第9話 断れないのは、私の悪い癖 その2
「帰りたいなあ……」
八条高校、卓球部の練習場。もう来るまいと思っていたその場所を前にして、私の放った言葉は誰に届くでもなく、地面にぽとりと落ちた。
杏子ちゃんと見学に来てから2日後の放課後。そう、まだ2日しか経っていない。
ここまでの道中、何度引き返そうと思ったことか。だけど、そんな意気地は私には備わってない。果たして、重たく感じる足をなんとか動かしてここまでたどり着いた。その足取りの重さには精神的な理由もあるけれど、背負っているリュックの中身が昨日より増えている、という物理的な要因も少なからずあった。
学校に持ってくることなんて、もうないと思ってたのに……。
増えた中身――家から持ってきた自分のラケットのことを考えると、一層肩に重さを感じた。
しかもこういう時に限って私ひとりなんて。
本当なら杏子ちゃんと一緒に来るはずだった。が、彼女は授業中居眠りしていたことを咎められ、先生に呼び出しを食らったのだ。結果、「先に行ってて~」という言葉を残し、職員室に吸い込まれていった。
「杏子ちゃん、まだかかるよね……」
あの英語の先生、厳しいって噂だし。
だけど、もうここまで来てしまった。後戻りはできない。目の前の扉を、自分ひとりで開けるしか道は残されていないのだ。
先輩たち、もう来てる、よね。
上級生だらけのところにひとりで行くなんて、私には相当ハードルが高い。杏子ちゃんならそんなこと全く気にかけることなく入っていくんだろうけど。
たぶん私の悩みなんてきっと杞憂で、めぐ先輩たちは新入生の私を優しく迎え入れてくれるのだろう。卓球経験者だという私に、期待して。だけどそれはいとも簡単に、いずれ必ず、裏返されるのだ。失望という感情に。だからこそ、余計に私は入るのを躊躇ってしまう。
……ダメだ。考えすぎるとネガティブなことしか浮かばない。
無心でいこう。そう決心して、私はゆっくりと卓球場の扉を開いた。
「失礼しまー……あれ?」
予想とは裏腹に、室内に先輩たちの姿はなかった。
その代わりに、
「青原……さん?」
一昨日、私たちと同じようにここを訪れた新入生、青原華。
水色のスポーツウェアと黒い短パンに身を包み、頭の後ろでまとめられた長めのつやのある黒髪。卓球台の上にボールがたくさん入ったカゴがあることを見ると、ひとりで練習していたということが容易に想像できた。
「……赤城さん?」
「えっ? あっ、うん」
名前に間違いがないか、確認するような訊き方。ということは、やっぱり私のことを忘れているのだろう。かくいう私だって、ぼんやりとしか覚えていない。
「……」
「……」
直後、流れる沈黙。どうしよう、てっきり先輩たちがいるものだと思っていたから、予想外過ぎてなにしていいかわからない。
「……ねえ」
「えっ。な、なに?」
「早く着替えてきたら。練習……するんでしょ? 待ってるから」
「あっ……う、うん」
言われて、少しだけ急ぎ足になりながら練習場の奥の扉、部室へと向かった。
逃げるように、部室に入りドアを閉める。と同時にヘナヘナと力を失いながら扉にもたれかかった。まだ微塵も練習していないのに、身体は長距離走後のような疲労を感じていた。
「やっぱりあの時断っておけばなあ……」
入学以来、後悔の連続の私。その中でも最大ともいえる昨日の放課後のことが脳裡をよぎった。
――……。
……。
「お願いっ! 今度の試合に出てほしいの!」
1年生の教室にやってきためぐ先輩が、両手を合わせてそう懇願してから数分後。
先輩と杏子ちゃんを連れて逃げるように教室を後にして、コーヒーをおごってもらった自販機前までやってきた。それにしてもこの自販機、あまり人気がないのだろうか、放課後だというのに周囲に他の生徒の気配はない。
「ど、どういうことですか……? 私が、試合?」
ようやく心に幾分かの平静さを取り戻した私は、訊く。先輩の言葉の意味はわからないが、嫌な予感だけはする。私の直感はそう告げていた。
