第35話 ダブルスペア

 青原さんの部屋に戻ると、部屋が真っ暗だった。


 あれ?


 真っ暗というのは正確ではなく、月明かりだろうか、窓から差し込む光が仄かに部屋の中を濃い灰色に染め上げていた。


 窓……が開いてる?


 時折揺れるカーテン。その向こうに感じる人の気配。

 一歩一歩、確かめるように室内を進む。薄明かりを頼りに、ようやく窓際までたどりついた。


「青原、さん?」


 半開きになった窓に手をかけて顔だけ出すと……いた。彼女は窓に背を預ける形で膝を抱えて空を見ていた。


「どうしたの? 湯冷めしちゃうよ」

「大丈夫。いつも、こうしてるから」


 全く動く気配はなく、どうしたものかと2、3秒思案する。そして、空を見上げる彼女の横顔を見て、同じものを見たいと思った。


「隣、いい?」

「うん」


 同じように、腰を下ろした。

 同じように、空を見上げて――


「うわ……」


 そこから先は、言葉を失った。顔を上げた視界いっぱい、まさに満天と呼ぶべき星空。宝石箱を思いっきりぶちまけたみたいな輝きが、あった。


「きれい……」

「よく、見えるでしょ。引っ越してきたこの家の、お気に入り」

「うん」


 大小様々な光。瞬きを見せる星たち。半分だけ顔を見せている、月。ある意味では、昼間の空よりも、眩しいとさえ思った。家が小高い場所に建っているおかげなのか、邪魔をする光も、建物もない。視界には、星々しかない。


 そういえば、こうしてきちんと星空を見るのは、いつ以来だろうか。

 ふと、空に向かって手を伸ばす。


「届かない、ね」

「うん」


 当然だ。光さえたどりつくのに何年もかかる先にあるのだから。

 遠いのだ。彼我の距離は。


「なんだかあの星って、『勝つ』ことみたい。私にとって」

「……優月?」


 ふと思ったことを、口にする。ちゃんと勝ったことのない私には、『勝つ』ことはあの星ほどに遠い存在だ。文字通り、今まで勝ち星を上げられなかったのだから。


 けれど。


「今は、手が届きそうな気がする。みんなと、青原さんと、一緒だから」


 そこまで言ってから、私は首を振って隣を向いた。


「……ありがとう、ね」

「え?」


 こちらを向いた青原さんは珍しく、驚いた顔をしていた。ちょっと得意げな気持ちになる。


「そういえばちゃんとお礼、言ってなかったと思って」


 これをきちんと伝えておかないと、私たちは本当のダブルスペアになれない。そんな気がしたから。


 思い浮かべるのは、数週間前。雨の降る昼休みの卓球場。


「私がもう一度、卓球をやる気持ちにさせてくれたのは……『勝つ』ことを目指せるようになったのは、青原さんがあの時、私に向かって言ってくれたおかげだから。私と勝ちたいって、言ってくれて」


 改めて言うと、照れくさくなる。ぎこちない笑みを浮かべながら、指で頬を掻いた。


「だから、ありがとう」

「……」


 青原さんは、私の言葉を受け止めた後、少し下を向いた。瞬間、月明かりに反射した彼女の表情は、どこかバツの悪そうに見えた。


「青原さん?」

「……ごめん」

「……え?」


 予想外の返答に、目を瞬く。ごめん? 謝罪?


「どうして……青原さんが謝るの?」


 訊く。すると、青原さんは顔を上げた。覚悟を決めたみたいに。


「私が優月を卓球部に引きとめたのって……自分のためなの」

「自分、の?」

「うん」

「それって、どういう、こと?」


「優月、さっき言ったよね。手を伸ばす先の星が『勝つ』ことだって」

「う、うん」

「私にとってあの星は――優月なの」

「わた……し?」


 どういうこと? 頭が追い付かない。たしかに私は、『勝つ』という目指す目標を星に喩えた。その考えでいくと、目の前の青原さんにとってのそれは――


「私、ずっと優月に勝つことを目標にしてきた」


 勝つため?

 私に?


