第2章 1番目の街-ダヤンダ

第8話 市場と広場

 その街の空気は、明るい活気に満ちていた。


 赤い三角屋根の可愛らしい家が建ち並び、家々のベランダには洗濯物がはためき、庭には樹や花が植えられていた。


 夕食の買い物にでも行くのだろうか、石畳の途を籐の籠を下げた小母さんや子供連れの若いお母さんが歩いていた。


「市場とか、あるかもしれないね」


 アクアはシンラにそう囁くと、買い物へ向かうらしき人たちと同じ方角へ歩を進めた。


 ひたひたひた、シンラの足音が石畳に響く。


 ざっとんたたん、アクアはスキップしたり跳ねたりしながら陽気な足音を立てる。


 一軒の家の庭で、比較的大きな犬が「うぉん」とシンラに向かって吼えた。


「がぁう、おん」


 シンラが答えるように吼える。


「なんて、言ったの?」


咆哮ほうこうに意味はない。アイツは、よぉ新顔って挨拶しただけだ」


「ふぅん。シンラは何て言ったの?」


「おお、なかなかいい街だなってテレパシーを送っておいた」


「テレパシー!?」


「ああ。コーダ同士はテレパシーで意思疎通する。異種間でも、できる相手とできない相手がいるが、アイツの思っていることは伝わった」


「へぇ」


 感心したように、アクアはシンラを見た。シンラがちょっと得意そうに尻尾をゆらんと大きく振った。




 思った通りだった。


 シンラとアクアはこじんまりとした、でも新鮮な食材が豊かに並んだ市場へ着いた。野菜や果物、肉、魚、乾物や調味料らしきものを売る店、食器や雑貨を並べた店、衣服や帽子、靴を売る店もあった。


 そのうちの一店から、何やら甘い匂いが漂ってくる。アクアは思わず、眼を細めてそのいい匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。


「はぁ、いい匂い。これ、何の匂いだろう?きっとお菓子だよね?」


「お菓子?」


「うん、甘くておいしいものだよ。そっか、シンラは食べたことないか」


 魚も初めてだったみたいだし、きっと肉やお菓子も食べたことないんだろうな、とアクアは獣獣けものけものした精悍なシンラの姿を改めて見た。甘いお菓子を初めて食べたら、このちょっと怖い顔はどうなるんだろうと思ったら、なんだか可笑しくなってアクアはくすりと笑った。


