サキュバスは空を見上げて



 目が覚めたのは、地下牢。


 確かここは、役場の、罪人を繋ぎ留めておく場所で……。


「目が覚めたかよ」

「あ……」

 目の前にはあのやせ気味の男。そして、秘書のエリザさん。


 私は手足を大きく開いた状態で磔に、拘束されていた。

 服を纏っていない、裸で。


「全く、まさかサキュバスが領主様をたぶらかしていたなんてね」

「ち、ちがっ!」

 冷たく投げかけられた言葉に反論しようとして……けれど、何一つ違っていないことに気付いて、私は押し黙る。


「あ、あの……あの人に、りょ、領主様に……謝らせて」

「無駄よ。領主様には霊薬の効果が出ていないかもしれないから、領主様への刑の嘆願は認められないわ」

 ち、違う……違うっ!

 自分が助かりたいから、命乞いのために、あの人に謝りたいわけじゃないの!


 私は、彼を、騙していたことを……。


「これからあなたに尋問をするのだけれど……外しておいた方がいいかしら?」

「ああそうですね。ご婦人には、目の毒でしょうから」

 エリザさんとその男はそんなやり取りをして、そうしてエリザさんだけが地下牢から出ていった。


 この部屋に残ったのは、拘束された私と、目の前の男ただ一人。


「さーて、じゃあ始めるか。お前領主様をたぶらかしてどうするつもりだったんだ?」

「……そんな、そんなつもり、本当にありません」

「やれやれ強情だな。明日には死刑になるんだぜ? お前」

 目の前の男は……こんなに軽薄な喋り方をする人だったかと、少し前の記憶と照らし合わせても不思議に思うほど豹変した口調で、そう告げた。


「し、けい?」

「サキュバスの刑罰執行は早いからな。正体が知れればすぐよ」

 けらけらと笑う声を聴き、ああ、本当に、もう、駄目なのかと俯いた。


「で、だ。あんたはサキュバスとしてあの男をたぶらかして、で、それからどうするつもりだったんだ?」

「私は……あの人を、本当に、愛して……」

「あーあー、これだからサキュバスは」


 そうして男は、私の左足にかけられた拘束を、解いた。


「……え?」

「おい勘違いするなよ、逃がすわけじゃねえよ。サキュバスってのはあれだろ? 男の精を吸うと口が軽くなるんだろ?」

 男はそのまま、腰をカチャカチャと鳴らして……。


「だからこれは尋問だよ」

 私の、拘束を解いたほうの足を、抱え上げて……。


「お前がサキュバスなら、これでしっかりと口を割るだろうからな」

「……は、はは」


 この男は、あろうことかサキュバスである私を抱こうというのか。


 サキュバスが精を吸えば口が軽くなるだなんて、そんな伝承聞いたこともない。どこの誰が勘違いしたのか。それに普通の人間の男なんて、サキュバスに体を預ければすぐに魅了して……。


 ああ、そうか、霊薬があるんだった。だからこんな、強気で……。

 またアレを飲まされるのは、嫌だなあ。


「もう、好きに、してよ……」

「言われなくて、もっ!」

 そうして男の興奮した声と私のすすり泣く音が、閉じられた世界に一晩中響き渡るのだった。


――


「ちょっと、本当に朝までやってたの?」

 扉を開けて入ってきたエリザさんは、呆れたようにそう口にした。


「いやあ、だってこいつ……はは、夢中になっちまいましたよ」

「はいはい」


 ……何、言ってるの?

 私は、サキュバスよ?


