第9話 煮物と恩返し

「やあ、待たせたね」


 お祖父さんが、包みを二つ持って再び現れた。


「ウチの婆さん特製の煮物と、こっちはパンだ」


 お祖父さんが差し出した包みの一つには大きな陶器のボールがあって、そこから温かそうな湯気とおいしそうな匂いが漂っている。


「うわぁ」


 それを覗き込んだ思わずアクアは、思わず正直な感嘆の声を上げてしまった。それを嬉しそうに見ると、お祖父さんはもう一つの包みを差し出す。


「こっちは白パンだ。ふかふかでおいしいぞ」


「一度だけ、食べたことがあります!」


 眼をきらきらと輝かせてアクアがそう言うと、お祖父さんの表情が逆に曇る。


「一度だけ…。たった一度しか、食べたことがないのかい?」


 あ、と思ったけれど、言ってしまった言葉はもとに戻らない。


「ウチ、貧しかったんです」


「そうか、じゃあ、たんとお食べ。ウチの孫も、お嬢ちゃんみたいに食べ物の前で眼を輝かせてくれるといいんだが。最近は、あまり食べなくなってね」


「そうですか…」


 なんだか申し訳ない気がますますして、アクアは眉を下げた。


「さ、持って行って冷めないうちに食べなさい。煮物の器は返さなくていいから、いっぱいあるから」


 お祖父さんが、しゅんとしたアクアに包みを渡した。




「ありがとうございます」


 そう言って深々と頭を下げたアクアは、ちょっと迷ってから訊ねた。


「あの…この樹はずっとこの庭にあるんですか?」


「ん?ああ、ノキの樹かい?大きいだろう、ワシが子供の頃からあるからもう樹齢何年になることか」


「もうすぐ、花粉の季節ですよね?」


「ほう、よく知っているね」


 お祖父さんがちょっと怪訝けげんそうな顔をしながら、それでもにこりとした。


「あの…この樹の花粉、お孫さんに良くないと思います」


「そうかい?でも、その前に綺麗な花が咲くんだよ。孫はそれを見るのが好きで…」


 お祖父さんが突然、「あ」と言った。


「花粉の季節…そう言えば、いつも孫は…」


 何か思い当ることがあったようだ。


 それからちょっと真剣で怖い顔になって、お祖父さんはアクアに詰め寄った。


「なぜ、なぜ、お嬢ちゃんはこの樹の花粉が孫に良くないと思うんだ?」


「あのっ、あの…。あ、あたし、捨て子で、拾ってくれたじいじとばあばに育てられたんです。そのじいじが…教えてくれたんです」



 アクアは嘘をついた。


 でもシンラが言ったことが本当だったら、この樹の花粉がお孫さんの命を奪うことになるかもしれないのだ。アクアも必死だった。


「お、お医者様に相談してみてください。それでもし…」


「この樹を切れば、孫の病気が治るというのか…」


 お祖父さんは、さらに真剣な思案顔になった。


「もしかしたら、もしかしたらなんです。だから、お医者様に…」


 アクアは急に不安になった。もし、この樹を切ってもお孫さんが良くならなかったら…。それに花粉はすでに体内にかなり蓄積しているだろうし、もう遅いのかも…。でもそれはさすがに、お祖父さんには言えない。


