二章
第75話 大遠征
皇帝の負傷によって騒然となった帝都は、さらなる殺気と活気に満ちた。
秋の訪れと共に遠征の準備が整ったのだ。
ロイは負傷した腕の回復を待つまもなく連日軍議に時間を注ぎ込み、この遠征計画を完成させた。
この計画における戦線は二つである。
一つは帝都ブロケンガルド北方、セラステレナ本国との国境線。帝国はここに一軍を配置し防衛戦を張る。
彼らは主力が遠征中の間帝国本国を守る盾の役割を担う。陸西部を迂回して進撃する主力軍の最大の懸念事項は手薄になる帝国本国、国境線の守りである。
そのため国境地帯には数年前から無数の砦が築かれており、万が一セラステレナおよび反帝国連盟軍が南下してきた場合はこれを迎撃する。
兵力は二個軍団。守備する範囲を考えれば寡兵であったが、主力軍である遠征軍へ兵力を回すことを考えると限界ギリギリの兵力を捻出していた。
その主力軍である遠征軍は、合計で四個軍団、加えて一個騎兵軍で構成されている。
帝国における一個軍団は、最も充足した状態で最大で二万名程度の兵力で構成されており、軍団長たる将軍とその配下に従う複数の将軍がそれぞれ数千名の兵を率いている。
この遠征軍は全体でおよそ八万程度の兵力で編成されていて、セラステレナ西方の中小国を速攻によって撃破し、そのまま一気呵成に北進してヤオメン共和国領へ進攻する計画になっている。
西方の中小国とは、オタリア王国、シグルーン王国、エッセンラント公国の三国である。
このうちシグルーンとエッセンラントの二カ国は早期から反帝国連盟に加盟しており、帝国への明確な敵対姿勢を示している。
オタリアについては未だ態度が不透明で、国内でも帝国と連盟どちらにつくかで揉めているとの情報が入っていた。
オタリアが帝国側についた場合、シグルーンとエッセンラントは背後をオタリアに脅かされる形となり、帝国側に有利に働くと思われているが、オタリアの態度が定まるのを待っている時間は帝国にはなかった。
だから帝国の遠征計画としてはオタリアを味方に引き込む余地があったとしても、これら三国をまとめて速やかに攻略する道を選んだ。
そうした遠征軍の陣容は以下のとおりである。
人物名は主だった将帥、参謀。特筆すべき兵団の名も記す。
第一軍団 ロイ・ロジャー・ブラッドフォード
筆頭参謀 ライル・ハンクシュタイン
血鳥団 グレボルト・カーマン将軍
パッシェンデール軍 ジュリアン・ダルシアク将軍
帝国砲兵団 ハンス・バルクハルト砲兵将校
帝国工兵団 エミール・クラヴリー工兵将校
第二軍団 軍団長 キュフリー・ド・ランルザック将軍
ネルラント重装歩兵団 バルタザール・フォン・ベロウ将軍
第三軍団 軍団長 レツィア・デ・ルカ将軍(フィアット)
フィアット長弓兵団(フィアットは伝統的に射撃武器の技術と練度に優れる)
マスケット銃兵隊(新編された銃兵部隊。少数ながらよく訓練されている)
第四軍団 マルクス・フォン・カップ将軍(ナプスブルク)
ナプスブルク徴募兵団(定員割れの低練度部隊)
ブルフミュラー騎兵軍 ランドルフ・フォン・ブルフミュラー騎兵将軍
帝国重装騎兵隊(ランドルフ直卒の最精鋭騎兵)
帝国軽騎兵隊(偵察、奇襲を主任務とする)
帝国弩騎兵隊(サーベルと小型弩弓を装備する)
さらにセラステレナの侵攻に備える本国防衛軍団の編成は下記の通りである。
第五軍団 エルンスト・フォン・クルーゲ将軍
(帝都ブロケンガルドを守備する)
第六軍団 ヴァルター・ベック将軍
(セラステレナ国境線の城塞群を守備する)
一昔前を思えばそうそうたる大軍団といえる。これが建国以来ロイたちが知恵と執念を注ぎ続けた努力の結晶だった。
帝都が戦の準備で慌ただしさに覆われる中、ランドルフは一人の将軍に言葉をかけた。
