第73話 女帝

 イシュマール帝国の都、シャルンブルヤに到着するころには、グレーナーは白目を剥いていた。


 船に乗るのは初めてであり、その処女航海がこれほどの苦難だとは思いもよらなかったのである。


 イシュマール大陸北部に上陸してからも苦難の連続だった。


 まずはその気候。グレーナーたちの大陸と異なり高温で太陽は照りつけるような暑さである。


 初め港に向かう船の船頭がグレーナーの帝国式の服装を見て小馬鹿にするような態度をとったことをグレーナーは不審に思っていたが、その理由は上陸してすぐにわかった。


 暑すぎる。いくら情報で知っていたとしてもここまでだとは思わなかった。


 かといって、街の男たちのように上半身裸でうろつくような真似はグレーナーの美学が許さない。彼は帝国式のかっちりとした正装を大汗でびしょ濡れにしつつ目的地を目指した。


 イシュマール人はグレーナーら大陸の人間とは容貌が大きく異なる。


 浅黒い肌、碧色の目、金色の髪がイシュマール本国人に見られる特徴であり、体格もグレーナーらよりも一回り大きい。


 そうした印象から一見粗暴な蛮人に見えるのだが、それは大きな誤りである。


 彼らの文化がいかに高度であるからはその建築物を一目すれば理解できるだろう。


 一言で言うなら荘厳。そして精巧、豪奢。


 例えば都のいたるところにある動物の像。

 いったいこの神話上のなんという名かわからないがおそらく重要な怪物の像と装飾を、どれだけの費用と奴隷を使って作り上げたのだろう。


 しかし顔を近づけてそれらをよく見れば、規模だけではなく技術も優れていることがわかる。


 像の多くは石ではなく金属でできている。これはグレーナーにとって驚きだった。


 どうやって金属を加工してこれほど流麗な線を作り上げているのか? 中にははるか前に作られたとされる物もあるが、なぜ幾年月も経って金属に大きな劣化が見られないのか? 風雨に晒されればすぐに錆びてしまうのが常であるのに。


 南方の曲刀は恐ろしい切れ味というが、鍛造技術がやはり大陸より優れているのか。


 何よりこれほどの金属を産出する鉱山がこちらの大陸にはあるということ。それこそ庶民が日常で気軽に金属を使えるほどに。


 グレーナーは宮殿に向かって歩みを進めるごとにその異国の文化に圧倒されていった。


 そしてグレーナーが思わず呑まれるようにため息を吐いたのは、その黄金の宮殿を目の前にしたときである。


 大陸の諸国家は基本的に質素だ。それは経済力を表してもいるが、何より資源が乏しい事情による。


 さらに臣下を統制する上で王族が贅を極めるのは好ましくないという倫理上の習慣的な思考の存在も起因している。


 これらはそもそもロイらの大陸が豊かな土地ではなく、存在するわずかな富は皆の共有物だったという事情がそうさせているのだが、イシュマールの事情は違う。


 富、富、富。

 まるで己の持つ富を全て陳列しているかのような街の様相である。


 その都の奥へ進むごとにその建造物の豪華さは明らかに増し、黄金に満ちてくる。宮殿に近づくにつれそこに住まう人々の階層も変わったというのが、見てすぐにわかるのである。


 庶民、中流、富裕層、政権高官、皇族、といった具合に目に見える”富”が明らかに違う。


 宮殿に至っては豪華絢爛という名が相応しいほどの様相で、グレーナーはこれを見たとき冷や汗を流した。


 すなわち、これがイシュマールの国力を表すからである。


 軍事に疎いグレーナーですら理解できる。


 ”この国を敵に回すのは絶対にまずい”


