番外編2 ミルキ・ヘーラの足跡を

少女と霊薬



 私が今回流れ着いたのは、人間領のちょうど端。魔王軍との戦況によっては戦場の最端になるかもしれない、そんな場所だった。


「でも、いい街ね」

 こじんまりとした領地に、けれど領民の活気のある声。昔はアラム荒野の中経路として財を成したというが、その役割が消えた今でも、十分に魅力的に思えた。


 髪をなびかせる風に、私はほんの少し体を預けて世界を揺蕩う。今まで沢山の地を旅してきた。そこで同じ数だけ空を見上げては、これからの事を占ってきたのだ。


「きっと、今度は、大丈夫よね?」

 晴れ渡る空に向かってそう呟くと、私のそんな小さな言葉は、広い空の海に吸い込まれて消えていく。


「おーい、お嬢さん! 旅人かい!?」

 そんなことをしていると、街の方から声をかけられた。

 ああ、やっぱり。

 ここはきっと、いい街だ。


「はいー、ミルキ・ヘーラと申します」

 そんな街に、私は一歩を踏み入れたのだった。


――


「最初は驚いたさ。その、俺も背の高い方だと思っていたんだがなあ」

「あ、あはは」

 私は内心ちょっと傷つきながらも、笑みを崩さずにそう返す。


 この人は初め私を遠くから見ていたから。だから最初は私の事を普通の女の子と思ったのだという。

 近づいてみれば男の自分よりも大きな体でびっくり、と、私としては何とも複雑な気分だ。


 いっそもう一生誰からとも離れて暮らせば、デカ女なんて思われずに済むのかな、なんてちょっと悲しいことを考えてしまう。


「俺より背が高いお嬢さんがいるなんてなあ」

「も、もうー、やめてくださいよ、領主様」

 そう、ここは役場の一番奥の部屋。

 目の前にいるのは、この街の御領主様だ。


 私を最初に見つけて声をかけてくれたのは、なんとこの街で一番偉い人だった。堀の修理に自ら出向いていたのだという。


 ガタイがよく、短めの茶色の髪もそのたくましさを強調している。それでいてどこか優し気な、頼れる雰囲気を出す素敵な殿方だ。

 働き者で領民からも慕われている。まさに理想の領主という見本のような人。


 そして、現在独身。


「そうですよ、女性に対してそれは失礼に当たるというモノです」

「エリザ君は相変わらず辛らつだなあ」

 棘というより無感情に向けられた言葉を、領主様はあっははと軽快に笑い飛ばす。こういう女性の機微に無頓着な所は玉に瑕かもしれないが、私にとってはそういうヒトも結構可愛いと思う訳で……。


「それで、ミルキ・ヘーラさん。領内に滞在したいとのことですが」

「あ、はい」

 私に声をかけた女性、秘書のエリザさんはあまり感情を出さないタイプだ。薄い金の髪を後ろで束ねた、理知的な雰囲気を纏わせた人。


 この人の機微は読みにくい。

 少なくとも領主様に好意を持っているようには見えないけれど……。


「ここへは旅の途中で立ち寄ったのですが、もう路銀もほとんどなくて……何か、ご奉仕させていただくことで、泊めていただければと」

 そう言って控えめに申し出る。ここの領主様は下手に体を売るような女より、困っている人のほうを助けてくれる人だと、何となく察していたから。


「ああ、ならうちに泊まるといい! 掃除ぐらいは手伝ってもらうが、三食と寝床は私が提供しよう」

 それでも快い真っ直ぐな言葉に、私は素直に驚いた。サキュバスに魅了されたわけではない。単純な、誰かに向けた優しさ。それに思わず心打たれる。


「ありがとうございますっ! 領主様!」

 こうして私は、彼の所に潜り込んだのだった。


――


 特別な想いを抱くのに、それほど時間はかからなかった。


 領主様は足蹴く領民の所に通い、彼らを手伝い親睦を深めていた。別に信頼を得るのが目的でないのは、初めについて行った日に気付いた。


「俺はさ、誰かが頑張っているのを応援したくてな。気づいたら領主になんかなっちまってたけれど」

 そうして自分の事を控えめに語りながら、彼の大好きな領民たちについては熱く長く語る。

 そんな話をしている時の彼は、子供のように純粋で、それがとても、愛おしくて……。


「これからも、俺はこの街を支えていきたい」

「はい」

 私はそんな彼の横顔に、夢中になっていった。


 毎朝早く起きて出かける彼に合わせて朝食とお弁当を作り、私から頼んで一緒にいろんな所に出かけて行った。掘の修理や誰誰の店の修復作業、近くの森の生態調査に水路周りの掃除まで。

