第6話「歯車は狂いだす」

リビングには夕飯を食べる圭太の姿があった。右手の指と手首をギプスで固定しており、とても痛々しい。

 そんな姿を見て、体が固まる。


「あ、兄貴。それ⋯⋯」


「⋯⋯ああ」


 圭太けいたの適当な返事に少し苛立つ。


「ちょっとって⋯⋯。ど、どこ骨折したんだよ」


「有鈎骨。一応、手術する」


「⋯⋯手術」


 手術という言葉に胸がはち切れそうになる。


「凛ちゃんも早く座って食べてねー」


 母親の由美子ゆみこがおっとりとした口調で食事を催促する。


「ごめん。今日はいらない」


 練習着を雑に脱ぎ捨てる。


「ーー凛太朗」


 圭太は階段の手すりに手をかける凛太朗を呼び止め、


「気にするな」



「ーーーー」


 返事もせずに階段を駆け上がった。


「せっかく凛ちゃんの大好きなハンバーグ作ったのにねぇ。もしかして思春期ってやつかしら。パパに報告しなくちゃ!」


 由美子は頬を膨らまして、夫のいる風呂場に急ぐ。


「大したことないわけないだろ」


 有鈎骨について、携帯で調べてみる。

 そこには「有鈎骨には靭帯や筋肉が付着しているため次の部位の機能の低下が懸念されます。機能の低下とは、簡単に言うと、「物を落としやすい」「力が入りにくい」「前と同じ動きができない」などを低下したと言います」という記事を目にした。


「もし、野球ができなくなったら⋯⋯」


 どうしようもない不安が襲う。

 圭太の「気にするな」は凛太朗に重くのしかかる。

 恨み文句の一つや二つ言ってくれたら少しは楽になるのに。

 薄暗い部屋で膝を曲げ丸くなる。

 あの時の記憶が蘇る。何度も、何度もーー。


「凛太朗ー。朝よー起きなさーい。今日も練習なんでしょー!」


 朝日が部屋に入り込む。

 気づかぬうちに眠りについたらしい。しかも、風呂に入るのも忘れていたから、少し汗臭い。

 凛太朗の目は赤く腫れていた。

 母は何かを察して、何も追求することなく部屋をでる。


「先に風呂入るわ」


「もう! 朝ごはんできてるから早くするのよー」


 日曜なのに朝早く起きて、朝食を作ってくれる母には感謝しかない。すぐに入浴を済ませ、朝食をとる。しかし、リビングに圭太の姿はない。


「あ、兄貴は?」


「あー。圭ちゃんは今日病院行かなきゃだから、練習はお休みよー」


「ーーーー」


「ほらー。そんな顔しないの! 笑って笑ってー」


 母は凛太朗の広角を無理矢理、指で押し上げる。


「ちょっと不気味だわね⋯⋯」


「自分でやっといて何言ってんだよ! もう練習行くから!」


 乱暴に箸を置く。


「気をつけて行ってくるのよー」


 凛太朗は返事をせず、自転車に跨り練習場を目指す。

 本音を言えば、今日は練習には行きたくなかった。先輩達や草津に合わせる顔がないからだ。


 グラウンドに着くと、どこか殺伐とした雰囲気が漂っていた。

 無理もない、絶対的な主力が怪我で戦列を離れるのだから。

 その日の練習はまったく身が入らず、何度監督に怒鳴られたことか。

 空も茜色に染まりだし、グラウンド整備を終えた球児達は監督の元へ集合する。

 今日は全国予選を戦うメンバー発表だった。圭太のことでそれどころではなく、すっかり忘れていた。

 監督が次々とメンバーを発表していく。最後の一人となったところで一度、監督が「ゴホンっ」と咳払いをする。

 嫌な予感がする。


「ーー背番号二十番、綾瀬凛太朗。以上が夏の予選を戦うメンバーだ」


 監督を囲う球児達はざわつきだす。そして、凛太朗も動揺を隠しきれない。

 どうしていいか分からず、俯きながら背番号を貰う。チームメイトからのひどく冷たい視線が背中を突き刺す。


「圭太の分も頼んだぞ」


 監督に肩を力強く掴まれる。

 ーー違う。別に期待なんてして欲しくなかった。ただ綾瀬圭太の弟ではなく、綾瀬凛太朗として認めて欲しかっただけなのに。きっと兄がいないから期待されているだけだ。兄が怪我などしなければ選ばれるはずがない。試合をめちゃくちゃにしておいて、どの面下げて背番号を受け取れというのだ。