 おろおろしているアクアのシャツの裾を、シンラが噛んで引っ張った。


 振り向くと、シンラの眼が「もう行こう」と言っている気がした。


「あ、あのっ。これ、ありがとうございました」


 大木を見上げ、まだ難しい顔をしているお祖父さんにまたぺこりと頭を下げると、アクアはシンラとともにその場を去った。






 広場に戻ると、シンラとアクアはベンチでお祖父さんから貰った包みを開けた。


 野菜や肉団子が入った煮物は、まだ湯気をほんのり立てていた。お祖父さんが一緒に入れてくれたスプーンでがんも芋を掬って、シンラの眼の前にずぃと差し出す。


「お前が先に食え」


 シンラがそう言った。


「大丈夫だよ、がんも芋は食べたことあるでしょ?」


 さらに鼻先にずぃとスプーンを差し出されて、シンラはちょっとがんも芋を睨んでから、ぱくと口に入れた。


「どう?」


 アクアがシンラの顔を覗き込みながら訊く。


「う、旨い」


「ホント?」


 嬉しそうにそう言うと、アクアもがんも芋を口に運んだ。


「わぁ、ホントだ。凄くおいしい」


 次にアクアは、肉団子をスプーンに乗せて差し出す。


「これは、なんだ?」


「肉団子」


「肉団子?」


「うん。たぶん、ギヤの肉」


 シンラが眼を白黒させる。


「魚だけでなく、ギヤも食うのか?」


「うん、普通に食べるよ。まぁ、ウチは貧乏だったから、年に1度くらいしか食べられなかったけど」


 シンラがまたスプーンの上に乗った肉団子を、さっきより真剣に凝視している。


「大丈夫、おいしいから」


「…先に、食ってみろ」


 警戒しているシンラが可愛い。だから、アクアはちょっとからかってみた。


「なぁに?シンラ、初めて食べるから怖いの?なぁんだ、コーダって案外意気地がないんだね?」


 シンラのたてがみが、ぶぉっと広がる。ちょっと怒ったみたいだ。


「い、意気地がないだと?こんなもの、こんなもの、へっちゃらに決まってるだろ!」


 シンラが大きな口を開けて、がぶりとスプーンに噛みついた。鋭い歯が当たって、がちっと金属音がする。


「どう?」




 ど、どうって…。なんかこう、魚とは違う、はむっとした感じ?一気に飲み込んでしまったから、味はイマイチよくわからなかったが、舌に残る濃い脂の存在が動物の肉だと主張している…気がする。




 長い大きな舌を出して、口元を舐めたシンラに、アクアが楽しそうに言った。


「ふふ、おいしいでしょ?初めての肉団子」


 それから白いパンを出して、こちらも仲良く分け合いながら食べた。白いパンはお祖父さんが言った通り、ふわふわでほんのり甘くて、昔アクアがじいじとばあばのために買ったものより上等な気がした。


 陶器のボールに残った汁まで、残さず舐めるように平らげると、アクアはお腹を擦りながら言った。


「はぁ、お腹いっぱい。こんなに食べたの、初めてだぁ」




 そうか、とシンラも嬉しくなった。


 腹いっぱい食べたことなど、いままでなかったのだろう。だから16歳なのに、こんなに痩せていて小さいのだな。


 これからも腹いっぱい食べさせてやりたいが、ふたりぼっちの旅では、おそらく空腹を感じることのほうが多いだろう。




「星が綺麗だ」


 アクアはそう言うと座っていたベンチを降りて、シンラの隣に座った。くっついているとお互いの体温と鼓動が感じられて、淋しくない。アクアはシンラの太い首に両手を回して、もふもふの毛の中に顔を突っ込む。少しケモノ臭い、でもほんのり甘い匂いをこっそり深呼吸する。




 安心する。これは、信じていい存在の匂いだ。




 ふはっとシンラの毛の中から鼻先を出すと、今度は甘えたように額を擦りつけながらアクアは言った。


「ねえ、シンラ」


「なんだ?」


「あのお祖父さんのお孫さん、良くなると思う?ノキの樹を切ったら」


 う~ん、とシンラが考え込む。


 その様子を見て、アクアが焦ったように訊く。


「え、え?良くならないの?あたし、嘘伝えちゃった?」


 シンラは、慌てるアクアの頬を落ち着かせるように舐めた。それから長いシッポをアクアの背中からその小さな身体に巻きつけた、安心させるように。


「花粉がこれ以上蓄積されるのは、防げるだろうな」


「元気にはならないの?」


「本人の体力次第だな」


「え、でもっ。原因がわかれば、お医者様が直してくれるよね?」


 真剣なアクアのオッドアイが、シンラを見つめる。


「そもそも、原因を突き止められなかった医者だからな。それに治す薬が手に入るかどうか」


 アクアが、シンラからぱっと飛び跳ねるように身体を離した。


「治す薬が、あるの?」






✵ ✵ ✵




 翌日の早朝、シンラとアクアは来た道を戻り、小さな自然公園の中にいた。


「それだ、紅ダミの実だ」


 シンラが、とても小さなごつごつとしたイボみたいなものをつけた紅い実を見て言った。


「その実を白くなるまで乾燥させて、潰して粉状にして飲ませれば体内に溜まった花粉を浄化してくれる。自然界の叡智えいちだ、人間がまだ知らない」


「この紅い実が、白くなるの?」


 毒々しいまでの赤とごつごつしたイボのようなものに覆われた実を、アクアは信じられない気持ちで見た。


「ああ、白くなったのが乾燥の合図だ」


 アクアはそこにあるったけの紅ダミの実を、綺麗に洗った陶器のボールに採って入れた。昨日、煮物がたっぷり入っていたボールは、今度は紅ダミの実でいっぱいになった。


「それくらいでいいだろう」




 信じてくれるだろうか…。


 一抹の不安を覚えながら、シンラとアクアはお祖父さんの家の前にいた。


 アクアは紅ダミの入ったボールを入れた包みを、そっと門の蔭に置いた。包みには持っていた鉛筆で、こう書いた。


『これは紅ダミの実です。この実が白くなるまで良く乾燥させたら、潰して粉にしてお孫さんに飲ませてみてください。身体の中に入った花粉を綺麗にしてくれます。樹を切ることも忘れずに。信じてください、お孫さんが早く良くなりますように』


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