「なにが可笑しい?」




 ちょっと不機嫌そうに言うシンラも、可愛いな。




 そう思いながら、アクアは甘い香りに誘われるようにその店先へ歩いた。


 〈雲あめ 1本 7ガロ〉と書かれた紙が店先に貼ってあって、細い棒にふわふわとした白い雲みたいなものが巻きつけてある。


「雲あめ?」


「ああ、甘くて旨いぞ」


 雲あめをガラス張りの機械のようなものの中でつくりながら、熊みたいな親父が答えた。


「1本7ガロだ。買うか?」


 アクアは首を振った。


 いまアクアの薄汚れた布袋に中にあるのは、12ガロ。それが全財産だ。この先、旅を続けることを考えると、お菓子に7ガロも払えないのだ。


「ふん、冷やかしなら店の前からどいてくれ」


 親父は途端に不機嫌になって、追い払うようにアクアに向かって手を振った。




 ちょっとしょんぼりして木陰に入ったアクアに、シンラが周りに聞こえないように小声で言った。


「金、ないのか?」


「12ガロある。でも、それ旅の全財産なんだ」


「そうか」




 買ってやりたい、あの甘い匂いを放つ〈雲あめ〉ってやつを食べさせてやりたい。




 小さな子供のように所在無げなアクアを見つめながら、シンラはそう思った。しかしコーダのシンラは金など持っていないし、食べさせてやることはできない。


 そっと両耳を下げたシンラを見て、アクアが元気に言った。


「でもね、大丈夫。匂いは、タダ、だよ」


 そう言って眼をつむると、アクアは両手を広げて大きく深呼吸した。


「はぁ、いい匂い。甘くて、やさしくて、おいしい匂いだ」


 アクアに倣って、シンラも眼を瞑って深呼吸する。


「ああ、ホントだな。うん、お腹いっぱいだ」


「あはははは」


 アクアが満面の笑顔で笑った。


 そう、ふたりでいれば、匂いだっておいしい。一緒に深呼吸しただけで、幸せな気分になれる。




 〈雲あめ〉のほかにもおいしそうな匂いが立ち込める市場を抜け、また家々が立ち並ぶ通りを進むと噴水のある広場に出た。


 夕暮れときのそぞろ歩きを楽しむ老人や、犬を散歩させる人達、ボールやお皿のようなものを投げて遊ぶ子供たちの姿がある。


「これから、俺はあまりしゃべらないようにするからな。人の言葉を話すことは、お前以外には内緒だ」


 シンラがそう囁いた。


「うん」


 アクアは慎重に頷いた。


 犬よりもずっと大きい、狼のようで狼でもないシンラの姿に、遊んでいた子供の一人が興味を示した。


「ねぇ、お姉ちゃん。それ、狼?」


「違うよ。コーダっていう生きものだよ」


「ほぉ、これがコーダか!話に訊いたことはあるが、見るのは初めてだ」


 近くを歩いてたお祖父さんが、杖を支えに立ち止まった。


「お姉ちゃんのペットなの?」


 子供たちが集まって来た。


「違うよ、友達」


「友達?」


「うん」


「あれ、お姉ちゃんの眼、変わってるね?」


「ホントだ、右と左で色が違うよ」


 子供たちの正直な言葉に、シンラが庇かばうようにアクアに寄り添った。大丈夫だよ、という風にアクアはシンラの首を撫でる。


「ほぉ、ワシはオッドアイというのも初めて見たな」


 お祖父さんがそう言って、アクアの顔を覗き込んだ。


「お嬢ちゃんは、どこの家の子かな?」


 お祖父さんにそう訊かれて、アクアはちょっと戸惑った。


「西の方から来ました。シンラと、この友達のコーダと一緒に旅してるんです」


「なに!?子供が一人でか?」


「一人じゃないです、シンラと一緒です」


 ふーむ、とお祖父さんはあごに手をかけて考え込んでいる。




 遠くで、子供の名前を呼ぶお母さんの声が聞える。


「あ、お母ちゃんが呼んでいる。帰らなきゃ」


「うん、あたしも。ばいばい」


「おぅ、また明日な」


 子供たちがそれぞれの方向へ駆けだしていくのを、アクアは見つめた。




 ほんの少し感傷的なるのは、きっと夕暮れどきのせいだ。


 あたしにはシンラがいる、淋しくなんかない。




「なぁ、お嬢ちゃん」


 アクアたちと同じように子供たちを見送ったお祖父さんが言った。


「今夜はどこへ泊る気だい?」


「まだ、決めてないです」


 本当はこの広場で野宿すると決めているが、シンラとのふたり旅でも驚く老人にそれは言えなかった。


「腹は、減っていないか?」


 大丈夫です、と答えようとしたアクアのお腹が、かわりにぐぅ~と答えてしまった。きっとさっきおいしそうな匂いを散々嗅いだせいだと思いながら、アクアは顔を赤らめた。


「ははは。素直なお腹で、大変よろしい」


 老人は人の良さそうな笑顔を見せた。


「なぁ、お嬢ちゃん。ウチには病気の孫がいるから、コーダを連れたアンタを泊めてはやれないが食べ物なら少し分けてやれる」


「…え」


「ついてきなさい」


「でも…」


「ウチの婆さんがつくる煮物は、最高だぞ」


 アクアのお腹が、またぐるぅと鳴った。




 杖をつきながらも危なげない足取りで進むお祖父さんに、シンラとアクアは従った。10分ほど歩くと、随分と立派な門構えのお屋敷と言ってもいいほどの家に着いた。


「ここ?こんな立派な家がお祖父さんのウチなの?」


 驚くアクアに、お祖父さんは申し訳なさそうに言う。


「ああ、部屋はいくつかあるし泊めてやりたいんだが、さっきも言ったように孫が病気でね。ちょっとしたことで咳と高熱が止まらなくなる。医者によると動物の毛も良くないらしい。それに孫はお嬢ちゃんと同じくらいの年だから、万が一、お嬢ちゃんにうつってもいけないからね」


「そうですか。どんな病気なんですか?」


 同じくらいの年と聞いてなんだか他人事とは思えずに、アクアは心配そうな顔をしてお祖父さんに訊いた。


「それが…原因不明の病なんだよ」


 お祖父さんは悲し気に首を振った。


「そう…ですか」


 訊ねたことを少し後悔しながらアクアがシンラを見やると、シンラは大きなお屋敷の庭に生えている立派な樹をじぃと見上げていた。


「ちょっと待っていなさい」


 お祖父さんは微笑んでそう言うと、家の中へ消えた。




「シンラ、何見てるの?」


「原因はコレかもしれない」


「え?」


「咳と高熱の原因だ」


「コレって、この樹?」


「ああ。これはノキと言って、年に2回大量の花粉をまき散らす。子供がその花粉を吸うと、稀にアレルギー性の咳と高熱を出すことがある」


「そうなの!?」


「おまけに体内に入った花粉は蓄積して、症状は徐々に悪化すると言われている。ちょっとしたことで咳や高熱が出ると言っただろう?それは様々なアレルギー物質に弱い体質になっているということだ」


「じゃあ、この樹をこのままにしておいたら…」


「最悪の場合は、呼吸困難と高熱で死に至ることもある」


「…そんな」


「それにもうすぐ、次の花粉の季節だ」


 ………。


 どうしたらいいだろう。お孫さんの病気がもし、シンラの言う通りこの樹のせいだとしたら?


 それをあたしのような見ず知らずの子供が言っても、信じてもらえるだろうか…。


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