エルンスト・フォン・クルーゲ。今回の計画では第五軍団長として帝都の守備を任されている。
クルーゲはかつてナプスブルクに仕えていた生粋の貴族軍人であり、ランドルフよりいくらか歳下の壮健なる武人である。
ナプスブルク先王の時代ではランドルフと共に戦場を駆けたが、現国王になった際にアルノー二世へ諫言をしたことを咎められ、爵位剥奪の上長らく蟄居を命じられていた。
そのことを惜しんでいたランドルフによってロイへ推挙されて帝国へ仕え、この度晴れて貴族へ復帰し”フォン”を再び名乗ることとなったのである。
ランドルフはこのクルーゲのことを”こと歩兵戦に関しては自分よりも卓越している”、”兵法のみならず人格においても優れた人物を挙げるとすればこの男である”と高く評価し、帝都の留守を任せる守将に最もふさわしいのはクルーゲであると断じた。
ランドルフがこのように他人に対して手放しで称賛することはかつてなかった出来事であり、その様子を見たロイとライルはこの提案を採用することにした。
「やれやれ、あなたのおかげで留守役に押し込められてしまった」
クルーゲは禿げ上がった頭をぽりぽりとかいてそう冗談めかしながらランドルフに言ったが、ランドルフはいたって生真面目に「貴殿であればこそだ」と答えた。
「それに」、とランドルフは言葉を続ける。
「こたびの遠征、北進と本土防衛どちらの軍に身をおいたとしてもただでは済まないだろうことは、貴殿もわかっているはず」
するとクルーゲは彫りの深い顔を苦々しく歪めて答える。
「そうですな。むしろ帝都防衛の任の方が危険が多いかもしれません。セラステレナは必ず動くでしょうから。となれば我ら本土守備軍は二個軍団で優勢なる敵軍を相手に戦い抜かねばならなくなる」
「国境を守る第六軍団のベック将軍は守勢に強いと聞く」
「あれは要塞戦の巧者ですからな、適任でしょう。ならばやってやれないことはないだろうと?」
「そう期待せざるを得ないのだ」
クルーゲはそれを聞いてふっと笑みをこぼした。
ランドルフ・フォン・ブルフミュラー。傲慢、強情とも言われるこの堅物からこのような言葉が聞けることを嬉しく思ったからだ。
それにこの気難しいナプスブルクの白鬼がわざわざこうして、あれこれ取り繕ってはいるが要するに”頼りにしているぞ”ということを言いにここへ来たのだと察すると、クルーゲはますます悪い気がしなかった。
「であればご期待には応えなければなりませんな。”帝国の白鬼”に恥をかかせるわけにはいかない」
「……頼む」
ランドルフも小さく微笑みを返した。
それからまもなく、皇帝ロイは全軍を集めて閲兵式を行った。
目的は負傷から自分が立ち直ったことを衆目に示すため、そして帝国始まって以来の大戦の幕開けを宣言するためである。
兵たちは自らの前に現れた皇帝に対して深い憧憬の眼差しを向けた。
そうした視線を集めながらロイはその心中でこう思っていた。
この場にいる者たちの果たして何割が生還できるだろうか。
この戦いは途方もない地獄の幕開けに過ぎず、勝っても負けても彼らに幸福は訪れない。
にも関わらず自分は彼らを鼓舞し、戦場へと駆り立てる。
この大罪はいつの日か必ず我が身を裁くことになるだろう。
だがそれは今では無い。
アビゲイルが救われたその日の後であれば、私は自らこの首を人々を差し出そう。
全てが明らかになったとき、人々は私をどのように憎むだろうか?
どのような形であれば、せめてその憎しみだけは我が身の全てをもって受け止めるつもりだ。
──だから。
だからすまない、あの悪魔を消し去るために死んでくれ。
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