 そんなの、に決まってるじゃない。


 今更、そんな……。


「ちゃんと処刑のために広場に運べるんでしょうね?」

「はは、もうくたくたで」

「ふざけないで! いいから体に鞭打ってでも運び出しなさいっ!」

 叱咤するような声が、狭い地下牢にこだまする。


 エリザさんも、こんな話し方をするような人だったかな? なんだか、自分がサキュバスとばれる前と後で、世界が変わってしまったかのようだ。


 いや、事実、変わってしまったのだ。


 昨日までの私は人間で。

 今の私は、サキュバスで。


 今日、処刑される。


「分かりましたよ。ったく……じゃあ名残惜しいけど、あばよ。別嬪のサキュバスさん」

 そう言って男は何度目かもわからない口づけをして体を離す。最後に、ついでだと言わんばかりに私の頬を、思い切りパンと張って。


「ひんっ!?」

「ちっとくらい、尋問のあとがねえとな」

 男はまたけらけらと笑う。何? 一体、さっきから、何を……。


「ふん、アバズレ」

 拘束されたまま担がれていく私を、エリザさんが冷たく一蹴する。その言葉に、私はまたひどく傷ついた。


 愛している人を、裏切ってしまったその日に別の男と関係を持ってしまった私にそれは、お似合いの言葉だったから。


――


「これより、サキュバスの処刑を行う!」

 高らかに、いっそ厳かな雰囲気すら感じさせる声で、あのやせ気味の男が宣言する。

 さっきまでとは、まるで別人だ。


「石投げの刑の後、速やかに火あぶりに処す! これより執行人代表……」

 その言葉で進み出てきたのは、よりにもよって、あの人で……。


「りょ、領主、さま……」

「この、邪悪なサキュバスが」


 その瞳は、私が見たこともない色をしていた。

 怒りに、悲しみに、真っ赤に染まっていた。


「あ、あのっ、わ、わた、わたし……」

 ともかく、謝りたかった。

 あなたの信頼を裏切ってしまった事。


 そして何より、私の気持ちを。


「ご、ごめんなさい……今まで、ずっと、あなたを騙して……で、でもっ、でもっ! 私が、あなたを愛していたのはっ! 本当でっ!」

「服は、どうした?」

「……あ」

 もう、その一言で、私の心は完全にへし折られてしまった。


「あれは尋問の際……ええ、油断も隙もなく……」

 いつの間についてきていたのか、秘書のエリザさんが領主様に何か耳打ちする。それでまた、あの人の目の色が一段と怒りに染まって……。


「この、下種がっ」

「あっ、や、や、やだっ……ち、ちが、ちがうん、で」

 私はもはやまともな思考もできず、ただただ怒られるのを怯える子供のように、ぽろぽろと泣き出してしまう。


「わ、わた……あなたのこと、愛し、て……こ、これは、む、むりや、り……」

「お前は、今までそうやって何人の男をたぶらかしてきたのだ」


 それが、トドメ、だった。


「あ……」


 言葉が、継げない。

 何も、言い返せない。


「……」

 もう、私には、何も残されていなかった。

 この人を愛した自分すら、もう、信じられなくて。


「俺はお前を……愛していたのに」

 その言葉に、私もと、声を大にして、叫びたいのに。


「……それが、人生で最大の気の迷いだった」

 そう言って領主様は振りかぶって……。


「あぐっ!?」

 そこからは、私の脳が理解することを拒否した。


「……様が石を投げられた! かの者に裁きを与えようと思うものは、続けて石を投げよ!」

 領主様は、何か大きな石を持っていて。

 それを、きっと私に……。


 いや、それは違う。違う。違う……。何かの、間違いで……。


「うぐっ!? あぐあっ! いつっ! うぎゃあっ!?」

 幸い、息つく暇もなく投げつけられる無数の石のおかげで、それ以上考えずには済んだけれども。


――


 どれだけ時間が過ぎたのだろう。


 全身に回った痛みで、感覚が麻痺していた。

 きっともう、何をされても苦しくないなと思い始めた頃に、その石の雨は降り止んだ。


「では火あぶりの刑に移る! 執行人、エリザ・ストラーダ殿、前へ!」

 どうやら、最後はあのエリザさんが手を下すらしい。彼女はぐったりした私の前に進み出て……。


「驚いた。あなた、だったのね」

「……え?」


 何か、意味の分からないことを呟いた。


「サキュバスは体を美しく保つために傷の回復が速いと聞いていたけれど、もう皮膚が再生し始めるなんて。道理で恨み言の一つも吐かないわけね」

 彼女は周りに聞こえないくらいの声でそう言って、私の体に、油をかけていく。


「本物だとは思わなかったわ」

「な、に……言って……」

「気づかなかったの? 霊薬なんて嘘よ」


 私は、その言葉に、だんだんと意識にかかった靄をはらせていく。


「あの男に飲ませたのはただの水。あなたに飲ませたのは毒。ただそれだけよ」

「なん、なんっ……でっ!?」

「あなたをサキュバスとして処刑するためよ」


 い、意味が分からない。

 な、何で? わ、私、エリザさんの恨みを買う事なんて、一つも……。


「意味が分からないって顔ね。別にあなたに恨みなんてないわよ。都合がよかっただけ」

「つ、つご、う?」

「あの男、失脚しそうにないでしょ?」


 そう言って、彼女は初めて、私に本当の顔を見せた。


 にたりと、残虐に口を歪ませた笑みを。


「頭はたいして良くないくせに人気だけはあるじゃない? 足蹴く街の連中の所に通ってご機嫌取りなんてしてね。だから殺さないと私が領主になれないわ」

「ッ!?」

「あの奥手がまさかあんたにハマって街のご機嫌取りまでやめるとは思ってなかったけれど。それで格好の筋書きを思いついたのよ。あんたをサキュバスに仕立て上げて殺して、彼はその後一人傷心のまま服毒自殺。机からは遺書が見つかるの。悲しみに耐えられないから死を選ぶ。後のことは全てを秘書のエリザに任せる、ってね」


 こ、この、人が……。

 この人が、私たちの、仲を……こんな……。


「あとはあなたを燃やしてあの男に毒を飲ませて、おしまい」

「あ、なたがっ! く、があああああああっ!」


 そんなくだらないことのために!

 あの人を! 領民に愛されているあの人を! 私の愛したあの人を殺そうとっ!