「覚えてる? 小学生の時、卓球教室での、最後の日のこと」

「う、うん」


 そう答えられたのは、さっきウメちゃんの喫茶店でぼんやりと考えていたからだ。


「じゃあその結果も、覚えてるよね」

「うん。たしか……私が、勝った」

「優月の言うとおり。私は完敗だった」


 ボロ敗けだった、と。


「私、すごく悔しかった」


 青原さんは、まるでその敗北が今さっきの出来事であるかのように、感情を込める。


 でも。たしか、あの時の試合は。


「あの敗けは、しょうがないと思うよ? だって青原さん卓球始めて数か月だったし。私の方が経験年数ずっと長かったから」


 まだ、初心者といえるレベルだった青原さん。卓球は経験者と初心者の差が最も大きいといえるスポーツ。だから、仕方ない。


「そんなことはわかってる」

「青原さん……」

「実力差があったことも。勝てる可能性が限りなく低かったことも。でも――」


 言葉を切り、一度息を吸う。


「敗けることは、悔しい。どんな条件でも、私は悔しくないなんて、絶対に思えない」


 膝を抱える腕に力がこもる。負けず嫌い。思えば、さっきゲームをしている時にも感じた、彼女のこと。


「優月は、悔しくないの? 今まで敗けてきたこと」

「それは」


 訊いてくる青原さんの表情は、まるで私の答えを見抜いているみたいだった。だって、私のことも、さっきこの人は知ったから。


「悔しいよ。めちゃくちゃ、悔しい」

「でしょ?」


 言って、青原さんは再び星空に視線を戻した。


「次会った時、絶対優月に勝とうと思った。そう心に決めて、転校してからも卓球を続けた」

「うん」

「だからこっちに戻ることが決まった時も、優月が行った中学の人があんまり行かない八高に行くことにした。敵として優月と、戦えるように。なのに」


 私も八高に、彼女と同じ学校に、進学していた。


「初めて卓球場に行った時、優月がいて本当にビックリした。ビックリしたけど、私がやることは変わらないと思った。部内のライバルとして勝てばいいって」


 でも、とさらに逆接で彼女はつなぐ。そう、それもそのはず。


「私が仮入部でいるだけだった、と」

「うん。だからどうしようか考えた。なんとか引きとめられないかって。そしたら、あのファミレスで優月と、あの人たちを見つけた」


 黒部さんと、眞白さん。私を引きとめるのに、体のいい相手。


 そうか、だから青原さんはあのファミレスに居合わせることができたのか。小学生の教室に通っていた時からよく行っていた場所だったから。


「だから、ごめん」


 青原さんは頭を下げてくる。


「優月はありがとうって言ってくれたけど、私はそれを受け取る資格はないの。優月を励まして卓球部に引きとめたのは、ダブルスの試合に参加させたのは全部、私のため」


 私の、身勝手。


「……」


 なんと言葉をかけようか。そう思ったところで、青原さんは頭を上げた。その表情は、決意に満ちていて、後悔なんて感情を微塵も感じさせない。


「けれど、私は優月に勝ちたい。優月とちゃんと試合をして」


 そう、言った。


「……本当は、言わないつもりだったの」

「青原さん……」

「言ったら、きっと優月は気を悪くする。それこそ、ダブルスだけじゃなくて、今度こそ卓球から離れちゃうかもしれないって思ったから。でも」


 でも。その言葉の後から紡ぎだされるのは、


「優月はちゃんと自分の気持ちを言葉にしてくれた。さっきだって私にありがとうって、言ってくれた。だったら、私も応えないわけには、いかないから」


 そこまで言って、彼女は口を真一文字に引き結んだ。


 ……あ。


 そこから読み取れるのは、不安。彼女が見せる、初めての感情。


 私が幻滅し、卓球から離れてしまうんじゃないか、という。


「ねえ」


 そんな不安な顔の女の子に向かって、私は訊くことにした。


「ひとつだけ、聞かせて。青原さんの、ホントの気持ち」

「本当、の?」

「あの日、言ってくれたこと。ダブルスで私と勝ちたいって言ってくれたことは、あなたの本心?」


 ダブルスで、今度の試合で、黒部さんたちに、勝ちたいと、言ってくれたこと。


「……本当だよ」


 小さく、だけど芯の通った声で、答えが返ってくる。


「何一つ嘘偽りはない。だって、優月は私が倒すんだから。あんな人たちに、敗けてほしくない。いや、敗けるわけない――」


 それだけで、十分だった。


「ゆづ……き?」


 気が付けば、私は青原さんを抱きしめていた。鼻孔をくすぐるシャンプーの香り。やわらかな肌の感触。伝わってくる体温。


 今この瞬間生きているという証の、鼓動。


「だったら私から伝えるのは、やっぱりありがとう、だよ。私のことこんなにも考えてくれる人がいて、ホントにうれしい」


 ライバルとして。仲間として。……ダブルスペアとして。


「私、もっと頑張るね。試合でちゃんと戦えるように。青原さんの倒す目標として、恥じないように」

「優月……」


 彼女の腕に力がこもり、抱きしめ返される。


「うん。ありがとう、優月」

「こちらこそ」


 そう言って、身体を離す。顔が見えた青原さんは、いつもの冷静な表情ではなく、確かに熱を持っていた。


「よろしくね、青原さん」


 右手を出す。すると、何やら曇り顔になった。


「あれ? 青原さん?」

「……華」

「え?」

「名前。私だけ名前で呼んでるのに、優月は苗字なんて、なんか不公平」


 じと、と不満を目線で訴えてくる。


 たしかにそうだ。ダブルスのペアは対等。まっすぐ、お互いのことを見つめ合うんだ。


「じゃあ……華」

「うん」

「華」

「なに?」

「呼んでみただけ」

「ぷっ、なにそれバカップルみたい」

「ちょっ、華が名前で言えっていったのに」

「あはは、ごめんごめん」

「もー」


 ひとしきり言い合って、私たちは天井を向く。


「よろしくね、優月」

「こちらこそ、華」


 今度こそ、互いの手を握り合う。力を込めて。


 それから、私たちは寄り添って、もう少しだけ星を眺めた。瞬く星たちはまるで私たちを祝福しているみたいて。


 この瞬間、私たちはダブルスペアになった。

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