第70話  奪われたもの 私のもの

「どけ、天華…!」




このままではヤバいと、本能が告げていた。


天華から離れないとまずいことになるという予感が確かにあるのだ。


だけど、現実はもちろんそう上手くいくはずがない。


勢いよく地面にぶつかったことで体の痺れは未だ抜けず、天華も俺の上に跨ったまま動こうとはしなかった。




「雪斗…雪斗…」




いや、正確には違う。天華は動いている。


ただ、それは俺から離れるための動きではない、その逆だ。


天華は俺の首に手を回し、ガッチリと固定して無理矢理視線を重ねてくる。


虚ろな赤い瞳。どこを見ているのか定かではないそれは、だけど確かに俺を見ていた


それを見てると、胸の中でますます不安が広がっていくのを感じてしまう。


嫌な予感が現実になろうとしていた。




「く、そ…!」




逃げ場など、どこにもない。


だけど目を瞑ることは出来なかった。それをしたら、全てが終わる気がしたのだ。


逆に言えば、俺にはもう分かってしまっていた。それが意味することは、つまり。




「やめろ、離れろよ!」




「ほら、雪斗。貰うわよ…」




天華の顔が近づいてきた。もう目と鼻の先だ。息遣いさえ聞こえてくる。


なんとか抵抗しようとしたが、遅かった。一瞬。ほんの一瞬だけ、見入ってしまう。


悔しいことに、こんな状況で天華はおかしくなっているというのに、やっぱりこいつは綺麗だった。


決して見惚れたわけじゃない。かつて好きだった女の貌は、独占欲に塗れていた。


俺はその瞳に呑まれたのだ。


その一瞬が、取り返しのつかないことになると、俺は分かっていたはずなのに。






「やめ…」






そして






抵抗が弱まった隙を、天華が見逃すことはなかった。






「んむっ…」






俺たち二人の間は縮まり、口づけが交わされていた。






「ん、んぐぅ…」






舌も、入って…






「こ、のぉぉっ!」




呆然とする俺と恍惚としている天華の間に、入ってくる影があった。


俺が見たことのない怒りの形相ととも、彼女は俺から天華を強引に引き剥がす。


それは他でもない。俺の好きな女の子。琴音の姿だった。


天華にはじき飛ばされた彼女は、自力で起き上がったらしい。


だけどそれは、天華との一部始終を、全部見られていたということで。




俺は、琴音の前で、天華と…




「てんか…てんかぁぁぁっっ!!!」




悪夢を見て目覚めた後のような、思考もままならないなかで、琴音だけが動いていた。


激高し、天華に掴みかかっているその姿を前に、俺はまだ動けないでいる。


声も発せない。ただ二人を見ることしか、できない。




「なにを、なにをしてるのよ!ゆきくんとは、私が!私がぁっ!」




「良かった。やっぱり琴音は雪斗としてなかったんだ」




怒りを顕にする琴音の顔をみても、天華は涼しい顔をして受け流していた。


その顔はどこか勝ち誇っているようにすら見える。


永遠に取り戻すことができないものを手に入れた。そう言っているようにさえ思えた。




「これで、私は雪斗を手に入れた。初めてのキスは永遠に私のものだ。私が雪斗の初めてなんだ」




「ふざけないでよ!返して!返してよ!天華ちゃんが、今さら私とゆきくんの間に入ってこないで!私たちの思い出を汚さないで!」




「嫌よ。誰が琴音なんかに。私から雪斗を獲ったくせに。ざまあみろ、泥棒猫」




俺は、なにを見ているんだろう。


これはあれか、修羅場ってやつか。子供の頃からいつも見てきた景色の中で、幼馴染ふたりが争っている。


多分、俺を巡ってだ。現実感がまるでなかった。俺はいつからモテるようになったんだ。いや、そもそも天華には振られていたんじゃなかったか。




頭の中がぐちゃぐちゃしている。


楽しいはずの朝の時間が、数分のうちに地獄と化した。


一寸先は闇というが、闇どころかそこにあったのは底なし沼だ。


俺はそこに膝をついたまま、ズブズブとはまっていっている。


それは多分、ふたりも。




「ふざけないでよ…天華ちゃんが、素直になれなかったことが全部悪いんでしょ…!全部自業自得なのに、なんで今さらこんなことするのよ!」




「雪斗は私のものだからよ。だから琴音にはあげない。これで雪斗は私のことを忘れられない。今だって、雪斗は私のことを考えてる。そうでしょ?」




「え…?」




突然投げかけられた問いに、俺は反応が遅れてしまう。


確かに天華のことは考えてはいた。だけど、それは天華がなんでこんなことをしたのか分からないからだ。


疑問だけが俺の頭を埋め尽くしていた。


だからその疑問を俺は素直に口にする。




「天華…お前、西野のことが好きなんじゃなかったのかよ…」




何故こんなことをした。好きな男がいるのに、なんでこんなことをするんだ。


おかしいだろ。何考えてんだ、お前。


そんな全ての疑問を凝縮した問いに、天華は答えた。


だけど、それは俺が期待した誠実なものではなく。




「…なんでここで他の男の名前なんて出すのよ」




ここにはいないとしても、想い人に対するものとは思えない、嫌悪感を顕にした態度だった。






「西野くんなんて、どうでもいいじゃない。私のことだけを見てよ、雪斗」






その言葉に






俺のなにかが、プツンと切れた。


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