 およそ領主の仕事とは思えないモノばかりだったけれど、肉体派の彼はそれらに何一つ文句を言わずこなしていく。


「ははあ、領主様は最近えらく別嬪なお嬢さんを連れてますね」

「領主様にもようやくそういうお相手ができたのかい? これで私らも安心さあね」

「おいおい、俺達はそういう仲じゃない」


 出かけた先々で私と領主様に向けられた言葉を、領主様は最初否定していた。

 けれど、だんだんとその語調も怪しくなってくる。


「おお、もうすっかりお似合いだねえお二人さん」

「良い仲だねえ。あんたもようやく身を固めるのかい」

「か、からかうもんじゃない!」

 女として、意識され始めていると感じていた。


 私はサキュバスだ。殿方のそういう機微は見逃さない。最初こそ私を客人として扱っていた彼も、次第に私を女だと、メスだと認識しているのは、嬉しい兆候だった。

 女としてのプライドがようやく満たされそうな中、けれど中々手を出してはもらえなかった。


 領主様は奥手だった。

 領主という地位で、これほど領民に慕われているのに相手がいないのも、領主様が女性関係にはからっきしなのが原因だった。


 だから私は辛抱強く待った。

 サキュバスの魅了の魔法で洗脳すればあっという間だったかもしれないが、誠実なこの人に対して、そんな手は使いたくなかった。


 そしてそれがようやく実を結んだのは、凍期も過ぎて温かくなり始めた頃。

 震えながらも、私に手を伸ばしてくれたあの人のぬくもりが。体に触れたその大きな手の温かさが……それが、どれだけ嬉しかったか、よく覚えている。


 けれど私たちの関係は、温かな日差しのように穏やかにはいかなかった。


――


「領主様、また屋敷から出てこねえみてえだな。前はあんなに、なあ?」

「あの女に……その、相当はまっちまったらしいじゃねえか」

 街のあちこちでそんな声が聞こえてくるほど、状況は悪化してしまっていた。


「領主様、今日は堀の整備に出られるのでは……」

「ああ、ミルキィ」

 領主様はベッドで甘えた声をあげ、私を撫でさする。


「今日はお前と一日愛し合いたい。ダメなのか?」

「そ、それは……領主様……」


 私は、本格的に困っていた。


 まさかあの領主様が、ここまでとは思わなかったのだ。


 私達サキュバスにハマってしまう男性は数多あまたいるけれど、基本節制な人間ほど私達と節度ある付き合いができるのだ。彼を思い慕う前に、私はこの人ならば大丈夫だと確信したからこそ近づいたのだ。


「ほら、ミルキィ」

「あっ! りょ、領主様っ!? いけませんっ!」

 ベッドに押し倒されれば、サキュバスも女。普通は力では男の人には敵わない。勿論テクニックで翻弄することはいくらでもできるが、それをこの人にやってしまうのは怖かった。これ以上にハマってしまうかもしれないから。