「あっ、ごめん。いきなり過ぎたね。ちゃんと説明するよ」
私が混乱していることを察してくれたのか、めぐ先輩は背すじを正した。その拍子に豊かな胸部がたゆんと揺れる。……むう。
彼女は私の方を真っ直ぐと見つめると、
「週末にね、大会に出るの、団体戦。あ、公式戦とかじゃなくて、誰でも参加できるオープンなやつね」
「はあ……」
オープン大会……と言えば年中各地で開かれている大会だ。参加資格がゆるいため、純粋に卓球がしたいという人たちが集まる。
「4人で1チームなんだけど、
「私に、ですか」
やっぱり。悪い予感は的中した。
「あの、他に代役になる人いないんですか?」
「私も探したんだけどね……。元々用事があって出られないつむぎちゃんにも頼んでみたんだけどダメで。杏子ちゃんは昨日初めてラケット握ったばかりでしょ? だからいきなり試合なんて流石に無理だし、ね?」
「面目ないっす、先輩……」
杏子ちゃんは申し訳なさそうに言う。
そんなに悔しいなら代わってあげたい。私は喜んで身を引くのに。
「棄権にしてもよかったんだけど、千穂ちゃんたちが試合の経験を積むチャンスを潰したくないと思って……。ほら、インターハイ予選も控えてるし」
言うと、めぐ先輩は頭頂部が見えるくらい頭を下げた。
「だからお願いっ! 別に入部しなくていいから、私たちを助けると思って! 優月ちゃんしか頼れる人がいないの!」
「わたしからも! お願い優月!」
「ちょ、先輩。頭あげてください。杏子ちゃんも」
言っても、ふたりは頑として姿勢を変えない。
「……」
居たたまれない。
客観的に見れば、1年生ごときがクラスメイトと先輩に頭を下げさせている図。
これじゃあ、私が悪者みたいだ。
「えっと」
言葉が詰まる。
本当は、出たくない。出たくない。けど。
こうして頼まれて断ることができない性格をしているのは、他の誰でもなく私が一番よくわかっていた。
「……わかりました」
結局その場しのぎで、ただやり過ごすことだけを考えてしまって、私はこう言ってしまうのだ。
「本当っ!?」
途端にこちらに顔を見せてくるめぐ先輩。その表情は砂漠でオアシスを見つけたかのように爛々と輝いていた。その輝きに気圧されながらも、私は最終防衛ラインを守る兵士のような気持ちで、
「そ、その代わり、です! 私は卓球部に入部しない、あくまでその試合に出るだけ、です。それならオッケーします」
「うんうん! いいよいいよ! ありがとーっ!」
「ちょっ、先輩苦し……むぐぅ」
見つけたオアシスを逃しまいと思ったのか、思い切り抱きつかれる。ふわりと香るシャンプーのいい匂い。身長が同じくらいなせいで、お互いの胸がぶつかり合う。当然、敗者は私。もしこれが相撲だったら土俵外まで吹き飛ばされるに違いない。
「むう……」
その凶暴なまでの柔らかさに私はなす術もなく、ただ惨めな気持ちになる。
この間、千穂先輩に強引な勧誘をしないよう言っていたけど……ある意味めぐ先輩も人のことを言えないのかもしれない、と思った。こんな優しそうな人に頼まれて、断れる人なんてそうはいない。胸の底から立ちのぼる罪悪感には、勝てない。
こういうのを魔性、っていうのかなあ……。
「優月、ホントありがと!」
「い、いいよ。私しかいないんならしょうがないし」
ニッコリ顔を向けてくる杏子ちゃんに対し、苦笑で返す。まあ来週末に一度試合に出るだけだ。その1日だけ、我慢すればいい。別に部員として部活に参加するわけじゃない。
「あ、そうだ」
そこで、何か思いついたとばかりにめぐ先輩が声を上げる。そして豊かに実った胸と身体を離すと、まるで決定事項であるかのように言った。
「優月ちゃんもブランクがあるだろうし、せっかくだから大会まで一緒に練習しよ?」
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