第72話 イシュマールへ

 剣を交えた戦が始まらなくとも、すでに戦の渦中に身を置いている者もいる。


 それらの多くは文官であり、すなわち外交、生産、徴税に関わる者たちのことである。


 グレーナーは本来軍事に明るい人物ではない。


 彼が本領とするところは内政、および外交である。

 よって彼は軍事的な議論にも加わりつつも独自の任務を与えられていた。


 その任務が与えられてすぐに、今回は長い旅路になることを覚悟した。


 そしてしばらく家を開けることになってしまうことを、ビアンカ(♀)にわびた。


 さらに配下の者へ、


・一日二食の餌を欠かさず与えること。同じものばかりではなく工夫を凝らすこと。


・午後二時にはおやつを。ただし犬の健康に配慮したものであること。


・散歩は朝の五時半と夕方の四時半の一日計二回。彼女はそれ以外で排泄をしないので、決して遅れてはならず、また早くてもいけない。


・いかなるオス犬も我が家の庭へ入れてはならないこと。散歩中に遭遇してもビアンカに近づけないこと。ただしベロウ婦人宅のクラーラ(♀)はビアンカの友達であるから通りがかったら交流させてやること。


 これらを厳命し、配下を困惑させた。


 さてボルドー港からの軍船の中で、グレーナーは波に揺られていた。


 そして胃の中が空になるまで吐き続けながら、此度の任務について考えをめぐらしていた。


 目的地はロッドミンスター王国から大海を挟んでさらに南にある大陸に存在するイシュマール帝国。


 目的はイシュマール帝国の大陸侵攻の阻止、または遅延。そのためにかの帝国の女帝に面会し、説得を行うことを任されての旅だったのだ。


 イシュマールの女帝は弱冠十八歳、成人にも満たぬ娘だという。


 皇帝の座についたのはおよそ五年前。父、そして二人の兄が”不運にも”相次いで亡くなったために皇位を継承することになったと聞く。


 即位して以来、重臣や有力領主の事実上の傀儡としてかの巨大な帝国の元首を務めているのだという。


 この人物を説得しなくてはならない。


 現在帝国で検討されている北方遠征計画の重要な懸念事項。遠征中の背後をイシュマールに強襲される可能性については多くの議論がなされてきた。またアイザック・アディンセルは必ずそれを狙うだろうということも皇帝ロイとライルの間で統一した見解である。


 このイシュマール侵攻の可能性について、また実際に侵攻があった場合真っ先に交戦するであろうロッドミンスター王国は単独の場合どの程度戦えるか、撃退ないし援軍到着までどれほどの防戦が可能か。グレーナーはかつてロッドミンスター国王ウルフレッド・ゴトランドに尋ねたことがある。


 ウルフレッドは一言こう答えた。


「馬鹿野郎。津波を目の前にして踏みとどまれる奴がいるか」


 イシュマール帝国は古くは香辛料の行商人によって栄えた都市国家で、一世紀前に南方大陸の全てを征服した後現在も繁栄を極める巨大国家である。


 その軍隊は精強にして苛烈。そして多様な民族によって構成されている。


 彼らは厳格な民族階級制度をとっており、本国人が最も上位に位置し、征服され服従した年月が長い民族ほど本国人に近い権利と生活水準を持つ。


 しかしイシュマールに征服された民族の末路は悲惨の一言である。


 イシュマール本国人は征服した土地の人間をその最下層に落とし労役や兵役につかせる。


 そして征服された者たちは最も過酷な役割を強制され、多くの者がそう遠くない日に命を落とす。それでもいつの日か子や孫が人間らしい扱いを受けるときを夢見て奉仕を続け、生き残ったわずかな者は老いるか病を得て死ぬ頃にようやくほんの少しの安息を得て力尽きるように死ぬ。


 これらは征服された直後の者たち、すなわち第一世代の末路である。


 イシュマールの占領政策の特徴として、混血による同化政策が存在している。


 彼らに征服された民族の男子は、以後原則として新たに子孫を残すことが認められない。例外は帝国に対して格別な功績のあった者に限定され、それは極めて稀である。


 よって被支配民族は女子のみが子孫を残すことができる。

 それは当然イシュマール本国人の愛人、妾、あるいは娼婦と客の関係から、あるいはただ通りすがりの本国人に路地裏へ連れ込まれて、である。


 そうした被支配民族の女子から男子が生まれれば、イシュマール本国人の警備隊が見つけ次第赤ん坊のうちにこれを捕らえて殺す。そしてまた子どもを産ませる。生まれたのが男子であれば再び殺す。女子であれば育てさせ、また本国人の子を産ませる。


 犯す、間引く、犯す。これを数十年繰り返す。被支配民族の男子が生存と生殖を許されるのは、こうして混血がだいぶ進んでから段階的にである。


 イシュマールは先にも述べたように、原則として服従を誓った年月が長い民族ほど本国人に近い権利を持つ。


 しかしこの同化政策があるがゆえに従属の長い民族ほど混血が進み、年月が経つほどに民族としての固有の文化や言語、習慣は失われていく。


 したがって彼らが人間らしい扱いを再び受けることができるころには、もはや自分たちがかつて独立した民族であった誇りも文化も全て捨て去られ、いかに自分にイシュマール人の血がより濃く流れているかを誇らしげに語り、互いに優越を示し合うだけ飼いならされた家畜が出来上がる。イシュマールはこれを常套手口としている。