「何叫んでも無駄よ。苦し紛れの言い訳にしか周りには聞こえないし、何なら遺書の内容をちょちょっと書き換えればいいだけだもの」

 彼女はやせ気味の男から木に灯された火を受け取り、それを掲げて……。


「さようなら、サキュバスの間抜けなデカ女」

 私に火をつけようと……。


「さ、せ、ないっ……!」

「は?」

「あ、なたにっ! あの人を……殺させないっ!」

「叫んだところで何……」


 その先の言葉は、途切れた。


 彼女は、いや、そいつは目の前で起きた変化に戸惑って、言葉を失ったから。


「……え?」


 最初は、誰からだっただろうか。

 目の前で起きた変化に皆が言葉を失い、やがて思考が現実に追いつくころには……。


「き、きゃあああああああああああっ!?」

「な、何だありゃああっ!?」

「拘束がっ!? て、鉄の鎖がっ!」

「ば、化け物っ!?」


 周りに集まった人たちから悲鳴の大合唱が始まった。


 彼らは私を見て、一目散に逃げようとする。

 阿鼻叫喚の中集まった群衆が互いを押して蹴飛ばしての大混乱だ。


「な、んで!? あ、あんた、ただのサキュバスじゃっ」


 その先は、口にさせなかった。


 私がエリザの顔を、握りつぶして。


 そうして私は、この一連の事件に終止符を打ったのだ。


 私は、邪悪な彼女の野望を、文字通り砕いたのだ。

 私は、愛する彼の命を、救ったのだ。

 私は……。


「エリザっ!?」

「っ!?」


 そんな一瞬の陶酔も、群衆の叫びの中ではっきりと聞こえた彼の声に、崩れ去る。


「貴様あああああああっ!」



 あとは、自分でも何をどうしたのか覚えていない。


 あの時はただただ必死に逃げたのだ。あの人の怒りに震える声を聞いていたくなくて。あの人の血走る目に見つめられるのを恐れて。


 ただただ必死に逃げた。


「う……あ……」

 気づけば街から遠く離れたアラム荒野の一角で、日は落ち、空はすっかりと暗くなり……。


「ああああああああああああああああああああああああっ!」

 私は、声が擦り切れるまで、そこで泣いたのだった。


――


 幾日か経ち、私は別の街で、路銀を稼ぐために入り組んだ裏路地へと入っていく。


「へへ、どうしたよ? こんな所で素っ裸でよ」

「盗賊に身ぐるみでも剥がれたか? にしてもあちこちでけえが、背もとびっきり」

「お願い、します……。食べ物と、おかね、を」

「ああいいぜ。その代わり……たっぷり可愛がらせてもらうけどよっ!」


 そこで見つけた二人の男に、私は私を売った。

 彼らが満足するまで付き合って、食べかけのパンと僅かばかりのお金を恵んでもらう。


「ふ、ふふ、あはは……」

 ああ、確かにアバズレだ。


「あはははっ」

 名前も知らないような、出会ったばかりの男に体を預けて、施しをもらう。

 そんな道を、当たり前のように選んでいるのだ、私は。


「何人じゃ、ないよぉ……」

 彼の言葉が、不意に脳裏によぎる。

 私が答えられなかった、あの質問が。


「何百人だよっ……何千人だよっ……」

 今まで何人の男をたぶらかしてきたのか、という問いに。


 その、どうしようもない感覚のに。


「覚えてなんて、ないよぉっ!」


 私は薄暗い路地で一人うずくまり、汚れた体を一人で震わせるしかできなかった。


――


 風の噂で、あの街が魔王軍の襲撃にあって滅んだことを知った。

「……」

 人間達は善戦したが、迫りくる魔王軍には勝てず、その街の領主も戦って死んだと聞いて、私はまた泣いた。


「安らかに……」

 私は、快晴の空に向かって小さく祈る。

 この青い雄大な空は、私の存在をちっぽけなものにしてくれるこの空は、私のそんな言葉もまた、溶かして吸い込んで消してくれた。


「さて」

 立ち止まっているわけにはいかない。

 最近は魔王軍もその勢いを増し、アラム荒野のあちこちに手を出すのではないかという噂もある。これまで中立地だった荒野も、人間の拠点を攻略するうえで必要になると判断されたらしいから。


「ここが、例の噂の城、かー」

 私はその建物を見上げる。

 荒野にポツンと佇む不思議な城、いや、どちらかといえば塔だろうか。お洒落な外観と真っ直ぐに空に伸びていく造りに、少しだけ好感を持った。


「オークに全裸の吸血鬼、ね。さーて、どんな欲望のパラダイスなのかしらー?」

 普通の女の子ならぞっとするような噂も、サキュバスにとっては文字通りの酒池肉林だ。ここに住まわせてもらえば、少なくとも精には困らないだろう。


「アバズレ女には、ちょうどいい住処よね」

 自分の言葉に、まだちくりと痛む心を見つけて、嬉しいような悲しいような複雑な気分だ。割り切って欲望のままに生きれば、楽になれるのになあ。


「まあ、ここでは最初から魅惑の魔法全開でもいいよねー」

 そうして私は笑顔を作って、一歩を踏み出していく。


 私はサキュバスだから。

 愛も欲望も受け入れられる体で生まれてきたから。


 だからどっちも欲する私の生き方を、もう少しだけ貫いてみよう。そう思って。


 今度はもう少し幸せな結末にたどり着けたらいいなと、そんな願いを、この青空に込めて。





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