦相手に一礼し、構える。

 今日の試合は、5ゲームマッチの3ゲーム先取。そして先に11点をとった方がゲームを取る。


「……」


 心なしか、手が、足が震えているような気がする。頭も靄がかかったように不鮮明になる。ええい、今までとは違うんだ。今日は華と一緒で、ダブルスで。今日こそは、違う。今日こそは、勝てるんだ。


「……」


 華が無言で、卓球台の下で相手に見えないように小指だけをピンと伸ばした。試合前に決めておいた、サーブのサイン。小指を伸ばすそのサインは、無回転の短いサーブを意味していた。


 卓球のダブルスではペアが交互に打つため、相手がレシーブしてきた球――3球目を打つのは、サーブを出した人ではなくもうひとり。回転が非常に重要である卓球にとって、サーブの種類をペアに教えておかないと、うまく連携のとれたプレーをすることはできない。最悪、ペアの出したサーブの回転のせいで次の打球をミスする、なんてことにもなりかねない。


 だから、こうして意思疎通を図ることは大前提。

 華のサインに私は小さくうなずき、了解の意思表示をする。そして、構え直す。


「……ふっ!」


 華が、サーブを放つ。サインどおりの、相手コートでツーバウンドしそうなほどの短いサーブだ。


「……!」


 レシーブは眞白さん。が、彼女は華のサーブの回転を見誤ったのか、レシーブは浮いた球となって私たちのコートへと返ってくる。瞬間、眞白さんは普段の半眼の目を見開いてしまった、というような顔を作った。


 チャンス……ボール!


 バウンドし、ネットの3倍はあろうかという高さ。強打するには絶好の球。

 これを決めれば、先制点。

 決めなきゃ。打って。こんなチャンス、ミスするわけにはいかない。

 ミスしたら、ダメ。強打して決めないと。

 絶対に。


 ……絶対に。


「っ!」


 力強く、振る。ラケットに、ラバーに、ボールが当たる感触。

 瞬間、ラケットを介して腕に、骨に、神経に届く衝撃。でも、それは練習の時に感じたものとは程遠く、気づいたころにはボールは私の元から離れていた。


 結果――私の強打は、ネットに突き刺さった。相手コートに入ることなく。


「……ごっ、ごめん」

「ドンマイ、楽にいこう」


 謝る私に、華は小さく声をかけてくれる。ダメだ、こんなんじゃ。

 次は、ミスしないようにしなきゃ。

 私のドライブを褒めてくれた。華も、瑠々香部長も。みんなも。


 今までとは、違うんだから。

 たくさん、練習してきた。それを発揮すればいいだけだ。

 発揮、しなきゃ。

 だけど、その思いは身体に溶け込むことなく、砂のように沈殿していく。脚を伝い、指先に。重たく、重たく降り積もる。


 第1ゲーム 0‐3


 結局、私は強打を3本連続でミスしてしまった。相手は何もせず、3点を稼いだことになる。


「……」

「……」


 相手を見ると、黒部さんは肩をすくめていた。やっぱり、とでも言うようだった。


「華、ほんとごめん」

「いいよ。まだ試合は始まったばかりだから、ね」


 まともに顔を見ることができないでいる私に、華は微笑みかける。リラックス、と言ってくれる。私も自分に言い聞かせる。だけど、身体はリラックスとは正反対に、岩のように固まっている。