 そうして本国人たちは彼らを労働につかせ、そこに実る甘い果実を味わい続け、支配者としての快楽と優越を貪るのである。


 これがイシュマール帝国の支配政策。よって彼らの支配を受けて再び独立を果たした民族は未だに存在しない。被差別対象が明確であるがゆえに、繁栄をもたらす帝国に異議を唱える本国人民衆もいない。


 ウルフレッドがそんな彼らに恐怖するのも無理はない。ロッドミンスターの歴史は彼らとの利害の歴史そのものだからだ。


 ロッドミンスターの歴代の王たちは、常にこの南方の隣人の存在を強く意識していた。


 だから武力による対抗が難しいと悟った彼らがとった方針は非常に的を射ていた。


 つまり南方とこちらの大陸の交易玄関としての地位を確立し、この南の怪物と利による関係を作り上げたのである。


 これによりロッドミンスター王国はこれまでナプスブルクという敵にのみ専念してこれたし、南方交易は最大の富の産出先にもなっていた。


 彼らロッドミンスターが強力な海軍を保有するのはその交易路を守るためだ。


 だからこそ彼らにとってイシュマールと戦争をするなどというのは、馬鹿も休み休み言えという以前の問題なのである。


 そしてその関係が破局を迎えるのは、現状ではほぼ確定的な状態になりつつある。


 原因はイシュマールの肥大化、膨張がある種の限界を迎えたことにある。


 イシュマールは商人の国である。他の土地を征服し、圧倒的低賃金、劣悪な条件で死ぬまで働き続ける”法外の民”を得ることで莫大な利益を生み出し、他地域の産物を自国の経済圏へ組み込むことで発展を遂げてきた。


 その彼らは建国から五百年を経て大陸を制覇した今、次なる敵を求めていた。


 ここでいう彼らとは、イシュマールにおける最上位貴族、”選帝侯”たちである。


 選帝侯はそれぞれが侯爵級以上の領地を持つイシュマール帝国の重鎮たちだ。


 彼らが他国の領主と比べて特別なのは、選帝侯の名が示す通り、”皇帝を選出する権利”を有することである。


 イシュマールの皇帝は、皇帝が執務能力を失うか、あるいはその長子が二十五歳を迎えたときに後継者を決めなければならない。


 そしてこの後継者を決める権利を皇帝は持たず、選帝侯が持つというのがイシュマールの特殊さだ。


 後継者選びの時期が来た場合、選帝侯たちは百日に及ぶ合議を行う。時代の皇帝を皇族のどの人物にするか、それを決めるためである。


 そうして選帝侯に選ばれた皇族が次期皇帝として王権を手にする。これがイシュマールの王権の継承方法だった。


 元々が商人の国家であり、初代皇帝はその商人ギルドで最も富のあった人物がなったという経緯から、伝統的に王の支配力が弱く臣下の力が強い。


 臣下からすれば皇帝は最も金を持つ商家であり、最高のお得意様。利による結びつき。そして商いは他家との信頼がなければ成り立たない。だからその後継者は臣下とりひきさきに最も望まれる人物がなるべき。そういった思想からこの”選帝侯”が誕生した。


 イシュマール人のこの思想はロイたちの大陸の国家と比べても異彩を放っている。


 通常、王が国家の頂点に立ち、人々を支配する”王権”の行使する根拠、その継承にはこれらの種類がある。


・王権は神から与えられた神聖なる権利。すなわち王は神に選ばれた存在であるから王である。他の者がなることはできない。


・多数の氏族をまとめ上がるには王が必要。その王は古代の盟約によって選ばれた血筋の者ではければならない。盟約に反する氏族は追放になるゆえ、皆従わなければならない。


・建国の英雄である人物の血筋、その長子が継承する。これは伝統的慣習である。



 つまりは多数の民族、利害をまとめ上げるためには王が必要で継承法という名のルールが必要。そのルールを破る者を集団で排斥できるようにすることで秩序と安定を維持する。臣下たちは自らに鎖をつなぐ代わりに他者をも鎖に繋がせることで、互いの暴走を抑止したのである。


 そしてその秩序の下利益を享受する、という狙いでそれぞれ一致しており、具体的な継承法の国家による違いは”味付け”の差程度のものである。


 ところがイシュマールはあえて混乱を求める。


 選帝侯による後継者選びの会議とは、地域の寄り合い所帯の談義とはまるで異なる。つまり謀略による殺し合いである。


 選帝侯同士の毒殺、刺殺、そういった暗殺から悪事の暴露や捏造、手段は様々。


 それぞれが自分にとって最も都合の良い後継者を推し、派閥を形成し、敵対者を排斥する血みどろの宴を催す。


 イシュマールの皇帝はそういった臣下による謀略の殺し合いの果てに戴かれる存在なのだ。


 これはあえてこうした期間を設けることで反乱の芽を摘むという狙いもあるというが、真意は定かではない。


 ともあれ、そうした最終的な秩序を得るために世代ごとに現状の秩序を自ら破壊するというのがイシュマールの特殊性だった。


 もっとも、最近は大陸にも”国を金で買って事実上継承した”という前代未聞の者が出現しているのでその奇異さが影に隠れているようにも見えるが……。


 現イシュマール皇帝である十八歳の少女は、そうした謀略劇の末に奉戴されている人物である。


 例え傀儡の小娘であろうとも、イシュマールによる大陸侵攻を防ぐためには会って説得する必要がある。ロイたちの”帝国”はそう判断しグレーナーを送り込んだ。


「おーーーーえっ」


 グレーナーはもはや胃液すら出なくなった口からそういう声を絞り出して、船に揺られ続けた。


 南の大陸が水平線の先に見え始めた。

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