過去:6

「大丈夫か?」

「うん。大丈夫よ、光一。私はこんな嫌がらせに負けないわ」




 向井光一の心配に、矢上菜々美は愛らしい笑みを見せてそういった。



 悲しみ、傷ついても、それでも逃げない強さが矢上菜々美にはあった。それが睦月にとって想定外だった事だろう。睦月にとって、これだけ傷つけられても向井光一の傍から離れようとしないと思わなかったようだ。



 俺は隣の席に座る睦月をちらりっと見る。

 すぐ近くで会話を交わしている向井光一と矢上菜々美は睦月の事を欠片も見ていなかった。



「……」



 睦月はただ何も言わずに二人を見ていた。



 パキッという音が聞こえた。

 それは睦月が右手で持っていたシャーペンがおられた音だった。

 折ろうと思って折ったわけではなかったらしく、睦月は慌ててそれを鞄の中に放りこむ。そしてあたりを恐る恐る見て、俺と目が合う。



 視線が見てたわね? と問いかけていた。

 シャーペンを折った事を向井光一に言うなと睦月が目で告げていた。

 何処か狂気に染まった黒目が、俺を睨んでいた。

 怖くなんかなかった。寧ろ俺の好きなその狂いが映された瞳がこちらを向いているのが心地よかった。

 それにしても本当睦月って考えなしというか、本能で動いてるよなと思うと何だか面白い。



 俺はただこちらを睨みつけてくる睦月に笑みを見せた。

 笑った俺を見て、睦月が何処か戸惑ったような、困惑したような顔を浮かべていたのもなんだか面白かった。



「菜々美の事は俺が守るよ」

「……光一」



 矢上菜々美を守ると口にする向井光一の声に、睦月は我慢できないと言った様子で向井光一の名を呼んだ。

 それでも向井光一は矢上菜々美の方を見ている。

 睦月の小さな声には気づいていない。




「光一」



 睦月がもう一度名前を呼べば、ようやく向井光一は睦月の方を見た。



「ん? 呼んだか睦月」



 いつも通り、屈託のない明るい笑みを見せて彼は睦月に笑いかける。それに睦月は笑顔で、嬉しそうに答える。

 睦月は誰がどう見ても向井光一の事を慕っていた。好きだった。だから向井光一と話している時の睦月は、普段よりも一層楽しげな笑みを見せるのだ。



 先ほどまでの狂気に染まった目は、向井光一が睦月にかまっている間は確かに消えうせる。

 だけど向井光一が睦月以外の人間――とりわけ女と一緒にいたり、喋っている時、睦月の目は確かに何処か歪に歪むのだ。

 そして歪に歪むと同時に、何かを恐れるように睦月の体が微かに震えていた事を知っていたのはきっと俺だけだった。



 それから、また一ヶ月が過ぎた五月。

 すっかり向井光一と矢上菜々美は親しくなっていた。

 徐々に睦月がもっと歪んで、壊れて行っていた事に向井光一も矢上菜々美も欠片も気づいていなかった。

 その事が俺にとってはどうしようもなく滑稽だった。

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