 それだけは何よりも本能が訴えてくる。それほどの目に見えた繁栄の差、国力の差があった。これを軍事力の差にすればそれは絶望的なものになるだろうことは明らかだ。


 宮殿を守る衛兵に目を向ける。

 やはり体格が我々とは違う。グレーナーはそう認めざるを得ない。


 兵の質という観点から見ても、イシュマールは大陸の上をいく。


 自ら使者として赴き、まもなく女帝との謁見が叶うというときだというのに。


 グレーナーの心は暗く曇り始めていた。



 ***


 イシュマール皇家の宮殿を表現するなら、豪奢を極めると言う他ない。


 至るところが磨き上げられた赤い銅、そして黄金で造られており、さらに驚くべきはそれらが完璧な形で維持され続けていることだった。


 皇帝との謁見の間でグレーナーは跪きながら、この恐るべき宮殿の主がやってくるのを待っていた。


「すまぬ、待たせたな。外務卿グレーナー・グラウン殿。近頃だいぶ夜も寝苦しくてな、疲れが抜けぬ」


 少し聞いただけでも少女と分かる若い声。しかしグレーナーが眉をピクリと動かしたのはそれが理由ではない。


 南方の訛りがきついのは、皇族も同じか。グレーナーはこの国で最も高貴な人物を目の前に跪きながらそういう感想を抱いた。


 このイシュマール人独特の言葉のアクセントの付け方、そして吐き捨てるような喋り方はグレーナーからするとひどく下品に思えてならないのである。


 こういったところもイシュマール人が大陸の人間から蛮族と思われやすい要因でもある。いずれにせよ聞いていて気分の良いものではない。


 さて、仕事だ。


 グレーナーは心の中でつぶやくと、まずは跪いたまま挨拶の口上を始めた。


「お目通りの機会に預かり誠に光栄でございます。偉大なるイシュマールの皇帝ギュナナ・チム・アルハンブラ陛下」


「面をあげい、グレーナー殿」


 そう促されるのを待ってからグレーナーは顔をゆっくりと上げ、女帝を直視した。


 目の前の玉座に座っていたのは、金髪の髪、浅黒い肌、深い碧色の目。典型的なイシュマール本国人の娘の姿であった。やや大人びた目つきをしているもののやはり成人にはまだ見えない。要するにただの小娘が皇帝の服を着て玉座に座らされているような印象をグレーナーは受けた。