 彼は、女性経験がまるでなかった。

 だからこそ、私にこれほどまでに夢中になってしまったのかもしれない。


 それは、女としては何よりの喜び。

 勿論サキュバスとしても。


 けれど……。


「りょ、領主様! 帰ってきてからにしましょうっ! 領民があなたを待っています! で、ですから……」

 私はそんな自分の心の欲求を必死に押さえつけ、理性を振り絞ってそう言った。

 私が好きになったのは、領民の事を楽しそうに話すあなただったから。


「ん……ぐぅ、分かったよミルキィ」

 これ以上、私にハマらせるわけにはいかない。あなたをこれ以上壊してしまいたくはないから。


 そんな奇妙な矛盾を抱えながら、私は彼を連れて外へと出向く。帰ってくるなり彼に押し倒されて、また振り出しに戻るような日々を、繰り返して。


――


 そんないびつな関係は、唐突に終わりを告げた。


「あっ! 領主様っ!」

「ああっ! ミルキィっ!」

 領主様は私を抱き寄せながら、私の唇を貪る。それは愛なのか、欲なのか、もはやその境目も分からないような乱暴なキス。


 それでも、私は必要とされているという喜びを全身で感じていた。


 私はサキュバス。

 愛も欲も、どちらも受け止められるように生まれてきたから。


「あっ、あっ!」

 そうして今日もベッドに押し倒されそうになったその時、乱暴に、寝室の戸が破られた。

「きゃっ!?」

「な、何だっ!? お前たちこんな時に何をっ!」

「領主様! その女から離れてくださいっ!」

 そこにいたのは秘書のエリザさんと領民たち、そして見慣れぬやせ気味の、鎧を纏った男が一人。


「その女、サキュバスやもしれません!」

「ッ!?」


 そう、私への審問が始まったのだ。


「ば、バカなっ! 何をバカなことを!」

 私と領主様は着替えて、領民たちの前に立つ。


 領主様の様子がおかしいのは、ひょっとしたら私がサキュバスで、領主様をたぶらかしているのではないかと疑いをかけられたのだ。


「そんな筈はない! 彼女は、ミルキィはただの、私の恋人だ!」

 領主様はそんな領民たちに声を荒げる。その思いが嬉しい反面、私は彼を裏切っていることに、胸がひどく苦しくなる。


 自分がサキュバスだと、嫌でも知っているから。


「サキュバスに洗脳された人間は、それとは気づかないようです」

「何を言っている!? こんな疑いをかけるのは間違っている! 私とミルキィは」

「ええ。ですからわざわざ勇者組合から、準勇者の方に来ていただいたのです。サキュバスかどうかを見分ける方法があるのだと」

 エリザさんはそう言って、ずいと例のやせ気味の男を前に。


「ええ、我々が作り出した、サキュバスの魅惑を解く霊薬です」

「ッ!」


 さ、サキュバスの、魅惑の魔法を解く!?

 そ、そんな……人間は、そんなものまでッ!?


「これを飲めばすぐに正気に戻るでしょう」

「そんなもの、こんなっ、馬鹿げているっ!」

 その男が手にした小さな瓶を、私は恐ろしい思いで眺めた。


 彼がこの霊薬とやらを飲めばどうなるか。

 もし、もし……飲んでしまえば。


「領主様、この霊薬を飲めばはっきりします。ですからどうか」

「……ふん、いいだろう! 俺はミルキィを信じている!」

「あっ」

 私が止める暇など無かった。気づけば彼は、小瓶の中身を豪快に飲み干していたから。


 仮に止められたとしても、どう言っていいのかも分からなかった。

 だから私は、死刑宣告を聞くような面持ちで、彼の言葉を、震えて待っていた。


「ミルキィ……」

「ッ!」


 彼の顔を見るのが怖くて。

 彼の言葉を聞くのが怖くて。


 私は立ったまま、ぎゅっと自分のスカートを握り締めていて……。


「大丈夫だ……やっぱり! 君はサキュバスなんかじゃない!」

「っ!」

 目を見開くと、そこには晴れ渡る空のような、達成感に満ちた彼の顔があって。


 その目には、一点の曇りなく、私を愛していると訴えかける男の姿があって。


 あ、ああっ、神様、これは奇跡ですか!?


 私が魅惑の魔法を使わずに関係を築いたのがよかったのだろうか?

 何にせよ、彼は私を、霊薬を飲んだ後でも好いてくれていて……。


「では、ミルキ・ヘーラさんも、どうぞ」

「……え?」


 神様は、別に私を救ってくれたわけではなかった。


「サキュバスが飲めば、霊薬の効果で苦しみます。勿論サキュバスでなければ領主様のように平然としていられるでしょう」


 秘書のエリザさんはそう告げて、もう一本の瓶を、私の前に差し出したのだ。


「おいエリザ、俺で確かめたんだからいいだろう」

「そいう訳にはいきません。それに領民の見ている前ですから、この際はっきりとしておいた方が、お二人のためにいいでしょう」

 エリザさんはそう、優しそうな声で囁いて、微笑みかける。

 私には、その笑顔がどんなに恐ろしいものに見えたか。


「そうか、まあそれもそうだな。ミルキィ、済まないが飲んでみてくれ」

「あ……は、はい……」

 震える手で、その小瓶を受け取る。目の前のエリザさんは私の一挙手一投足を見つめていて、私には、どこにも、逃れる術など無くて……。


「大丈夫だ。何ともないさ」

 領主様の、彼の言葉が、不思議な暗示のように聞こえた。


 そ、そう、そうだ。きっと、大丈夫だ。

 彼にも効かなかったし、ひょっとしたら、霊薬というのも出鱈目なのかもしれない。私をこうやって怯えさせてあぶり出すための。


 だから、そう、きっと、飲んでも大丈夫。

 そう言い聞かせて、私は小瓶の中身を、口に……。


「ぐっ!? ぐぶっ!?」

「……え?」


 そんな、希望的で楽観的な願いは、あっさりと打ち砕かれる。


「げほっ!? あげっ! く、苦しっ! あぐああああああああっ!」


 喉が焼ける。


 胃の中身が全部せり上げられて、げぼげぼと床に汚らしくまき散らす。それでも体の震えと痛みは止まらず、私は自分で汚した床の上でもんどりうっていた。


「み、る、きぃ……?」

「ごっ、ごめっ! ごめんなざいっ! ごめんな、ざいっ! ぐぶああっ!」


 痛みで体中が痙攣し、脳を焼き切るような高熱が、私の頭をかき乱す。


 ぐちゃぐちゃになって、やがて意識が途切れるまで、私は泣き叫びながら彼に謝り続けるのだった。





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