第10話 ウルリピ食堂

 朝ご飯にフルーツを食べて広場の噴水をシャワー代わりにしたアクアとシンラは、この街をもう少し探索してみることにした。


 急ぐ旅ではないし、この街は豊かで活気があって、人々が比較的優しい。アクアのオッドアイを見ても、一見 獰猛どうもうそうなシンラを見てもしいたげる人はいなかった。


「今日は、昨日と反対側に行ってみようよ」


 なんだか楽しいことが起こりそうな予感がして、アクアは気分が高揚した。




 元気で晴れやかなアクアと対照的に、シンラは少し元気がない。


「どうしたの?」


「何でもない」


「朝ご飯も柑橘オレジを一個食べただけだし…。食欲ないの?大丈夫?」


 自分よりふた周りも小さなアクアにそう心配されて、シンラはぽっ、と顔を赤らめた。なんだか恥ずかしくなったのだ。




 俺が心配されてどうする。このチビを守ってやるのが男じゃないか、年上じゃないか。




 いつしか、シンラの中にそんな想いが芽生えはじめていた。


「おぅ、行くぞ!今日は昨日と反対方向を散策するんだろ?」


「うんっ!」


 張り切って飛び跳ねたアクアに気づかれないように、シンラはそっとため息をついた。


 シンラの心配事、それは…。






✵ ✵ ✵




 陽が暮れてあたりが夜の闇にすっぽりと包まれると、アクアはいつものようにシンラの天然の羽毛布団にご機嫌で抱きついた。


 その日は散々歩いたから疲れたのだろう、アクアはシンラの胸にすっぽりと収まるとすぐにくぅすぴと可愛い寝息を立てはじめた。


 相変わらず寝相の悪いアクアが落っこちないようにと、両前足で抱え直そうとしたそのときだった。


 っく! こ、これは、どうしたことだっ!!!


 思わず叫びそうになって、慌ててシンラはぐっと全身に力を入れて何とか耐えた。アクアを抱く腕にもつい力が入ってしまったようで、アクアはもぞりと動くと「んんむぅ」と不満そうな声を上げた。




 いかん、いかん、落ち着け、俺。


 これは2度目じゃないか、今度は両後足ではないが…。




 そう、アクアを抱くシンラの両前足の先が、人間のような5本指の手になっていたのだ。


「ここ数日は変化がなかったから、油断していたな」


 ぼそり、とシンラは呟いた。




 いったい何が起こっているのだろう、俺の身体に。


 こんな現象は、長老からもほかのコーダ達からも訊いたことがない。広い世界を旅している漆黒なら、知っているだろうか。今度会えたなら、訊いてみよう。


 この手は、また朝起きたら、元通りに戻っているよな?前のように。そうでなければ、困る。気持ち悪いし、不自由だ。それに、アクアを驚かせてしまうだろう。


 この人間の様な手は、絶対に、今夜ひとときの間だけだ。頼む、そうであってくれ。




 シンラは眼を固く閉じて、そう願った。


 そして目を再び開けると、自分の不可思議な両手をじっと見た。


 シンラは5本の指で、アクアの髪を恐る恐る撫でてみた。ちょっとクセのあるセピア色の髪が、さらさらと指の間を流れていく。その感触は、甘酸っぱくて心地よい。


 次に人差し指で、アクアの頬にそっと触れた。




 やわらかい、こんなに痩せているのに、なんてやわらかいんだ。




 シンラはもう一度、アクアをぎゅぅと抱き締めると、その安心したような寝息を確かめた。




 おやすみ、アクア。俺の可愛い、唯一の相棒。いい夢を見られるといいな。〈雲あめ〉を腹いっぱい食べられる夢、とかな。






✵ ✵ ✵




「シンラ~、遅いよ。早くぅ」


 考え事をしていたら、後れを取ってしまった。シンラはぴゅぅと風のようなスピードで、相変わらず飛び跳ねるように歩いているアクアを追いかけた。


 広場から出発して、昨日とは反対側の道を進んでしばらく行くと、大きな建物や教会があった。仕事にでも向かうのだろうか、老若男女が往来を行き来している。初等学校があって、校庭では数人の子供たちが追いかけっこをしていた。


「この辺りは、きっとこの街の中心だね」


 アクアはそう言って、行きかう人の数が増えて賑やかさをました街を眺めた。


 シンラとアクアが人通りの多い大通りの角を曲がると、突然、いい匂いがふたりの嗅覚を捉える。思わず顔を見合わせ、その匂いの正体を知りたくて、少し足早になった。




 〈ウルリピ食堂〉と看板を掲げた店は、朝からなかなか沢山の客が出入りして繁盛していた。


 店先の黒いボードには、メニューらしきものが白い字で書かれている。




 *~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*




 揚げパンとお粥の朝食 25ガロ 




 ⇓ 持ち帰りもできます


 ギヤの肉のサンドウィッチ 35ガロ


 揚げパン1本 7ガロ


 白パン1個  5ガロ


 腸詰1本   13ガロ


 ギヤの肉1串 15ガロ




 *~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*




 入口の横では、大きな出窓の先で串に刺したギヤの肉や、細長い赤茶色をした棒が焼かれていて、いい匂いの正体はどうやらそれらのようだった。


アクアは思わずふらふらと、大窓の下へ近づいた。


「いらっしゃい!」


 大柄な小母さんが大きな声でそう言うと、じゅぅといい音と香ばしい匂いをさせている赤茶色の棒を、炭火の横に突き立てた。


「その…それ、なんですか?」


 おそるおそる訊ねたアクアを、小母さんが怪訝けげんそうな顔で見る。


「腸詰だよ、知らないのかい?」


「え、っと。何かの肉ですか?」


「トンの肉をミンチにして、腸に詰めたものだよ」


 トンの肉…訊いたことがある。確かギヤよりも高くて、お金持ちしか食べられない肉だ。ごくり、とアクアの喉が鳴った。


 そのとき。


「なんだよ、お前。腸詰も知らないのかっ?」


 いきなりの声に驚いて振り向くと、半袖シャツに半ズボン、坊主頭の男の子が腰に手を当ててアクアを不躾ぶしつけにじろじろ見ていた。


「女のクセに、汚い格好して。どうせ金なんか持ってないんだろ、貧乏臭いなっ」


「こら、サブッ!」


 ずけずけと物を言う男の子に、小母さんが怒鳴った。


「まぁた、寝坊かいっ。さっさと学校行きなっ!遅刻だろう!!」


「だって、母ちゃん。コイツ…」


「女の子をコイツ呼ばわりするんじゃない。それにいじめるんじゃないよっ」


 サブと呼ばれた男の子は、バツが悪そうに頭をひとかきすると、走りだした。その背中に、母ちゃんと呼ばれた小母さんが叫ぶ。


「こらっ、行ってきますはっ?」


 小母さんの叫び声は、男の子に聞こえたかどうかわからなかった。


「で?買うのかい?」


 小母さんが、アクアに視線を戻して訊ねた。


「いいえ」


 アクアは小さく答えると、すごすごと大窓の下を離れた。


「腸詰1本、13ガロだって。全財産はたいても買えないや」


 照れたように笑うアクアが不憫ふびんでならない。シンラは元気づけるように言った。


「大丈夫だ、いつかきっと買える。俺が…食わせてやる」


 どうしてそんなことを言ってしまったのか、わからない。でもそれはシンラの本心だった。




 どうにかして、いつかきっと、食わせてやるから。


 俺が、アクアに。腸詰でも、サンドなんとかでも。


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