 もちろんそのような心を言葉に表すなどしない。グレーナーは続けた。


「陛下、この度は我らが帝国、皇帝ロイ・ロジャー・ブラッドフォードより親善のため参りました」


 興味深そうに「うん、うん」とグレーナーの言葉を聞いていた女帝であったが、彼女が突如として笑い出したためグレーナーは言葉を止めた。


「……いかがなされましたか、陛下」


「わははは、いや、すまぬ、悪気はないのじゃ。グレーナー殿があまりにも滑稽な話し方をするもので、少々驚いたのだ」


 グレーナーは思わず唖然とした。何を言っているのだこの小娘は。


「しかしグレーナー殿、貴殿の国の人々は皆そのように、その、気を悪くするなよ? つまり、そのように病気の犬が鳴くような話し方をするのか?」


「陛下、陛下」


 傍らにいた侍従の一人が慌てた様子で駆け寄り、再び笑い出した女帝に顔を近づけると、グレーナーにも聞こえる声で囁いた。


「彼ら北の大陸の者は皆あのように話すものなのです。北方訛りと呼ばれるものがこれです。奇妙に思われますがお使者の手前、どうかこらえてくださいませ」


「あははは、ああ、済まぬ済まぬ。生まれてこの方こちらの国の人間以外と話したことがなかったでな。おかげで目が覚めたわ」


 グレーナーは生まれてはじめて他人に”病気の犬”などと罵られたことに数秒の間頭が真っ白になった。


 落ち着け、王族皇族とは本来こうした生き物だ。馬鹿のペースに呑まれる必要はない。


「……陛下、願わくばお人払いを願いたいのですが」


「人払い? いやこのままでよかろう。これら侍従は妾の忠臣であり”同志”だ。他に聞き耳を立てている者もおらぬ。遠慮はいらぬゆえ、要件を話せ」


 同志。この女帝がどういう意味でその言葉を使ったか、グレーナーは瞬時に察した。


 ならば本題に入ろう。「では」とグレーナーは今一度頭を下げてから、要件を述べた。


「我らが”帝国”は、貴国イシュマールとの友好を望みます。その誠意の証として、まずは三億の金を、”皇帝陛下”及び”イシュマール皇室”へ献上いたします」


「ほう」


 女帝ギュナナ・チム・アルハンブラはグレーナーの言葉を聞くや思わず身を乗り出し、好奇心を含んだ感嘆の声をあげた。


「金三億とは随分と気前が良いではないか!」


「陛下、陛下」


 歓喜の声を上げる女帝に、侍従が再び口をはさむ。


「あの者はあえて皇室と、陛下個人に金を献上すると申しました。これにはきっと理由がございますぞ」


「うむ! わかっておる。して、それはなんじゃ?」


「それは……グレーナー・グラウン殿、ご説明いただけますかな?」


 侍従に促されてグレーナーは咳払いする。しかしやりにくい皇帝と側近だ。


「……恐れながら申し上げます。現在貴国は二つの大きな勢力に分かれていると伺っております」


「ふむ」


「すなわち、我らが大陸への進出を考えている選帝侯イスマイル・ユセフ卿を中心とした好戦派、そして陛下を中心とした融和派です」


「イスマイル」


 女帝はその名を口にすると、みるみる内に顔を憎悪に染めはじめた。


「あやつこそ我が父、先代皇帝を暗殺し、そればかりか二人の兄上にまで手をかけた張本人ぞ!」


 やはりその噂は真実であったか。グレーナーはこの皇帝の発言をもってこの話が事実であると確信した。


 女帝ギュナナの父、皇帝は何者かに暗殺されている。一説によると後継者決めの条件を満たしたにも関わらず権力を手放そうとしなかったため選帝侯に始末されたと言われている。そして有力な後継者と見なされていた二人の皇子も毒殺され、この若き女帝が選帝侯らによって選び出された。


 この女帝の口ぶりからして、当然暗殺を行った選帝侯を恨んでいるようだが、それでも皇帝殺しをした選帝侯らを罰することができない状況がこの国の全てを物語っている。


 つまりこの女帝はやはり傀儡。力を持たぬ人形に過ぎず、実質的な権力はそれぞれの選帝侯が握っている。


 皇帝を殺した選帝侯らは、その後二つの勢力に分かれて争いを始めた。それが大陸進出を狙う好戦派と、無用な出血を嫌う融和派である。


 好戦派の筆頭はイシュマール帝国一の財力を誇る選帝侯イスマイル・ユセフ。前皇帝とは幼い頃から共に歩み、友と呼ばれる程に信任を受けていた人物。そして国号にちなむ”イスマイル”の名を前皇帝から功績に対する褒美として受け取った人物。


 対する融和派にはこのイスマイルに対抗できる力を持つ人物がいなかった。そのため皇帝が神輿として担がれ、ぎりぎりのところで均衡を保っている。


 というのが諜報が掴んでいたイシュマールの実情だったが、女帝直々の発言でそれが裏付けられた形となった。


 グレーナーはその目に鋭い光を宿した。


「我々”帝国”は陛下をお手伝いしたいのです。献上する金はそのための軍資金でございます」


 財力に劣る融和派を支援し、イスマイル・ユセフら好戦派を抑えさせる。そうして開戦を遅らせるか、あわよくば中止させる。


 これがグレーナーに与えられた役目である。


「それは本当か!? グレーナー、妾は天に見捨てられたものと思うておった。あの憎きイスマイルにただ従う他ないのかと。だが、そうか! 北の皇帝ロイ・ロジャー・ブラッドフォードは戦を望んではおらぬのだな!」


