徘徊する狂気
メリーゴーランドに乗っていたのは1人の女性の"白い影”だった。
この遊園地でそこだけ、彼女だけが逸脱し、美しくも何処か悲しく感じる空気を纏っている。
女性を一目見ると彼は全身の力を抜き、優しく声をかけた。
「……待たせて悪かった」
ただどうしても顔が見えてこない、彼女を見ているだけで彼の頭の痛みが増していく。
それでも彼女に話しかけるのが止められなかった、胸が踊った。
痛みなんて気にすることなく彼は彼女の言葉を返していった。
『アハハ、私こんな年ではしゃいじゃって恥ずかしいなぁ』
「そんなことないさ 」
『えぇ〜、天晴なんか酷くない?』
「そうだったか? 悪い悪い」
『──ねぇカメラで撮らないでよぉ!』
「……」
女性は突然、変わったことを言った。彼はカメラを向けていないどころか、手は何も触れていない。
そして何よりも彼女が話している時、目線は彼の方に向いていなかった。
絵画と目が合った時のように、女性の意識は彼まで到達することはないのだ。
「……うぷっ」
彼は咄嗟に口を抑える。
唐突に訪れた激しい嘔吐のせいで嗚咽しながらその場に崩れる。徐々に視界が歪み始め、平衡感覚も失われつつあった。
──ザザザ、ザザザ、ザザザ……
遊園地内に溢れていた人々の声が一転し、砂嵐のような機械的で不穏な音が蔓延してくる。
「ぐっ……あがっ」
割れそうな頭の痛みに加え、あらゆる音が耳に突き刺さるような激痛が彼の身体を駆け巡った。目が回って男は仰向けに倒れる。
口の中に甘い匂いが広がって男は不快感を抱いた。
「頼む、あと……」
『天晴、じゃあね』
歪む視界の中、白い影の女性が去っていくのが見えた。メリーゴーランドは時空ごと歪み、人々は水色の泡となって溶けていく。
何もかもがグチャグチャで無秩序な世界の中で彼女は遠くへと歩みを進めていた。
彼は女性を引き留めようと手を伸ばした。
「待って! まだ────あぁ、今日もこれだけかよ……」
──スウゥゥ
彼の伸ばした手のひらに水泡が当たった感覚が伝わった。
そして同時に白い影の女性も、あの遊園地も、人々も、痛みや不快感も全てが消え去ってしまった。
彼がいた場所は遊園地へ行く前、訪れていた街の公園。その地面で彼は1人、座り込んでいた。
まだ時間は早朝、聞こえてくるのはせいぜい小鳥のさえずりや風の音程度でそれが一層、彼に孤独感と虚無感を与えた。
ズキンと胸を鋭い痛みが貫く。
「────」
視線を下に向けると、座り込んでいたせいで彼のズボンや靴が土で汚れていた。朝露のせいで足元が冷たくなる。
腰を浮かせると簡単にズボンの汚れを払い落とした。
そして別の場所に届けるように、彼はボソリと声を漏らした。
「──また明日来る」
男は立ち上がると振り返らぬよう足早に公園を後にする。
つい先程まで笑っていた彼に残ったものはない。形骸化した心は何も示さないまま、ただ胸の痛みだけを執拗に彼へ送っていた。
公園から出ると、彼は来た道を重い足取りで戻っていく。
ポケットに両手を突っ込んで、俯いたまま死者のようにただ徘徊するだけ。
何も考えず、何も感じようとせずに路地をフラフラする。
そして彼は1つの電柱の前に止まった。
「…………」
電柱の脇には小さな花瓶とそこに刺さった数本だけの菊の花が供えられていた。
彼は申し訳なさそうな声音を出しつつ、何処か安心感しているような表情で花瓶に向かって話し出した。
「……ごめんな、花を買う金すらなくてな。何か甘いもんでも持ってきたいんだが、ごめんな」
ただ懺悔の言葉を口にすることしかできない。菊の花びらに溜まった水滴が一滴だけ地面に落ちる。
「────あれ……俺さっき何してたんだっけ?」
独り言を呟くと彼はまた歩き始める。胸の痛みすらも無くなり、空っぽな胴の真ん中を冷たい風が吹き抜けた。
「今日は何月何日なんだ…………まぁ、どうでも良いか」
────その言葉を発した直後、気がつけば彼はいつの間にか自宅に帰って来ていた。
ベッドの上でただ座り、部屋の壁を見ていた。
部屋の中は暗く、窓の外からの月の光だけが明かりになっていた。
「……はぁ」
彼はため息を吐くと横のテーブルの上に置いてある透明なケースの中から薬を2錠取る。
薬を手の上に乗せると彼はさっさと口の中へと放り込み、ベッドの上で雑に転がっていたペットボトルの水を流し込む。
「────くはぁ」
彼は真っ暗な部屋を見渡すと、また深いため息をついては独り言を言う。
「もう寝るか……」
ベッドの上に散乱している空のペットボトル達を退け、薄い掛け布団を体にかけて横になる。
彼は寝転がり、顔を横に向けて正面のテーブルの上に置いてあった写真に声をかけて目を瞑った。
「……おやすみ」
──テーブルに置いてある写真に写っているのは、彼。そして横には遊園地にいたあの女性。
場所は彼が今日立っていたあのメリーゴーランドの目の前。
……だが悲しいかな、彼にはその写真の中にいる彼女の姿も真っ白な影に覆われているようにしか見えなかったのだから。
────彼は遊園地で味わった不快感も、頭や胸の痛みも、絶え間なく続いた苦しさも、全てが愛おしかったのだ。
苦しんでいる時は、彼女を感じることができるから……
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