 まだ大して身体を動かしていないのに、嫌な汗が身体にまとわりつく。身体の表面がべったりとした、嫌な感覚。


 その後も私はミスを重ね、相手に点数を献上する形となった。


 そして、第1ゲームは終わった。


「……」


 我に返ったと同時、審判が得点板をめくった。示されていた数字は、5‐11。

 言い換えれば、第1ゲームを先取されたということ。


「ありがとうございました」


 一礼を交わす。次の第2ゲームまで、1分間のインターバルとなる。私はラケットを卓球台に置いてベンチへと戻ろうとする。

 その直前。


「なーんだ、やっぱいつも通りか」


 頭の後ろに手を組んで、やれやれとばかりにあさっての方を向くのは、黒部さんだった。


「珍しく勝つって言ってたからどれほどのものかと思ったけど、相変わらずじゃん。ま、人はそう簡単に変わるもんじゃないってことかな」

「……」

「相方さんは確かに強いね、サーブもうまいし。でも、ペアがこれじゃあなー」

「…………」


 言い、返せなかった。言葉よりも、第1ゲームの結果が明らかに、明朗に、彼女の言うことが正しいと示していたからだ。


「友里音、ベンチ戻ろ」

「あいよ。んじゃあと2ゲーム、よろしく」


 あと2ゲーム。それは、どうせ私たちが3ゲームを連取し勝つという宣言にも等しい。


「……」


 結局、何も変わっていない。黒部さんの言うとおりじゃないか。瑠々香部長たちにいろんな対策を練ってもらっても、華とのコンビネーションを考えても。


「華……ごめん」

「優月」


 心臓の音がうるさい。ガンガンと、脳みそを殴るみたいに鼓動が五感を支配する。


「次は、ミスしないようにするから。華が作ってくれたチャンスをきちんと決めて、点数につなげるから」

「優月」

「ま、まだ1ゲーム目だもんね。ここからだよね。うん、大丈夫、大丈夫。次こそうまくやるから――」

「優月!」


 ばしっ。私の言葉は、強制的に終わった。華が、両手で私の頬を挟み込むように触れていた。


「は、華……?」


 肌から肌へ。彼女の体温が、ぬくもりが血管を、神経を通して私の体内へ流れ込んでいくような感覚。指先までしっかりと温かい手。その時、私はようやく自分の身体が緊張からか、冷え切っていることを自覚した。


「……落ち着いて」


 そう語りかける華の顔は、まるでキスでもしそうなほど近かった。彼女の感触、体温、匂い。私の全てが、鼓動ですら、彼女に上書きされていく。

 長いまつげの奥の、黒い瞳。まっすぐ私を見てくれる、曇りのない夜空のような、黒。


 ああ。この子は今、私を見ている。並んで卓球台に向かうパートナーとして。片時も離れない、半身として。


「……ごめん、ありがと」


 ようやく気づいた。私は、パートナーである彼女のことすら見れていなかった。それはおろか、自分さえも見失おうとしていた。

 頬にぴったりと触れていた華の両手が、すっと下がり、私の手を包み込むように握る。


 ……温かい。

 氷の結晶となって動くことすらままならない私を、じんわりと溶かしていく。


「今は、ダブルスだから。点を取られるのも、ふたりのせい。そして、点を取るのも、ふたりの力、だから」


 だから、ミスをひとりで背負い込まないで。彼女はそう続ける。


「それに、ふたりだけでもない」

「え?」


 華は、指さす。それは、斜め上。そこに目を向ける。


「優月ー! がんばれー! まだまだこっからだから!」

「赤城ちゃん、敗けたら罰ゲーム、覚悟しなよ~」

「瑠々香! 赤城さん、自分のペースでね」


 氷が、溶けていく。


「みんな……」


 それぞれの思い思いの声。そのすべてが、今は私に――私たちに向けられている。


「……優月」

「……うん」


 後ろには、みんながいる。隣には、華がいる。そして振り返れば、私がたどってきた、道がある。私自身の足で、一歩ずつ来た道。

 思い出す。今日までやってきた練習を。何をしてきたかを。そのすべてが、今日勝つためだということ。

 そんな当たり前のことに気づかないなんて。


「私、馬鹿だなあ」

「優月?」


 タオルで、汗をぬぐう。じんわりと身体を包む汗。もう、氷は溶けきっている。

 そして、告げる。


「ひとつ、思いついた作戦があるんだけど……いいかな」

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