「もちろんでございます陛下。我らが帝国は貴国と戦火を交えることは考えておりません。我らは長らく交易によって互いに栄えてきたのですから」


「うむ! そうよな! 妾も戦は愚かであると考えていたのじゃ! そうか、嬉しいぞ! グレーナー!」


 この女帝に対してグレーナーはわずかに大人びたところがあると当初印象を抱いていたが、今はどうであろう。


 目の前ではしゃぐのは、幼いほどに無垢な少女そのものではないか。

 そしてこちらの提案は予測通り歓迎されている。


「では陛下、願わくばしばらく私がこの国に逗留する許しをいただき、融和派の皆様と会話をする機会をいただけませぬか」


「もちろんだ、じっくりと話し合おうではないか。二つの戦なき大陸を共に作り上げようぞ」


 女帝はまるで長い夜が明けたかのような笑みを浮かべ玉座を立ち上がり、そしてグレーナーの手をとって強く握りしめた。


「感謝するぞ、グレーナー殿。逗留の間この国を自由に見て回ると良い。妾が直々に案内しよう」


「……光栄でございます。陛下。イシュマールの建築には驚かされるばかりです」


 そう言って、グレーナーは思い出したように質問を口にした。


「ところで、私にとってこちらの建築物の造形は興味を引かれるものばかりです。特に大きな角の生えた鷹や、猫のような生物をかたどった像、あれらはイシュマールの神々でしょうか?」


 何気ない質問ではあった。女帝は「ふむ?」と顔をかしげると、「ああ」と合点がいった様子で、


「あれらは神ではない、悪魔だ」


と答えた。


「……悪魔?」


「そう、悪魔よ」


「……陛下。我々の国では悪魔を崇めるという習慣は少なくとも公には存在しません。イシュマールは悪魔を信奉すると?」


「いいや」と女帝は言ってけらけら笑った。


「違う違う。あれら悪魔は民衆への戒めだ。そもそもイシュマールが考える悪魔とは怪物ではなく、人間が変容したもの。つまり悪と堕落に落ちた人間が悪魔と呼ばれる存在であって、それを形にしたものがあれら醜悪な獣の像なのだ。そして悪魔は悪魔を呼び増えるというのが我々の考えでな、ああして像にすることで民らへの警告としているのだよ。堕落すればお前たちもこれら醜悪な怪物として成敗されるのだぞ、と」


「……なるほど、悪魔は人、ですか」


 グレーナーは床に目を落とし、何やら考えをめぐらした。

 そしてふと、こんな質問が口から出た。


「……では、人のような姿をした怪物が存在するということはイシュマールの伝承にはないのですか。物のたとえではなく、正真正銘人とは異なる化け物です。……それは人になりすまして近づき……超常の力をもって人の魂を喰らうといったような」


 グレーナーは己が見たとある光景を思い浮かべながらそう言った。


 あれを言葉に表すなら、化け物という言葉以外に見当たらない。

 だが間違いなくあれは人間の姿をしていた。そう、あろうことか主君と仰ぐ人物の娘として。


 あれを見たその日、グレーナーはかつてない興奮に包まれ、ついに朝まで眠ることができなかった。


 南の女帝が傀儡だとするならば、我らが皇帝はどうだというのだろう!


 その正体はさらなる強大な悪魔か、あるいは魔の下僕か。


──いずれにせよ。


 最高の時代の到来ではないか。グレーナーよ。我が人生は今ついに始まりの時を迎えたのだ。


「意外とロマンチストなのだな、グレーナー殿は」


 女帝はそう言って、グレーナーの心中など伺い知ることもなくケラケラと笑い声を上げた。


 この日、グレーナーとギュナナ・チム・アルハンブラは深夜に及ぶまで宴を催した。


 グレーナーはしばらくの間イシュマールへ滞在し、融和派への懐柔工作を開始した。

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