 凛太朗の思考は歪んでいた。


「今回背番号を貰えなかった者も、最後までレギュラーをしっかりサポートしてやってくれ。みんなで行くぞ、全国。以上だ。今日はこれで解散だ」


 逃げるようにして、駐輪場へと向かう。とにかく誰とも顔を合わしたくなかった。

 しかし、駐輪場には紅白戦で控え組として試合に出ていた三年生が三人いた。

 目を合わせず、そそくさと自転車に跨ろうとすると、


「あいさつぐらいしろよ。それとも背番号貰えて、控え組には興味ないってか?」


「⋯⋯おつかれさまです」


 ちょこんと頭を下げて、すぐに背を向ける。


「おい!」


 三年の一人が怒鳴る。驚いて足が止まる。


「待てよ。何帰ろうとしてんだよ。自分が何したかわかってんのか?」


「⋯⋯」


「よくも試合を台無しにしてくれたなァ。あ? てめーのせいでクソ試合になっちまったじゃねぇか。俺はな、この大会でレギュラー奪って、高校から推薦もらって野球特待生で入学して、家族への負担を少しでも減らそうとしてたのによ。お前のせいで全部パーだよ」


 黙ることしかできない。


「せっかく、お前のお陰で綾瀬が怪我してくれたっていうのに、なんで選ばれたのがお前なんだよ。試合ぶち壊したくせに。なんでなんだよ、なんで⋯⋯。おい、なんとか言えよ」


 三年生は凛太朗の自転車を蹴り飛ばす。


「さっきから黙ってばっかで、舐めてんのかこの野郎」


 凛太朗よりも一回りくらい大きな三年生は凛太朗を突き飛ばす。体の軽い凛太朗は地面に背中を打ちつける。


「なんだこの汚ねぇグローブは」


 凛太朗の野球バッグからは、年季の入ったグローブがでてきた。


「触るな」


「なんだ、喋れんじゃねぇか。そんなに大事か? こんな汚いグローブがよ」


 三年生はグローブを踏みつける。

 一緒にいた二人の三年生は凛太朗を地面に押さえつけ、拘束される。


「あー。気に入らねぇなァ。その目つき。お前の兄貴にそっくりだわ」


 三年生は凛太朗の顔を覗き込む。


「いい気味だわ。前からお前ら兄弟が気に食わなかったんだよ。あ、そういえばお前ら血繋がってないらしいじゃねぇか。たしか圭太の親父が人殺しだとか、なんとか」


「で、デタラメ言ってんじゃねぇよ!」


 声を荒げる。

 三年生はニヤリと笑みを浮かべ、グローブに唾を吐く。そして何度も足で踏みつける。

 ーーやめろ。そのグローブは何よりも大切な物だ。それは兄貴がお父さんから貰った、大切なグローブなんだ。

 唇を噛みしめる。



「こんなクソグローブ、持ってたってなんの価値もねぇだろ。どーせ、お前も圭太が怪我してくれて良かったとか思ってんだろ?  お陰で背番号貰えたんだからよ?  良かったじゃねぇか。認めてもらえてよ」


 ブレーキが壊れたような気がした。

 不安、怒り、悲しみ。

 体中を流れる血液が熱くなるのが分かった。


「やめろ⋯⋯」


 凛太朗は押さえつける三年生を振り払う。力任せに顔面を殴りつける。

 人を殴るのなんて生まれて初めてだった。そのせいか、右手首が痛むのを感じた。


「お、お前⋯⋯。こんな時に暴力沙汰なんて起こしたら試合になんて、でれねぇぞ」


「お前は許せない」


「体格差があるってわかんねぇのか。このガキが!」


 不恰好に殴りかかる凛太朗は軽くいなされ、地面に押さえつけられる。

 ーーそして顔面を二発。


「いらねぇから返すわ」


 仰向けで倒れている凛太朗に投げつける。三年は駐輪場を後にしようとするも、後ろから力強く練習着の袖を掴まれる。


「待てよ。まだ終わってねぇんだよ」


 背後から殴りかかり、そして馬乗りになる。何度も何度も拳を振りかざす。

 兄を馬鹿にされたことえの怒りだけではない。これまでの劣等感、寂しさ。全てをぶつけていた。

 拳は血で染まり三年生の顔面は血だらけになり、気がつくと騒ぎを聞きつけた監督に、体を抑えられていた。


「もうやめろ! 凛太朗!」


 監督の怒号が頭の中で弾ける。


「お、俺は⋯⋯」


 自分の拳に目をやる。

 真っ赤な夕焼けが、拳を悲しげに照らすのだった。

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